闇の裏側にありし者
愛しい人よ。私は全てを見てきた。
愛しい人よ。私は倦み疲れている。
愛しい人よ。我が疲れを癒すのは。
愛しい人よ。貴女をおいて他にはない。



「・・・・それではやはりアレを中心に回り始めたのか・・・・」

酷く年老いた声で老人が言った。

「それが定められし運命であればやむを得んじゃろうて。」

先程の声とは違う、やや張りのある声で別の老人が呟いた。

「本人は嫌がるでしょうけどね。」

それまでとは違う若い女性の声がそう言った。

「時に、新参の若者はどうした?」

重々しい口調で、おそらくこの集まりの長と思われるものが聞いた。

「あれは今やここに住んでいる訳ではない。招集から開会までの時間は今後考えねばな・・・・・・」

年老いた声が胸壁に囲まれた積み石の壁の中にかすかに響いて、消えていく。
空は眩しい程に澄み渡り、どこまでも深く蒼く輝いていた。



広島港の旧ターミナルは現在は殆ど使用されていない。
四国方面に運行しているカーフェリーを除けば、この港に出入りする殆どの船舶が新ターミナル付近の桟橋に停泊するためである。
また、その四国方面へのカーフェリーの切符も新ターミナル内で販売されているため、旧ターミナルは今や四国に出発する旅行者の待合所となっていた。
しかし、売店等が全て新ターミナルに移転してしまったため、待合所としても利用する人も殆どいないのが現状である。

暮色の濃い闇色に染まった空に、不気味に暗い灰色の姿を浮かべている旧ターミナルの北側に、整地されただけの何もない広場があった。
一度掘り返され、また埋められたような後がそこかしこに見え、夕闇の暗い中で見ても地面の色が場所によって違うのが見てとれる。
かつてはターミナルに隣接する公園と駐車場だったこの場所は、新たに大型駐車場になる予定であったが、施工主の広島市の財政の都合で手付かずの空き地となってしまっているのだ。
さらに、元々街灯が少ないこの辺りは日が暮れるとすっかり暗くなってしまうので、人通りも殆どなくどこか陰気で、どこか寂しげな場所となっている。
全長約1,200m、全幅約800m程のこの人気の全く無い場所に二つの黒っぽい人影が浮かび上がっているのを目撃した人間はいないだろう。
一人は上下真っ黒の革製の衣服に身を包んでいて、肩甲骨のあたりまで伸びている暗い茶色い長い髪は月光に照らされて艶やかに輝いている。
もう一人は美しい赤いワンピースを纏っていて、腰の辺りまで伸びた長く美しいオレンジ色の髪はそれ自体がかすかな光を放っているかのように美しい。

「これだけの広さなら少々ハデ目に暴れても問題はね〜な。ところで、あんた良かったのかい?」

黒ずくめの男、鵜飼政道は周囲を軽く見回しながら聞いた。

「いいのよ。前回みたいに逃げられでもしたらもっと困るから。」

赤いワンピースの女、葉子はそう答えた。

この遺棄された感のある空き地と、その周辺約2.2kmに渡って葉子はSクラス外的干渉排除型結界を張り巡らせていたのである。
外的干渉排除型結界とはその名の通り、外部からの干渉を無効化するタイプの結界で、この技を使用する事自体、多大な魔力を必要とする。
さらにSSクラス、あるいはそれ以上(SSSクラス等)のレベルになってくると、余程鍛練を積んだ熟練の術者でなければ到底成しえる事はできない。

葉子は四門会が北方の将にして、彼女自身の師匠である北方の将“玄武”のハリー・堀田をして「防衛魔法に関しては自分をも上回る。」と言わしめた実力の持ち主である。
四門会の“玄武”の将に就く者は、代々防衛魔法に秀でた術者であった。そして、堀田は歴代の“玄武”の将の中でも随一の防衛魔法の使い手と言われていたのだ。
その師匠を上回ると堀田本人に言わしめた葉子のそれは、例えSクラス結界であっても、並の術者の張ったSSクラス結界をも上回るのである。

「ま、あんたが良いってんなら良いけどな。もっとも、後悔先に立たずって言葉もあるがね。」

そう言って政道は音もなく腰間の剣を抜いた。銀色の、しかし銀のそれとは明らかに異なる質感を持った刀身が月光の下に露になる。

「その言葉、そっくりお返しするわ。この闘いが終わる頃にはここに来た事を後悔させてあげる。」

そう言って葉子は静かに構えた。彼女の右腕に輝く黄金のブレスレットが月光に照らされて煌めく星々の如く輝く。

それは余りにも不思議な光景であった。この手の闘いで素手の者が武器を携えた者を相手に闘いを挑むのはそれ程珍しくはないのだが。
しかし、両者の手にある武器や装飾品を目にすると、その歴史的な価値を見いだす事のできる者は少なからずいる。
もし、葉子が近年学問に発展し、大学でも講義を聞くことができるようになった「古代神代学」に連なるゼミに参加していれば政道の手にある剣の由来を以前闘った時に知っていただろう。
その剣こそ『メギド王の反逆』の際、王の配下である9人の黒騎士の長ゴルドールが携えた、神にをも死を与える剣【グラムバルド】であった。
この剣は、葉子が前に政道と闘ったおりに初めて目にした剣であったが、その威力と効果はその時の比ではない事を葉子は知らない。
もし知っていれば、例え今彼女が考えている通りに闘いが進むにしても、もう少し用心して闘った事だろう。
また、政道がもし野黒島に生まれ鷹頭王の織る故事の内の幾つかの説話を耳にする機会があったなら、葉子のブレスレットを目にした瞬間に驚嘆して腰を抜かすところであっただろう。
それは、「古代神代学」の内の一つ、「大海に没した大陸とこの世の圏外に去った大陸」の論考の中で語られている【メヌエルの腕輪】にほかならないからである。
この、まさに神話の中から飛びだした二つの品物が一つ所に集まって見る機会を与えられると言うなら、「古代神代学」を納める学者達はこぞってやって来た事だろう。
そして、この苛烈なる闘いの余波のおかげで、ここを訪れた学者達は悉く命を落とすであろう。
しかし、差し当たり二人に取っては互いの持ち物に興味はなく、むしろ相手の次の所作を見逃すまいと注意深く抜かりの無い目で睨みあっているのである。
二人は、お互いに構えたままジリジリと間合いを詰めていった。そして、ある程度の距離のところで止まると、政道が口を開いた。

「あんたの左腕は今も大事に取ってあるぜ。真空パックにして毎晩ベッドでかわいがってるよ。」

しかし、それに答えた葉子の言葉は辛辣であった。

「あらそう。でも私はあなたの左目なんか、どこにやったか忘れたわ。」

その言葉が終わるのと同時に二人は一気に間合いを詰めた。
個体戦闘時における闘いの幕開けなど、今更ここで説明するには及ばないだろう。
互いに間合いを詰め、自分の攻撃の有効範囲に敵が入ろうものなら全力を持ってそれを攻撃する。
後手に回った方は先手の攻撃を全力で防ぐか迎撃する。今回もそれは全く同じだ。
ただ、多くの闘いのそれと違う点があるとすれば、この二人は世界でも類を見ない程の達人同士であるという点だ。

剣を持っている分、攻撃の間合いが若干広い政道が、恐るべき速さで葉子の右側方から斬撃を加える。
その速さは剣先からその影が引き離される様な錯覚に陥る程の速さであった。しかし、葉子の動きは政道のそれを遥かに上回っていたのである。
驚くべき事に、葉子は政道が剣を振るうよりも速く政道の間合いに入り込み、その美しい左足で政道の剣の柄を押さえこんだ。
予想外の出来事に対処しきれなかった政道は不覚にも前方につんのめってしまった。
急いで体制を整え、政道が正面に向き直ると、既に葉子はその視界から忽然と姿を消していた。周囲には気配すら感じられない。まるで霧散したかのようである。
突然の出来事で一瞬動きが止まった政道の左わき腹に鈍い痛みが走り、その痛みを知覚した頃には政道は空き地の隅にあった水道に激突し、植え込みの中に無様に倒れていた。

「・・・・・くっ・・・・なんつー速さだ・・・・・・」

言葉とは裏腹にたいして堪えている風でもなく政道は口にする。

「以前とは比べ物になんねぇ速さだな。ただ、思った程の威力はないがね。」

そう言い放つ政道には、ダメージらしいものが欠片程にも感じられなかった。葉子の打撃もその後の水道との激突も、彼に手傷を負わせるには至らないのか。
政道は先程よりも数段速い動きで葉子に迫ると、横ざまに剣を一閃する。
寸での所で後方に飛び下がった葉子だったが、なんと政道の振るった剣の剣圧でそのまま後方に吹き飛ばされてしまった。
無様に尻餅をついた葉子の頭上から月光を受けて美しく輝く剣身が振り下ろされる。しかし、その時には既にその場に葉子の姿は無かった。
間髪のところで追撃を躱された政道の、やや後方から葉子の美しい右足が唸りをあげて政道に襲いかかる。
本能的に攻撃を察知した政道はギリギリの所でこの蹴り足を躱す事ができたが、その蹴り足の威力でターミナルの壁面には、まるで巨大なハンマーを叩きつけたかのような大穴が開いた。

「あっぶねー!あんなもん喰らったら即死かもな。」

本当にそう思っているとは到底思えないような口調で、政道は愉快そうにそう言い放った。

「そして、その方があなたは幸せだったかもしれないわね。」

その美しい口元に冷笑を浮かべて葉子が言い放った。

「そうとも限らんぜ。さて、次はあんたが肝を冷やす番だ。」

そう言うと政道は自らの剣を両手で持ち、自分の顔の前にかざした。
その端正な両の目の間が微かに光を放つのを見て葉子は驚愕のあまり色を失った。

「!・・・・その光・・・・・まさかっ!!」

今度は政道が冷たい笑いをその表情に浮かべる番であった。

「そのまさかさ!!」

そう言い放つと同時に、政道の両手に支えられた白銀の剣身の周囲を小さな、しかし自然界ではあり得ない威力の稲妻が龍の如く渦巻き始めた。
その龍の渦巻く螺旋が速度を速めるにつれ、彼の周囲から沸き立つ風は強さを増して行く。
程なくして、葉子をおしても直立する事が困難な程に風は大きくなった。まさに暴風である。

「あんたも知ってるだろ?六魔焔が俺達に力を貸してるって事をよ。そして、連中のトップは惜しげもなく四門会の秘術を俺達に施してくれたってワケさ。」

驚くべき事実の数々に葉子は困惑した。あの光は紛れもなく『四門会』にのみ伝わる秘術『九龍八門の儀』を行った者の放つそれであった。
人間は誰しも最低7つの気脈を持つと言われている。その気の流れを司る場所にはそれぞれ門が存在し、それを『龍脈の門』と四門会では呼んでいた。
一つは両耳をつなぐその中間に。
一つは両目をつなぐその中間に。
右腕、左腕、両足をつなぐ下肢、心臓、そして咽にそれぞれ龍脈の門は存在する。
額にも8つ目の龍脈の門は存在するが殆どの場合退化していて、開くのは不可能だと言われているが、その全ての門を開く事のできた者のみが四門会の四方の将となるのだ。
通常、その7つ(あるいは8つ)の内の1つでも龍脈の門を開く事のできた者は人知の及ばぬ力を手に入れるとされ、昔から多くの退魔師や戦闘能力者が龍脈の門を開く方法を追い求めた。
だが、力の満たぬ者が龍脈の門、すなわち龍門を開いても開放された己自身の気が暴走し、一瞬にして遺体も残らぬような凄まじい爆発を起こしてしまう。
そのため、龍脈を開く『開龍の儀』は『禁戒』としてその方法は封印され、わずかに四門会にのみ伝わっていたのである。
六魔焔の当主、南方・朱雀の栗林は、かつては四門会の四将の頂点に立っていた四門会の筆頭退魔師であった。
当然その方法を知っているわけであり、彼がその『禁戒』を犯して7使徒に施したのは想像に難くない。
驚くべき事に、政道はすでに2つの龍門を開放し、その力を使役できるのである。

「まったく奴さんにゃ、感謝してもし足りねぇよな。龍脈を開放してくれた上に、自分の『秘剣』を直接俺に手ほどきしてくれたんだからな。」

政道のその言葉を聞いて葉子はさらに驚いた。もはや言葉も出ない。
かつて師匠に従って栗林に闘いを挑んだ事のある葉子は、その『秘剣』を良く知っていたのである。

「Thor Hammer・・・・」

そう呟くと、政道はいまや龍が天にも昇る程にまで巨大なうねりを作り出した己の剣を葉子めがけて振り下ろした。
耳をつんざくような轟音と、堪え難い衝撃が葉子がいた地点の周囲約2m辺り目がけて、荒れ狂う巨大な雷龍の群れのごとく唸りをあげて襲いかかった。
その威力は凄まじく、先程まで葉子が立っていた辺りを一瞬で黒焦げにすると、なんと葉子が張り巡らした結界を内側からただの一撃で破壊し、その余波は地球全土を覆い、各地で甚大な被害を出した。

地球の周囲を飛んでいた衛星はその雷の発した強大な電磁波で悉く破壊され、そのため地上の情報や交通は混乱し、一時的にとはいえ完全にマヒしてしまった。

イギリス・スコットランドのグラスゴーでは低温であるこの地方ではあり得ない規模の竜巻が起こり、地上には人間の頭大の雹が地上に降り注いで公園も美術館も悉く破壊された。

南アフリカのクルーガー国立公園では落雷によって草原に火が起こり、その後の風速50mを越える暴風によって火はまたたくまに草原全体に燃え広がり、そこに生息していた陸生哺乳類290種の内の2/3が焦土の中で絶滅した。

オーストラリアのゴールドコーストに浮かぶ世界最大の砂の島、フレーザー島は最大規模の落雷によって、島の3/4の砂が高温・高圧によりガラスと化した。

アメリカのコルディエラではロッキー山脈の最高峰、エルバート山の頭頂部が度重なる巨大な落雷と暴風によってこぼれ落ち、見るも無残なギザギザ歯の様な姿になってしまった。

メキシコのユカタン半島の木々が密生したジャングルは落雷と暴風によって一掃され、その地にあったチチェン・イッツァーの遺跡は永遠にこの世から失われた。

インドネシアの首都、ジャカルタではタムリン通りからスディルマン通りに渡る高層ビル群が、まるで巨人がドミノ倒しにでも興じているかのように次々と倒れ、瓦礫の山をうずたかく築いた。

その威力はまさしく『雷神の鉄槌』であった。

政道が剣を振り下ろすよりも僅かに速くその場を飛び退いた葉子は、政道の繰り出した秘剣の威力と正確性に驚きを禁じえなかった。
世界全土で先程のような大惨事が起こっているにも係わらず、この広場の被害は自分が立っていた周辺約4mと、その後方のみなだったからだ。

「いいぜ。良くよけたな。もっとも、今のは躱しやすいように調整したがな。」

不気味な笑みを浮かべて葉子を睨みつけた政道を見て葉子は戦慄した。
威力も範囲も自分がよけやすいように調整したと言うのか。
しかも、それでいてこの破壊力。長引いては自分が不利になる事は明々白々である。

(それなら、やはりこれしか手はないわ・・・・・)

葉子は、「アルセノアの神秘の炎」を戦闘で使用する事を自らに禁じていた。
この世に恒星を生じさせた最初の光のかけらである「神秘の炎」はこの世界で使用するにはあまりにも危険だ。
下手をすれば、被害はこの周囲どころの騒ぎではなくなるだろう。もし葉子にその気があれば、この銀河系を一瞬で焼き尽くす事も不可能ではない。

では、葉子の考えた「手」とは如何なるものであろうか?
それは、ハリー堀田から伝授された秘術中の秘術で、それを行うための準備は現時点ではまったくできていない。
しかし、この方法であれば、周囲に被害を振りまく危険を避け、政道の戦闘能力の殆どを無効化する事ができる。
手段がそれしか無いと判断した以上、恐るべき手だれである政道との戦闘中に準備を行う他に方法はない。
我ながら、この事さえ予想していれば、前もって下準備をしておいたものをと葉子は苦笑するしかなかった。

決意を決めたからの葉子の行動は早い。寒々と輝く政道の剣先の届くか届かないかの場所まで葉子は無防備のまま歩み出る。
突然の出来事に今度は政道の方が驚いた。しかし、すぐに頭を切り替えるとそれまでとは比べ物にならない速さと威力の斬撃を葉子に繰り出す。
政道の凄まじいまでの連撃を寸での所で躱しながら、しかし、葉子は一切反撃しなかった。
時には、政道のその長い腕をかい潜って懐に飛び込みはするものの、次の瞬間にはその場から飛び離れるのである。
しかし、当の政道はその事を気にとめなかった。自分の斬撃の凄まじさに機を逸して下がっているのだろうと考えていたのだ。
この政道の思い上がりこそが葉子の思惑に対する最大の幇助となる事に政道は気がついていないのである。

政道の斬撃を悉く躱していた葉子が一瞬立ち止まった。

「・・・・」

葉子のその小さな美しい唇から漏れた呟きを聞きながらも政道は好機とばかりに葉子の左側から凄まじい攻撃を繰り出した。
光すらも追いつかないのではと思われるその剣先を、しかし葉子は驚くべき事に左腕一本で受け止めようとしている。
岩をも簡単に切り裂く【グラムバルド】はうなりをあげて、再び葉子の左腕を切り落としにかかった。
しかし、葉子の左腕は切り落とされる事はなかった。むしろ、切り掛かった【グラムバルド】のほうが刃こぼれし、剣先は大きく逸れてしまったのである。
体制を崩した政道の顎を葉子の美しい膝が正確に捉え、そのために政道は真上に飛ばされてしまった。
空中で体制を整えるべく回転しようとした政道の背中に恐るべき威力の打撃が数発くわえられた。

「ぐふぁっ!!」

その衝撃のため呼吸ができなくなり、真っ逆さまに地面に落ちていく政道のその頭を葉子の横蹴りが炸裂する。
蹴り足のあまりの威力のため、空中に舞ったまま2、3回転した政道のわき腹に追い討ちをかけるように後ろ回し蹴りを喰らわせると、葉子はこの広場の中央へ足を進めた。
防御体制に入る事のできないまま蹴りをまともに喰らってしまった政道が旧ターミナルの玄関にまともに激突する。
自動ドアのガラスは爆発にでもあったかのように砕け散り、建物の反対側の壁を突き破って海側の桟橋付近まで飛ばされた政道はまるでボロ雑巾のようにそこに蹲った。
しばらく建物の方を眺めていた葉子の目に、再び黒い人影が写ったのは約10分後の事で、それは葉子がしかけたある大掛かりな魔法の最後の仕上げを施すには十分な時間であった。

「今のは少々効いたぜ・・・・・ちょっとすりむいちまった。」

驚くべき事に、政道は葉子のあれだけの打撃をまともに喰らったにも係わらず、殆ど傷らしい傷を負っていなかったのである。
右腕に擦りむき傷があるものの、あれほどの葉子の打撃を受けてもケロッとしている。この男に癒し難い傷を負わせる事のできる者は果たしてこの世に存在するのだろうか?
しかし、再び広場に戻ってきた政道の目に驚嘆すべきものが写った。
なんと、古代文字で書かれた幾つもの呪文が幾重にも重なったような絵が円を成して描かれている。
俗に言う魔方陣というやつである。そして、その中心に葉子が立っているのだ。
描かれている術式は政道にはわからないが、これだけの呪文を自分と闘っている間に書いたというのか。
政道は密かに感心したが、その様な手間をかけて葉子が何をしようとしているのかは計りかねた。

「あなたは『自動発動型』だから、これが一番有効でしょうね。」

そう言って葉子はしゃがみ込むと、地面に右手をついて叫んだ。
しゃがみ込んだ葉子の美しい太ももが政道の目を楽しませたが、暗がりのため、その奥まで見通す事はできなかった。

「太極図よ!全てを解き放てっ!!」

葉子の声に呼応するかのように、魔方陣は不気味な唸り声のような音を発して光り始めた。
魔方陣から7色のそれぞれに違う筋のようなものが飛びだし、それが折り重なって二つの光の筋となった。
一つは光の色としか言い様のない色になり、一つは闇の色としか言い様のない色の帯のようにはためいて見える。
二つの帯は互いに絡み合いながら政道の周囲を囲み、やがて霧散するかのように消えうせた。

「・・・・・今のがなんなのかは知らねぇが、俺にゃ、なんのダメージもないぜ。」

しばらく呆然としていた政道が我に返って口を開いた。

「今にわかる事よ。あなたが私に攻撃するなり、私の攻撃を受けるなりすれば。」

「そんじゃ、お言葉に甘えて攻撃させてもらいますかねえ。」

そう言って前に踏み出した政道は、その瞬間に奇妙な感覚に捕らわれた。

(体が重い・・・・?)

しかし、そういった政道の心の動きとは無関係に体は動き、葉子の右肩に向けて癒し難い傷を負わせるべく剣を振り下ろす。
が、政道が先程感じた通り、微妙な体の重さのためその切っ先は鈍く、葉子はいとも簡単に斬撃を躱すと、政道の右わき腹に強烈な膝蹴りを見舞った。

「ぐはっ!!!」

先程とは比べ物にならない激痛にわき腹を押さえ、跪いた政道の顔面を葉子の右足が正確にとらえた。
政道の体は宙を舞い、弧を描きながら植え込みの中に無様に転落した。その様は大○翼のドライブシュートも真っ青だ。

「早くも勝負ありかしら?」

不敵にもそう口にした葉子の言葉を倒れたまま聞いた政道は、しかし冷静に考えていた。

(さっきの妙な魔方陣の関係だな・・・・おそらく魔法の発動を無効化するテの。)

政道の推察通りだった。葉子の描いた魔方陣、太極図は本来仙人が使用していた宝貝(仙器)の一種で、その威力は攻撃力は皆無であった。
効果としては、敵の仙人が持つ宝貝の発動や効果を完全に無効化するといったもので、使い方によっては最強、使い方によっては最弱という代物である。
今はすでに宝貝としての形は失われているが、現在に伝わる数少ない魔方陣の中にそれは確実に残っていたのだ。

「そういや、あんたの師匠は魔方陣を使役するんだったな・・・・・あんたが使ったのを見たのは初めてだが。」

ゆっくりと立ち上がり、自分の服について砂ボコリや葉っぱなどをはらいながら、政道は葉子の様子を窺った。

「こんな切り札があるとはね・・・・・これじゃ、俺にゃどうしようもねぇな。」

葉子が先に口にした通り、政道は『自動発動型』の能力の持ち主だ。
自動発動型とは、本人の意志に関係なく魔法が発動するタイプの事で、古くからこういったタイプは多く存在している。
情緒が不安定になると周りが突然炎に包まれたりする少女等の話はアメリカ辺りではホラー映画に昔からよく使われる手だが、そういった能力を持った人たちは実際に存在し、その人たちを総称して『自動発動型』と呼ぶ。
政道の場合は、自分が相手に攻撃をかけると、攻撃を補助する魔法が。相手から攻撃を受けると防御を補助する魔法が自動的に発動する。
それだけなら別段特筆するべき事のない地味な能力でもないのだが、政道の場合は、攻撃・防御に際し、一度に発動する魔法が複数にのぼる。
さらに、その魔法の効果が通常の術者のレベルを遥かに上回るため効果が極めて高い。
先程から再三葉子の打撃を受けてもダメージを負った風に見えないのはこの能力の賜物である。
この能力のおかげで政道はヒュドラ・7使徒の中でもトップレベルの個体戦闘力者として知られているが、葉子は今回、その魔法の発動を停止させ政道の戦闘力を大幅にダウンさせたのだ。
加えて、先程のThor Hammerのように多大な魔力を使用する大技も政道は封じられてしまった。
現在の政道の戦闘力は、彼の通常時と比べると、攻撃力は8割以下、防御に関しては6割以下になってしまっている。

「本来なら俺だけでなく、あんたを含めたこの辺全体に効果があるもんだろうが、俺に絞ったのはそれがあんたの技術か、それとも限界か・・・・どっちにしても俺の方は切り札ごと封じられたも同然か。」

太極図が本来の形で開放されれば、敵味方の区別なくその魔力が封じられてしまうはずだ。
しかし、葉子が先程張ったSクラス結界が健在している所からして、その効力は政道一人にしかない事がわかる。
実際、師匠であるハリーが使役したそれは、彼がその気になれば銀河系をすべて包み込んでしまう。
しかし、技が未熟な葉子には地球はおろか、半径200m以内というのが今の限界であった。
だが、対象を一人に絞れば、この結界の中くらいの範囲はカバーできる。

「どうであれ、勝負はもうついたわ。観念する事ね。」

葉子はそう言うと、雌雄を決するべく一気に政道に駆け寄った。
しかし、次の瞬間に葉子は左わき腹に鈍痛を感じ、それとほぼ同時に右方向へ勢い良くはじき飛ばされてしまった。
地面に叩きつけられ、むせき込みながら這いつくばっていた葉子が顔をあげると、信じられない光景が目に飛び込んでくる。
なんと、葉子の目の前に立っているのは他ならぬ葉子自身だったのだ。
予想しえぬ出来事のまえに言葉を失っていた葉子の耳に、聞きなれない声が聞こえてきた。

「無様ですわね。自信ありげにしていたわりには。」

酷く無慈悲なその声は、しかしその言葉を葉子にではなく政道に向けらているようだ。

「ちょいと予想外の出来事があってね。ま、言い訳にはならねぇな。」

むせき込みながら葉子はようやく立ち上がった。

「な・・・何者・・・?どうやってここへ・・・・?」

この空き地の周囲には葉子が張った結界がある。そのため、外部から侵入するのはほぼ不可能な筈だ。
先程のThor Hammerで破壊された場所も既に修復している。
もし、侵入するならばもう一度結界を破壊する必要がある筈だが、外部から攻撃を受けた形跡はない。
結界は未だ有効である事は疑いようがなかった。

「例えどれ程離れた場所であろうと、結界で隔てられた場所であろうとも、その場に影がある限り私に行く事のできない場所はないんですよ。藤倉葉子さん。」

葉子の目の前にいる、もう一人の葉子のそばに闇色のスーツに身を包んだ、酷く冷たい印象を受ける女性が立っていた。

「申し遅れましたわ。私の名はカルマ・カルキリア。ヒュドラ7使徒の一人です。」

「その名前には聞き覚えがあるわ。あのアガスティア師団をたった一人で壊滅寸前まで追い込んだ『闇なす影』ね。」

ようやく呼吸が整ってきた葉子は立ち上がると再び身構えた。その葉子の前にもう一人の葉子が立ちふさがる。

「その女性は貴女の影。言うなれば貴女自身です。貴女は勝てるのかしらねぇ。」

嘲笑うようにカルマが言い放った。これこそが彼女の恐るべき能力である。
彼女はその意志があれば、いかなる生き物の影も使役できるのである。アガスティア師団を瓦解させたのもこの能力を使っての事だった。
影とは、言うなれば己自身だ。それ故、彼女に使役された影もまた本体である人間(あるいは生物)と生態的にも能力的にもまったく同じものであると言える。
さらに、影はカルマによって使役されているだけの存在であり、それ自体に意志があるわけではないので行動を予想しにくい。
簡単に言えば、殺気が全くないので攻撃の予想が極めて困難なのだ。
おまけに、影は本体の行動パターンも弱点も知っているため、そこを正確についてくる。敵としてはこれほど厄介な相手はいないだろう。

「私が私自身に負ける?」

そう言い放つと葉子は音も立てずに自分の影の顔面に攻撃を仕掛けた。そして、葉子のほぼ予想通り、影はその攻撃を左腕でガードした。

以前政道に切り下ろされた葉子の左腕は外側から見ても触っても生身の腕と変わらないが、実は仙人達の宝貝と同じ、滑らかで頑丈な宝貝合金でできている。
中身は完全な機械仕掛けになっていて、装着した本人の意志によって、まるで本物の腕のように動かす事ができるのだ。
ただ、通常の機械と違う点は、燃料を必要としない点である。必要なのは装着した者の霊力で、動かす事のできる部位も範囲もその人物の霊力によって大きく異なる。
葉子の場合、左腕の全てを装着している。これだけのギミックを動かすには相当な霊力を必要となる。
そのため、誰にでも装着できる訳ではないため、実用化するのは現時点では難しい。

ところで、この金属は、先の通りこの世界に存在するどのような金属等よりも頑丈で、それでいて動物の肉体のように柔軟である。
また、この金属自体はさして珍しいものではないため、調達単価は決して高くはない。
ただ、剛性と軟性を合わせ持つという通常では考えられない特性を持っているため加工は困難を極める。
そのため、加工したものを手に入れるには結構な金額を必要とするのだ。
一介の嘱託社員であり、普段はただの女子大生に過ぎない葉子がこれを入手できるのは、実は研究の進んでいないこの金属と、その製品の研究におけるモニターとしてこの腕を使用しているからなのであった。

葉子自身、この腕の防御能力を少々過信していると自分で気がついている。そのため、今回はそれを逆手に取って攻撃をしかけたのだ。
影は、葉子の打撃を左腕のみでガードをしているため、それ以外の場所のガードがかなり甘くなる。
影が左腕を差し出した瞬間に葉子は拳の向きを左わき腹に変えた。信じられないタイミングで突然向きを変えた葉子の拳は、影の左腕をする抜けて見事に左わき腹に突き刺さった。
しかし、その攻撃が命中した時に葉子は左わき腹に凄まじい激痛を感じてその場にうずくまってしまった。何が起きたのかも分からず苦悶の表情を浮かべてしゃがみ込む葉子の耳にカルマの声が聞こえる。

「バカな娘ですわね。自分で自分を傷つけるなんて。言いましたでしょ。影は貴女自身。影を攻撃すれば痛い目にあうは貴女自身なのですよ。」

嘲笑する声を頭上に聞きながら、葉子は自分に近づいてくる、自分自身の影の気配を感じ取った。



「ハァッハァッ・・・・」

巨乳フェチでない者でも目を見張るような豊かなバストを上下に揺らしながら、西野かすみが片ひざをついたまま荒い息をしている。無理も無いだろう。
一番最初に今、目の前にしている女性を相手に斬撃を加えようとしたのがいつだったのか、かすみは思い出せない。
おそらく30分もたっていないのだろうが、彼女にはそれがもう6、7時間以上も前のように思えた。
それ程数々の攻撃を敵に仕掛けているにもかかわらず、その成果は皆無なのだ。
母親であり師匠でもある那由から授かった奥義もその全てをあのバターナイフで防がれたり、かわされたりしている。

「思ったより技の数が少ないのね。『西風霧創流刀舞術』と言ったかしら?」

静かに靴音を響かせながら女性は足取りも軽くかすみに近づいて来る。

「フゥッフゥッ・・・・」

大きさこそ姉のそれには及ばないものの、その美しい胸を上下させて西野あすみが建物の壁によりかかって息を切らせている。無理もないだろう。
あすみは、これまでの闘いと同様、直接攻撃を敵にしかけるかすみをサポートし、時には隙をついて攻撃魔法を相手にしかけている。
しかし、どれ程の補助魔法を使ってもかすみの攻撃は相手には届かず、あすみの攻撃魔法は悉く躱されるか受け流されるかであった。
あすみは自分の手元に残っている呪符を見た。彼女の手元にあった呪符の殆どを費やしてもかすり傷一つ負わせる事ができないのであった。

「それに、貴女が使える攻撃魔法も炎系の魔法ばかりのようね。もう少しバリエーションがあるのかと思ったのに。お姉さんに対する補助魔法も通り一辺倒だし。」

横目であすみを見つめながら女性はそう言った。

「くっ・・・・・」

かすみが下唇を噛む。相手の言っている事が事実と認定される以上、反論の余地などありえない。

「もう少しできると思ったのに・・・・・ちょっと期待外れね。」

女性は右手を頬にあてて困ったような表情を浮かべた。
かすみの愛刀は既に刃こぼれしている。あすみは持ってきた呪符は実に8割が失われている。
今あすみの手元に残っているのは、母親の那由から使用するときはくれぐれも気をつけるように何度も念を押されたものしか残っていなかった。
あまりの威力のため、あすみには制御が難しいかもしれない。しかし、差し当たってはこれを使用する他ないようだ。
だが、そのためには準備に少し時間がかかる。あすみはそれをテレパシーでかすみに伝えると、かすみは片ひざをついたまま目でうなずき、再び立ち上がった。

「立ったって言う事は、まだ何か見せてくれるのかしら?」

静かに問い掛ける女性の声にかすみが応える。

「目にものを見せてあげるわ!!」

そう言い放つや、身を躍らせて女性に飛びかかると、それまでとは比較にならない程の強烈な斬撃を次々に繰り出した。
自分が攻撃を受けるという事をまったく念頭に置かないこの斬撃は、まさに捨て身の覚悟で挑んでいると言えるだろう。
月の光に照らされて冷え冷えとした輝きを放つかすみの愛刀は、しかし、むなしく空と切るのみだった。
もし、かすみがもう少し注意深く相手の動きを見ていれば、彼女がかすみの攻撃を躱す体捌きが葉子のそれに酷似している事に気がついたかもしれない。

(・・・・・・並の剣士であればこれでもいいのだけれど。)

女性は踊るようにかすみの斬撃を躱すとかすみの後ろに回り込むと、突然彼女の両わきを突然くすぐった。

「きゃはははっ!って何すんのよ!!」

意外な攻撃に動揺しつつも、かすみは鋭く刀を横凪に一閃した。しかし、そんな大ざっぱな攻撃は当然簡単に躱される。

「貴女の剣は形に拘ってるみたいね。それが貴女の剣がお母さんのそれに届かない所以でしょうね。」

「っさいわね!!」

そのような短い会話をかわしながらも、女性はかすみの無意味としか思えないこの攻撃の真意を正確に読み当てていた。
燐と光る美しい赤い瞳には殺気らしきものが宿っていない。この攻撃は自分にダメージを与えるものではなく、時間稼ぎである事は想像に難くない。
迷いの感じられない腕捌き。普段から相当な鍛練をしているのだろう。電光石火の足捌き。それだけであれば刀剣の類いを使用する戦闘能力者の中でもトップレベルだ。
だが。
女性はかすみの斬撃を横に躱すと、今度はかすみが体制を建て直すよりも速くかすみの懐に飛び込んだ。

「こういうのはいかがかしら?」

かすみの目には、女性の手のひらの上に半透明の球状のものがボンヤリと映る。女性はその球状のものをかすみの体に軽く押しあてた。
すると、彼女の手のひらの当たったあたりに凄まじい激痛を感じた瞬間に、かすみは自分の体が宙を舞っている事に気がついた。そして彼女の飛んだ先にはあすみがいた。

「きゃあっ!!」

かわいらしい声をあげてあすみは自分の近くに落ちた姉に駆け寄った。

「お姉ちゃん!しっかりですぅ〜!!」

「あ・・・・あすみ・・・・首尾は?」

ゆっくり起き上がりながらかすみが聞くと

「バッチリですぅ!」

そう言って親指を突き出した。

「どんな魔法がバッチリなのかしら?」

それまでは自分たちの前方に居たはずの相手から、突然後ろから声を掛けられて二人はその場から飛び下がった。

「随分手間を掛けていたみたいねぇ。術式からして・・・・・」

女性は周囲に張り巡らされた呪符陣を見回しながら二人の間を通り抜けると

「この辺りが一番威力があるのかしらね。さあ。何をしていたのかしら?」

女性は、かすみが斬撃で時間稼ぎをしている間にあすみが呪符陣を敷いた辺りに自ら進んで行くと、なんとあすみにその魔法を発動するように促した。
彼女の行動に戸惑いを隠せない二人であったが、この際そんな事は言っていられない。
あすみは胸元で次々と印を結んで行った。
幾つもの印を結ぶたびにあすみを中心にして緩やかな風が舞い上がり、そのためにあすみの髪がゆっくりとなびいている。
そういった光景を見慣れているかすみではあるが、この時に妹が放つ神秘的な美には目を奪われずにはいられない。
やがて広場の石畳や周囲の建物の壁に張られた呪符が青白い光を放ち始めた。

「瘟!」

あすみのこの声とともに呪文が発動しはじめる。呪符陣のほぼ中央に移動した女性の周囲を光りの線が囲み、その線が長方形の形を成した。
女性の足下に小さな炎が立ち昇り、しかし、その炎も徐々に小さくなって行く。

「葉子お姉ちゃん直伝ですぅ!」

彼女は小さく、しかし力強くそう呟くと呪符陣に術式の発動を命じた。

「焔伍之型“小龍乱舞”!」

あすみが良く通る声でそう言い放つと、光の線の囲みの中から空に向かって無数の炎の筋が昇って行った。
その姿はまさに“空翔る龍の群れ”と言っても過言ではない程壮麗であった。
いったん上空高く昇って行った龍の群れは再び地上へ向かって恐るべき速度で降下して行く。そして、女性のいる光の線に囲まれた場所にピンポイントで殺到した。
龍の群れが地面に激突した衝撃は凄まじく、結界を張っているはずのあすみすらもその衝撃波で後方に吹き飛ばされてしまった。
凄まじい閃光と轟音が周囲の建造物の間を駆け抜けて行った。

「あいたたた・・・・・・・」

焔伍之型の喧騒が一段落した頃になって、ようやくかすみが瓦礫の下から這い出て来た。

「イキナリあんな大技使う事ないのに・・・・・・あすみ?」

ようやく立ち上がったかすみは自分の近くに妹の姿が見えない事に気がつき、あわてて周囲を見渡した。
焔伍之型の爆心地と思われる場所から少し離れた場所に倒れている妹の姿を見つけると慌てて駆け寄って声をかける。

「あすみ!大丈夫!?」

かすみが近づくと、あすみは目を回して倒れているだけだった。
数匹のヒヨコが彼女の頭上をくるくると回っている。暫くは気がつかないだろう。

再び炎なす龍の群れが殺到した辺りをかすみはボンヤリと眺め渡した。
周囲十数メートルに渡ってあすみが開放した魔力が炎となって燃え盛っているのが見える。
その威力は葉子が使うそれには到底及ばないものの、その攻撃の凄まじさを物語るには十分な痕跡を残している。
最初に龍が激突したあたりには暗い夜闇の中とはいえ奥まで見通す事のできない深い穴が穿たれていた。
15cmはある分厚い石畳は、まるで板チョコのように砕けたり溶けたりして周囲に散乱している。
周囲に散った小さな破片は、その炭素の含有量からすればあり得ない程の勢いで燃え盛っている。
肝心の術式の中心地点には女性の身長よりもやや高めの、そして太めの炎が青白い光を放ちながら燃えている。
その青白い炎の周囲には熱さを感じる事はないが、燃焼温度自体は4000℃を軽く越えている。触れたら灰も残らず燃え尽きてしまうだろう。

かすみは一人でその青白い炎がゆっくりと消えていくのをじっと見ていたが、やがてその炎の間から緑とも青とも白とも言えない奇妙なものが見え隠れする事に気がついた。
いぶかしく思いながら見ていると、それは人間程の大きさのある花のつぼみのように見える。
一見するとまるで木蓮のつぼみのようにも見えるが、このような巨大な木蓮の花など見た事がない。また、話にも聞いたことがない。かすみの胸中に不安がよぎった。
やがて、その木蓮のつぼみは呼吸するかのように静かに花開いた。そして、その花弁の中心には彼女が無傷で立っていたのである。
息をするのも忘れて驚いているかすみを見つめる彼女の瞳は、既に先ほどのような妖しい紫ではなく、最初に出会った時のような美しいルビー色をしていた。

「びっくりしたわ。まさか焔の術なんてね。」

かすみは言葉もなく立ち尽くしていた。もはや攻撃をする気力すらも失せてしまったのだ。

「ふふっ。スカートの裾が少し焦げちゃった。」

そういって悪戯っぽい微笑を浮かべるとスカートをはたはたと扇ぐように動かした。
チラチラと見えるたおやかな美しい太ももがかすみの目に眩しく写る。
その色香は同じ女性であるにもかかわらず、かすみの心に小さくはない波紋を起こした。
まるで、かすみをイケナイ世界に導いていこうとしているかのようである。
現に、今も自分を制する気持ちをかすみが持っていなければ、その白いスカートをめくりあげてしまいたいという堪え難い渇望に負けてしまう事だろう。
なかば恍惚の表情で自分を見ている視線に女性は気づき、ニッコリと微笑んだ。
かすみは急いで目をそらしたが、頬が上気しているのが自分でも良く分かる。

「それに貴女の攻撃もなかなか見事だったわよ。隙らしい隙を見せずに連撃を繰り出すなんてなかなか出来ることじゃないわ。」

女性にそう言われて顔をあげたかすみは、再び鋭い視線を女性に向けた。しかし、当の女性は南西の方をじっと見ていた。

「私もそろそろ行かなくちゃ・・・・・結構楽しかったわ。」

女性はそう言うと、突然かすみに背を向けて歩き始めた。が、すぐに立ち止まって振り返ると

「そうだわ。今日付き合ってもらったお礼にこれをあげる。」

そう言うと、女性は自らの胸につけているブローチをはずしてかすみに差し出した。かすみはそれを無意識に受け取るとそのブローチをのぞき込んだ。
本当の闇の色がそこにあった。表面は綺麗に磨き込まれているにも係わらずつやらしい光は一切無い。
周囲からの光をブローチ自体が吸い取ってしまっているかのようで、美し過ぎるその表面には周囲の風景も、星の光りさえも写っていなかった。

「これはこんな闇色をしているけれど、私の家の庭にある泉が夜の光を集めているのを凝縮したものなの。」

神秘的な暗い光を放ち、それでいて輝く事のない黒い瑪瑙のブローチに魅入られたように見つめているかすみに女性はそう言った。

「今回の件で貴女が果たす役割はきっと小さくはないと思うの。もし、貴女の周りを光をも通さない闇が覆う時、これが貴女を照らす光になりますように。」

そう言うと、女性はかすみを突然抱き寄せるとその唇を奪った。
予期せぬ出来事で面食らったかすみだったが、慌てて女性を自分から引きはなそうとする。
だが、女性の力が思ったより強く引き離すことができない。

「ん・・・うぅ・・・ん・・・・」

女性の舌が、かすみの歯茎の裏側、舌裏、舌の裏スジを丹念に愛撫する。
最初こそ抵抗していたかすみだったが、やがて抗う事をやめ、女性の舌遣いに応えるかのように舌を動かし始めた。
ふと、かすみは女性の右手が自分の左胸を優しくまさぐっているのに気がついた。
その手のあまりの冷たさに最初こそ身を震わせたが、やがてその手の動きに奇妙な安心感と不安感が去来するのを感じた。
随分と長い事舌を絡めあって、ゆっくりと唇を離す。
二人の唇をうっすらと銀色の筋が名残惜しそうにつないだまま輝いていた。

「さあ。もう行かなくっちゃ。貴女も早くホテルに戻らないと明日大変なんでしょ?」

唇を離した後も夢見心地でいたかすみは、その言葉を聞いて我に返り自分の腕時計を見た。時計の針は19:30を指している。

「ゲッ!まずい!!急いで帰んなきゃ!!」

そう言うと、かすみは足下で幸せそうな寝顔をしている妹を揺さぶった。

「あすみ!起きなさい!!」

しかし、当のあすみは

「えへへ・・・もうお腹いっぱいですぅ・・・」

完全に夢の世界であった。

「それじゃあ、私もう行くわね。おやすみなさい。」

女性はそう言うと踵を返し、夜の町を南に向かって歩き始めた。

「待って!貴女の名前は!?」

かすみのその問い掛けに、女性は立ち止まった。

「私の名前・・・・・・・」

振り返る事なく小さく女性はそう呟いた。

「私の名前は・・・・・如月沙織。」

そう言うと、女性は再び歩きはじめた。

「如月・・・・・・沙織・・・・・?」

その名前には聞き覚えがあった。
その細い後ろ姿がうっすらと遠ざかって行く。

『世の中には私が全力でかからなければならない相手もいるわ。』

その時は信じる事のできなかった母親の言葉がかすみの脳裏をかすめる。
やがてその姿は夜の町並みに吸い込まれて行った。

『気をつけて。相手がそう名乗ったら何をおいても自分の身の安全を最優先に考えなさい。』

出発前に社長が言った言葉がかすみの思考回路に浮かんで来た。
微かに香るその残り香が姿の見えぬその人の存在をハッキリと浮かび上がらせる。

『この人物が動いている可能性があるのよ。』

そう。その名は如月沙織。六魔焔の第二の将。今は無き四門会の西方・白虎門の守護者。
無限の生命力と魔力を合わせ持つと言われる史上最強の『死人傀儡師(ネクロマンサー)』人呼んで『冥界女帝』
かすみは身内から戦慄すべきものが体を駆け巡るのを感じた。それは恐怖以外の何者でもなかった。
最初に出会った時と同じ、コツコツという静かな靴音が少しずつ遠ざかって行くのを聞きながら、かすみはいつまでも立ち尽くしていた。
彼女の足下には何も知らない妹のあすみが、まだ幸せな笑顔を浮かべたまま幸福な夢の続きを楽しんでいる。

そして、月は黙したまま夜闇に浮かんでいる。
その様はまさに海に浮かぶ一槽の小舟のようだ。
その美しい白銀色の光は最初に顔を出した時とまったく同じ。
しかし、この季節にしては見るものに薄ら寒く感じさせる刺すような光を放っていた。
1-8 予想外 了
闇の裏側にありし者

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