闇の裏側にありし者
我が弟よ。我は闇の全てを統べ
我が兄よ。我は光の全てを統べる
偉大なる兄弟よ。我らの力は全てに至りて
我らが長上たる父の意志で満たす




夜闇に浮かぶ月を眺めている女性がいる。やや小高い丘から街を見下ろしながら。
無言のまま虚ろな瞳で眺め渡す先には、愛しているにも拘わらず共に暮らす事のできない人と、その人が最も愛している人がそれぞれ窮地に陥っているのが映る。
刹那、鬱蒼とした小暗い闇なす影より躍動する人物の姿が現れ、やがて消えた。
次に彼女の目に映ったのは近しい親族の優しく、恐ろしい影だった。




広島港の忘れられた建物の正面にある広場では死闘が続いていた。
いや、もはや闘いとは言わないのではないだろうか。それ程までに一方的であった。
赤い美しいワンピースを着た女性が地面に何度も叩きつけられながら広場の片隅に飛ばされている。
もはや彼女に意識があるかもよくわからない。

「さすがにタフだな。まだ立ち上がるとはね。」

意識も絶え絶えになりながらも、戦闘能力者として、あるいは格闘家の本能でワンピースの女性、葉子は立ち上がった。
しかし、すでに立つ事さえ難しい程のダメージを受けている。無理もないだろう。

おそるべき『闇なす影』こと、ヒュドラ・7使徒の一人カルマ・カルキリアが作り出した葉子の影は、まさに葉子自身の能力をほぼ完璧にコピーした戦闘マシーンであった。
その動きは葉子のそれに酷似している上、殺気を放たないため攻撃を予測するのが難しい。
そして、その影と葉子の動きを見越した上での“魔剣士”鵜飼政道の効果的な斬撃が葉子をさらに苦しめた。
まるで詰め将棋のように鮮やかに動きを封じてくる二人の攻撃は、徐々に葉子を身体的にも精神的にも追い込んだ。
加えて、影に攻撃を加えようものなら葉子自身にその衝撃と威力が返って来る。
葉子は影の攻撃に対してはただただ防戦のみを強いられ、おまけに政道の斬撃にも注意を払わなければならない。
先程、魔方陣の奥義『太極図』によってその能力の殆どを封じられているとはいえ、それでも政道の斬撃は十分に驚異であり、またその男の手にある剣の威力を葉子は知っているつもりでいた。
もっとも、実際にはその剣の本当の威力と、神にをも死を賜る恐るべき効果については知るよしもなかったが。

「そうだ。良いことを思いついたぜ。おい。ちょっとこっち向きな。」

渇いた、聞いている人間の全てが戦慄すべき恐怖に満たされるような殺気の込もった声で政道が影に促すと、葉子の影はその命令に素直に従った。
息を切らせながら葉子は、この敵が何をしようとしているのかをいぶかりながらも見ている。

「素直だな。本人もこうならいいのによ。そらっ!」

そう言い放つや政道は、自身の持っている美しい白銀色の剣を夜空にかざすと、それを葉子の影めがけて振り下ろした。

「!!」

途端に葉子の胸部に激痛が走り、目の前には鮮血が飛び散った。何が起こったはすぐに分かる。
影のダメージが葉子に返ると言うなら、その影を攻撃すればいいのである。あまりにも単純過ぎるため今まで気がつかなかったのだ。
赤いワンピースの胸がはだけ、葉子のたわわな右の乳房が月光の下に露になった。その白い美しい丘の頂上には可憐な薄いピンク色の乳輪が小さな花のように広がり、その中央部には食べごろを迎えたさくらんぼのようなかわいらしい乳首がのっている。
その白い美しい乳房を覆いかぶさるかのように深紅の彼女の血が鮮やか染めぬいた。
それはまるで赤い川が白い頂上から行く筋もの流れとなってたばしっているかのようであった。

仰向けに倒れ、動く事のできない葉子に政道と葉子の影が近づいて来る。微笑を浮かべながら葉子を見下ろすと

「さすがにここまで追い込まれちゃ、さっきの魔方陣を維持する事はできねえらしいな。自分でも惚れ惚れするような見事な太刀筋だったぜ。あんたに見せられなかったのが残念だがな。」

そういうと、政道は影に葉子を立たせるように促した。影が両わきを抱えて葉子を立たせると、政道は感嘆のため息を漏らした。
生来の美しさ故か、闘いでついた傷は殆ど気にかからず、むしろ鮮血に染まった胸元などは凄艶であった。
小暗い闇に浮かぶ葉子の肢体は暗闇の中に一条の光が射し込んだかのように眩しく政道に映る。
この体を今から自分の自由にできる。そう考えた瞬間に一物の硬さが増すのは政道だけではないだろう。

「やっとこさ俺のものになるってわけか。思えば長ぇ道のりだったな。初めて会った時から俺の方は惚れてたってのによ。」

その政道の言葉を耳にした葉子は、その鋭い眼力で射殺すかのように政道を睨みつけた。息も絶え絶えで、支えがなければ立っている事の出来ない筈の葉子のその迫力に政道は思わずたじろいだ。

「恐ろしい眼力ですわね。でも、それももはや何の意味も持ちませんが。」

冷たく無慈悲な声でカルマはそう言い放った。その美しい顔には嘲笑が浮かんでいる。
政道のやや後方に立っていたカルマは影が葉子を立たせた時、その様子を憎々しげに見ていた。
自分には無い強さと、自分とは種類の違う美しさを持った葉子に対する嫉妬心が彼女の中で燻り始めたのだ。
さらに、先程聡があっさりと自分の技に屈してしまったのでフラストレーションが溜まっていた事も手伝って、彼女の行動や言動はいつも以上に辛辣であった。

「さて、ようやくお楽しみの時間になったわけだ。ワリィがその辺に座って待っててくれよ。」

政道は振り返るとカルマにそう言った。既に怒張した政道の股間は黒い革パンツを内側から破るかのような勢いで逸物がいきり立っているのがわかる。
カルマはその股間に視線を落として、少し冷や汗をかきながら

「できるだけ手早くお願いしますわ。私の方はなんの楽しみもないんですから。」

そう言うと、少し離れた所に移動した。

政道は葉子の方に向き直ると、剣を鞘に収め、まだ服の中に収まっている左の乳房を鷲掴みにする。その遠慮のない行為と掴んだ手の力があまりに強かったため、葉子はうめき声をあげた。

「夢にまで見たんだぜ・・・・・あんたの胸をこんな風に弄ぶ日をよ。」

そう言うと、政道は葉子の左胸を覆っているワンピースを破り捨てた。
露になった両方の乳房を眺めながら満腔の笑みを浮かべている政道の左のこめかみに、なんと葉子の右足が唸りをあげて襲いかかった。
突然の事で対処できずにまともに蹴りを喰らってしまった政道は思わず片ひざを地面についた。
その低くなった後頭部めがけて葉子は左足を振り下ろしたが、その足は政道に左腕に阻止されてしまった。

「いてて・・・・まさかまだこんな力が残ってたとはな。しかし、もうそれ程効かねーよ。」

そう言うと、政道は目にも見えぬ速さで腰間の剣に手をかけると、音もなく剣を抜き放ち、葉子の右足の内またを軽くひと撫でした。
剣身が触れたとは思えないにも係わらず、葉子の左の内ももには鮮血が飛び散った。
振り上げた剣によってワンピースの短すぎると思われるスカートは切り裂かれ、聡が『銀の雫』で指摘した葉子のパンティーが露になった。

「なるほど。これは確かに少女シュミだな・・・・」

そう言って政道は苦笑いを浮かべた。

「とりあえずこれでもう蹴りなんぞ出せねぇだろ。それにしても、随分と足癖が悪ぃんだな。」

満足げな政道をよそに、その側で腕を組んでその様子を見ていたカルマは

「切り落とさないんですね。」

酷くさめた言葉でそう言うと、その事が不満であるという事を露骨に態度で示した。

「前に葉子ちゃんの左腕をちょん切った時にあんまり血が飛び散らなかったからな。切り落とすよりは斬る方が血が派手に散っていいんだよ。血が噴き出すギリギリの傷程この世には美しいものはねぇからな。それに、この方が犯ったあとの楽しみもあるだろう?」

立ち上がりながら、そういって政道は凄絶な笑みを浮かべた。

「なるほど。犯った後は殺るわけですね。でしたらそれは私にやらせてもらいたいですわね。何せ私は・・・・・うあああぁん!!」

話の途中でカルマはいきなり嬌声をあげてその場に倒れ込み、彼女によって使役されていた影も突然姿を消した。
支えをなくしてその場に崩れ落ちた葉子は、体中に痛みを感じながら何が起こったか確認しようとなんとか顔だけをカルマの方に向ける。すると!

「バ・・・・バカな・・・・なんで貴様が!」

驚きの声をあげた政道の視線の先には、カルマの影から人間の上半身だけが浮かび上がっていた。まるで、地面の中から突然生えて来たかのようである。
その派手で趣味の悪い赤いTシャツはどうやら蛍光色だったようで、ほとんど真っ暗と言ってもよいこの広場の中でその形だけが無意味に目立っている。
ボサボサの手入れをしているとは到底思えない髪の毛にはいく筋か白いものが混じっているのが見てとれる。
その姿は葉子が大通りで会った、政道が『銀の雫』で一瞥した、カルマが暗い旧道で影の中に葬り去ったはずの男の姿であった。

「すげぇの・・・・根元まで入っていったぞ・・・・スカートの上からなのに。」

それは紛れもなく蓮城聡その人であった。そして、彼の視線の先には自分の指が映っている。
両の手を硬く握り、その両方の手の人さし指を立たその構えは、俗にいう「カンチョー」の構えである。

「しかし、結構な威力じゃね。『3年殺し』の異名は伊達ぢゃないの。木の葉隠れの里のエリート上忍をして『秘伝の技』と言わしめるだけの事はある。というわけで。」

聡はさらに中指を立て、合計四本の指で再びカルマのアヌスに襲いかかった。
聡の指が自分のアヌスを攻撃するたびにカルマは体をのけ反らせて嬌声をあげた。
定規で計ったかのように神経質なまでに見事に切りそろえられたカルマの美しい闇色に近い青い髪が乱れている。
数度の突撃を受け、恍惚の表情を浮かべ頬を上気させながら達してぐったりとしているカルマを見ながら、聡は呟いた。

「すげぇな。四本にしても根元まで入った。アナル専門なんか?時間があれば色々とじっくりやってみたい事があるが・・・・・・。」

そう言うと、聡は葉子の方に視線を送った。
その胸元と内股の傷に目を向けて一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑顔で

「やあ。暫く見ん間にエロいナリになったね。ま、少し待ってね。あ、よっこらせの〜・・・」

そう言うと、妙な掛け声を出しながら聡が地面から完全に姿を現した。
暫くその様子を唖然とした表情で見ていた政道が不敵な笑みを浮かべて聡に声をかける。

「ほお。わざわざのご登場というわけか。だが、本当にどうやって来たんだ?」

政道は最初に抱いた疑問を聡にぶつけた。それも無理からぬ事だろう。
カルマ・カルキリアの『闇なす影』の名は伊達ではない。
影を使役する『影傀儡』や、葉子の張った結界をかい潜って中に侵入した『影渡り』は、カルキリア家の血筋にしか現在は伝わっていない。まさに『秘伝の技』というやつなのだ。
葉子の『焔』とほぼ同じと考えて差し支えないだろう。
修練等でそう簡単に会得できるものではない。
それは、その技を継承する一族が高めに高めた本当の意味での『奥義』なのだ。

「別に。あのアナル姉ちゃんと同じ方法で来ただけよね。コツを覚えたら簡単だったよ。もっとも、出てくるのには往生したがね。」

聡の説明に政道は戦慄した。先の通り、本来であればカルキリア家の者にしか伝わっていない術を、聡は一度見た(あるいは受けた)だけで覚えてしまったと言うのだ。

「・・・・・信じがたいが、どうやらそういう事のようだな。驚嘆に値するよ・・・・・で、わざわざ殺されに出てきたってわけか。そのまま隠れてりゃ拾った命を落とさずに済んだものをよ。」

驚きの念をおくびも見せず、政道は皮肉な笑みを浮かべてそう言った。しかし聡は

「殺す?あんたが?わしをかね?こりゃぁ面白い!!」

そう言うと、先○者を初めて見た人のように笑い出した。まさに腹を抱えて涙を浮かべてである。
それは相当長い時間続いた。数度の息継ぎをしたものの、絶え間なく聡はそのバカ声で笑い続けている。
それまで余裕の表情を浮かべていた政道だったが、あまりに長いこと聡が笑っているのでだんだんイラついてきた。

「何が可笑しいっ!!」

それまでの余裕そうな声音も表情も消して政道がそう怒鳴りつける。しかし、聡の方はそれでも暫く笑いが止まらずに息をきらせてまだ笑い続けた。

「・・・・・・いや、失礼した。確かにあんたならいずれわしを殺す程の使い手になるかもしれん。じゃが、バッタモンの黒い宝石をつけただけのナマクラでわしをなます斬りじゃと。そりゃ、その剣が本来の威力をもっていればわしもこげに笑ったりせんよ。」

笑いを抑え、平静に戻った聡がこう言うのを聞いて、政道は複雑な表情を浮かべた。

「本来の威力を持っていない事を知っているだと?」

政道の剣【グラムバルド】は、この世界の黎明期を考察する学問、古代神代学の中の『武器・防具における論考』にその名が明記されている。
現在伝えられているその剣は柄の部分にある台座に、ある『宝玉』をはめ込まない限りその切れ味はともかく、本来の効果を得る事が出来ないとされている。
その論考によれば、今解明されている神々の時代よりもはるか昔に作られた『黒瑪瑙』なのではないかと考えられているらしい。
政道の手にある剣の台座には今の時代の黒瑪瑙がつけられているだけであった。

「・・・・・これもウチの組織の中で研究したものだってのによ・・・・・」

政道がこの剣を携えてヒュドラに参加した後、長い時間をかけてこの組織はその研究技術の全てをその剣の台座に収まる宝玉の研究に傾けた。そして、ようやく現在嵌め込まれている黒瑪瑙を抽出し、そのいくばくかの力を取り戻しているのだ。

神代学の中で神代の最後を告げる『メギド王の反逆』の後アスターテ、つまり現在で言う所のアトランティスから逃れた者の末裔である政道は、その剣の正当な継承者としての知識によってこの剣が未だ本来の威力を取り戻していない事は良く知っている。
しかし、その事はヒュドラ上層部と自分しか知らぬ筈である。

「おまけに、今の葉子ちゃん程度に苦戦する、未熟者のあんたじゃあねぇ・・・・・」

聡と政道の会話の意味が葉子にはわからなかった。斬撃を受けた葉子はその剣の鋭過ぎる切れ味を良く知っている。
薄刀の切れ味と斧が威力を合わせ持つ無双の剣。それが葉子の印象だった。
その凄まじい威力をもった剣が本来の威力を失っていると言う。葉子は身震いを禁じえなかった。
さらに、政道はこの世界でも有数の剣の使い手として業界では名うての退魔師である。剣の腕において彼を凌駕しえるのは遮那王だけであるという事はこの世界では通説であった。しかし、その政道を聡は『未熟者』と言い放ったのだから、それは政道本人は当然として、彼の力量を良く知っている葉子にとっても驚くべき出来事であった。
しかも、そう言った人物は業界でも名の知れた人物ならばともかく、ただのイナカ者に過ぎないのだ。
言われた当人が大層腹を立てるという事はまさに火を見るより明らかだった。

「この俺が未熟者だと?!」

怒気と殺気の入り交じった強い口調で政道が聡に怒鳴った。

「そりゃぁねぇ・・・・修業の最中に隙をついて、師匠であるあんたの母ちゃんに斬りつけて、おまけに犯して喰った奴じゃけぇ。隙を見せた母ちゃんも母ちゃんじゃが、折角じゃけえあんたの流派『八寡霧天剣』の奥義を習得してからでも遅く無かったろうに・・・・・・一つ聞きたいが、葉子ちゃんも喰う気だったん?」

これには葉子も絶句した。政道と葉子が始めて対峙したのは8年前。
政道が師である母親を殺したその事件だったのだ。
当時葉子は15歳で対人における現場は始めてであった。
この事件の後、政道はヒュドラに身を寄せる事となったのだが、この事件自体は業界では単なる「事件」に過ぎず、世間にはそれ程知られている出来事ではない。
にも拘わらず聡がその事を知っているという事実は葉子に取っては本当に驚きだった。

「面白れぇ。だったら喰らいな!ナマクラと未熟者の剣をよ!!」

もう一人の事件の当事者である政道は、しかし怒り心頭で聡に襲いかかった。
光すらも引き離されるかのような動きで政道は聡に斬撃を加える。その振り下ろされる剣の一撃は、先程の闘いの中で葉子が受けた剣撃のそれを遥かに上回るものであった。
その威力は、たとえ葉子が全神経と魔力を集中して、宝貝合金でできている左腕でガードしてもハサミが紙を切るかの如く切り裂かれたに違いない。
だが、聡はその攻撃を避けもせず、また防御もしなかった。にもかかわらず、政道の剣は聡を切り裂く事無く左肩で止まってしまったのだ。

「肩コリのツボを押してくれるつもりだったのかね?じゃったらもう少し外側じゃなかろうか。」

自らの左肩に不自然に乗っている名剣【グラムバルド】を指さしながら聡がそう言った。

「・・・・バカな・・・・・」

聡に斬りつけた姿勢のまま政道は固まってしまった。葉子も驚きのあまり息を呑んだ。あまりにも予想外の出来事であったからである。

「斬れんじゃろね。そのナマクラじゃ。遮那王ならまだしも、あんた程度の腕ではわしを斬るのは無理よ。」

聡はまるで従業員を叱る工事現場の監督官のような口調で政道にそう言うと、右手を政道の額の前にかざした。
中指を親指の腹に引っかけて引き絞るその様はまさに『デコピン』の構えである。

「じゃあ、あんたが喰らえ。」

そうのんびりと言うと、聡の中指が政道の額を打ち抜いた。
唸りをあげて政道の額に聡の中指が激突すると、恐るべき勢いで政道は後方にはじき飛ばされてしまった。
その様はまるで大型トラックにノーブレーキで激突された人のようである。
数回地面に叩きつけられながら政道は体勢を建て直すと苦々しそうな表情で聡を睨みつけた。その額には鮮血が流れ落ちている。
これは驚くべき事であるにも拘わらず、葉子と政道はまだ気がついてはいなかった。
先程葉子と政道が闘った時、葉子の凄まじいまでの打撃を受けながら政道が負った傷は“太極図”によってその能力を封じ込められるまでは擦り傷たった一つだったのだ。
そして、今はその“太極図”は発動していないのである。

「テ・・・テメェ!」

憎々しそうにそう言い放つと、政道は自らの剣を両手で持つと顔の正面にかざした。
白銀色の剣の周囲に再び雷龍の群れが宿り始めたが、その規模と威力は、先程葉子に放ったそれとは比較にならない。
堪え難き光の渦と凄まじい突風は壮麗で、それでいて恐ろしい地獄絵図のようである。

「随分コケにしてくれるじゃねぇか・・・・・あの世で後悔するんだな!!」

そう怒鳴ると、政道は己の剣を聡めがけて振り下ろした。葉子との闘いの時と違い、その剣は正確無比であった。
先程とは比べ物にならない威力の『雷神の鉄槌』がうなりをあげて聡に襲いかかる。
その壮麗な様を眺めていた聡は

「行くわよぉ〜♪」

黄色い声で気色の悪いセリフを吐くと、両手を自分の前で組み、腰を落として構えた。いわゆるバレーボールのレシーブの構えだ。
見るも恐ろしい巨大な雷龍の群れがピンポイントで間抜けなポーズの聡に殺到する。
少し離れた場所にいる葉子ですらその様子を肉眼で捉える事は殆どできない。余りにも眩しく、そしてその技の質量と威力によって周囲の空間が歪んでしまっているからである。

先程の威力を考えれば、その後に起こる事を推量する事はそれ程難しくはないだろう。
攻撃範囲を絞り、ある程度威力を抑えて放たれたその技ですら、世界全土に恐るべき被害をまき散らしている。
今回のそれも同じく、それ以上に深刻な被害をもたらすであろう事は誰の目にもあきらかだ。にも拘わらずである。雷龍の群れは聡に激突するや否や、その聡の立っていた場所のほぼ真上の方向に向きを転じたのである。
もし、この場に鷹頭王がいてその気があれば、彼の秘術『天蚤眼の術』(てんそうがんのじゅつ)によって雷龍の群れの行く先をどこまでも見る事ができたであろう。
『神の視点』と言っても過言ではない彼の目を持ってすれば、宇宙空間にぽっかりと浮かぶ月の側を通過した雷龍の群れは太陽系を離れ、人類の知る事の無い銀河へ向かって大いなる旅路へと向かって行くのを見ることが出来たのである。

真っ暗な夜の闇を昇って行く雷龍の群れをポカーンと見上げている葉子には、何が起こったのか定かには分からなかった。
ただ、あの恐るべき『雷神の鉄槌』が、なぜか聡には通じなかった事だけはハッキリと分かる。
そんな葉子の耳に政道がもらした言葉が聞こえてきた。

「・・・な・・・・何が起こったってんだ・・・・・?」

もっともな意見である。聡が何かをしたのは間違いないが、とてもあれだけの威力の攻撃をさばくために必要な手だてを講じているようには思えない。
まさにかすっただけでも即死の大技だった筈である。
しかし、当の聡は

「ナイスレシーブじゃね。バレーボール全日本代表のリベロでもああは行くまいて。しかし、大した威力ぢゃなぁの。鷹頭王ならともかく、わしに返されるようじゃぁね。」

事も無げにサラッとそう言い放った。そのセリフを聞いた葉子の背筋に寒いものが走る。
見ているだけでも恐ろしさに身を竦めずにはいられないような凄まじい攻撃を意に介さず、あまつさえ「たいした事ない。」と言い放ったのだ。
これを恐れずに何を恐れると言うのか。
しかし、技を放った当人である政道はその事に注意を払う事無く、むしろさらなる憤怒にその顔を歪めている。

「・・・・・思ったよりはやるらしいな。なら、これならどうだ!」

再び美しいその剣身を月光に輝かせながら政道が剣をかざすと、その剣身の周囲に蛍火のような白っぽい光が集まり始めた。
青白くぼんやりと明滅する蛍火はやがてハッキリと白から薄い青に。そして金色に変化して行った。
金色の光はやがて金色の炎となって剣身を覆い、その明るさのためまるで昼の日の光を浴びているかの様に周囲を照らしだす。
月の放つ微かな光の元でほの暗く見えていた風景が一瞬にして昼の光の下にいるかのような風景に変わるさまは、まさに異常であり異様であった。

「それは瞳の!!」

葉子の口から驚きの声が漏れた。彼女が口にしたその名前は彼女にとって特別であった。
藤倉瞳は葉子の実の妹であり、六魔焔の当主、栗林勇二の直弟子であったからだ。

「そうさ!あの嬢ちゃんの必殺技だ!!」

そう言うや、政道は聡めがけて再びその剣を振り下ろした。金色の炎は踊り狂うかのように聡に殺到し、その周囲を紅煉の地獄で埋め尽くした。

「獄熾炎天(ごくしえんてん)の魔技“楼花煉炎”(おうかれんえん)だ。魂まで焼き尽くしてやるぜ!」

『獄熾炎天』とは藤倉瞳の二つ名である。その名は四門会がまだ存在していた頃から業界では知れ渡っていた。
彼女はいわゆる“天才”で、その高い能力は彼女が5歳の頃から開眼し、以降四門会の活動においては大変重宝がられた。
その溢れる才能ゆえ勇二の目に止まり、“四門会崩壊”の折りも彼の片腕としてその脅威を振りまいた。

その技『桜花煉炎』は体を焼き尽くした後も魂を燃やし続け、永劫に癒える事のない苦しみを相手に強いる恐るべき技であった。
栗林一派に闘いを挑んだ殆どの四門会の門弟がその恐るべき炎で焼かれている。

葉子は絶望して金色の炎を見ていた。その炎は全く熱を感じる事はないが、その燃焼温度は数億度を越え、さらに、先の通り体が焼かれて朽ち果てようとも、死した者の魂にも休まる事のない苦痛を与え続ける技なのだ。
直接のダメージは先の『雷神の鉄槌』と大差は無く、攻撃範囲はむしろ狭いのだが、その威力はというか恐ろしさは先程のそれを遥かに上回るのである。
舞い散る桜の花びらのように美しい火の粉を巻き上げながら燃え盛る金色の炎を眺めながら政道は

「さすがにこいつにの威力には耐えられんようだな・・・・大口叩いた事をあの世でせいぜい後悔するがいいぜ。もっとも、焼かれる苦しみのせいでそれどころじゃ無いかもな。さーて。お楽しみの続きと行こうか。」

そう言うと葉子の方を振り返りニヤリと笑った。見るも嫌な恐ろしい笑みであった。
殆ど動かない体で座ったままで後ずさりをしながら葉子は、この絶望的な状況に殆ど希望を失ってしまっていた。
しかし!

「ムガ〜〜〜〜〜!!!!」

到底気合いの入っているとは思えない掛け声を発して気合い一閃、聡は政道の放った“桜花煉炎”の金色の炎を消し飛ばしてしまった。
この時の政道の表情を葉子は後になっても忘れる事はなかった。《驚愕》と言う言葉では表現できないような表情を浮かべていたのである。
そして、おそらくそれは葉子の表情にも浮かんでいたであろう。まさか、この攻撃すらも通用しないとは思ってもみなかったのである。

自分の服の裾を手で払いながら

「今・・・・・何かしたかね?」

不敵な笑みを浮かべて聡は政道にそう言った。政道はよろめきながら一歩後ずさりすると

「何者なんだ・・・・テメェは・・・・・・」

唇をわななかせながらようやくその言葉を搾り出した。

「わし?わしはただのイナカモノの一零細企業の平社員よね。小学校の頃ウンコが我慢できんで、その辺の草むらに隠れて野グソしてたのを美咲ちゃんに見つかって・・・・・・って何言わすんぢゃい!!」

聞かれもしない事を勝手に喋って、一人でツっこんでいる聡を見て、政道は唖然としている。が、すぐに元の不敵な表情に戻ると

「参ったよ。まさかあれ程の攻撃にも係わらずダメージを与えるどころか、かすり傷程度も作れねぇなんてな。」

その余裕の表情に、それまで笑顔を浮かべていた聡がやや真剣な表情になった。

「・・・・・この上まだ闘うのかね?時間の無駄だと思うが。」

そう言いながらも聡は政道の次の行動を窺っている。

「正直驚いたぜ。あんたがここまでの使い手とは思わなかったからな。だが、これで最後だ。」

そう言うと、政道は無造作に自らの剣を振り上げた。その所作はそれまでとは違い、単に次の攻撃のために、剣を振り上げているだけの様に見えた。

斬!!

と音が聞こえたように聡は感じた。そして、次の瞬間には左足に何かが当たったように感じた。
何だろうといぶかって自らの足下に視線を下ろした聡の視界に斬り落とされた腕が見えた。それは聡自身の左腕であった。

「・・・・な・・・・・なんだと・・・・・」

聡からその余裕の表情がたちまち消え去り、驚愕と脂汗が浮かんできた。

「どうだ?空間ごと腕を斬り落とされた気分はよ?」

嘲笑をその表情に浮かべながら政道が嘲るかのように聡に言い放った。

「・・う・・・腕が・・・・わしの・・・・うわぁぁぁぁ〜〜〜〜〜!!!」

それまで完全に政道を圧倒し、自らが直接攻撃らしい攻撃をする事なく政道の攻撃を全て跳ね返して精神的に追いつめていた聡が、今度は逆に取り乱している。
葉子は考えた。おそらく聡はそれまでに見せた圧倒的な(主として防御力)力量で相手を追いつめる闘い方で勝って来たのであろう。
それが、今回初めて腕を斬られるようなダメージを負わされてしまったのである。
そういった経験がないため、完全に取り乱してしまっているのだ。
おそらく、普通に闘っていたのであれば聡は政道に勝っていただろう。しかし、聡は自分の技量に慢心し、政道にとどめを刺す事無く、むしろ遊んでいた。
葉子の脳裏に「例え自分が圧倒的優位に立とうと、気を緩めてはいけない。むしろ、勝てると確信した時こそ油断をするな。」と師であるハリーに言われ続けた言葉が浮かんできた。
この言葉を闘いに入る前の聡に言う事ができたなら・・・・・・
葉子はそう考えたが今となっては後の祭りである。それに、仮にそう伝える機会があったとしても、己の力量に自惚れている者の耳にはそういった忠言は小うるさい説教にしか思えないだろう。
結局の所、同じような結果を導き出してしまう事は自明のことだった。

「ザマぁねえな!人をさんざんおちょくった事を後悔しやがれ!!」

今度は政道が高笑いする番であった。左の上腕部から下を斬り落とされ、残った腕を月にかざすかのように上に掲げながらわめいている聡を、葉子はただ見ているしかなかった。ところが

「うわぁぁぁぁ〜〜〜〜〜・・・ってなぁんちゃって〜♪」

そう言うと聡は、逆に嘲るような笑みを浮かべた。政道の笑いは凍りつき、葉子は唖然として聡を凝視する。
そんな二人を嘲笑うかのように聡は首をゆっくりと回すと、その首を右後方に傾けたまま、まるで見下ろすかのような目線で政道を睨みつけた。

「やれやれ。バカぢゃなかろうか。空間を切り裂く能力があるのには驚いたが、この程度でわしに勝ったと思うとはねぇ。」

そう言うと、聡は再び首を元の位置に戻すと腰を落とすと左腕に力を込め始めた。聡の左上腕の血管が不気味に浮き上がってくるのが葉子の網膜に焼き付いた。
暫くすると、斬り落とされた腕の断面が波打ち始め、次の瞬間には傷口から腕が飛びだした。
さながら、切れてしまったトカゲの尻尾が生えてくるさまを早回しで見せられたかのようである。
さらに、もし政道と葉子のどちらか一方がもう少し聡の左腕の傷口を見ていたなら・・・・
その出血量のあまりの少なさに気がついた事だろう。

「ふぅ・・・・さて。これで振りだしじゃね。」

そう言うと、聡は政道の方に向き直った。聡の再生した左腕は、今まさに産み落とされた子鹿のように薄い膜で覆われ、その周囲からは体液が滴り落ちている。
聡はそれを物憂そうに腕を振って振り払うと、新しく生えて来た腕の調子を見るかのように2、3度腕を回したり、手を握ったり開いたりして感触を確かめた。
政道はさすがに驚きを隠せない様子だったが

「バカヤローが!何度再生しても同じ事だ!!」

そう言うと今度は剣を複数回振り回した。先程と同じように一見無造作に剣を振るう事によって空間を断裂され、聡を切り刻むつもりなのである。
しかし、当の聡はその場でヘタクソなダンスでも踊るかのように右へ左へステップしたり、体を上下に動かしたりしている。
葉子はその二人の、高度な闘いにしてはあまり緊迫感の無い動きをボンヤリと見ていたが、やがて聡の後方にあった植え込みやそのさらに後ろにあった建設中の建物がバラバラに崩れ落ちるのを見てまた驚嘆した。

「バカな!光も音もない空間の切れ目をどうやって・・・・」

もはや政道の表情には驚嘆も驚愕も通り越して、明らかに恐怖の紋が浮かんで見えるのが見てとれる。おそらく今の攻撃が最後の切り札だったのだろう。
頭をポリポリと掻きながら聡は

「いやはや。ケーキを切るんにゃ便利な技じゃね。ただ、あんたはイマジネーションが足らん。剣を振り回さんと自分の斬撃のイメージと空間の断裂が重ならんのじゃろ?そんなもん、切っ先を見ればある程度は見切れるさね。」

剣を持ったままガクガクと震えている政道にそう言い放った。

「おまけに、未熟者のあんたは殺気を完全に消し去る事ができんらしいね。よう見たら白々とあんたの殺気が明滅するのが見える。よけるのはワケないよ。実際。」

やれやれといった表情で聡は両手を広げてサッパリといったジェスチャーをする。政道の表情にはもはや敗北感と恐怖しか見てとれなかった。

「さてと。ボチボチ手は尽きたかね?」

そう言うと聡は恐ろしい笑みを浮かべた。
正面からその表情を見ているわけではない葉子にですら、その笑みの意図する事の恐ろしさがありありとわかる。
それを正面で見据えていた政道の恐怖たるや筆舌に堪えないものであった。

「バ・・・・バケモンだ・・・・・・・」

恐怖に唇をわななかせながら、政道はようやくこの言葉を搾り出した。
化け物。この男のこれまでの闘いっぷりをこれほど的確に表現する言葉は無いだろう。陳腐で使い古された言葉であるにしてもである。

政道がそう言った瞬間、聡はそれまでに見せた事のない悲しげな表情を一瞬見せた。
恐怖心のみが心を満たしている政道にはそれは見て取る事ができなかったが、その瞬きさえも許さぬ一瞬の聡の表情の変化を葉子は見逃さなかった。

「そうじゃね・・・・確かにわしは化け物なんかもしれん。だからこそ、ただ人のあんたはわしには逆立ちしても勝てんという事になるわけか。」

そう言って聡は、やや自嘲気味に笑った。

「さて。そんじゃそろそろ死ぬか?」

まるで散歩にでも誘うかのように聡が政道にそう言った。
その、「ちょっとそこまで付き合え。」と言った感じの口調は政道の恐怖を増大させるには十分過ぎるほどであった。

「う・・・・・うわあぁぁぁぁ〜〜〜〜〜!!」

半狂乱で政道が聡に斬りかかる。もはや、何らかの意図を持った攻撃をしているのではなく、恐怖から逃れるために必死でもがいているだけであった。
その無様で、彼の実力からは想像も出来ない程お粗末な攻撃を聡は左手の人さし指一本でさばいている。

「眠い攻撃じゃ。あくびが出るよ。」

聡がそう言った瞬間、その右腕が政道の体の心臓付近を易々と貫いた。

「ぐはぁ!!」

おびただしい量の血液を自らの口から吐き出した政道はそのまま聡に寄り掛かるように倒れかかった。

「まあ、わしとあんたの差なんぞこんなもんじゃね。」

そう言いながら聡は、政道の胸部を深々と貫いた自らの右腕をゆっくりと引き抜く。支えを失った政道の体は自らの血で染まった地面に沈み込んだ。
周囲を見渡すのも困難な広場の一角にでき上がった血の海を聡は無表情に見下ろしている。
その姿はまるで、葬送の列を見送る石像のように動かず、またその裏にある思考などを感じさせる事もなかった。

「所詮はこの程度か。龍門を2つ開放したまではよかったが、その後の鍛練が足らんかったのが敗因ぢゃね。」

そう言ってその場を離れ、葉子の方へ向かっていた聡は、水音のようなものを耳にしたような気がして立ち止まった。
振り返ってみると、政道の体がかすかに動いている。不死処理をされているのか、はたまた別の理由かは分からないが、どうやら先程の一撃では政道に止めを刺すには到っていないようだ。
しばらくその様子を見ていた聡はニヤリと笑うと

「なかなかにしぶといね。とっととくたばった方が楽じゃろうに。ただ、生きとる以上ほっとくわけにもいかんね。」

月が雲の向こうに隠れてしまった。しかし、周囲の暗さがいや増したのはそのためだけでは無いだろう。
耳が痛くなるような静寂が訪れた。ほんの数十メートル先には車が行き来しているにもかかわらずである。
その暗い静寂をオンボロ靴を履いた男の足音が重く、しかし微かに響く。

「さてさて。生きておるとはいえ、動くのもままならんようじゃね。そんなんでわしの次の攻撃に耐えれるんかねぇ。」

そう言い放つと聡は実に愉快そうな笑みを浮かべた。
雲間から再び姿を現した月の光によって聡と政道の姿が露になる。
その姿はまさに、新進気鋭のイギリス人画家、デヴィン・クラークの出世作となった絵画「Under」のそれに酷似していた。
煌々と、しかし冷たく青白い月光の下にボンヤリと浮かんだ二人の人間の姿。
横たわっている一人は今まさに絶命したばかりであり、その側に立っているもう一人は横たわっている人を殺した殺人者である。
黒い帽子を目深に被った殺人者の口元には微笑が浮かんでいる。そんな絵だ。
シルクスクリーン技法で描かれた美しい満月と、その下にボンヤリと暗く浮かび上がっている人物の姿は、世界的に有名な美術誌『キルテッド・マインド』でも好評を得ている。
クラーク画伯の来日展覧会に行った事のある葉子はその絵画に酷似したこの奇妙な光景を言葉もなく眺めている。

それまでこれといって動きを見せなかった聡は、誰しもが予想しない行動を突然取って葉子を驚かせた。
突然政道に背を向けると素早くその場にしゃがみこんだのだ。
月光に照らされて長く伸びていた聡の影が突然半分以下に縮んでしまった。
そして次の瞬間!!































プゥ〜・・・・































月が再び厚い雲の向こうに隠れてしまったため、暗さはいや増した。
そして・・・・・カンジの悪い静寂があたりをすっぽりと包み込んでしまった。

一体何が起こったというの?
あの音はなんだろう?
ひょっとして?

あまり真剣に考えたくない結論に達してしまったため、葉子はそれ以上考えるのをやめた。
あの男は何を考えているのだろうか?
ヒュドラ・7使徒の中でも最も名の知れた恐るべき魔剣士、鵜飼政道に対する攻撃がよりによってあれだと言うのだろうか?
この事については葉子でなくても疑問を抱かずにはいられないだろう。
ところが、長い静寂を破ったのはその攻撃を受けた政道であった。

「ぐぁっ!こ・・・これはっ!!」

攻撃がジワジワと効いてきたのか政道はうめき声をあげると突然その場で苦しみ始めた。
最初こそただバカバカしいと思っていた葉子だったが、政道のせわしない息遣いや激しくむせき込む様を見てその聡の『攻撃』の威力の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
毒性の強い即効性の『VXガス』でも吸い込んでしまったかの如く苦しむ政道の表情は、ただ見ているだけの者にも戦慄すべき恐怖を与えるには十分と言えるだろう。
額には脂汗が滲み、眉間には深い皴が刻まれているのがありありと分かる。
首を絞められている人の様に咽を掻きむしるその両腕は、まるでマヒ症状でも起こしているかのように緩慢で不自然だ。
暫くすると政道はこめかみに血管が浮き出たまま苦悶の表情で気を失ってしまった。

そして、その攻撃をしかけた当の本人はと言うと

「ぐわっ!なんちゅ〜臭いじゃ!!とても人間の屁とは思えん・・・・内臓腐っとるんか?わし・・・・・・」

その攻撃に対する素直な感想を述べると、考え事をする人が良くするようにボンヤリと天を仰いだ。

「かなわん・・・・クサいとかそういう次元の臭いぢゃなぁ。なんか悪いもんでも食ったっけ・・・・・・?」

直立不動の姿勢のまま上をむいて腕を組んで考え込んでいた聡は、突然何かを思い出したかのようにああという表情を浮かべて右手で握りこぶしを作って左手の手のひらをポンと叩くと一つうなずいて

「ああ、あれじゃ!昼に飲んだ飲むヨーグルト!!あれ、ひょっとして元・牛乳だったんじゃないか・・・・・・」

聡はこの日の正午ごろに西野(株)の本社に電話をする少し前に飲んだ小瓶に入った白い液体の事を思い出した。
元・牛乳とはその名の通り、元々は牛乳だったものが腐ってしまったという事である。
ヨーグルトは原乳を発酵させたものであるが、それが精製された後の牛乳の場合は発酵とは言わない事は誰しもが知っている事だろう。

「なんちゅーこっちゃ。確かにミョ〜にすっぱい気がしたが。イテテ・・・・・・そう思ったらなんか急にハラが・・・・・・」

下腹部を押さえて座り込んでいる聡の後ろ姿を見ながら葉子はあきれ返っていた。
それまでの凄まじい闘いからは想像もできないようなアホな結末に、敵ながら政道が不敏に思えてならない。
しかし、結局の所その恐るべき能力を出し尽くした政道に対し、聡はおそらく能力の殆どを温存しているという事は想像に難くない。
そもそも、政道が繰り出した“雷神の鉄槌”や“楼花煉炎”を生身のまま受けて無傷でいるという事自体が驚くべき事なのだ。

「貴方は一体何者なの・・・・・・?」

葉子はそう呟いた。別段本人にその答えを期待したわけではない。思っていた事が口をついて出ただけだ。
しかし、聡のさとい耳はその呟きを聞き漏らさなかったようで

「わし?わしはただのイナカモノの一零細企業の平社員よね。中学校の頃、海に向かって立ちションしよる最中に美咲ちゃんに後ろから突き飛ばされて海に落ちて・・・・・・ってもぉええっちゅーねん!!」

再び聞かれもしない事を勝手に喋って一人でツッこんでいる。どうもこの男は『真剣に』とか『真面目に』とかいう事は無理なようだ。
緊迫感皆無な聡を見ながら冷や汗を禁じえない葉子の咽元に突然冷たい感触がさわった。

「そこまでですわ!」

空気すら動かぬこの広場を冷酷な声が切り裂いた。声の主は言わずと知れている。
ヒュドラ・7使徒の『闇なす影』カルマ・カルキリアであった。
彼女は、聡によって無理やり絶頂に達せられた後、術を使う体力が回復するのを密かに待っていたのだ。
しかし、立ち上がる事が出来るほど腰(と尻)が回復しないまま政道が倒されたので、密かに葉子の影に渡り背後を取ったのである。
カルマ自身は地面に座ったままではあるが、足に深手を負って立つことができない葉子を人質に取るにはそれでも十分であった。

「何のマネかね?政道君があのザマで、腰の立たんあんたでは勝負は見えていると思うが。」

そう言った聡の後方に不気味な影が忍び寄った。それは聡自身の影であった。

「勝負はこれからですわ。貴方が少しでも妙な行動を取ればこの娘の咽は美しい鮮血に染まりますわよ。」

葉子ののど元には極めて美しく輝く銀色の金属があてがわれている。一見してその金属がミスリルである事を見て取った聡は少々驚いて

「政道君の剣とは違って、昔の発掘ナイフの類いじゃなさそうじゃね。まさかとは思うが最近精製されたもんか?」

ミスリルは現在はこの地上には存在しない筈の金属である。
その金属は銅の様に打ち延ばす事ができた。ガラスの様に磨きあげるとその輝きはまるで白金のようであったと言われている。
古代の失われた技術を持ってすっればそれは麻のように軽く、しかも鍛えた鋼よりもさらに硬くする事ができたという。
その美しさたるや、今この世界に現存する銀や白金のそれに似てはいるが、この金属のそれは黒ずむ事も曇ることもなく最初の得も言われぬ美しさを保ったと言われている。

「一目で見抜くとはさすがですわね。」

カルマがその表情にうす笑みを浮かべて聡の問いに応えた。そして、その答えは聡に新たな疑問を生じさせたのだった。

「今やこの地上には存在せん筈のミスリルを最近精製したと?だとしたらノーベル賞モンじゃね。錬金術なんぞよりも遥かに高度な技術と知識が必要になるからな。」

そう言いながら、聡はその精製技術を『秘中の秘』としてこの世に受ついでいる一族があったのを思い出した。
ただ聡が知る限り、その技術を知っている人は既にこの世には無い筈であり、そして・・・・・・

「ヒュドラにその技術を伝える人物が居るという事ですわ。今の世にたった一人。その人はその技術を持って、私たち7使徒のメンバーに選ばれたのです。もっとも、その技術だけでというわけではありませんが。」

勝ち誇ったかのような表情でカルマがそう言い放った。そして、その言葉は聡にある事を確信させるに足るものであった。

「シスター・メアリーの妹、アイエネスじゃね。そうか。彼女は生きているのか・・・・・」

聡のその言葉にカルマは毒気を抜かれた。アイエネス。彼女の存在は本来ならヒュドラ7使徒以外誰も知らない筈であったからだ。
7使徒に関してはヒュドラ上層部に置いても構成員を全て把握しているわけではない。
カルマや政道は有名な部類に入るので当然知られているとしても、先程聡が名前をあげた「アイエネス」は、7使徒のメンバーすら顔を知らない。
また、7使徒の中ですら誰も本名を知らず、単に「ヘイ・フー」と呼ばれているだけの人物もいる。

「どうしてその事を・・・・・・と、言いたそうじゃね。じゃが、わしは彼女の事を知っている。理由は言いたくはないが。ついでに言えば、あんたらは隠し通したつもりであっても安寧王は確実にその事は知っておったじゃろうて。」

そう言いながら聡は、先程の政道とのやりとりを思い出していた。
【グラムバルド】の柄の台座に嵌め込まれていた宝石もまた、彼女、アイエネスの手によって精製だろうか。
いや、むしろそう考えるのが妥当であろうと。

(確かに、アイエネスがミスリルの精練技術を持っていると言うなら、あの『呪われし宝玉』と同じようなもんをある程度のクオリティで作る事もできるかもしれんな・・・・・)

聡がそう考えている間、聡の言葉をカルマは動揺の中で聞いていた。
彼の口から出た事実は彼女にとっては何の裏付けもないのだ。ひょっとすると全てデタラメなのかも知れない。
にも拘わらず、彼女には聡の言葉が真実である事が納得できた。もっとも、その理由は彼女にも理解できなかったが。

「さてと。そろそろ現実的な問題に入ろうか。あんたはわしの影を実体化して何をしようとしとんのかね?」

聡の放ったこの一言は物思いに耽っていたカルマを現実世界に呼び戻した。彼女は再びその表情に冷笑を浮かべて言った。

「もちろん貴方の始末をつけるつもりですわ。貴方は貴方自身の影に為す術もなくやられるのです。もし反撃をしようものならこの娘の命はありませんわ。」

カルマが再び葉子ののど元にミスリルのナイフを押し付ける。僅かに触れただけであるにも拘わらずそののど元には薄い傷を作り、葉子ののど元を薄赤く染めた。

「反撃ねぇ・・・・・影にわしが反撃すればわしがイタイ目見るだけなんじゃろ?もっとも、わしはこうすりゃあええと思うんじゃが。」

そう言うと聡は影に目を向けた。そして何か呪文ともお経ともとれるようなものを小さい声で呟きはじめた。
すると、次の瞬間に実体化していた影は再び聡の影に戻って行くではないか。
これにはカルマも葉子も驚愕するより他なかった。

「あんたの術は、もはやどれ1つわしには通じない。例え何度あんたが影を実体化しようとわしはそれを元の影に戻す事ができる。さてどうするね?」

カルマは唖然として聡を見つめた。影を渡る術を真似された時も当然驚いたが、まさか“影傀儡”までとは考えても見なかったのだ。
彼女はその修業期において、並の使い手では到底及びもつかぬような修練を重ねてその術を会得したのだ。
それを、先程一見しただけの聡に憶えられ、あまつさえその術をも封じられてしまったのだ。
カルキリアの家系にしか伝わらぬ奥義をこうも簡単にコピーされたのでは敵わない。彼女の胸中にはもはや逃げの一手しか思い浮かばなかった。

「人質を取ったのは失敗じゃね。足を怪我した葉子ちゃんを連れてどうやって逃げおおせるつもりなんかな?あんたも腰が立たん状態で。」

聡は、カルマの次の行動を看破してそう言い放った。しかし、その事はカルマの予想の範疇であった。

「例え歩行が困難でも、移動する方法は他にもあるのでご心配なく。」

カルマがそう言うと、しかし聡はやれやれといった風にかぶりを振った。

「あんたはいくつか間違いを犯しておるのに気がつかんようだな。そもそも、なんでわしがその娘の身の安全を心配せんにゃぁならんのか?今日会ったばっかのねーちゃんで。」

聡のその言葉に、場の空気が凍りついた。これはさすがにカルマも、そして葉子も予想だにしなかったのだ。
あまりにも冷徹な言葉だが、確かに聡には葉子を助けねばならない理由などありはしない。
あるとすれば、『銀の雫』の一件と、自分の愛用のパイプを壊された事くらいである。
そしてそれは、無理に葉子に話す必要はない。交渉するのであれば社長である那由に直接コンタクトを取ればいいのである。
葉子の胸中にいくばくかの寂しさと、ある種の覚悟とが去来する中、再び聡が口を開いた。

「さて。んじゃぁ仮にその娘がわしにとって、とてつもなく大切な人だったとしようか。どうやって逃げる?影を渡るかね?それはわしにもできるんじゃがね。」

嘲るかのようにそう質問する聡に、しかしこの問いに対してカルマは冷笑を浮かべて

「貴方が私を追って来たら、この娘を始末するまでですわ。」

当然と言わんばかりにそう言い放つ。ところが

「さて。それが問題じゃね。人質ってのは2種類あって、生きている必要がある人質と、そうでない人質がおる。今回は間違えなく前者じゃね。あんたがその娘を始末したらその後はどうなるかわかっておるかね?逆上したわしにあんたが始末されてまうじゃろうて。」

聡の言葉にカルマの表情から笑みが消えた。聡はさらに言葉を続ける。

「現時点で。」

そう一度言葉を切ると。

「そう。現時点で考えうる限り、わしは約六千通りの方法であんたを苦しめる事ができる。簡単には殺さんよ。わしの大事な葉子ちゃんを殺すと言うのだからね。あんたを緩慢に長く苦しめる方法なんぞいくらでもある。そうすりゃ、あんたは死んだほうがマシじゃと思う事じゃろうて。」

『わしの大事な葉子ちゃん』と言われて葉子は思わず聡を見た。先程『今日会ったばかり』と言われたにも拘わらずである。
傷つき疲弊している葉子の中に新たな力がかすかながら沸いてくる。その理由は葉子自身もよくわからなかった。

「どうかね?間違いだらけの人質作戦を看破された気分は。さて、最後の間違いを指摘してあげよう。これがハッキリ言って致命的と言えるがね。」

聡がそう言い終わるや否や、カルマは突然、後ろからナイフを持っている腕をつかまれた。
驚いて振り向くと、そこには今の今まで目の前にいたはずの聡であった。
葉子をかかえたカルマと聡の間は少なくとも3mは離れていた筈だ。移動するにはあまりにも速すぎる。
おまけに、影を渡った形跡はない。如何にその技を聡がコピーしたとはいえ、カルマの真正面で彼女に気取られる事なくその術を使う事など到底できない筈である。

「わしから人質を取りたいなら瞬きはせん事だ。」

「くっ・・・・」

急いで身を翻そうとしたカルマの胴体を、聡の拳が軽々と貫いた。
微かに光る月光の下をカルマの血が鮮やかに染める。それはまさに、現代のポップアートのようであった。

「そ・・・・そんなバカな・・・・・7使徒の私たちがこうもあっさり・・・・・・」

うめくようにそう呟くと、苦しそうに、しかし何とか聡から逃れようと僅かに体を動かした。

「上には上がおるって事じゃね。わしとて、五賢王やらあんたらのボスには勝てんじゃろうて。ところで、わしから逃れたいなら逃がしてあげようか。」

そう言ってゆっくりとカルマの胴体から拳を引き抜いた聡は、そのカルマを倒れている政道の方にけり飛ばした。
うつぶせのまま倒れている政道の上に、折り重なるようにカルマが仰向けにかぶさる。
僅かなうめき声をあげて政道が体を動かしたが、彼ら二人にとって絶望的な状況である事に変わりはなかった。

「大した事のない連中じゃの。これが『魔剣士』と『影法師』かね。ショボいのぉ。じゃお二人さん、成り行きでさよならじゃ。」

そう言うと聡は二人に向かって右手をかざした。程なく聡の右の手のひらを暗い光がおおい始めた。
それはあまりにも暗い。にも拘わらずそれを見ていた葉子の目には光りとして認識された。
その暗い光はあまりにも黒々としていたので、その夜の闇に穿たれた深く黒い穴のように見えた。
それは戦慄すべき恐怖以外の何者でもなかった。
もし、政道なりカルマなりが意識を保っていて、聡が放とうとしている闇の光を目にする事があれば、恐怖の余り泣き叫び慈悲を乞う事だろう。
それを向けられているわけではない葉子ですら、その闇を見続ける事は堪え難い恐怖であった。
しかし、聡がその闇を今まさに放とうという瞬間にそれは起こった。

最初それはそよ風の様に穏やかであるように思われた。
しかし突然、大地を揺るがすような振動とともに空間そのものを切り裂くかのような衝撃が聡と葉子を襲った。
恐るべき轟音に身を伏せながら、葉子は何が起こったかを突然理解した。しかし、それは到底考える事のできないものであった。
恐るべき力を持つ何者かによって葉子が張っていた結界は、何と外から破壊されたのである。
外的干渉排除型結界は内側からはともかく、結界の外側からの干渉は物理的であれ魔法的であれ一切受け付けないものである。
そして、葉子の張り巡らしたそれを外部から攻撃する事は事実上不可能なはずである。
政道が放った空間を切り裂く技ならばそれも可能かもしれないが、この振動からそれは空間を切り裂いたのではなく、力技で結界を破壊した事を示すには十分であった。
そして、その実現不可能な出来事は突然起こり、まったく予期していなかったにも拘わらずその事を葉子は一瞬にして理解したのである。

結界の裂け目と思しき場所から台風もかくやと言わんばかりの凄まじい暴風が吹き込んでくるのを感じた葉子は、その暴風に乗って真っ白な小さな紙吹雪のようなものが舞っているのを見た。
その白い小さな紙片のようなものは帯のように聡と政道達、そして葉子の間に入り込むとその視界を遮るかのように彼らを包み込んでしまった。
葉子の目の前にはまるで白い壁でもできたかのようで周囲を見渡す事は到底かなわない。おそらく聡の方も同じであろう。

風があまりにも強すぎるため息をする事もままならない。しかし、それも長くは続かなかった。
突然風が止むとそれまで葉子の周りを渦巻いていた白いものがゆらゆらと舞い散った。
全ての物音がやみ、目の前を覆っていた白い壁が取り除かれると再び月光の落ちる小暗い広場の風景が葉子の目の前に広がっている。
おぼろな光を放つ白い小さなものは、どうやら花びらのようである。
美しくはあっても、ぞっとするような恐ろしい形をしていて、その美しい香りからは甘美な夢と無慈悲な死を連想される。
それはまるで、胸が悪くなるような暗い墓所のような匂いであった。

葉子は遠ざかる意識の中で、灰色の影が地面に落ちている白い花びら拾おうとしている姿が視界の隅に映っているのを見たような気がした。
そして、その背後には塔のように巨大な暗い人の形をした影が薄もやの中に立っているのを感じた。
やがて、眠りと安息を促すような歌声が葉子の耳朶の奥に響き渡り、その歌はまるで、磯に打ち寄せる荒波のようでもあり、小川のたばしる心地よいせせらぎのように聞こえた。
その後葉子には、もはやそれ以上は何も見えず、何も聞こえなかった。
1-9 Return of the crimson king 了
闇の裏側にありし者

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