闇の裏側にありし者 |
愛しい人よ。あなたの事情も理解した 愛しい人よ。なお貴女に私が望むのは 愛しい人よ。私と共に生き続けよ 海に向かって突出した場所があった。 周囲は背の高い木々に囲まれているが、その木々の姿はまるで杖にすがる老人のように一様に幹を曲げていた。 すべらかな樹肌とは対照的に節くれ立った枝は全て上ではなく下に向かって延びている。 月明かりに照らされた展望台のような丘の上に人影が一つポツリとあった。 その姿は異様ではないが、見るものを威圧する「威」を備えている。 肩甲骨あたりまで延びている長い銀髪は、長身なその人物によく似合っていた。 丘に向かってもう一つの影が動いている。 丘の上の人物とは対照的に身長は低く、髪も短い。しかし、この人物の頭髪もまた銀髪であった。 丘の上の人物の横に並ぶとその身長差は誰の目にもありありとわかる。 この日この丘で語られた出来事はこの二人以外は誰も知らない。 しかし、この二人がこの日語った事こそ、この世界の行く末をある程度占うものであった事を、妖しく赤く輝く月だけが聞いていたという。 暮れ初めの赤とも黄色ともオレンジともつかない陽光が薄い雲の向こうからさしてこんできた。 港湾部から広島市の郊外に向けて延びている道路は港湾開発事業の一環で真新しい舗装が施されている。 歩道の脇には等間隔で植えられた様々な花が今が盛りとばかりに咲き乱れ、道行く人の目を楽しませた。 無垢な白を讚えた玉すだれや、目にもあざやからな赤いアスター等、花に興味がない人でも足を止めて見入ってしまうくらい見事に咲き誇っている。 かすかに吹き抜ける夏の匂いのする風が優しく花々を撫でている。その風に挨拶をするかのように花々は花弁を揺らし、周囲に香りを放つ。美しき晩春の夕刻の一時である。 しかし、この春末夏初のさわやかな季節の新しい道路を、葉子はムッとした顔をして歩いていた。 「もっとゆっくり話ができる場所を知っている。」と聡が言い、案内されるまま歩き続ける事既に40分。いまだ目的地らしい場所に到達しないのだから無理もないだろう。 その間、葉子が言葉巧みに聡から、彼自身についての情報を聞き出そうとしても、「うん。」とか「まあ。」とか「ちょちゅね。」としか言わない。 逆に、聡からの質問と言えば、「キャッサバって野菜だっけ?果物だっけ?」とか「ボーキサイトって何の原料だっけ?」とか、平たく言えば、死ぬ程どうでもいい事しか聞いてこないのだ。 おまけに、すぐにその場所に案内してもらえるのかと思えば、あちこち歩き回って「ここ、よく行くラーメン屋。」とか「ここ、よく行くコンビニ。」など、実にどうでも良い場所につれ回される。葉子でなくてもうんざりするだろう。 「ねえ。まだつかないんですか?」 半分怒気の混じった口調で葉子が言った。この無神経としか言い様のない男に自分がすでにうんざりしている事をわからせるにはそれくらいで丁度いいだろう。だが、 「まだなんぼも歩いてはおらんと思うが。えらい辛抱のない娘じゃの。」 聡はふりかえりもせずに素っ気無く言った。 葉子は絶句した。 まだどれ程も歩いていない? もうかれこれ1時間近く歩かされてるのに? それでなくても、はき慣れない踵の高い靴はいてるのに? そもそもどこへ連れていくつもりなのよ? こういった考えが怒りとともに葉子の頭を駆け巡りだしたころ、小高い丘の上に向かって延びている石段の前で聡はその足を止めて振り返った。 「さて美しいお嬢さん。あんたにとっては無意味な時間としか思えんかったろうが、わしとしては一応意義があったように思う。なぜなら、ここに来るまでにあんたがわしに言った言葉から、わしはだいたいあんたが疑問に思っている事がつかめた。そして、おそらくあんたの疑問にたいして、わしはだいたい答える事ができるじゃろうと思う。」 驚いた事に、聡はここに至る道すがら、葉子が聡から何らかの情報を引きだそうとしている事に気がつき、逆に言葉たくみに葉子から、自分に関する情報の不明確な点を導き出していたのだ。 ハメられた。葉子はそう思った瞬間思い出した。 「あんたの表層意識を読み取るくらいの事は、わしにとっては造作ないことだ・・・」 出会った時に聡がいったこの言葉が葉子の脳裏をぐるぐるとまわる。 ひょっとして自分は、歩いている間に考えている事をすべてこの男に見透かされていたのではないか? そして巧妙に罠を張り、自分を落とし入れようとしているのではないか? そういった疑念が葉子の心に影を落とした。 「さてさて。わしらの移動も、もはや最後の一行程となった。これを越えたら、今まで時間を使って歩いてきた事も報われる。あんたもきっとそう思うじゃろう。」 「最後の一行程ってまさか・・・・」 そう言って葉子は聡の後ろに見える石段に目を向けた。 既に足が痛い葉子にとってはその石段の長さといい、高さといい、拷問としか思えない。 しかし、葉子の願いも空しく聡はその問いに「そのまさかさ。」と目で答えた。 「じゃ、行こうか。それとも、もうへばったかね?最近の退魔士ってのは、そげにやわでもできるんじゃね。」 いちいち神経を逆撫でることしかこの男は言わない。葉子は完全に頭にきた。 「誰がへばりますか!さあ、さっさと行きましょ!!」 そう言って先に立ち、さっさと階段を登り始めた。聡はその姿をしばらく見つめたあと、 「尻のサイズは86って所か・・・・申し分ないな。」 とつぶやいてその後を追った。 石段を登りながら聡は物思いに耽っていた。 (あの女・・・・・どの程度事態を把握しているのか・・・・・・この娘はともかく、何故よりによって自分の娘までこちらによこした?) 聡は既に『ある筋』からの情報で西野株式会社から3人の能力者が自分に関する事で派遣されてきた事を知っていた。 しかし、目的までは定かではなかったので、今日の昼に直接西野の社長に連絡を取り、彼女らの目的を聞き出したのである。 (この娘が来るという事はそれが単なる調査ではない事は明白じゃが、ね・・・・・。) 同じ筋からの情報で聡は『ヒュドラ』や『六魔焔』が自分に対して興味を持っている事も知っている。 これにはいささか当惑している。もし彼らが葉子達のように調査ではなく自分の抹殺に乗り出したらどうだろうか。この懸念をぬぐい去る事ができない事に聡は少々焦っていた。 (ヒュドラ側のエージェントが7使徒で、人数が3人以下なら今の所わし一人でも対処のしようがあるが・・・・) 今、聡が気にしているのは『六魔焔』が今回の件についてどこまで首を突っ込んでくるか。その一点だった。 『ヒュドラ』の7使徒の実力は既に退魔業界のみならず、一般にもその危険性と共に広く知られている。 また、退魔業界では『六魔焔』の6人の将は実力的には7使徒の首領を除いた6人とほぼ同格と見なされている。 しかし、実相がそうではない事を聡は、おそらく誰よりも良く知っていると言えるだろう。 (もし、あんま考えとうはないがあの二人のうちのどちらかが出てきたらエライ事じゃ。他の4人にしても、二人以上で出てこられたらやりようがない。) 聡は一つ大きなため息をついた後、暫く立ち止まって周囲に頭を巡らせた。 (ヒュドラの方は今の所、二人しかおらんようだが、油断はできんね。六魔焔の方は今の所気配はなし。か・・・・・) 聡が最も心配しているのは、事の次第によっては小規模ながら苛烈な戦闘が発生し、それによって西野姉妹のどちらかが(あるいは両方が)命を落とす事になるのではないか。という事だった。 (悲しみのあまり、西野の社長さんが暴走した日にゃ、わしも覚悟をせんといかんな・・・・それにしても面倒な事になったもんじゃ。) これは何も自分の事のみを考えているわけではない。子を思う母親の気持ちというものを聡は痛切なまでに知っているのである。あるいは、知っているつもりなのである。 聡は退魔行を生業にはしていない。しようと思えばできるかもしれないが、そうはしたくないのである。 生来怠け者の聡は、時間が不規則な上、常に命の危機にさらされるこの職業につきたいとは思った事がない。 彼の今の望みは平和でショボい社会人として世界の片隅で生き、ひっそりとその生を終える事であった。 (皆、わしの事なんぞ放っておいてくれりゃぁええのにの。そりゃあ、こげなカワイ子ちゃんが訪ねてくれば悪い気はせんが・・・・・今どき、カワイ子ちゃんもねぇやな。) そこまで考えた時、聡の視界に突然艶めかしい足が飛び込んで来た。下着は見えそうで見えない。 見上げると、葉子が階段の中央に座っていた。顔に苦痛の色が浮かんでいる。 「なんね。足が痛いんね・・・・ひょっとして、慣れてない靴を履いとるのと違うか?」 そう言葉をかけた聡を葉子はきつい目で睨みつけると 「何でもありません。少し足を捻っただけです。」 と努めて無表情な声で言い放った。しかし、聡は 「無理をしんさんな。しかし、悪かったね。もっと早く気づくべきじゃった。知っていればあんなに色々連れ回さなかったものを。」 そう申し訳なさそうに言って、聡は葉子の足のあたりにしゃがみ込んだ。 「靴を脱ぎんさい。わしのカンが確かなら、あんたの足の指の皮ははがれとるじゃろ?」 葉子を気づかうように優しくそう言ったつもりだが、当の葉子はそっぽを向いてしまった。 「仕方がないのぉ・・・」 聡はそう言って苦笑いすると、葉子にかまわず、勝手に靴を脱がせ、その足を自分の膝に置いた。 聡の予想通り、葉子の美しい白い足の先にあるかわいらしい指は皮が擦り剥け、所々が赤くなっている。 「放っておいてください!」 あくまでも葉子はそう言い張ったが聡は意に介さない。 「動きんさんなよ。」 そう言うと聡はおもむろに両の手のひらを合わせ、拝むような格好をした。すると、聡の手がかすかに白い光を放ち始めた。その手のひらを葉子の足先にゆっくりとかざすと、途端に痛みは消え、皮の向けた部分は見る見る元の白い指に戻っていく。 葉子は最初、白い光を放つ聡の両手に見入ってしまった。そして、すぐに聡が呪文らしいものを唱えていな事に気がついた。呪符や媒介を使った形跡もない。 (これは・・・・・・回復魔法を自分が意図するだけで使えると言うの!?) その葉子の考えを見透かしているかのように聡は口を開いた。 「これは魔法とは少し違う。もっとも、どう違うかを口で説明するのは難しいがね。わしが使える『力』の中で唯一、人の役に立ちそうな能力よ。」 そう言って、やや自嘲気味に笑った。 「だいたい、これ位の事はあんたが本来、この世から消滅したはずの焔の技を、参之型まで呪文や媒介を必要とせずに自由意志で使役する事と比べるとたいした事なかろうて。」 聡にそう言われ、一瞬「それもそうか。」と葉子は思ったが、次の瞬間には別の疑問が浮かんだ。 (何故その事をこの人は知っているの?) 疑いのまなざしを聡に向けたが、当の聡本人は既に葉子の方は見ていない。彼は葉子に靴を履かせると 「もう片方も。」 と、促した。 言われるがまま、葉子はもう片方の靴をおずおずと脱ぐと、その足を聡の膝の上に置いた。 そうこうしている内に葉子は何となく、聡に対する心のトゲが少しずつではあるが無くなっていくのを感じがする。なんだかくすぐったいような感情を葉子はおぼえた。 聡は先程と同じように手を合わせると、光る手を葉子の足にかざした。 程なくして、葉子の両足の指を悩ませた痛みは完全になくなり、さらに言えばここまで連れ回されたことによる足のむくみもきれいになくなってしまった。 「あの・・・・・ありがとうございます。」 葉子がややうつむき加減でそう言う、 「礼には及ばんよ。だいたいわしが色々と連れ回したのが原因だ。」 そう言って聡は立ち上がり、葉子に手を差し延べた。葉子がその手をためらいがちに握ると、聡はその手をグイッと引っ張った。 その勢いが思ったより強かったので、立ち上がった葉子はそのまま聡の方につんのめってしまった。 前のめりになってバランスを失った葉子の腰に聡の手がのびる。葉子を抱きかかえるような格好で支えるためである。 「あっ・・・・ええっと・・・・どうも・・・・・」 途端に耳まで真っ赤になった。今更の事ではあるが、葉子は男に対して免役がある方ではない。また、彼女はその強さゆえ、魔物や商売敵に体を蹂躙された事もない。 それまで彼女に触れた事のある異性は、今はこの世にはいない師匠のハリーだけであった。 まして、腰に手を回された経験など全くない。葉子が戸惑っている様子を優しい目で見つめて 「さあ、行こうか。」 聡はそう促すと先に石段を上って行った。 その後を、やや遅れがちに葉子が続く。葉子が後ろからやって来るのを確認したあと聡はポツリとつぶやいた。 「腰は57ってところか。案外細いんじゃのぉ・・・・・」 葉子の少し前を聡が歩いている。 聡は時々後ろを振り返って、葉子がついてきているのを確認する。 (何でだろう?なんとなく懐かしい感じがする・・・・・) 葉子は昔の事をあまり覚えていない。彼女がハリーの門下に入ったのは5歳のころであった。それ以前の事は何一つ覚えていなかった。 当時、何もわからないまま知らぬ場所へ連れていかれ、突然厳しい修業を課せられ、時には命に係わる大怪我をした事もある。 しかし、それすらもどのような事をしていた時だったのか、良くは覚えていない。自分でも驚く程過去の記憶が乏しいのだ。 そんな自分が聡の背を見ながら歩いているのを懐かしく感じるのはなぜだろうか。 葉子がそんな事を考えている間に石段は終わり、やや狭い舗装されていない通路に出た。 少し先には舗装された広い道路がるが、所々にひび割れが目に付く古い道路のようだ。 「さあ、ここまで来れば目的の場所はすぐじゃが、わしとしてはここでしばし足を止めて、振り返る事をおすすめするよ。」 聡にそう言われて振り返った葉子は感嘆の声をあげた。眼下には広島市の湾岸部から中央部にかけての風景が広がっている。 晩秋の夕日によって赤みがかったオレンジ色に染め抜かれた町並みは影を長くして、その日がすでに地上を去ろうとしているのを見送っている。 市内を流れる川はその夕日に照らされて、近くは赤く、遠くは黄色がかったオレンジ色に染まり、ゆっくりと海に注ぐ。 その海もまた、穏やかなオレンジ色に染まっている。海の向こう側には新緑豊かな低い山々が西に向かって伸びていた。 太陽は今まさに、その山々の向こうへ沈もうとしているのである。 「なかなかきれいなもんじゃろ?折角だからこれを見せてあげたかったのだよ。それでは、今日の勤めを終えた太陽にわしらもさようならの挨拶をしようじゃないか。」 聡の言葉を聞きながら、葉子は身内からくる衝撃に眩暈さえ覚えた。仕事柄(修業期ですら)多くの場所に行く機会の多い方だが、これ程特異な、しかし美しい風景を今までに見たことがない。 手前側に見える町並みは人工のそれである。三角州という土地柄、整然とした町造りが困難なのであろうか、海に向かって釣り鐘状に広がっている町並みは、京都等のような、きれいに区画整理された町並みからは程遠い。しかし、その雑然とした中に「芯」のようなものがこの町にはある。 その町並みを縫うようにして4本の大きな川が流れている。川にかかる橋は数知れず。そういった人工の風景のほんの少し先には、人が手を触れずにいる(あるいは触れる事のできない)自然の風景がある。 新緑の眩しい木々も、南に広がる海も。そして町並みも。全てが一様に同じ色に染め抜かれながら、必ずしも同じではない色に輝いている。 全てがオレンジ色の中に溶け合い、それぞれの色を各々が主張しているのである。 「こういった風景もある。これだけでもこの世は存在する価値がある。そして、ありがたい事にわしらはそれに価値を見いだす事ができた。それだけでも明日を生き抜く力になるじゃろぉ。」 そう言った後聡は、何やら低い声で呟き始めた。葉子には分からない言葉で何か囁いているようだったが、その『言葉』にはその意味を理解することができないも者にも美しく耳朶に響き渡っていく。 聡は突然、男性の声とは思えない高い澄んだ声で歌い始めた。 あまりの出来事に驚いて振り返った葉子は驚愕した。なんとそこに居たのは聡ではなく、まったくの別人だった。 膝の裏まで伸びた長く美しい金髪はまるで丁寧に紡がれた絹糸のようにすべらかで、微風にそよぐ様はまるで天女の羽衣もかくありきと思える程であった。 海のように深い碧を讚えた双眸の奥にある輝きは、この世界にあるどのような宝石を並べても比較ができない程の美しさを秘めている。 端正な鼻筋と可憐に紅く染まった唇はその白磁のような美しい肌と相まって、独特の美しさを作り出している。 突然、一陣の涼風が辺りを吹き抜け『彼女』の長い髪が舞い上がった。そして、その風がおさまる頃にはその『女性』の姿はなく、元のシャレ気のない20代後半のくたびれた男の姿に戻っていた。 先程の『女性』の姿は初夏の夕日が垣間見せた、一瞬の幻影だったのだろうか。 「ん?なんね?」 自分をまじまじと見つめている葉子に聡は声をかけた。葉子の方は未だ声を発する事ができないでいる。 「夕日に照り映えるわしの横顔に見とれたかね?惚れちゃいけんよ。」 茶化されるようにそう言われて、葉子はようやく落ち着いた。 「そんなんじゃないけど・・・・・さっきのあれ、何だったんですか?」 「あれ?あれとは何かね?」 聡は惚けたような口調で葉子に聞き返した。 「なにか言ってたじゃないですか。私のわからない言葉で。その後・・・・」 葉子のその言葉を遮るように聡はこう言い放った。 「そんな事は気にせんでいいでげっちょ。」 葉子は冷や汗を額に浮かべた。 「何で中途半端な福島弁なんですか?」 もはや冷静にもどった葉子は冷たくつっこんだ。 「だから、そげんこつば気にせんでよかたい。」 「今度は鹿児島弁ですか?」 しかし、聡はそれには答えず、急に振り向くと 「ワ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜プ!!!!」 と大声をあげると脱兎の如く走り出した。 あまりの出来事に葉子は唖然とした。その間にも聡の影は小さくなっていく。 「ワープって・・・・・・あの人、ひょっとしてアホ・・・・・・?」 一つため息をついた後、葉子はあわてて聡の後を追った。 葉子は聡の後ろ姿を見失う事はなかった。なぜなら石段の上の通路から目的地まではそう遠くなかったからだ。 数件のよく似通った住宅のそばを通り抜けた、少し開けた場所にそれはあった。 『銀の雫』と書かれた看板は既に日に焼けて色あせて字を判別するのは難しい。 にもかかわらずその建物は真新しく、クリーム色に塗られた壁はその色つやを失ってはいない。 流行りの輸入建築と古い看板の不釣り合いが妙にマッチしている。俗に言う「ミスマッチの妙」というやつだろう。 この小洒落た喫茶店の中に聡はさっさと入って行った。葉子もそれに続く。 聡は中に入るなり 「み・さ・き・ちゅわ〜んっ!!」 と一声発して一足飛びに店の奥に飛び込んで行った。その行動は葉子を驚かせるには十分であったが、その次の出来事はさらに葉子を驚かせた。 パコ〜ン 店の奥から乾いた音がして聡が床に崩れ落ちた。唖然としてその様子を見ている葉子に 「いらっしゃいませぇ〜。」 と何食わぬ顔で挨拶したこの女性こそがこの店の店主であった。 短く切りそろえられたボブカットは顔の小さな彼女には良く似合っている。その黒髪は夜闇にも負けぬ程黒く艶やかだ。 体のラインにぴっちりと合った黒い長そでのTシャツはスレンダーな彼女の魅力を十分に引きだしていた。 赤いエプロンは彼女の服装の良いアクセントになっている。程よく色落ちしたジーンズははき慣れている動きやすいものなのだろう。 そのヒップラインといい、長い足といい、ちょっとしたモデルと言っても疑う者はだれ一人いないであろう。 良く動く大きな瞳はとても愛らしく、鼻や口元からは理知的な雰囲気が醸されている。 「いててて・・・・・・今使いよったフライパンで叩くんだからな・・・・・顔が熱かったわいね。」 聡がぶつくさ言いながら立ち上がった。 「だって〜。聡君といちいち遊んでられないもの〜。」 ニコニコとした笑みを浮かべてそう店主は言った。語尾をのばしてしゃべるのは彼女の癖だろう。 「やれやれ。そのワリにゃ、暇そうじゃね。」 そう言って聡は店内を見渡した。4〜5人が座れそうな席が20席はある広い店の中には3人以外の人影は見当たらない。 「それはそうよ〜。聡君のおかげでね。」 そう言って店主はウィンクした。一体聡はこの店で何をしたのだろうか。 「あの・・・・」 話についていけない葉子が口をはさんだ。 「ああ。こちらはこの店の店主の桐島美咲さん。わしとは幼なじみなんよ。美咲ちゃん。こちらはわしの事をケツの毛の数まで調べ上げるつもりで来た、西野怪物駆除株式会社の藤倉葉子さん。」 聡はそれぞれに紹介した。 「そんなものまで調べません!」 強い口調で否定したが葉子の反論も空しく、美咲にはどうも本当にそう取られてしまったようだ。 「そうなんですか〜。大変ですねぇ〜。」 「そうじゃなくって・・・・」 「まあええじゃん。とりあえず座ろう。」 そう言って聡は窓際の席に座ってしまった。窓からは既に地平の彼方に沈んだ太陽の余光が残っている。 葉子が聡の正面の席に座ると美咲がお手ふきとお冷を持ってきた。 お手ふきで手を拭いていた葉子は聡の変化に気がついた。聡の双眸に燃えさかる焔の輪が浮かんでいるのだ。 聡の行動自体は取り立てて変わったものではない。葉子と同じようにお手ふきで手を拭くと、コップになみなみと注がれている水を飲み干した。そして、葉子が自分から目を離す事ができないのを知っているかのようにニヤッと笑った。 その笑みにゾッとした葉子はなんとか聡から目を逸らそうとコップを手に取り冷たい水を口に含んだが、どうした事か聡から目を離す事ができない。 しばらくすると、不意に聡が「寄り目」をしたので葉子は口に含んだ水を勢い良く聡に吹きかけてしまった。 「ご・・・ごべんなざ・・・・・ゲホッ!ゴホッ!!」 葉子はむせき込みながら謝った。当の聡は水を滴らせながらそのままの姿勢でいる。 「あら〜。たいへん〜。」 本当にそう思っているとは到底思えない口調で、美咲がやって来て大きめのタオルを聡に手渡した。 「やれやれ。いきなりご挨拶じゃね・・・・」 そう言いながら聡は水をタオルでふき取った。葉子はまだむせている。 「そんなに寄り目が面白かったんね?なんなら今度じっくりやってあげよう。」 自分と、自分の周りにかかった水を拭ったあと聡はそう言った。 「そうじゃないんですけど・・・・・」 ようやく落ち着いてきた葉子は再び聡の目をのぞき込んだが焔の輪はもう見えない。 先程の女性の姿といい、どうもこの男は何か妙だ。しかし、今はそれを確かめる術はない。 葉子は気を取り直して聡の調査を開始することにした。 30分程の質問責めの末、葉子が聞き出した情報のほとんどは無意味としか思えないものだった。 聡は自分自身については、体重を除けば葉子の提示した資料の通りだと言った。 体重は中学卒業当時のもので、現在はそれに10kg上乗せされているらしい。 当人もそのことは気にしていて、現在はトレーニングやウォーキングなどを行っている。 そして、次に自分と退魔業界とのつながりを否定した。 経歴についてもほぼ同意したが、高校時代をアメリカで過ごした事に関する質問になるとあまり答えたがらない。ただ、卒業前の1年間の空白について聞かれると 「8年程前にクーデターが起こった後、民主主義国家に変わった南米のF国があるじゃろ?そん時の革命軍の主要メンバーの中にアンドリュー・ガルバドフ中佐とか言う名の人物がいる。」 とだけ答えた。その件についてはそれ以上は一切語ろうとしないので、葉子は話題を聡の出身地である野黒島に移した。 ここで、今回の調査で最も重要な案件であり、退魔業界全ての者が知りたいと考えていた情報が聡の口から事もなげに飛び出して葉子を狼狽させた。 「あの島にゃ、あんたらが『評議会』と呼んどる連中の、五賢王の内の3人が住んでいる。ついでに言やぁ、隣の芯樽島には2人おるよ。」 『評議会』とは退魔業界の裏にも表にも隠然たる力を持った集団だと言われている。 その昔『四門会』の成立にも深く係わったとされ、それ以前から存在する古い宗教系の団体等からも恐れ、あるいは敬われている存在だ。 西野(株)の社長の那由ですら、その名を口にする時は畏敬の念を込めているくらいなのである。 しかし、世間の認知度とは逆に謎が多いこの集団は、果たして何人いて、どれくらいの規模なのかは一切分かっていない謎の集団なのだ。 「自分らの居場所とかは、別に隠しとったわけでもないと思うよ。多分聞かれんかったからじゃろう。代替わりした一人を除けば年寄りばっかじゃが、気のいい人らよね。わしもちょいちょい将棋の相手なんかをする事がある。」 ポカンと開いた口が塞がらない葉子に構わず、聡は話を続ける。 「知りたければ教えてあげるが、あの5人のじ〜さんば〜さん以外には別段これといった人はおらんよ。おっと。一人はわしと同い年じゃが。それぞれに家族やら弟子やらがおるけど、そういった者はあの5人の決定なんかには別に係わってないし。」 葉子は気を取り直して聡に幾つかの質問をして、自分なりに整理をつけた。 『評議会』と呼ばれる人たちの人数は全部で5人。それぞれに王名のついた名前を冠しているが、実際にはその名前は今ではそれ程意味をなしていないらしい。当人達にはそれぞれの個人名が当然あり、そちらで呼ばれているため王の名で呼んでも返事が返る事は少ないようだ。 「それで、その人たちは今は・・・・・・」 「今?そおねぇ・・・・代替わりして遮那(しゃな)王になったやつは、わしと同じ会社で働いとるよ。鷹頭(せきとう)王って古代の伝承に通じたじ〜さんは、普段はあんま喋らんくせに、気が向いた時だけわしの家に来て、伝承やらなんやら一通り喋ったあと説教くれて帰って行く。ありがた迷惑なじいさんじゃ。玉鼎(ぎょくてい)王なんかは齢300に達しようというのに未だに若いねえちゃんの尻ばっか追っかけてるし。」 聡はまず、自分と同じ野黒島に住む3人の話をした。その話の内容は葉子にとっては少々拍子抜けであった。 業界にその名をとどろかす『評議会』メンバーの内の3人が、零細企業の一社員と、説教好きのじいさんと、色ボケじじぃとあっては流石に驚かざるをえない。 「芯樽島の方の二人はそれらと比べりゃあまだそれっぽい生活をしとるんじゃなかろうか。安寧(あんねい)王は普段は機織りをしよる。『芯樽織り』はその業界では『西陣織り』に匹敵するらしいよ。羅扶麻(らふま)王はあの島を束ねている人物だからいつも忙しそうにしとる。たまに暇を見つけてはわしの家に遊びに来たりしよるよ。」 ここまで聞いて葉子はひとつため息をついた。彼ら5人の王名は今にして思えば全て聞き覚えのある名前だった事に気がついたからである。 遮那王は剣術においては右に出るものは無いと言われる剣豪である。 鷹頭王は聡のいう通り、伝承と歴史の大家として知られている。 玉鼎王は剣以外の武器、とりわけ弓や長槍などの扱いに関しては右に出るものはないと言われている。 安寧王は宿曜と夢見の大家で、かなり近い将来から、相当遠い将来を星や夢で見る事ができると言われている。 羅扶麻王は徒手空拳を旨とする、いわゆる武道家で、その拳は空を切り、その足は大地をも砕くとされている。 ちなみに、武を頼りとして退魔行を行う退魔士の間では遮那王、玉鼎王、羅扶麻王を「三聖」と呼んで敬っている。 また、鷹頭王と安寧王は「過去と未来の道標」として尊まれているのである。 葉子が言葉もなく押し黙って考えを整理している所へ美咲がやって来た。 「ご注文はおきまりですか?」 「おお。忘れちょったわいね。喫茶店に来て水だけ飲むなんてのもないよね。ここのブレンドコーヒーは美味いよ。ブルーマウンテンとモカが絶妙な割合でブレンドされ、微かに香るキリマンジャロの香りが心を落ち着かせてくれるのだよ。ああ。わしはいつものね。」 葉子にコーヒーのうんちくを垂れたあと、聡はさっさと注文した。葉子は少し考えたあと聡と同じものを頼んだ。 そして、数分後に運ばれて来たものを見て葉子は言葉を失ってしまったのである。 「・・・・・・・なんであれだけコーヒーの事を話しといて、運ばれてくるものがチョコレートパフェなんですか・・・・・?」 葉子は半ばあきれて聡に言った。 「なんね?チョコパは嫌いなん?それともダイエット中か?確かにあんたは少々痩せた方が・・・・グボッ!」 その言葉を全て言うまでもなく聡の顔面に葉子の右拳がめりこんでいた。 「余計なおせわですよ〜だ!!」 そう言って葉子はスプーンを手にしてチョコレートパフェを口に運んだ。 「あっ。冷たくておいしい・・・・」 「このテのもんがぬるいってのもないでしょ。いててて・・・・」 顔を押さえながら聡も食べ始めた。聡にとっては、今日初めて口にする固形(といってさしつかえない)食料だった。 食べている間は聡は、葉子の問い掛けに対してもなにも答えなかった。まるで子供のようにパフェをほお張って幸せそうな顔をしている。 そして、あっという間にパフェを平らげると 「煙草構わんかね?」 と聞き、葉子が答える前にすでに自分の鞄を探り始めた。その様子を見て葉子は突然立ち上がった。 「私、バッグどうしたのかしら?!」 あまりに突然だったので聡は驚いたが、しばらく窓の外を眺め、その後 「あんたのツレの一人が持っとるようだ。心配には及ばんよ。しかし、忘れるあんたもあんたじゃね・・・・・」 その顔に苦笑を浮かべながら言った。葉子はバツが悪そうに頭を掻いて座った。 「でも、どうして分かるんです?私があなたと会った時には、私はもうバッグを持っていなかったでしょう?」 その質問に対して、聡は何も答えずに鞄のなかからパイプを取り出した。 「煙草ってそれですか?」 葉子が当然と言うべき疑問を口にした。通常、煙草と言われるとシガレットを想像するのが普通と思われるからだ。 「ほうよ。わしは紙巻きが嫌いでね。」 そう言って、パイプに葉をつめると、おもむろに火をつけた。『紙巻き』とはいわゆる『煙草』の事だろう。 しばらくすると、パイプの先から白い煙が漫画のような輪を描きながらいくつも天井に昇っていった。 パイプからは愉快そうに白い筋の煙が上がっている。聡は、時にそれを強く吹き出して白い輪を作る。その輪の中に再び白いすじ状の煙が入っていく。 暫くすると、辺りにはパイプの煙独特の、少し焦げたような、それでいて芳醇で甘い香りが立ちこめはじめた。 「・・・・!この匂い・・・・・」 驚いて葉子は聡を見たが、とうの本人は天井に昇っていく自らが作った白い輪を見上げている。その目にはどこか虚ろな光が宿っていた。 店内のBGMはいつのまにかヒット曲を連発する女性洋楽シンガー「ジェニー・カウフマン」の最新曲「DEVIL'S WAY」が流れ始めていた。路上強盗の凶弾に倒れた友人に捧げた歌らしい。 優しいメロディと、どこか暗さのある彼女の歌声はこの時間に聞くにはピッタリな選曲のように思える。 「そうだねぇ。こいつの匂いは、あんたの師匠のハリー・堀田が好んで吸っていた葉巻の匂いに似とるかもしれんねぇ。」 聡の口から師匠の名前が出てきた事に葉子は動揺した。 今までの話からして、聡の周囲には退魔業界でも名うての業界人がいる事はあきらかである。 おそらく、もっと話を聞けば色々な名前が出てくるだろう。そして、その多くの者が葉子も名前を知っている名うての連中である事に疑う余地はない。 しかし、当の聡本人は業界にはタッチしていないという事も明らかで、実際聡はその事は否定している。 直接業界に係わりあいのない聡が自分の師匠の名前を知っているのは不思議と言えば不思議かもしれない。 だが、葉子が驚いたのはその点ではない。自分の師匠がハリー・堀田であることを聡が知っていることなのだ。 「どうしてそれを・・・・・」 至極当然の疑問を葉子がぶつけようとした時、聡は人さし指を葉子の柔らかい唇に押し当てた。 「わしがあんたなら、今はその質問をせんじゃろう。なぜなら、あんたの本来の目的はわしとあんたの師匠とのつながりを探る事ではないじゃろ?」 子供を諭すようにそう葉子に言い聞かせると、聡は座り直してこう言った。 「あんたがわしを訪ねたのはわしの事を調べるためじゃったね?そして、その任務が発生した原因は何じゃったろうか?わしが思うに、数ヶ月前にわしが港の近くの公園でメフィストっぽいのを始末した事なんじゃなかろうか。」 そう言われて葉子は居住まいをただしこう言った。 「最初の出来事は確かにその事件です。でも、わたしが貴方に伺いたいのはその前の出来事なんです。貴方は以前、蛇の形をした魔物・・・・・・無限蛇(ウロボロス)を独力で退治したでしょう?私が聞きたいのはその件についてです。」 そう言われて聡は暫く考え込んだ。 「無限蛇(ウロボロス)・・・・・?そげな大層なもんはわしは見た事もないが・・・・・ひょっとして、MZモータースの工場にいたあのヘビの化け物の事かね?ありゃぁ、そげな大変なもんじゃないよ。アホみとーにデカいのは変わらんかもしれんが。わしが思うに、ありゃぁ意図的にああいう姿に作られた化け物じゃと思うよ。」 「意図的に作られた魔物ですって?それなら、なんでそんなものがその工場に?」 「そわいな事は、わしが知るわけなかろう。」 この時、業界でもその名の知れた実力者である葉子が、聡との話にこれ程意識を傾けていなければ、もう少し違った展開が待っていたかもしれない。 しかし、次々に浮かんでくる疑問を解消しない事には調査は続かないと考えた葉子は、手始めに聡に、その日のMZモータースの工場で起こったという奇妙な出来事の顛末をつぶさに聞く必要があったのだ。 そのため、「男」がこの店に入って来た事にまったく気がつかなかったのである。 「男」は何気なく店に入った。店のドアに掛かっているベルがカランカランと鳴った。しかし、その音は普段とは違う、妙に渇いた音をしていた。 「いらっしゃいませ〜。」 聡と葉子が店内に入った時と同じように笑顔でその「男」を美咲は迎え入れたが、当の男は店内にい2人の客の方を見ると後ろ手で店のドアを閉めた。 丁度BGMがかかっていない時だったため、ドアの音は普段より大きいように美咲には感じられた。 そして、いつもと同じはずのドアの閉まる「ガチャン」という音が、今日はひどく不吉な音に聞こえたため、美咲は一歩さがるとゆっくりと店の奥に消えていった。 「お姉ちゃん本当にするんですかぁ?」 どこか舌っ足らずな声が西野怪物駆除株式会社・中国支社の暗い廊下に響いた。 「当然よ。教官はそのためにわざわざ自分たちが17時には上がる事を教えた上に、備品置き場の鍵の場所まで教えてくれたんだから。ご丁寧に事務所の鍵をあたしに預けて。」 舌っ足らずな声に答えて、凛とした響きの声が言った。 「それはおえねちゃんが明日の朝、教官達よりも早くここに来るって言ったからじゃないですかぁ〜。」 「それは言いっこなしよ・・・・ってあんた、えらく嬉しそうな顔してるじゃないの・・・・」 「ええ〜。そうですかぁ〜?」 そう言われて舌っ足らずの声の持ち主、あすみは頭を掻いた。 彼女は今、姉のかすみと共に備品置き場に忍び込み、エニシングディテクターを持ち出そうとしていたのだった。 「だって〜。なんだか小さい頃にイタズラしてたのを思い出したから〜。」 確かに彼女の目には、こっそり備品を持ち出す事に対するときめきが宿っている。かすみは嘆息して 「結局あんたの方が乗り気なんじゃないの。だったら口答えせずにさっさと付いてくる。」 「ハ〜イ!!」 無邪気なあすみの声を背にかすみは走りだした。これ以上グズグズしてはいられない。一刻も早く葉子と合流し、昼間松井から聞かされた情報を知らせなければならない。 それに、バッグの事もある。 二人の美女は踊るように暗い廊下を駆け抜けると、ネオンの光が眩しい広島の町に消えていった。
1-6 喫茶「銀の雫」にて 了
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闇の裏側にありし者 |
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