――1人だけの浴室は、妙に広く静かに思える。
 何となく煮え切らない気分で、余は浴室を出た。
 セリナが用意してくれたのであろう、大きな布で身体を拭う。干したての太陽の香りが心地良い。
 さて、服を着るか……
 ……って、闇の衣は泥塗れのままではないか!!
 代わりの服は――見当たらない。
 まったく、こういう所が抜けているのだからなぁ……セリナは。
 仕方が無いので、闇の衣を魔法で浄化して着る事にした。
 ……最初からこうすれば良かったのでは?
「……ん?」
 ふと気がつくと、服を入れていた籠の中に、セリナのメイド服が入ったままである事に気付いた。
 たぶん、セリナは自分の着替えを用意していたのだろう。まさか、裸で仕事に行った訳ではあるまい。
 さて、セリナの部屋に行く事にしよう。1人では盗賊ゴッコも面白くないので、今回は『隠身』の魔法を使う事にする。
 しかし――脱衣所から廊下に出ながら、余は1つの疑問に捕らわれていた。

 ――セリナが自分の着替えだけ用意して、余の服を忘れるような事があるのだろうか?――



「これは――」

 セリナの部屋は、奇妙な事に地下にあった。
 薄暗い廊下を進み、教えられた通りの場所に辿り着くと、『セリナ』のプレートが埋め込まれた重々しい鉄の扉が余を迎えた。
 錆だらけの扉を押し開けた、その中には――

「なんだ?このへやは!!」
 汚物をぶちまけたような悪臭が、余を覆い包む。
 暗闇が満ちた狭苦しい部屋の中は、岩肌が剥き出しの床の上に、薄汚れた毛布が1枚転がっているだけであった……
 なんだこれは?この環境は牢獄どころか家畜小屋にも劣るぞ!?

 ――悪臭に満ちた部屋――冷たい岩肌の部屋――光差さぬ部屋――
 余は、はっきりと悟った。
 ――これは、セリナのこの屋敷における境遇を、如実に表しているのだと――
 
 余は部屋を飛び出していた。
 猛烈に嫌な予感がする。
「セリナ!!」



 ――『自然保護区域』における条約の抑止力は、想像以上に大きな物だ。
 密猟者どもなら、まだこちらにも言い訳ができるのだが……本来なら法の代弁者たる“魔界大帝”である余が、自然保護区域――地球に来たというのは、それだけで極めて重大な条約違反となる。何事にも“我関セズ”な鬼族ならともかく、悪魔族と敵対関係にある神族や龍族に知られたら、これを口実に戦争を仕掛けられても不思議ではない。
 ただし、今回の場合は(半分以上、意図的な物とはいえ)ある種の事故なので、それほど大きな問題にはならないだろう。
 だが……それも、こちらから現地生物環境に干渉しなければの話だ。
 現地生物の方から余に接触してくるのは、ある程度仕方がない部分がある。
 しかし、現地生物に余の方から干渉するのは、絶対にしてはいけない違反行動だ。

 そう――
 現地生物の行動に、余の方から干渉してはならないのだ。
 ――それがどんな内容であっても――



 灯火の光量は十分な筈なのに、その部屋はやけに薄暗かった。
 壁際に置かれた奇怪な器具の数々は、物知らぬ赤子ですら身を震わせるような凶々しさを放っている。

 拷問具だ。

 どす黒い血に彩られた拷問具たちは、この部屋の中心で蠢く人影を、早く顎に捕らえたいと、牙をがちがち鳴らしているかに見える。
 その人影たちは、この雰囲気に相応しからぬように見えて、その実この場に誰よりも相応しい者どもだった。
 『彼女』を取り囲む男達は、歳背格好は様々だが、誰もが世界中のあらゆる快楽を体験したような腐りきった顔に、欲情に飢えた表情を浮かべている。
 奴等が宴の“客人”か。
 そいつ等の背後に立つ黒服の屈強な男達は、おそらく護衛の類だろう。
 しかし、その場で誰よりも印象的なのは、彼等が取り囲む3人の男女だ。
 1人目は、もう1人の男の右後ろに立ち、静かな冷笑を浮かべている男である。全身白尽くめの男だった。髪まで白い。
 その男が目を引くのは、人間にしては異常なくらい高い魔力を放っているからだ。背中の辺りからちらちら顔を覗かせる異形の影は、護衛獣か使い魔だろう。この男が“力”の一端でも見せれば、あの護衛どもなど一瞬で滅殺させられるに違いない。
 2人目は、まるで豚とカエルをかけ合わせた様な醜悪な男だ。足元に平伏す『彼女』を見下ろすその表情は、本当に人間なのかと疑いたくなる程、あさましく、邪悪で、吐き気を催すほど醜かった。
 ……いや、これが本当の“人間”の顔なのかもしれない。回りの男達の表情を見ていると、本当にそう思える……
 だが、その男の圧力すら覚える圧倒的な存在感は、その醜悪さによる物だけではあるまい。おそらく、奴こそがこの“宴”の主催者であり、この館の主なのだろう。
 そして……主の足元に膝をつく……全裸の肢体から水滴を滴らせ……解けた金色の長髪を背中から床に広げる……『彼女』が……

 ――セリナ――

 ……主の靴に舌を這わせるセリナは、その顔に悲しみの表情をありありと浮かべながらも、その行為自身には微塵の躊躇いも無い……それは、彼女がこの館でどんな仕打ちを受け続けていたのかを、あまりにも残酷に物語っていた……

「しかし、いい女ですなぁ……腹黒さん、今回はどうやって手に入れたんですかい?いつもの脅迫か人身売買ですかぁ?」
 取り巻きの客人の1人が、舌舐めずりしながら主に語りかけた。『腹黒』があの豚カエルの名前なのか。
「ああ、そういえば話していなかったか……コイツは7年前に俺の屋敷の前に転がっていたんだよ。記憶喪失だそうでな、それ以来こうして飼ってやってるわけだ」
 腹黒の名に相応しい、内臓が腐っているような声が、分厚い唇から洩れてきた。聞くだけで吐き気を催す。
「これはこれは……こんな上玉をタダ同然で手に入れたんですかい。なんとも羨ましい事で……それに、記憶喪失で身元不明ってこたぁ……」
「そうだ。戸籍も無ぇから殺しても面倒はおきねぇ。煮て食おうが焼いて食おうが好き放題ってわけだ……」
 腹黒と客人たちの哄笑に、セリナは身体を震わせた。
「……まぁ、バラすにしても、簡単にくたばっちゃあ面白くないんでな……今回はこんなゲストを用意してある」
 右後ろを向いた腹黒が顎をしゃくると、あの白尽くめの男が前に出て、慇懃無礼な態度で頭を下げた。
「あの『ヒュドラ』所属の魔導師殿だ。今回の“宴”で女が死なねぇような魔法をかけてくださるそうだ……すまねぇな、こんな事を頼んじまってよ」
「お気になさらずに、これは私の趣味でもあるのですから……」
 白い魔導師はニヤリと笑った。邪悪その物の笑みだった。
「……じゃあ、この女を文字通り『好き放題』にしていいって事ですかい?」
「ああ、切り刻もうが引き裂こうが焼き尽くそうが、好きにして構わないぜ。それ用の道具も用意してある」
 壁際の拷問具を指し示すと、客人たちの間から歓声があがった。

「ここにある200種類以上の拷問具を全部試してみるか」

「俺は全身の皮を剥ぎたい」

「剥き出しの神経節に酸を垂らしてみよう」

「体中の間接を外して躍らせてみるか」

「手足を引き千切った時の悲鳴が聞きたい」

「生きた内臓を取り出して並べて見るのもいい」

「身体をミキサーにかけてみよう」

「護衛の銃で蜂の巣にするのもいいな」

「自分自身の肉を食わせてみるのも面白い」

「頭を割って脳髄に精を放ってみたい」

 楽しげに会話を交える客人たち――誰もが歓喜に満ち溢れ、誰もの笑みが歪んでいた。
「あんたはどうする?……しっかり舐めろ!!」
 腹黒の靴の下で、セリナが苦悶の呻き声を上げた。
「そうですね……では、私は残った身体を抱きましょう……」
 それを見下ろす白い魔道師の笑みは、客人以上に歪んでいる。
「……どうやら舐めるのに疲れたみてぇだな?ああん?」
「………」

 グシャ!!

「疲れたかって聞いてんだよ!!」
「……はい……そうです……」
「そうかそうか……じゃあ、喉が乾いただろ?今日の俺は機嫌がいいんだ。5日ぶりに飲ませてやるよ……」
 腹黒の手が股間を弄り、醜い性器を露出させた。

 そして――

「……おやおや、貪るように飲んでますね」
「そりゃそうだ。ションベンとザーメン以外の水は飲むなって命令してるからな。最後に飲ませたのは5日前だ……いや、6日前だったか?」
「ほほぅ……でも、5日以上水を飲んでいないにしては、健康そうに見えますが?」
「そこがポイントってヤツよ。弱ってちゃあ嬲れないからな。メシと風呂だけは普通に取らせてあるんだ。そうすりゃぶっ倒れる事も無ぇ……それに知ってるかい?水分を全く与えないよりも、直接飲まない形でちょっぴり水分を摂取させてやる方が、数倍渇きが苦しくなるんだぜ……」
「なるほど、それは参考になりますな……では、私も飲ませてやって構いませんか?」
「好きにしていいぜ……お客人の皆さんもどうですかい?この便器に潤いを与えてやってくれねぇか?」

「それは面白そうだ……」

「ちょうど催した所です……」

「ははは、自分から咥え込んで来ましたよ。便利な便器だな……」

「いいか、お客人の大事な大事なお情けだ……一滴でもこぼしてみろ、この前みてぇに手足を切断して目と喉を潰して、廃屋の男子便所に放りこむぞ!!」
「あの時は面白かったですねぇ……近所の浮浪者や不良どもの、文字通り肉便器にされていて……半年後に回収した時には、身体が半分腐っていましたし……私が回復魔法を施す前に、死んでいなかったのが不思議でしたよ……」
「……ありゃりゃ、さっそくこぼしてやがる」
「10人以上が一斉にですからねぇ」
「こりゃまた肉便所だな。今度は1年くらい放りこんでおくか」
「それでは、私が身体が腐っても死ねないように処置してあげましょう」
「そりゃいいな。頼んだぜ……」
「……おやおや、床にこぼれた分まで啜ってますよ」
「よっぽど喉が乾いていたんだな。ヒデェもんだぜ……ゲハハハハ!!」
「しかし……食事や入浴は普通に取らせているのでしょう?なぜ、その時に飲まないのでしょうねぇ?」
「コイツはなぁ、自分の事ならどんな命令にも従うんだよ。それこそバカみてぇにな!!」

 ゲハハハハハハハハハハハハ!!!

 ――
 ――
 ――
 ――セリナは言った――
 ――
 『生きるって事は、必ず辛い事や悲しい事があるんですよ』
 ――
 ……これを、その一言で片付けていいのか……
 ――
 ――
 ――セリナは言った――
 ――
 『私は、おバカですから――』
 ――
 「そう、この女はバカなんだよ!!ゲハハハハ!!!」
 ――
 ――
 ――
 現地生物に余の方から干渉するのは、絶対にしてはいけない違反行動だ。
 ――
 現地生物の行動に、余の方から干渉してはならないのだ。
 ――
 ――それが、どんな内容であっても――
 ――
 ――
 ――そう――
 ――
 ――
 ――眼前で、どんな惨劇が行われていても――
 ――
 ――
 ――余の方から、干渉してはいけないのだ――
 ――
 ――
 ――
 ――余は法の代弁者なのだから――
 ――
 ――余の私情で、戦争をおこす訳にはいかないのなのだから――
 ――
 ――余は“魔界大帝”なのだから――
 ――
 ――
 ――
 ――
 なのに。
 ――
 ――
 ――
 ――
 それなのに。
 ――
 ――
 ――
 ――
 余は……
 ――
 ――
 ――
 ――
 僕は……!!
 ――
 ――
 ――
 ――
 ――
「そこまでだ!!!」
 

 場の誰もが、愕然とした表情で余を見つめていた。
 無理も無いだろう。何の前振りも無く、余は文字通り虚空を超えて、この惨劇の宴に飛び込んできたのだから。
「なんだぁこのガキャあ!!」
 腹黒とやらが吼えた。続けて何か怒鳴っているが、余の耳には半分も入っていない。
「かようなるじゃちぼうぎゃくなふるまい、いだいなるまかいのしはいしゃにして、あくまぞくのちょうてんにたちしぜったいそんざい『魔界大帝』のなにおいて、ゆるすわけにはいかぬ!!」
 
 世は怒り狂っていた。
 自分自身に対して。
 セリナの境遇も見抜く事ができず、この惨劇を防ぐ事ができなかったなんて……
 それでも余は“魔界大帝”か!?
 くだらぬ立場や法よりも、大事な物があると気付かなかったのか?譲れない物があると、今更気付いたのか!?
 余にとって、他の何よりもセリナが大事だと気付かなかったのか!?
 もう、自然保護条約も戦争も知った事か!!
 余は自分自身の意思で!!
 魔界大帝の名の元に!!
 この世界に干渉する!!
 セリナを救う!!!

 バッ!!

 漆黒の闇の衣『深遠なる闇』が翻る。
「わがなは『魔界大帝』クリシュファルス・クリシュバルス!!きさまたちのさいていしゃだ!!!」
 余の裂帛の名乗りに、
「……クリ…さん……ですか?」
 セリナの弱々しい返事が聞こえてくる。
 余は力強く頷いた。

 だが――

「こいつは……すごい……こんな上玉見た事無いぜ……」

「小学生みてぇだが構わない……ヤってしまえ!!」

「……女なのか?……男なのか?……どっちでもいいや……」

 あの客人どもは、余に対してまで欲情に飢えた視線を向けてくる。先程までは目を背けていただろうその視線を、しかし余は正面から受け止めた。

 その時!!

「殺せ!!」
 悲鳴に近い叫びが、あの白い魔導師から発せられた。
「お、おい…何をそんなに慌てて――」
「早く殺せ!!」
 狂った様に手を振り回すが、命令を受けているらしい黒服の護衛たちは、困った様に顔を見合わせるだけだ。
 無理も無いだろう。角と翼が生えているとはいえ、余の姿は人間の子供と変わらないのだ。奴等には、あの白い魔導師が突然狂ったと見えるに違いない。
 だが、あの魔導師だけが、余の正体に――朧気だろうが――気付いたのだ。やはり、ただの人間ではなかったか。
「――ッ!!」
 圧縮された呪文詠唱と同時に、魔導師の右手が振られて――
「……なっ!?」
 黒服たちの間に動揺が走った。ぎこちない動きを見るまでも無く、体を無理矢理動かされているのだ。あの白い魔導師の仕業か。
 肉体の支配権を奪われた黒服たちは、一斉に余に奇妙な道具――後に、それが拳銃と呼ばれる物だと知った――を向けて――!!
 稲妻が立て続けに落ちた様な爆音が、薄暗い部屋を揺るがす。
 奇妙な道具から発射された鉛の塊は、狙い違わず余の闇の衣に吸い込まれた。なるほど、火薬の爆発と圧縮空気の力で、鉛の塊を目標に叩き付ける仕組みか。単純だが効果的な武器だな。今の余の脆弱な人間の身体なら、ひとたまりもあるまい……

 しかし――

 鮮血を撒き散らして崩れ落ちたのは、黒服の男達であった。
 鬼畜の如き男達の間に戦慄が走るのが、はっきりとわかる。
「……キサマ……何しやがった!?」
 余は何もしていない。
 闇の衣『深遠なる闇』に吸い込まれた鉛の塊が、闇の中で方向を見失って、出発点に迷い戻っただけだ。闇の中では誰でも迷うだろう?
 余は1歩踏みこんだ。
 男達が一斉に後退する。
「……てをだしたな……ならば、つぎはよのばんだ……」
 突然、闇の衣が爆発する様に膨れて、余の身体を包み込んだ。
「……セリナよ、めをとじてみみをふさぐのだ……」
 脈動する闇の波動が、余の身体を存在概念から作り変えているのがわかる――

 見せてやろう……魔界大帝の真の姿を!!

 そして――
 闇の波動が爆発した――

 ……部屋の中のあらゆる物が――いや、部屋その物が小さくなった様に見える。
 いや、余の身体が大きくなったのか。
 悪魔族としての真の姿に戻った今の余は、身体のどんな部分も人間とは程遠い姿になっている。
 
 ――悪魔――
 あらゆる人間に絶対の絶望を与えるというその姿は、人間の美的意識において、まさに『邪悪と恐怖の化身』として写るという。
 ましてや悪魔族の頂点たる『魔界大帝』――その姿を見た人間はどうなるのか……
 好例が、まさに目前にあった。
 客人たちの眼は虚ろだった。鼻は匂いを嗅がず、口は言葉を話さない。
 生きてはいる。考えもするだろう。
 だが、それだけでは『人間』とは言えない。
 客人たちは、“魂”が消滅したのだ。

 ――先程、余は『真の姿に戻る』と述べたが、1つだけ人間のままにしておいた要素がある。
 余が悪魔族の姿に戻る際、悪魔族特有の『瘴気』は封印したのだ。
 魔界大帝たる余がそのまま瘴気を開放すると、この宇宙のあらゆる生命体の“魂”が消し飛んでしまう。
 しかし、余の姿を見ただけで、魂が消滅するとは……人間とは、かくも脆弱な存在なのか?
 本当に、あのセリナと同じ種族なのか?

 無事なのは――セリナを除いて――あの豚カエル男と白い魔導師だけだった。
 まぁ、人間としては最低だが、あの2人はそれなりに強い精神力の持ち主だったのだろう。
《……覚悟するがいい……余が今、引導を渡してやる……》
 ふむ、よかった。何とか人間の声は発声できた。
「うわあああああああ!!!」
 だが、その声は人間にとっては、耐えがたい恐怖を与える響きらしい。
 白い魔導師が、半狂乱になって右手を振った。
 背の影から使い魔の群れが飛び出して、余に死の顎を向ける――
 ――向けようとして、余の目の前でくるりと反転すると、己の主人たる白い魔道師に襲いかかった。
「うぎゃあああああああああ!!!」
 うるさい悲鳴だ。
 白い魔道師は絶望の表情を浮かべながら、見えない牙に食い千切られる様に身体を削り取られて、瞬く間に消滅した。
 愚か者め。
 己の分身たる使い魔とはいえ、『魔界大帝』に敵対するぐらいなら、主と共に『自殺』する事を選択すると思わなかったのか?

 残るは――あの腹黒とかいう豚カエルか。
 「……あは、あは、あははははははは……」
 腹黒はぺたんと床にへたり込んで、虚ろな表情で笑っていた。
 魂が消滅したのではない。発狂したのだろう。
 ある意味、運のいい奴だ。
《……汝がセリナに与えた数々の残虐非道なる行いの数々、許し難し!!この余、自らが裁定を下す!!》
 右手を――悪魔族にとって右手に当たる箇所を――男にゆっくりと差し向ける。そこに暗黒の波動が収束していく。
《冥符の底で、己の悪行を悔やむがよい!!》
 如何なる存在も防ぐ事叶わぬ……
 魔界大帝の絶対なる『審判』が……
 今、愚かなる罪人に下されて――!!!























「だめですよ」























 断罪の一撃は下されなかった。

 如何なる言葉も物質も止める事叶わぬ、魔界大帝の『審判』を止める事ができる、ただ1人の人間の女によって。




《――セリナ――》



 両手を広げて、余の前に立ち塞がる全裸のセリナは、悪魔の姿に戻っても、やっぱり他の何よりも美しく思えた。
《セリナよ……》
「はいです?」
《目と耳を塞げ、と言ったではないか》
「……あ……大変申し訳ありませんです。私はおバカなので、間違えて目じゃなくて口を塞いでしまいました。です」
《……目はそのまま閉じて、耳を手で塞ぐのが普通ではないか?》
「……あれ?……あらあら、そういえばそうでしたねぇ……です」
 チロっとセリナは可愛い舌を見せた。
 それから、少し真面目な顔になって、
「クリさんは、私のために怒ってくれたのですね……とてもうれしく思いますです。本当にありがとうございますです!!」
 セリナは深々と頭を下げた。
「……でも、ちょっとやり過ぎだと思いますです……」
 辺りを見まわすセリナの顔は、とても悲しそうに見える……
 

 ……自分をあそこまで虐げた者達に、なぜそんな表情を浮かべる事ができるのだ?
 ……なぜ、そなたはそこまで優しくなれるのだ?


《……セリナがそう言うのなら、そうなのだろう……》
「ありがとうございますです……」
 セリナは微笑んだ。
 静かに――
 やさしく――
 美しく――
 それだけで、余は男達に対する怒りも、胸中の自己嫌悪も、全てが消し飛んでしまったのである……


 それから――


 余は死んだ者たちを生き返らせて、消し飛んだ魂を再生させた。その辺の授業を真面目に聞いていてよかった……
 ただし、再生させる際に『2度と悪い事ができない』という呪いをかけてやった。これはセリナも異存は無いらしい。
「皆さん、本当はいい人なんですよ」
 正直、余にはそう思えないのだが……
 あ、もちろん余とあの現場の記憶も消しておいたぞ。
 白い魔道師は、2度と魔法が使えない様にして、同様の呪いと記憶消去をかけてから再生させた。魔法が使えないと知った時の落胆ぶりは、見ているこっちが気を使う程であったが……まぁ、これからは堅気の道を歩くのだな。人間世界は魔法が無くても生きていけると聞いているし。
 豚カエルこと腹黒氏は、心を正気に戻した後、同じ呪いをかけてやった。無論、記憶消去もだ。
 ……ただし、若干の人格操作をさせてもらったが……

 ――処置後――
「ほう、セリナのお友達が居候させて欲しいって?セリナのお友達は私のお友達だよ!!いくらでも居候してくれ!!っていうか居候してください!!お願いします!!!」(土下座)

 ……若干じゃなかったかもしれない……



 ――そして――

 ――3日後――


 ……いい天気だ。
 青い空――
 白い雲――
 緑の大地――
 透明な陽光――
 全てが心地良かった。
 つい数日前までは、違和感を持っていたというのに……余は思ったよりも順応性が高いのかもしれない。
「クリさ〜ん!!早く早く〜です〜!!」
 ……いや、この景色を楽しめる事ができるのも、きっと彼女のおかげなのだろう。
 彼女――セリナは木の枝をするすると登りながら、余をうれしそうに手招いている。相変わらず、ヘンな所で器用だな……
「うむ、いまいくぞ」
 余は翼を羽ばたかせて、枝に腰掛けるセリナの脇に降り立った。
「やっぱり翼があると便利ですね」
「うむ、にんげんのすがたになっても、このつばさはあいようしているぞ……それよりも、よはおなかがぺこぺこだ」
「はいです」
 セリナの謎のメイドポケットから、籐を編み込んで作られた箱――後に、それがバスケットと呼ばれる物だと知った――が取り出される。
「はいです。ドックフードサンドイッチですよ」
「おお、これはおいしそうだ……では、いただきます」
「いただきますです」
「もぐもぐ……むぐむぐ……」
「あらあら……そんなに急がなくても、まだまだたくさんありますですよ」
「……もぐもぐ……んぐぅ!!……ぐふっ!!ぐふっ!!」
「はいです、お茶です」
「ごくごくごくごく……ふぅ……たすかった……れいをいう」
「困った時はお互い様ですよ」

 小鳥の囀りが聞こえる。
 さわやかな風が枝葉を揺らし、セリナの笑顔に光の舞踏を浮かばせる。

「……なぁ、セリナよ……」
「はいです?」
「なんだかきょうは、ふだんいじょうにニコニコしているようだが……なにかいいことでもあったのか?」
「私はとってもうれしいですよ。だって、ずっとクリさんと一緒にいられるのですから……です♪」


 そう、あの後、余は言った。

《魔界大帝の名において、余はここに宣言する》
《余の持てる全てをもって、セリナよ、そなたをあらゆる災難から守ると誓おう》
《余の持てる全てをもって、セリナよ、そなたをあらゆる苦痛から守ると誓おう》
《余の持てる全てをもって、セリナよ、そなたをあらゆる不幸から守ると誓おう》
《余の持てる全てをもって、セリナよ、そなたをあらゆる悲劇から守ると誓おう》
《余の持てる全てをもって、セリナよ、そなたをあらゆる孤独から守ると誓おう》
《……セリナよ、そなたがこの世界に存在する限り、余はそなたの傍らにあると誓おう》

《セリナよ……余の誓いを……受け入れてくれぬか?》

「はいです♪」



 余はそっぽを向いた。自分の顔が赤くなるのがよくわかる。
「……あれは、まぁ……いそうろうさせてもらうれいのようなものだ」
 ……我ながら苦しい言い訳だ。それならあの腹黒氏に礼を言うのが筋だろう。
「うふふ……何だかプロポーズしてもらったみたいです♪」
「おおおおおいっ!!セリナっ!!!」
「うふふふふ……」


 ――魔界の救援隊が余を発見できるのは、どんなに早くても50年はかかるだろう。
 悪魔族にとっては僅かな時間だが、人間には1つの人生が全うされる長さだという。
 セリナが冥符に召される瞬間まで、余が傍にいられるぐらいの時間はありそうだ――


「うふふふふふ……」
 突然、セリナに抱き締められた。
「むぎゅっ……は、はひもふむはっ!?(な、何をするかっ!?)」
 あの恐るべきおっぱいに、余の顔は成す術も無く蹂躙されてしまう。
 うぐぐぐぐ……嬉しいけど……息ができない……でも、嬉しい……
「私、今とっても幸せなんです♪……もうちょっとだけ、幸せの感触を確かめさせてくださいです♪」
 そ、それは別に構わないけど……でも、こんな場所でそんな事したら……
「うふふふふふふふふ♪」
 ぎゅむ〜〜〜!!!

 ぐらり……

「……あら?です?」
 だから言わんこっちゃない〜〜〜!!!


 どっぽ〜〜〜〜〜ん!!!!!







 EPISODE 1. 『魔界大帝クリシュファルス・クリシュバルスの場合』

 EPISODE END







































……ある日、ふと考えた。





































『なぜ、セリナはあの時、余の真の姿を見ても、まるで平気だったのだろう?』





































その疑問は、すぐに解明された。





































そして、その時には全てが手遅れになっていたんだ……





































 ――2億年後――


《―――ん……》
 『彼』は覚醒した。
 酷く緩慢な覚醒であった。
 まるで、まだまどろみの中に未練があるかのような……
 右手を――彼の『種族』にとって、右手に当たる箇所を――そっと胸元に当ててみる。
 何かのぬくもりを、確かめる様に。
《……よもや、直前になってあの頃の夢を見るとは……》
 彼は苦笑した。
 『魔界大帝』に対して、こんな表現が許されるのなら……実に人間臭い笑みであった。
 この夢は吉報なのか。未練なのか。
 あるいは……
《もう少し、これを楽しみたかったが……》
 しかし、彼の居城が震撼するほどの爆音と、喧騒と、怒声と、斬撃音が階下から響いていては、とても眠ってなどいられない。
《来たか……相変わらず、騒がしい連中だ……》
 それにしても、魔界最高の防衛能力を持つ、この城であそこまで大暴れできるとは……その実力は健在どころか、さらに上回っているという訳か。
《ならば、余が直々に出向かなければなるまい……》
 彼はゆっくりと立ち上がった。実に数万年ぶりの事だ。
 右手が……ゆっくりと胸元から離れて……
 彼は、とある思いをゆっくりと胸中にしまい、静かに鍵をかける。

 それだけが、彼の2億年に及ぶ理由。
 それだけが、彼の2億年に及ぶ望み。
 それだけが、彼の2億年に及ぶ誓い。

《……始まったよ……セリナ……世界の終わりが……》



セリナの世界最後の平穏な日々・・・・・‥‥……TO BE CONTINUED

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