闇の裏側にありし者
我が父よ。我は貴方の意志を理解した。
我が父よ。我の力をご覧になられよ。
我が父よ。我は光の名を冠して闇を統べる。
我が名はギルハドール。『闇の裏側に在りし者』



小高い丘の上にある喫茶店は、まるで火事にでもあったかのような惨状を山陰を越えて最初に差し込んできた朝日の燐光の下にさらしていた。
大きく穴の開いた外壁や、一部吹き飛んだような感じの屋根などは凄惨な『事故』の爪跡を如実に現している。
その焦げたクリーム色の外壁から立ち昇る胸のすくような香りはコーヒーのそれである。
焼け跡としか言いようの無い店内から漂うその香りは、おりからの柔らかい南風に乗せられて周囲をふくよかに漂っていた。

その廃虚の様な店の中に、かろうじて燃え残ったテーブルとイスがあった。
まだ薄暗い灯のない店内を見渡す事は難しいが、どうやら女性が二人差し向かって座っているようである。
一人は短い黒髪をきれいに切りそろえたスレンダーな体形で、もう一人は細身ではあるが、やや丸みを帯びた肢体は柔らかい印象を受ける。
どちらも美しい顔立ちなのは薄暗がりの中にもハッキリと分かるが、その二人はあまり外見は似ていない。にも係わらずこの二人は酷く似通った部分を感じさせた。
美しい長い藤色の髪を風になびかせていた女性はコーヒーカップをソーサーの上に置くと

「やっぱり貴女の淹れたコーヒーは本当においしいわ。ごちそうさま。」

そう言うと席を立ち、今や差し初めの朝日に煌々と照らされている焼け跡を後にした。

「待って!叔母さまは一体何を望んでいるの!?」

焼け落ちた店の中から桐島美咲がその場を去ろうとしている女性、如月沙織にそう問い掛けた。
暫くその場に立ち止まった沙織はゆっくりと振り返ると

「貴女が夢に見た出来事を防ぐ事かしらね。」

そう言ってふわりとした笑顔を浮かべると、その場を立ち去って行った。
後に残された美咲は、美し過ぎる叔母の後姿が見えなくなるまでずっとその場に立ち尽くしたまま見送るのみであった。



午前7時55分:

聡の網膜に残る父親の姿は、いつも白装束だった。
霊媒になる人物の中に彷徨う霊魂を移してその話を聞いた後、彼らを成仏させる事を生業としていた。
この島が海魔の脅威にさらされる事が無いのも彼のおかげである。
いわば、彼はこの島を守る守護者の一人と言う事になるのだ。
しかし、憧れと羨望の眼差しを送る息子に対してその父が言い続けた言葉の中で聡の記憶に残っている言葉はこの一言しかなかった。

「お前など、生まれて来なければよかったのだ・・・・・」

幼い頃からそう言われ続け、その言葉を子守歌として育って来た聡にとって、その言葉は酷く正しい事のように思えた。

「そうだ・・・・わしなど生まれて来なければよかったのだ・・・・・・」

しかし、そんな彼を優しく包み込んだあの優しい影。

「私は貴方と会えて幸せだったわ・・・・」

彼女は、物憂さと悲しさで覆われてしまっていた聡の心にそう優しく囁いた。

「私は幸せだったわ。貴方と出会えて。」

「私は幸せだったわ。貴方と愛し合う事が出来て。」

聡の眼前に幻影のように美しい女性が浮かび上がった。
170cm程のすらりとした体。
美しい曲線を描きながら隆起するくびれた肢体。
長く伸びた美しい金髪と蒼い双眸。そして白磁のような白い肌。
それは聡が生涯最初に、そして最も愛した女性の姿であった。
彼女の美しい澄んだ声は星明かりをやさしく震わせて響き渡る。
暗闇に閉ざされ、凍てついてしまった心がかすかに暖められるのが聡にも感じられた。


「・・・・メアリー・・・・・」

聡がそう小さく呟くとその女性、メアリーは彼に優しくほほ笑みかけた。
そのほほ笑みにつられるように聡の表情も綻んだ。
優しい風に一撫でされたかのように柔らかい心を取り戻した聡に、美しくも陽気で悲しげな歌声が聞こえる。
メロディと溶け合った優しい歌が周囲に明かりを灯して、しかし次の瞬間には暖かな明るい世界は暗転した。

「メアリー?」

星明かりも灯火も一切見えない無間の闇の中で、聡は既にこの世には居ない事を承知している筈のその女性の姿を虚しく探し求めた。
だが、そこに広がるのはただ闇ばかりであった。再び聡の胸を絶望が覆い尽くしていく。
その螺旋状につらなる闇の奥底から愛しい人の声が再び響いて来た。

「・・・そして、貴方の手にかかって私は命を落とした。今は愛する貴方と一緒にいるの。私は幸せよ。例え貴方が他の人を見ていても、私も一緒にその人を見る事ができるから・・・・・愛する事ができるから・・・・」

永遠に続くかのような闇の向こうに赤っぽい光がうっすらと見える。その光に向かって聡は歩き始めた。
その赤い光は聡が近づくにつれて紫がかった色に変化していく。
光の先にあったのは赤紫色の刀身を持った片刃の長剣である。
その剣が音を立てて砕け散った時、聡の目には現し世の朝日が射し込んでくるのであった。



午前8時:

「・・・・・またあの夢かいや・・・・・」

夢から目醒めた聡は、体中に嫌な汗をかいているのを感じてその顔をしかめた。
スポーツの後に流れるようなさわやかな汗ではない。
それはまるで、油のように体にネットリとまとわりつくかのようであった。
南側に面した部屋に差し込む朝日は、東から回り込んだ優しい朝の日差しである。
ベランダに通じる大きな窓の外には雲一つ無い青空がひろがっている。
見上げれば眩しい程のスカイブルー。それは初夏の空気の澄んだ最も美しい朝の一時であった。
にもかかわらず、聡の心は深い闇の中に投げ落とされたかのように重く沈んでいる。
全ては夢のせいである。『悪夢』というよりは『出来事』と言う方が正しいのかもしれないが。
それは聡が物心ついた頃より我が父親から言われ続けた怨嗟の言葉と、その父共々最愛の人を我が手で殺す事となった12年前の出来事。
聡の人生に後々にまで大きな暗い影を落とす悲しい出来事の回想であった。
まさに一昔前の出来事であるにもかかわらず、そこに至る出来事の全てを聡は克明に記憶しているのである。

「・・・・記憶力は悪い方のはずじゃがね・・・・おまけに、今のわしはあの時のわしとは別人だというのに・・・・」

そう言ってやや自嘲気味に笑う聡をもしその場で目にする者があれば、その人物は酷く驚いた事だろう。
彼はまるで一夜にして年をとったかのような表情をしていたのだ。
その顔色は土気色で精気がなく、疲労がにじみ出ているかのようである。
殆ど全ての者にとって休日の朝というものは新たな希望を見いだす美しく清々しいもののはずである。
しかし、よろこばしい再会と、新たな出会いがすでに約束されている筈の聡にとってでさえ、あの夢の後では世の全てが灰色でもう二度と色を取り戻す事がないかのような薄気味悪い朝となってしまった。

「・・・・にしても妙じゃね・・・・」

なんとか言葉をひねり出した聡は、どうにかして自分の元気を取り戻そうとすると同時に、悪夢の最後に現れた砕けた剣の事に思いやった。
夢の中で砕け散ったのは間違いなく剣であった筈である。それは聡自身が生涯忘れる事のできない、そして生涯呪い続けるであろう出来事の最後の一説だった。
しかし、先程のそれはまるで陶器か何かが砕けたような軽い渇いた音だったのである。

「・・・おまけに、夢のワリにゃえらいリアルな音ぢゃったな・・・・・」

言葉を和らげて自らの表情から厳しさが去っていくのを感じながら、上半身をゆっくりと起こして辺りを見回した聡は、自分の傍らで横になっている筈の葉子の姿が見えない事に気がついた。

「昨日といい今日といい、悪い予感ってのは本当に良く当たるもんじゃね・・・・・」

布団から身を起こした聡は、自分の推測が恐らく寸分の狂いも無いであろうことを確信しつつキッチンに向かったのだった。



午前8時10分:

「あっちゃ〜・・・・」

晴れやかな朝日の差し込む窓辺に立っている葉子は、それまで茶わんだったものを眺めながら途方にくれていた。
シンクトップに大理石をふんだんに使用したオールステンレスの贅沢な作りのキッチンシンクには、その高級感溢れるキッチンにはあまり似付かわしくない見るからに安物に見える茶碗が、見るも無残な姿をさらしている。

「見つかる前に早く隠さないと・・・」

そう呟くと、葉子は指を切らないように注意しながら慎重に茶碗のかけらを集め始めた。
彼女の注意はすっかりそちらに向いたいたため、その背中に注がれる視線には気がつく事はなかった。

足音もなくダイニングを覗いた聡は、眼前の風景に一瞬引いたしまった。
なぜなら、キッチンに佇む葉子はなんと素肌にエプロンだけを身に付けた、いわゆる『裸エプロン』姿だったからである。
そのエプロンは聡がエスリンに買い与えたコスプレ用の前掛けのやたらに短いものだったが、エスリンにも負けない程にスタイルの良い葉子にはよく似合っている。
彼女の亜麻色の長い髪から見え隠れする美しい背姿は眩暈すら感じさせる程であった。
その視線を下に動かすと、ウェストからヒップにかけての曲線が目に入る。
その美しい臀部に視線をやりながら聡は忙しくキッチンをかたしている葉子に声をかけた。

「・・・・あ〜・・・おはよう。葉子ちゃん。」

「ひゃぁっ!?」

突然声を掛けられ、葉子は素っ頓狂な声を上げて振り返った。
彼女の視線の先には半ばあきれたような、半ば困ったような笑顔をうかべた聡がいる。

「お・・・おはようございます。聡さん。」

一応挨拶を返す事ができた葉子はその視線をキッチンシンクにやったあと

「あはっ。あははは〜。」
なんとかその場を取り繕うために笑ってごまかそうとしている。
そんな葉子があまりにもかわいいので、聡はあえて彼が予測していた『茶碗だか皿だかを割ったじゃろ。』という言葉を飲み込んだ。
だが、彼女のその態度は聡の予想がどれ程の狂いもなく的中している事を彼自身が確信するには十分であったと言えるだろう。
それは、朝から葉子をイジメるいい口実だったに違いないが、聡にとっては今の葉子の姿の方がそれ以上に気になった。

「一応聞くが・・・・なんで裸エプロンなん?」

「えっ・・・・・・だって着るものがなかったし、それに男の人ってこういうの好きなんでしょ?」

上目遣いで困ったような顔をしてそう葉子は答えた。そんな葉子を見ながら聡は頭をポリポリと掻くと

「その憶測は9分9厘間違ってはいないが・・・・イキナリだとさすがに引くね。自他共に認めるエロオヤジのわしですらもね。」

しかし、そう言いながらも聡は葉子を優しく抱きしめた。

「あんたと一緒に広島に来た二人にここに来てもらうつもりでいるから、彼女らが来たらあんたの着るもんを買ってくるよ。」

聡の言葉に無言でうなずいた葉子はそのまま聡の胸に顔を寄せて幸せそうに目を閉じた。

「・・・・ついでに、あんたが割った茶碗だか皿だかもね。」



午前10時15分:

「ふぅ〜・・・」

ホテルのベッドに身を投げ出したかすみは、昨日からの出来事を整理しつつ考えていた。

結局松井からは何の連絡もなかったが、かすみを驚かせる内容の報せをあすみがもたらしたのは、かすみが髪の毛を洗っている最中であった。
何の前触れもなくバスルームに突然あすみが入ってきたのである。

「何よイキナリ!?」

「葉子お姉ちゃんが大怪我をして、ヒュドラの『7使徒』が現れて、葉子お姉ちゃんを助けて、そしたら蓮城さんが出てきて、葉子お姉ちゃんと闘って・・・・」

「まってまって!あんたの言ってる事ぜんぜんわかんないわよ!!」

完全に混乱している妹をなだめてバスルームから追い出し、体を拭いた後バスローブを身に纏って部屋に戻ったかすみは、ようやく混乱から脱したあすみから先程の電話の件の報告を聞いた。
何でも先程部屋の電話が鳴ったのは、今回の調査対象だった蓮城聡からだったらしい。
彼は葉子が『7使徒』の一人である鵜飼政道と交戦して負傷した事を告げると、この傷を治療する手管を持っているのは自分を含め2人しかこの世には居ないと言ったというのだ。

「どういう事なのかしら・・・・?」

当然の疑問をかすみは口にした。
あすみが使う『癒身符』を使用すれば、例えその人物が瀕死の重傷を負っていてもたちどころに治ってしまう事をかすみは良く知っている。
実際、母親でもあり人類史上最強の退魔師ある西野那由に

「癒身符と焔の技に関しては相当のものね。」

と言わしめる程である。そのあすみに「君らでは無理じゃ。」と言い放ったと言うのだから。

「何か、昔の呪術とかで自分以外にはどうしようもないって言ってましたぁ。」

ようやく落ち着いてきたあすみの言葉を聞いてかすみは考え込んだが、これ以上考えた所で何らかの結論が出せるわけでもない事は分かり切っている。

「とりあえず、葉子さんの件を教官に報告して指示を仰ぐのがよさそうね。」

「あと、蓮城さんが車をこっちによこすって・・・・・」

「それについても教官に相談すればいいけど・・・・」

それ以上の言葉はもう必要なかった。例え松井が二人を止めようが、そして聡の誘い自体が彼女らを陥れる罠であろうが関係ない。
二人はともかく、葉子の無事な姿を早く見たいだけであった。

西野怪物駆除株式会社・中国支社の始業時間は基本的には9時となっている。
昨夜持ちだしたエニシング・ディテクターと備品室の鍵を支社の社員が出社する前に元の場所に返しておかなければならない二人は、朝6時にホテルを後にすると支社の事務所に向かったのであった。
随分長いこと事務所の応接室で時間をつぶした後、定時に出社してきた松井に昨日の聡からの連絡の件を報告すると

「それなら君たちは一旦ホテルに戻った方がいいんじゃないかな。社長は彼が言った『彼女らに危害は加えない』って言葉を信じると言っていたから大丈夫だと思うよ。」

そう言われたため、彼女らは再びこのホテルの一室に戻り、聡からの連絡を待っているのである。
中国支社の事務所を引き上げてからまだ一時間も経ってはいないのであるが、二人にはその時間はまさに一分が一日に思える程に感じられた。
何を成す事もなくジリジリと過ぎていく時間に耐えかねていた二人を驚かせたのは、部屋に備え付けの電話だった。
それはフロントから二人のために車が迎えに来た事を報せるものであった。



午前10時25分:

「通常の三倍の代金をもらってるからしょうがないが、普段ならあんな『お化けマンション』なんぞ行かんのじゃがね。」

かすみとあすみが乗り込むなり、初老のタクシー運転手はそうつぶやいた。
彼の話によると、目的地である『アークフロント・翠町』は建設前からいわく付きのマンションだったらしい。
元々は日蓮宗系の寺院が運営する墓苑だった場所を地元の業者が買収して建てられたものだと言うのだが、地鎮祭の時にはそれまで雲一つない晴天だったのに突然1m先も見通す事のできない程の豪雨に見舞われたのらしい。
それを皮切りに、建設中に鉄骨の落下などの事故が頻発して作業員13名が死亡し、15名が重傷を負ったという。
整地する前に移動させられた墓の数が13であった事は単なる偶然だったのだろうか。
また、仮に偶然であったにしてもこのような事故の後である。
キリスト教徒でなくても『13』という数字の持つ不吉な気配を感じずにはいられないであろう。
さらに、これもこのテの話では月並みかもしれないが、マンション建設に係わった会社のプレジェクトに参加したすべての社員が不可解な死に方をしているのである。
場所こそそれぞれではあるが、皆一様になにかに怯えたような表情で絶命しているのだ。
遺体には外傷は一切無く、死因は原因不明の心不全。死亡した全ての社員はそれまで心臓に異常があった形跡がないため、人々は「翠町墓苑のたたり」として恐れたものだった。
このようなありがたくない(おまけに不吉な)付加価値がついてしまったため、惜しげもなく資金を投下し、贅の限りを尽くして建造されたマンションは最初から買手が付かず、またせっかく入居者があってもその殆どが「夜中に廊下を徘徊する幽霊を見た」とか、「シャワーから真っ赤な水が出た」などと言って退去してしまい、今では誰もそのマンションに足を踏み入れる事すらしないらしいのだ。

「おまけに、そんな状態が続いて赤字ばかりなもんだから、業者が霊能者とかそのテの胡散臭い連中にお払いをさせたけど、どうにもならなかったらしいで。」

さらに、そのお払いがそこに住まう者たちを怒らせてしまったため、マンションの周囲にあった他の住居等にも被害が出始めたため、広島市からIMSOに依頼が出て、彼らの奨めた人間がそこに入ったため騒動は収まったらしい。

「ただ、そいつがそこに入ってからというもの、夜な夜な白髪黒衣の背の低い女の幽霊やら、真っ白な毛むくじゃらの怪物やら、黒髪白衣の背の高い女の幽霊やらが出入りするようになったらしいがね。」

運転手がそんな話をしている間にもタクシーは広島の市街地からやや離れた、閑静な住宅街へとさしかかっていった。
午前中も半ばを過ぎているため、この季節の日差しはもはや暑さを感じさせるには十分で、幾分エアコンが効いているタクシーの車内でさえも少し汗ばむようであった。
青空を巨大なキャンパスにでもしたかのような整然とした美しい町並みの中に、その風景とは完全に雰囲気の異なる大きなマンションが二人の目に入って来た。おそらくあれが目的地であろう。
マンションの手前にあるエントランス広場付近でタクシーを止めると、運転手は二人に忠告した。

「何の用であんたらみたいなカワイイ娘さんがあげなおといしー所に行くんか知らんが、用が済んだらさっさと帰りんさいよ。ここは、何があるかわからんところじゃけん。」

そう言うと、まるでその場から逃げ出すように走り去って行ってしまった。



午前11時:

自分たちをここに運んで来たタクシーが走り去るのを見送った後、マンションの建物の入り口付近に人影を見つけたかすみ達はそのまま立ち止まって様子を窺っていると、あちらの方から二人に近づいて来た。
外壁を照りつける陽光が反射する程に美しく白一色に塗り上げられたそのマンションに浮かび上がる女性の姿は余りにも鮮やかで、余りにも奇妙である。
無間の闇にも匹敵するかのような美しく長い黒髪に、白磁のような白い肌。
その美しい顔立ちに抜群のプロポーション。極めつけは、彼女の体全体からあふれ出す香気である。
これは今目の前にいる女性が紛れもなく『H属性な攻撃』のスペシャリスト、いわゆる淫魔である事を二人が退魔士としての本能で察知するには十分であった。

「はじめまして。私は蓮城聡の使い魔でエスリンと申します。ご主人様の御下命によりお二人を御案内するために参上いたしました。」

優しいほほ笑みを浮かべて、恭しい態度でそう二人に言うと、エスリンはくるりと二人に背を向けて先に立って歩き始めた。
退魔業界の荒波を渡り歩いて来た二人がこの隙を見逃す筈が無かった。
誰の使い魔であろうが何であろうが関係無い。魔・即・滅。これが業界の鉄の掟である。
かすみは腰間の愛刀を音もなく抜き放つと、音の速さでエスリンに斬りかかった。
あすみは左腰側に下げたポーチから、攻撃用の呪符を取り出して素早く魔法を詠唱する。
しかし!

「うんっ・・・はぁぁ・・・・・・あふぅ!」

かすみの愛刀は利き手を離れてコンクリートの石畳の上を音を立てて転がっていった。
あすみの呪符は彼女の手を離れて石畳の一枚にはりつき、その場で蒼い焔をぱっと上げると消滅してしまった。
先程まで得物を握っていた手を自らの下腹部に当てて、苦痛とも快楽とも付かぬ表情を浮かべたまま西野姉妹はその場に座り込んだ。
彼女らを襲ったその感覚は時間にして1/1000秒にも満たなかったにも係わらず、その短い間に絶頂を迎えてしまったのである。
これは如何にこの二人がこのテの攻撃に弱いとはいえ戦慄すべきものであったと言えるだろう。

「行動には気をつけてくださいね。貴女方を淫獄という名の甘美な地獄に突き落とすのは、私にとっては赤子の手を捻るより容易い事なのですから。」

わずかに振り返りながらエスリンは二人にそう告げた。
この時の彼女の目に宿った恐ろしくも美しい淫靡な焔をかすみ達は生涯忘れる事はないだろう。

その赤い美しい瞳に怒気と涙を浮かべながらエスリンを睨んでいるかすみの耳に、人のものとおぼしき足音が聞こえてきた。
その足音は軽やかではあるが重く、それなりの重さのある男性が走っているかのような印象を受ける。
不思議に思ってかすみが顔を上げると、向こうから一人の男がなにやら楽しそうに走ってこちらに向かって来るではないか。
そして、その男性の視線の先には大きなカラスアゲハがヒラヒラと翅を動かしながら宙を舞っていた。

「あはは〜。まてまてぇ〜。てふてふぅ〜。」

おそらく身長は180cmを越えるであろう巨体を揺らしながら、男は蝶の前になり後になり愉快そうに走っている。
3人はそれぞれの表情でその男を見ていたがやがて男の姿は遠ざかり、その能天気な声も聞こえなくなって行った。

「・・・・・一応聞くけど、ナニアレ?」

立ち上がりながらかすみが聞くと

「貴女方の調査対象です。」

半ばため息交じりにエスリンが答えた。つまり、彼女のご主人様という事になるだろう。

「いいの?あのまま放っておいて。」

「いいんです。さあ行きましょう。葉子さんがお二人を待っていますから。」

そう言うとエスリンは再び歩き始めた。
彼女の後についてかすみとあすみはマンションのエントランスに入っていく。
建物の中に入る前に、男が走り去って行った方向から自動車の激しいブレーキ音と、次いで何か大きなものが衝突する音が聞こえたが、誰もそれに注意を払うものはいなかった。



午前11時5分

エレベーターが7階に到着したとき、かすみとあすみはため息をついた。
あまりにも多くの数の浮游霊や自縛霊が1階のエントランスにいたからである。
ここへ到着するまでタクシーの中で運転手が話していた事は多少の誇張はあったかもしれないが、虚構などではなかった事を十分に二人に知らしめる事になった。

「このフロアにはああいった者たちが入って来ないように私とご主人様で結界を張っていますので御安心ください。」

エスリンの言うその言葉を聞きながら、かすみは本当にここに葉子がいるのであろうかと疑い始めていた。
以前一緒に九州のテーマパークに行った時、お化け屋敷の中であまりの恐怖に道半ばで座り込んで泣き出してしまった葉子がである。
まして、ここにいるのは人形や役者ではなく本物のそれなのだ。
あの笑える程に怖がりの葉子がここへやって来たとは到底信じられないのも無理からぬ事だろう。
その事をあすみがエスリンに質問すると

「葉子さんはあの時酷い怪我をしていましたし、ご主人様に背負われていましたから逃げるに逃げられなかったのだと思います。それに、どちらにしろ私やエリス様やご主人様と一緒にいる者を襲うようなマヌケな輩はここにはいませんから。」

エスリンがそう説明した。説明自体には納得できない点はなかったが、彼女の説明の中に出てきた人名は強く印象に残る。

「エリス様ってのは何者なのよ?あんたのご主人様とはなんか関係があるの?」

当然の疑問をかすみはぶっきらぼうにエスリンに投げ掛けた。すると、その質問に答えたのは意外な人物であった。

「エリスって言うのはですねぇ〜。古いお話なんかに出てくる死神さんですぅ〜。」

そう説明したのはあすみであった。
彼女は幼い頃からそういった童話やファンタジー話が好きで、それが高じて現在では大馬(おおま)大学の古代神代学科の客員講師を勤めている程なのである。
同大学に学籍を持っている葉子は、ともすればあすみの講義を受講しているのだ。

「なんでその死神様がこんな所にいるワケ?」

背筋に冷たい何かが走るような感覚をおぼえたかすみは再びエスリンに問いただした。

「くわしい経緯は私も存じません。それに、その件に関してはエリス様も御主人様も話してくださいませんから。」

そういって、エスリンはやや寂しそうな面持ちで微笑んだ。

やがて三人は立体感のあるシャープなデザインの小洒落たドアの前までやってきた。

「さあ。お入りください。」

そういってエスリンはドアを開けると二人に入るように促した。
洗礼された豪華な玄関ルームとそれに続くフローリングの床の美しさに目を奪われていた二人を呼び覚ましたのは、葉子の声と姿であった。

「かすみちゃん!あすみちゃん!」

葉子の声に自分たちの目的を思い出した二人は満面の笑顔を浮かべてその人の方を見、そして絶句した。
この時葉子は、いわゆる「ゴシック&ロリータ」なデザインのメイドの様な服を身に纏っていたのだった。
襟と袖口に白いフリルをあしらった黒いワンピースは妙にスカートが短いため、葉子の美しい脚線美は男でなくとも目を見張るものがある。
さらに律義な事に、ゴスロリ風のエプロンとヘアバンドもしっかりと着用しているではないか。
その姿はまるでそのテの店のお姉さんであった。

「な・・・何?ソレ・・・」

「わ〜!葉子お姉ちゃんすっごくカワイイですぅ〜!!」

それぞれの性格がよく現れたリアクションであった。
かすみは(お化け屋敷の件を除けば)葉子の凛とした姿しか基本的には知らない。
そのため、まさか葉子がその様な姿でいるとは夢にも思わなかったのである。
さらに、その姿が実に良く似合っているのだ。
もし自分が男性であったなら、その姿を見ただけで射精してしまうであろう事は明白であった。

あすみはかねがね、葉子の服装は(姉程ではないにしても)堅苦しいと考えていたのである。
仕事に行く時はともかく、大学や遊びに行ったりする時等はもっとラフな格好でいいと思っていたのだった。
さすがにこの格好で大学に行くのはマズいが、普段とは違う葉子の一面を見る事ができて単純に嬉しかったのである。
そんな二人のリアクションを見ながら、葉子は恥ずかしそうに頬を染めながら

「だって・・・・エスリンさんがこれを着ろって・・・・」

そう言いながらモジモジと所在なさげにしている彼女を見れば、例えどのような理性的な男であろうと宙を舞いながら空中で一気に服を脱ぎ捨ててしまう事だろう。
そう。まるで世界を股にかけて暗躍する某大怪盗(三代目)のように。
その様子をクスクスと笑いながら見ていたエスリンが

「それでも、裸エプロンよりはマシでしょう?ビックリしましたよ。今朝戻って来た時は。」

そう言ったのでかすみとあすみはさらに驚いた。一体何故そうなったのだろうか。

「おまけに、その姿で作った七分炊きのごはんと、ダシの入ってない吹きこぼれたおみそ汁をご主人様に・・・・・・・」

「わ〜!それは言わないで〜!!」

葉子は大急ぎでエスリンの口を塞いだが、彼女が何を言わんとしてたかは二人にしっかり伝わってしまっていた。

かすみとあすみが葉子の以外な一面を知って驚き戸惑いつつも少し喜んでいた時、ドアの向こうから「おおほいほい。おおほいほい。」という間の抜けた声が聞こえてきた。
葉子も含めて三人は不思議な表情でその声を聞いていたが、エスリンだけはやれやれといった感じで片手で自らのその美しい顔を覆った。
やがてその声は大きくなりドアの前で立ち止まった。

「一応ここの家主なんじゃが、開けてもいいかね?」

そう言うなり、ドアを開けて入って来たのは勿論聡であった。

「やあ皆さんお揃いで。ここまで見事に美女ばかりじゃとさすがに壮観じゃね。」

入ってくるなり軽口を叩いた聡はその場を見渡すと

「立ち話もなんじゃから中に入ろう。エスリン。お客様に紅茶をお出しして。」

そう言うと、聡は美女三人を引き連れてダイニングに向かった。

「それにしても、聡さんはエスリンさん達を迎えに行った筈なのに、何で一人だけ後から帰って来たんですか?」

葉子のその問いに

「いやぁ。外に出た時に煙草の葉を切らしているのを思い出してね。ついでに買いに行ったんよね。」

二人の後ろを歩いていたかすみとあすみは同時に「嘘こけっ!」と心の中で呟いたが、聡がアゲハチョウを追っていた事は喋らなかった。
日なたと日陰の間を往くアゲハチョウを追って行くとやがて涅槃へと導かれると言うが、この男の場合はそのうち本当に死にかねないとかすみは思い、ため息をつくのであった。



午前11時20分:

リビングに通された客人達は、その居室の持つ雰囲気に息を飲んだ。
折上天井の落ち着いた赴きも、その天井からつり下がっている質素な、それでいて安物には到底思えない照明器具もその部屋を飾る豪華で清貧なインテリアと言えるだろう。
柔らかく暖かな色合いのフローリングは来客をもてなすには最適ではないだろうか。
広々としたリビングの中央には重厚な濃い色合いの本革張りのソファがガラステーブルを囲うようにして置いてある。
西側に大きく開かれた窓からは午前中の終わりの明るい日差しを間接的に取り入れている。

ソファに招かれた3人の美しい客はエスリンの淹れた紅茶を飲みながら、しばし憩いの一時を楽しんだ。
並んで腰を下ろした西野姉妹の対面側に聡を挟んで葉子とエスリンが座っている。
聡にとってはまさに両手に花であるが、当の聡は油断怠りない視線をかすみにそれとなく向けている。
それは、この場にいた者の内ただ一人を除いては気付かれる事はなかった。

かすみと葉子は、昨夜の出来事の情報を交換しあい、今後の報告等について話をしている。
その横であすみが妙な表情を浮かべているのでそれを見とがめたかすみがあすみに言った。

「何よあんた。さっきから変なカオして。」

「だって。聡お兄ちゃんさっきからお姉ちゃんの胸ばっか見てますぅ。」

突然そう言われて、かすみは無意識に両手で自らの豊満な胸を隠すとキッと聡の方を睨みつけた。
しかし、この時すでに聡は応報の罰を受けていたのである。
聡の両端に座っていた葉子とエスリンが聡の両の頬をつねり上げていたのだ。

「いひゃいいひゃい!にゃいふんの〜〜〜!!」

聡が間抜けな悲鳴を上げた。
二人が聡を離した後も両の頬の痛みは当然消えなかった。
腫れ上がった頬を両手で覆いながら、しかし聡は真剣に考えていた。

(そうか!あの人の目的はこれじゃったんか!!)

ぷぅっとほっぺたを膨らませて可愛らしく怒っているエスリンと葉子をよそに、再び聡はかすみにその視線を投げ掛けた。
他の者の目には映らないその人影を聡の目は正確に捉えている。
1mを少し越えるかそこらの小さな黒衣の女の子がかすみに後ろから抱きついている。
金髪金目の可愛らしい顔立ちの少女である。
ただの黒い布としか見えない衣服を身に纏っているその少女は、背中に彼女の背丈よりも遥かに長い長剣を不格好に背負っているのがわかる。

(アリスかっ!!・・・・・・結局のところ、あの人はかすみちゃんの運命を『剣の魔女』と関連付けるためにやって来たという事か・・・・・)

そう思いながら、聡は再びそれとなくかすみの左胸を見つめた。
他の者には見えないようだが、聡の目にはかすみの左胸にわずかな変化を感じ取っていた。
それはまるで透き通っているようで、目には見えない暗示のようなものであった。

(やはり当然そう言う事になるわけか・・・・終いにはどのような結果をもたらすか誰にもわかるまい。)

しかし、禍々しいことにはなりはしないだろうと聡は考えていた。
ひょっとすると、彼が考えている今後の幾つかの出来事にあって、彼女の成長こそに何らかの答えがあるのではと聡は考えた。

(・・・・この際しょうがなかろうて。)

そう思うと気を取り直して聡は言った。

「ぢゃ、ボチボチそれぞれがやるべき事をやろうでないの。とりあえず葉子ちゃんは報告書とやらを作らんにゃ。それと、葉子ちゃんをそのナリのまんま帰すわけにもいかんから、服を買ってこんとね。付き合ってくれるかなお二人さん。」

そう言うと聡は席を立った。

「それじゃ、よろしくね。」

葉子もかすみ達にそう声を掛けると立ち上がったが、急に立ち止まった。

「そうだわ。あすみちゃん。私のバッグもってるでしょ?あれにレポート用紙も入ってるのよ。」

そう言われてあすみは思い出したらしく、その傍らから高級ブランド品である葉子のバッグを取りだした。

「ほえ〜。たっかいモン持っとるんじゃね。金持ちじゃのぉ。」

「そうですね。未だに手取りで20万に届かないご主人様とはえらい違いですね。」

「うるへー!!さて。そんじゃ行きまっか。」

そう言うと、聡は美人姉妹を引き連れて出かけて行った。



午前11時50分:

「ばれいしょってナニ?」

「ジャガイモの種類でしょ。」

「てんさいってなんだ?」

「北海道で取れる砂糖の原料ですぅ。」

自動車が1台ギリギリ通れそうな狭い道路ではこういったやりとりが随分長い事続けられている。
西野姉妹に対する聡の接し方は、葉子の時のそれとまったく変わらなかった。
実に下らない質問を二人に投げ掛けては、正しい答えが帰ってくると感心し、間違っていると無言のままなのである。

「日本の周囲200海里の海を・・・・」

「排他的経済水域でしょ!いつまでそんな下らない事を言うつもり!?」

業を煮やしてかすみが声を荒らげるのも無理からぬ事だろう。
先の通り聡の彼女達に対する扱いは葉子とまったく同じで、「ここ、昔行ってた自動車学校。」とか「ここ、まずい弁当屋。」等と下らない寄り道が異様に多い。
おかげで、マンションから歩いて5分もしない場所にある路面電車の停留所に行くのに既に25分以上かかってしまっているのだ。
しかし、かすみがイラついているのは他にも理由がある。
彼女にはどうしても解決したい疑問があるのだ。

「いいかげん答えなさいよ。あんた、葉子さんには業界との繋がりを否定しといて、あのマンションにはIMSOの紹介で行ったらしいじゃないの?」

そうなのである。先日聡は葉子にその件で聞かれた時に

「わしは業界とはじゃじぇんじぇんカンケー無いよ。」

と完全に否定していたのだ。にもかかわらず、広島市から徐霊の依頼がIMSOに出され、その依頼を受けてマンションに現れたのは聡だったのである。

「謎は多い方がこの世の中は面白いじゃろ?あんまり何でもかんでも知りたがらん方が身のためだと思うが、ね・・・・・」

そう静かな口調で語った聡に憤りを感じたかすみが彼を怒鳴ろうとして、しかしすぐにそれをやめてしまった。
かすみの傍らに立っていた妹のあすみ共々、この時の聡の表情は脳裏に焼き付いて離れる事は後々までなかった。
その姿は非常に背が高くていかめしく、その瞳の奥には灰色の光が宿っていたのである。
しかし、聡は一人心地で静かに笑うと

「電車の中で話してあげよう。あれはわしも騙されたようなもんじゃ。」

諭すような、そしてやや疲れたような口調でそう言った。
彼はそれ以降、少なくとも電車に乗り込むまでその口を一切開かなかった。

やがて3人はそれまで歩いていた狭い路地より広めの道路に出た。
優に片側で3車線は取れそうな広い道路に片方の車両は1車線ずつ。
その対面方向の車線の真ん中に2本のレールが2対敷いてある。
そこは広島市の港湾部から中央部を通って駅前に走り抜ける市内電車の通りだったのだ。
線路の側のコンクリートで固められた、車道より一段高い場所がどうやら停留所のようである。

3人が停留所につくと程なく一台の酷く時代遅れな感じのレトロな電車がやってきた。
車体の上半分は肌色に、下半分は深い緑色に綺麗に塗装されてはいるが、全体的に古い雰囲気は消す事はできない。
車両の前側と中央部に扉があり、それぞれ「出口」「入口」と赤い字で書かれている。
よく見ると車体後部にも扉はあるようだがそちらには何も書かれていない。おそらく現在は使用していないのだろう。
電停の中央部に停車した電車の入口は観音開きになっている。

やや高目のステップを上がって電車に乗り込んだ3人は車内をぐるっと見渡した。
土曜日の午前中とはいえ既に遅い時間帯である。車内は年齢もさまざまな男女で込み合っていた。

「どのみちわしらを含め殆どのモンが同じ場所で降りるから後ろの方に行こう。」

そう言って聡はかすみとあすみを促して車両後部に移動した。
電車に揺られている間に聡は、先程かすみが口にしたあのマンションに係わる事に関してかいつまんで話し始めた。

カリフォルニア州立高校のロサンゼルス校を5年掛けて卒業した後、現在勤めている九条ワークスに入社してから半年たった頃である。
聡は高校在学中にその力が本格的に発露し始めた事を評議会で証言した。
そのため彼は五賢王から、野黒島以外に生活拠点を移す事を禁じられてしまったのだ。
とはいえ、残業や会社の付きあいで帰りが遅くなる事が少なからずあるものである。
しかし、野黒島方面に出港している船の最終便は11時であるため、やむなく残業を途中で切り上げたり、付きあいを断ったりする日があった。
そんな訳で聡は常々、帰りが遅くなったりする時の為に家賃の安いアパートを借りる事を考えていたが、差し当たり資金的な余裕がないため我慢していたのである。
そこへ玉鼎王がこんな話を持ちかけて来たのだ。

「お前、タダで住めるマンションがあるんじゃが行ってみんかね?」

このじいさんは他の事はともかく嘘を言った事がない。
何かワケありだろうと感じつつも紹介された場所を訪ねて行ったのが運の尽きだった。

「ありゃぁえらい事じゃった・・・・・・・何せ怒り狂って半ば悪霊と化した連中と渡りあうハメになったんじゃからね。」

その後は大わらわである。聡は父親譲りの徐霊法で幾人かの比較的善良な霊を鎮める事に成功したが、マンション到着から12時間後に撤退せざるを得なかったのであった。
いかんせん、敵の数が多すぎたのである。
当然、玉鼎王に騙された格好ではあるが、そのマンション業者の担当者から

「徐霊に成功したら、このマンションのお好きな部屋で好きなだけお過ごしください。」

と言われてしまい、しょうがなく引き受けるハメになったのである。
その後は結局聡一人の手には負えなかったため、安寧王こと入間瑠璃(いるま るり)の友人であったエリスの助力を得て、事態の沈静化に至ったのである。

「んで、結局徐霊には失敗ってわけさね。エリスさんはその気の無い霊をあの世には連れて行かんし。で、わしは業者と掛け合ってあの霊達を外に出さんという条件であそこを格安で借りているってわけさね。」

聡がこう話している間に、電車の中はどんどん混んできた。これは聡にとっても予想外の事態であった。
広島市の各道路はとても入り組んでいるため、マイカー等で移動するのには決して向いていない。
そのため、市民は交通機関を利用するのだが、それでも広島の街を移動するには適しているとは言い難い。
体力のあるものであれ無いものであれ、殆どの人は自転車で移動する事の方が多いのだ。
近年はその自転車の乗車マナーの低下のために事故や小競り合いが後を絶たないらしい。

「こげに混んで来るとはね・・・・珍しいの。思ったより大変じゃ。」

かすみは、聡がそう言いつつも自分たちが他の客に押しつぶされないように腕を延ばして庇ってくれていることに突然気がついた。
この業界は普段からまさに命のやり取りである。そのため、殆どの場所において男も女も関係ない。
事実、どのような現場であっても自分が女として扱われた事は陵辱される時を除いて全く無いとかすみには断言できる。
しかし、この男はどうやら違うようだ。

(この人はあたしの事を『女の子』として扱ってくれている・・・・・?)

そう認識した時、かすみは何か面映ゆいものを感じた。
そして、どうやらあすみの方もそれを感じているらしく、何やら顔を赤らめて下を向いている。

「?どしたん?二人とも。」

そう聞く聡の顔をまともに見ることができないまま、目的地である「本通り」の電停に到着するまで2人はうつむいたまま何も言わなかった。

電車を降りた3人はそれぞれの思いで彼らを運んでくれた電車を見送った。
かすみとあすみはまだ自分たちの顔が赤らんでいるのを感じている。
しかし、聡はなにやら感慨深そうに走り去っていく電車を誰よりも長く見つめ続けていた。
その表情には若さも老いた影も見えず、ただその黒い瞳の中に悦びと悲しみの数々が刻まれているようで、夕闇の影のようなその黒髪には幾筋もの白いものがまるで銀の生糸のように混ざっている。
信号が変わり、人々が動き出しても歩き出す気配を見せない聡を2人が不思議そうに見ていると、彼はゆっくりと口を開いた。

「あの電車は、今現存する『被爆電車』の中でも唯一の現役なんよ。」

そう言う聡は半ば夢を見ている人のようであった。

「さて。あんた達二人にとっては楽しいショッピングの時間じゃね。目的地はこの向こうの通りじゃ。」

それまでとは違う実に快活な口調でそういうと先に立って2人を本通りへといざなって行った。



同時刻:

マンションに居残った葉子はレポート用紙を前に、必死で報告書を作成していた。
不必要に広いリビングの真ん中にあるガラステーブルの上に置かれたレポート用紙に向かって、何度も推敲を重ねながら何とか作業を進めているが、まだ一枚も仕上がっていない。
実は葉子が未だ大学の卒業に至らないのにはここに理由がある。
彼女は起こった事象を正しく認識し、かつ整理して論理的に纏める作業、つまりレポート作成が大変に苦手なのだ。
もちろん、仕事が忙しくて単位を落としてしまっているというのもあるが。
そんな彼女も既に大学に入学して5年目であった。

「ええ〜っと・・・・・それでその後・・・・」

床に直に座ってレポート用紙を相手に必死に格闘しているゴスロリメイド姿の葉子を脇に見ながら、エスリンがお茶を淹れてくれている。
彼女は葉子の方に湯飲みを差し出しながらレポートを横から覗いた感想を口にした。

「あらあら。えらく平仮名が多いレポートなんですね。」

「う、うるさいなぁ。いいのよ。この方が読みやすいんだから。」

「読みやすいんですか?句読点が無いのに。」

「もう、いいじゃん!少し静かにしてて!!」

ぷんぷんといったポーズでそう言う葉子をかわいいと思いつつ、エスリンは黙って作業具合を暫く観察する事にした。
黙々と作業をしていた葉子は一息つこうと湯飲みに手を延ばしたが、湯飲みを掴む前にその絵柄に絶句した。

「な・・・・何コレ・・・・・」

その湯飲みには金髪女性の水着姿がプリントされているのだが、その水着の部分がどうもおかしい。
まるで、後から意図的に塗りつぶされたように立体感がないのである。

「ああ。その湯飲みはですね。水をかけると写真の女性がヌードになるんですよ。」

ニッコリ笑いながらエスリンがそう答えた。

「どこからこんなモノ・・・・・」

「ご主人様が買ってきたんです。確か宮島で。」

「・・・・・・」

『天橋立』や『松島』と並んで日本三景に表されている景勝地で販売する土産としては、あまりにも低俗なのではないだろうか。

「もう一つあるんですよ。」

「別に見たくない・・・・・」

お茶を飲む気にもなれず、葉子は再びレポート用紙に向かって作業を再開した。
その様子を暫く見ていたエスリンが再び口を挟む。

「それ、漢字間違ってますよ。『内』が『肉』になってる。」

「わっ!ホントだ・・・・消しゴム消しゴム・・・・」

「ボールペンだから消しゴムじゃ消えませんよ。」

「あっ、そっか・・・・ツバで消えないかな?」

「やめて下さい!修正液探してきますから。」

そう言ってやれやれといった様子でリビングを出ていったエスリンの服のスカートからチラリと白いものが葉子には見えた。間違いなくパンツだろう。
よくよく考えると、彼女の着ているワンピースのミニスカートは短すぎるという程ではないが、非常にめくれやすい材質・形状なのではないだろうか。
そうであれば、それもきっと聡の趣味なのであろう。そう考えて葉子は一つ小さなため息をついた。

程なくして修正液を持ってエスリンが戻って来た。彼女は戻るなり修正液を楽しそうに振りながら

「さあ。間違った所にこの白いモノをぶっかけましょうね。」

と、とても嬉しそうにそう言った。

「いい・・・・自分でやる・・・・・・」

「そうですか?」

エスリンはとても残念そうな表情で修正液を葉子に手渡した。
間違った個所に修正液を塗った葉子はその白い液体が渇くのを待っていたが、ふと疑問に思った事を口にした。

「エスリンさんはなんで聡さんの使い魔になったの?」

葉子が疑問に思うのも無理からぬ事だろう。
人とは愚かな生き物である。たとえ『それ』自体がどれ程危険であろうと、必ず手を出してしまうものなのだ。
どのような苦痛に耐え抜く事のできる剛の者でも、深海の底よりも深い悲しみに耐える事のできる胆力のある者でも『それ』に抗う事は決してできないだろう。
『それ』は『快楽』である。
人が持ちあわせる108の煩悩。それは一重に人が持ち合わせる『欲求』の現れであり、それが満たされる事によって得る『快感』または『快楽』を人々は求めて止まないのだ。
あるいは、それこそが人類の進化の原点と言ってもいいのかもしれない。
エスリンは葉子やかすみ達が直感で感じた通り、その『欲求』の一つである『性的快感』を無尽蔵に他者に与える力を持つ。
その力によって搾り出された『精力』を生きる糧とする、平たく言えば「淫魔」なのである。
さらに、葉子の考えていたよりもエスリンは淫魔としての位はかなり上級なのだ。
いかに聡が凄まじい使い手とはいえ所詮は人間である。
彼女程の上級な魔族がその下についているというのはあまりにも不自然な事であった。

「そ・・・・・それはその・・・・・・・最初はこの世界に出た時の最初の餌食だった筈なんですよ。」

そう言ってエスリンは、聡の使い魔になるまでの顛末を話し始めた。
それは3年前のある夏の酷く蒸し暑い夜の出来事であった。
既に淫魔としては魔界においてトップ5に入る実力の持ち主であったエスリンは、この世界に降臨して全ての生命体から精力を吸い出そうと考えていたらしい。
ただ、それは全ての生物を滅ぼすためではなく、全ての生物から少しずつ精力を吸い取って、一番美味いのはどれか調べようと思ったからである。
ところが、最初にターゲットに選んだのが聡であったのが運の尽きであった。

「逆に、私の方がイカされてしまいまして・・・・・」

そう言って右手を頬にあてて顔を赤らめているエスリンを見て葉子は唖然とした。それも無理からぬ事である。
淫魔といえば、人間では到底及びもつかない程に性技に精通している筈である。
それが、一介の人間である(筈の)聡にイカされたというのだから。既にそれ自体が戦慄すべき出来事ではないだろうか。

「くわしくは知らないんですが、なんでもご主人様はそういった感覚を全てマヒさせる方法を知っているらしいんです。」

かくして、同じ淫魔族でさえも喰いものにしていたおそるべきエスリンをその支配下に置いたと言うのだ。しかし、これは実に妙な話である。
彼女程の淫魔にもなれば、例えどのようなメンタルブロックを行おうと彼女が与える快楽と言う名の鎖を無視する事はできないだろう。
それは恐らく、この世界にいるどのような術者であれ何であれ同じ事だ。
例えそれが葉子達のボスであり、人類史上最強の退魔師、世界最高の魔術師、『極東魔女』の異名を持つ西野那由ですら、最後まで凌ぎきる事などできないだろう。
そんな恐るべき淫魔を相手に聡がイカせたとはにわかには信じがたい。しかし、エスリンは間違いないと言うのだ。
そして、その後彼女は半ば強引に聡の使い魔となる契約をさせられたという。
たとえそれが不本意であったにせよ悪魔族に取って『契約』は、こういった表現が正しいかどうかは疑問だが神聖不可侵なものである。
彼女と聡が交わした盟約は『彼の意に服する』と言う事。つまり、彼の命令に対して絶対的に服従する事であった。

「だから、あの獣の姿も今の姿もご主人様の趣味なんですよ。」

本来の彼女は褐色の肌をした、3対6枚の羽根を持った淫魔なのである。
そんな彼女が聡の趣味で今のような姿にされ、揚げ句には放尿しながらのフォラチオを強要されるなどの屈辱的な、しかし喰うに困らないあるイミ幸せな状況下にあるというのだ。
しかし、そんな彼女にも不満はあるようで

「なのに、ご主人様ときたらここに来る時はいつも女の人を連れて来るんですよ。私という者があるというのに。」

そう言ってエスリンはほっぺたをぷくっと膨らませた。
葉子はしばらくその様子を見ていたが、突然両手でエスリンの頬を押さえた。
エスリンがプシュゥという音を出して頬にためていた息を吐きだす。

「もう〜。何するんですかぁ〜。」

ポコポコと葉子を叩きながら怒っているエスリンの攻撃を笑顔で受けながら、葉子はこの事実を報告書にしたためた。そして、この事が西野那由を、自分の足で広島にやってこさせる理由の一つとなったのである。



午後0時30分

中四国地方でも随一と言われる大型繁華街、本通りには数多くの店が立ち並んでいる。
その多くはファッションショップやコスメティックショップだったりするのだが、その他にも当然喫茶店やレストラン、本屋に靴屋、おもちゃ屋に携帯電話の店、果ては近隣各所のアンテナショップや多くのテナントが入ったショッピングセンターなど、居並ぶ人々の需要を満たすには十分な店がずらりと並んでいる。
メインストリートは新しい、シャープなデザインのアーケードがかかっており、例え雨の日に乳母車を押した親子が買い物にやって来ても不便はない。
まさに広島市の中心地と言っても過言ではないだろう。
アーケード街を行き交う人たちも、様々な年齢の人がそれぞれ思い思いの服装でお目当てのショップを探し歩いている。
しかし、たとえどのような連中であっても『この3人』程他者の目を引く者はいないだろう。

「・・・・・何でこんな格好で・・・・・」

怒りというよりは、やや戸惑ったような口調でかすみが言うのも無理はない。
今彼女が身に纏っているのは西野(株)指定の制服ではなく、いわゆる「女子高生」ルックなのだ。
スカートは赤を基調にして行く筋かの緑やグレーのチェックをあしらったスコットランドの伝統衣装、ハイランドドレスのキルトチェックのようである。
同じような模様のネクタイに袖の短い真っ白なブラウスは彼女の豊満な胸を隠すにはやや小さいのか、はちきれんばかりに引っ張られている。道行く人の視線を集めること請け合いである。

「え〜。すごく似合ってるからいいじゃないですかぁ。」

満面の笑顔で彼女の傍らに立っていた妹のあすみが言った。彼女はというと、いわゆる「ナース」ルックであった。
純白のという言葉では表現できない程に白い、やたらに短いスカートからは健康的な素足が顔を見せている。
彼女の頭上に控えめに乗っているナースキャップは驚くほど彼女に似合っていた。
コスプレマニアでなくても足を止めるのは自明の事であろう。

「・・・・自分で嬉しそうに選んどいて文句を言わんの。所で、なんでわしまでこげなナリをせにゃぁならんの?」

そう言ったのは西野姉妹の少し後ろを歩いていた聡であった。
彼の姿は、彼の普段の格好の通り趣味の良くない色合いのTシャツと程よく色落ちしたジーンズであるが、普段のそれと違うのは下ろしたての新しいスニーカーと右手の薬指に輝く銀の指輪、そして頭上に燦然と輝く「パンダのかぶり物」であった。

「だってぇ〜。聡お兄ちゃんだけ仲間外れじゃかわいそうですぅ。」

聡の方を振り返りながらにこやかにあすみが言った。

「いや・・・・・・この際仲間外れの方がええ・・・・・・」

冷や汗をかきつつこう答えた聡の意見は批判されるべき種類のものではないだろう。
10人いれば少なくとも8人はそう考えているはずである。

時間を少し遡ると、約1時間半程前。3人は服を戦闘で失ってしまった葉子のために替わりの服を買いに来たのであった。

「一時しのぎなワケじゃからあれこれ回るよりも、一箇所でそろえるほうがえかろう。それに、早く買い物が済めばそれだけ早く昼飯にありつけるしね。その後はあんたらの見たい場所をあまり遅くならん程度に見て回るとええじゃろうて。」

聡のその提案を受けて、3人は本通り商店街の東の端にある大型ショッピングセンターへ向かった。
昨今に限らず、ショッピングセンターというのは女性向けの商品を置いている店が非常に多い。
また、葉子が着ていた服も普段手に入りにくいものではない。
彼女は小物と車にはお金をかけるが、それ以外のものにはそれほど頓着がないのである。
葉子のくわしい体形を知らないかすみとあすみに聡が

「身長は162cm。チチは89cmのFカップ。腰は57cm。尻は86cm。ぢゃ、ヨロシクたのんます。」

そう言うと、自分はさっさとこういったショッピングセンターには良くある休憩場所に行ってしまった。
この男は将来、家族と買い物に行ってもおそらく子供と奥さんを放っておいて、自分はベンチに座って待っているオヤジになるのだろう。

葉子のスリーサイズを聡が知っている事をいぶかしく思いながらも色々歩き回った結果、かすみ達は葉子が来広時に着ていたワンピースとよく似たデザインで暗い紫色の、ただし前に着ていたものより幾分スカートの短いワンピースを見つけた。
目的にかないそうなものを思ったより早く見つける事のできた二人が、次に向かったのは下着売り場であった。
聡からのスリーサイズの情報のおかげで下着を選ぶのにも時間はかからなかったが、先程買ったワンピースを預けに行った時に聡が

「下着なんじゃが、できたらヌーブラで頼むよ。その方が見栄えがええから。」

と注文をつけたため、最初に考えていたより多少多めの出費となった。
何故かは知らないが、今回の買い物は聡の負担という事になっていたので自分たちの懐は痛まないわけではあるが。
本人曰く、『ヲッサンの見栄』らしい。

さて、下着を買った二人が何気なく隣の売り場に目をやると、そこには『マリーゴール堂』という名前のコスチュームプレイ専門店があるではないか。
戻って聡にその事をあすみが告げると

「ほうよ。あっこは品ぞろえがええ上に、それぞれの商品のクオリティも高い。もしあれじゃったら、あんたらも好きなの一つ選ぶがええ。おいさんが買ったげるわいね。」

そう言われてあすみは嬉々としてミニナースファッションを選んだのである。
また、かすみの方もあすみ程乗り気ではなかったにしても、最後は気に入った服を見つけた。
しかし、まさかその服をすぐに着る事になるとは思ってもいなかったのだ。
おまけに、聡はその店の常連で店員とも親しいらしく、おまけでパンダのかぶりものをプレゼントされたのである。
かくして、目を見張る程に美しいコスプレ美女2人と、できれば目を合わせたくないワケのわからないかぶり物男という、実に妙な3人組になってしまったのであった。

「ま、何はともあれ昼飯にしよう。何か食いたいものでもある?」

「服が汚れないなら何でもいいけど。」

「あっ。馬刺ってのぼりが立ってますぅ。」

あすみのそんな言葉を聞き流しながら、周囲の視線を気にした聡は二人を裏通りの方に案内した。
いや、正しくは周囲の空気である。それはまるで、邪悪な何かが油断怠りなく見張りでもしているかのように張りつめた殺気をはらんだものであった。
しかし、それは主として聡に向けられているようで、現に彼の二人の連れは気がついてはいない。
聡に案内されて裏通りに出ると食べ物屋などの店が一切無く、単にビルの裏手側のようでかすみはいぶかり、あすみはあからさまにガッカリした。

「ワリぃんじゃがお二人さん。メシはしばらく待ってくれ。すぐに済むと思うからちょっと荷物を持っといてくれんかね。」

そう言いながら聡は、先程買った葉子の服と、かすみとあすみの制服が入った紙袋を二人に手渡すと突然姿を消した。
そして次の瞬間!!



ドゴォッ!!!



耳元でバズーカ砲を発射したような爆音が二人を襲った。それと同時に立つ事はおろか、その場に踏みとどまる事さえできないような凄まじい衝撃波が二人だけでなく、周囲の建物や電柱等に襲いかかった。

「な、何!!イキナリ!?」

最初に立っていた場所から数十メートル後方に、妹を庇いながらアクロバティックに着地したかすみが面食らったような声を上げた。しかし、彼女の疑問に答える者はない。
代りに、先程と同じような轟音と衝撃波が次々に暴威を振りまいている。

(彼が誰かと闘っている・・・・・)

直感でそう感じたかすみは怯えて突っ伏している妹を庇うように覆いかぶさりながら顔を上げた。
聡とその相手の姿を確認する事はできない。全く姿が見えないのだ。
おまけに完全に気配を消して闘っている。
にも係わらず、二人がぶつかり合う瞬間は爆音と衝撃波でそれとわかるのだ。
あたりのビルは壁に亀裂が入り、窓ガラスが音を立てて砕け散っている。
消火栓は吹き飛んで地下に溜まっていた水は間欠泉のような勢いで吹き出している。
マンホールはフタがずれたかと思うと、まるで木の葉の用に中空に舞い上がり、次の瞬間には無残な姿で地面に叩きつけられた。

「な・・・・なんなのよ。こいつら・・・・・・」

地面に突っ伏したまま顔だけを上げてかすみがつぶやいた。
彼女は、葉子が左腕を失った時の闘いの場に居合わせている。
その攻防の凄まじさは筆舌にしがたいものであった。
しかし、今彼女の眼前で行われている闘いはそれを遥かに凌駕している。
自分など到底入って行けるレベルの代物ではない事を彼女に知らしめるには十分と言えるだろう。

程なくしてその場所は大変に見晴らしの良い場所になった。
戦闘による衝撃波で全ての建物が完膚無きまでに破壊されてしまったのである。
後に残ったのは、無残に砕け散った瓦礫のみ。
周囲のそこかしこから人々のうめき声や叫び声が聞こえてくる。
目と耳を塞ぎたくなるような惨状の中、ようやく聡が再び姿を現した。
新品だった悪趣味なTシャツは既に服としての機能を果たしてはいない。
大きく破れた背中の部分には数々の入れ墨のような模様がハッキリと見える。
適度に色落ちしたジーンズはその使用度合にふさわしいか、それ以上のダメージを負っている。
今日下ろしたばかりの新品のスニーカーは既にボロボロである。後でエスリンにどやされるのは確実だろう。
しかし、なぜかパンダのかぶり物は殆ど無傷で、おそらく頭部を庇いながら闘ったのだろう。

かすみ達の少し前方に立っている聡の視線の先には見慣れない大男が薄笑いを浮かべて立っていた。
身長はとても高く、その姿は他を圧して恐ろしく巨大であった。
その背の高さをも感じられぬ程に横幅も広く、腕などはあすみの体の幅よりもある。
上半身は裸で、まるで古びた石のようにごつごつしていて、一見すると体脂肪など全く無いように見える。
乏しいあごひげはこぶのような武骨な顎にコケのようにちらばっている。
体は大きいが手足は短く、酷く不格好だ。
下半身は黒いスパッツを履いているが、その上からでも筋肉が隆起しているのがハッキリとわかる。
そして、何より目を引くのはその完全にはげ上がった頭部であった。

聡と、もう一人の男に共通点があるとすれば気配である。
目の前に立っている事が信じられない程に完璧に気配を消しているのだ。

「がっはははは!妙なナリをしているが腕は落ちちゃいねぇみてえだな。安心したぜ!」

太くて低い、耳障りなきしみ声で大男がそう言った。

「・・・・・・あんたは変わったな。前に会った時にゃ、まだなんぼか髪の毛が残っとったのに・・・・御愁傷様。」

「髪の毛の事は言うな!!13歳まで寝小便してやがった癖に!」

「言いやがったなこのクソハゲ!お前の母ちゃんで〜べ〜そ〜!!」

「か・・・・・母ちゃんのヘソの事をいいやがったなぁ!」

「ああ、言ったがどうした!ハゲハゲ!ハ〜〜〜ゲ!!」

先程の恐るべき闘いの次は極めて低レベルな言い争いが始まった。

「な・・・・なんなのよ。こいつら・・・・・・」

先程とまったく同じセリフを、先程とはまったく違う心境でかすみが口にした。それも無理からぬ事であろう。
その間にも、二人は実にしょーもない、そしてくだらない罵り合いを続けている。
かすみもあすみも、到底入って行けない、行きたくない闘いだった。

「・・・・ゼェゼェ・・・・それで六魔焔が誇る最強の戦闘兵器『羅刹王』(らせつおう)こと斉藤一男が一体何の用や?」

ひとしきり罵り合いが終わった後、聡がそう言った。
この時聡は気がつかなかったが、彼の後ろにいた西野姉妹はその名を聞いて震え上がった。
斉藤一男が六魔焔の構成メンバーであることは知らなかったが、彼の名前と性癖は業界ではかなり有名であった。

一言で言えば迷惑極まりないタイプである。
誰彼かまわず戦闘をしかけ、より強い者に勝利する事に悦びを見いだすタイプなのだ。
彼は残忍でも残虐でもない。単に周囲の事などまったく意に介さないだけである。
そのため、彼が一度動けば今回の様な被害が出るのは毎度の事である。
いや、むしろ今の所この程度で済んでいるのは僥倖と言えるだろう。
また、性についても見境が無い事でも有名で、ある意味魔物よりもタチが悪い生き物なのである。
さらに、先の通りその個体戦闘能力は軽く人間のそれを越えている。
マンガの敵キャラでさえこれほどヤバい相手はめったに出てはこないだろう。

「栗林のヤローが、今回でしゃばってやがるのはテメェの可能性が高いからちょっと見てこいなんて言うもんだから様子を見に来たのよ。」

「ほほぉ。随分と物見高いな。それとも、お前さんのような周りの事なんぞ気にかけん生き物ですらあの男が怖いのかね?」

聡にそう言われた時、一男の表情には明らかに怒気が走った。
その表情のまま笑みを浮かべながら

「怖いだと?俺様が羅扶麻王の元を去って奴についているのは、いつか奴と闘って倒すためであってやつに膝を屈したわけじゃねぇ!」

「まあ、口ではなんとでも言えるわな。あんたの実力ぢゃ、太陽が西から上がってもあの男には勝てまいて。」

バカにするような口調で聡がそう言った。まるで挑発しているかのようである。

「面白れぇ・・・・だったら今ここでお前の身をもって試してみるか?俺様がどんなに強いかをよ!」

「・・・・本気でやろうというのかね?よかろう。相手になってやろうじゃないの。」

そう言って二人はそれまでとは全く違った雰囲気で身構えた。

「念のため言っておいてやるが、今まで互角に見えたのはお互いが本気じゃなかったからだ。こっからはどうなろうと知ったこっちゃねぇ。あの世で泣き言を言うんじゃねえぞ!」

それまでのやや楽しんでいる感のある声音から、その声一つで相手を殺しかねない口調で一男が言った。
他を圧っするばかりに放たれたこの時の彼の言葉を聞いて震え上がらない者がいるだろうか。
もしいたとしたら、それは相当に無神経な人物か相当な傑人であろう。
実際、その場にいたとはいえ直接その言葉を投げ掛けられたわけでもないかすみとあすみは震え上がり、互いに抱きあいながらそのばに座り込んでしまった。
歴戦の強者と言っても過言ではないこの二人をしてである。
しかし、聡は

「御託はええ・・・・さっさと来い!」

彼が果たして前者なのか後者なのかは分からないが、ハッキリとした口調で一男に答えた。
その声を聞いて一男がニヤリと笑った。心の底が凍りつくような凄絶な笑みであった。

まるで影の下に入っていったかのようであった。
周囲を煌々と照らす昼の暖かな日差しは微塵も衰えてはいないのに。
空気が酷い臭いを放っているかのようであった。
幾つもの死体の上に死体を重ねた腐敗臭のようである。
空気は重く沈み、嵐が近い事を告げている。闘いの時が近づこうとしているのである。
しかし、闘いは意外な形で終了する。両者が再び拳を交える事なく終わってしまったのだ。
それは恐れおののきながらも、かすみが闘いの行く末を見つめていた時であった。
瞬きをする為に一瞬閉じられた彼女の瞳が再び開かれた時には聡の姿のみが視界から消えていたのである。
間髪入れずに凄まじい破壊音が幾つも聞こえ、彼女の右前方に建っていたビルの幾つかが倒壊する。
ガラガラと瓦礫が砕けていく音に混じって一男の怒気に満ちた声が彼女の耳朶に響いた。

「てめえ!邪魔するんじゃねえ!!」

周囲の空気を全て圧して他の場所へでも吹き飛ばすかのような大音声で一男が怒鳴った。
彼の視線の先には実に奇妙な姿の男が宙に浮かんでいる。

身長は一男には少し及ばないものの、確実に2mはあるであろう。
全身黒で統一された衣服は雲一つ無い空にまるで穴を穿ったかのようである。
昼の日差しを受けて銀色に輝いてはいるが、その頭髪は銀髪でも白髪でもなく灰色だった。
一瞬かすみは、昨日沙織に出会う前に見た黒い生き物(?)の事を思い出したが、あれ程には兇悪な気配を感じない。
だが、その威圧感はむしろ強力で、なにかの危険をはらんでいるかのように周囲の空気が緊張しているのがハッキリとわかる。
素顔の左半分を隠した奇妙な面は彼の持つ独特の威圧感と恐怖感を増長させるに十分であった。

「今回は控えろ。卿は闘いではなく確認を申し付けられていた筈だ。」

仮面に覆われていない蒼い目で一男を睨みつけながら、酷く静かで穏やかな、それでいて聞いている者全てが戦慄するような声音でたしなめた。
しばらく憎々しげに男を見上げていた一男であったが、足下につばを吐き

「まあいい。今回はてめえの顔を立てておいてやる。次はこうはいかねえからな!」

そう言うと一男は、そんなやりとりを見ていた西野姉妹を睨みつけた。
心の奥底までを射ぬくかのような恐るべき一瞥を投げ掛けるとニヤリと下品に笑って

「せっかく戦闘後のお楽しみもそこにあるってのによ。」

そう言い残すと一男は恐るべき笑い声を残して飛び去っていった。

一応の危機から脱した西野姉妹ではあったが、一男を引かせた男の正体は依然分からないままである。
すっかり怯えてしまった自らの心を奮い立たせてかすみは立ち上がり、ゆっくりと着地した黒装束の男に向き直ると音もなく刀を抜き放った。
彼女の本能は当面の危機はまだ去っていないと判断したのである。
しかし、男はかすみを安心させるかのように優しく微笑むと

「武器を下げられよ。私は貴女方に危害を加えるつもりはない。少なくともそのような命は受けていないのだ。もし、我らが刃を交える運命の元にあるとしても今はその時ではない。」

そう言われてかすみは刀を鞘に収めた。その所作を見ながら男は感心したようだ。

「なるほど。あの方の目に止まるわけだ・・・・・・所で、君たちの連れの男の心配をしなくてもいいのかな?私としては挨拶代わりの軽い一撫のつもりだったのだがね。」

「ほほぉ。じゃけぇ大した威力ではなかったわけか。それにしても随分な御挨拶じゃね。岸川・・・・・右近さんの方かな?」

突然後ろから声がしてかすみとあすみは心臓が飛び出る程に驚いた。
前方にはね飛ばされた筈の聡が自分たちの後ろに居るとは思わなかったのである。
おまけに、こんなに近くまで来ていたにも係わらず気配をまったく感じなかったのだ。

「兄上は今眠っているよ・・・・・・。さて、眠いわけではないが、私は帰らせてもらおう。」

「あそう?つれないねぇ。ま、あの腕力バカからこの二人を守ってくれた事に免じてさっきの一発はチャラにしてやろうでないの。」

おどけたような口調で聡がそう言った。

「それはありがたいな。」

実に物静かな声音でそう言うと、右近は再びゆっくりと宙に舞うとそのまま一男が飛び去った方向へと去っていった。
その姿を長いこと目で追っていた聡は暫くすると突然その場に座り込んだ。

「あ〜しんどかった。しかし、帰ってくれて良かったよ。正直絶望的な状況だったからな。」

そう笑って言った。

「さっきあの腕力バカが『お互いが本気じゃないから互角だった。』とか言っとったじゃろ?あの言葉には間違いはないよ。何せ、やっこさんは半分も本気じゃなかった。わしの方は半分以上本気じゃったがね。」

息の落ち着いて来た聡からそう聞かされてかすみとあすみは絶句した。
要するに、本気でやり合うと勝ち目が無いにも係わらず聡は一男を挑発していたのだ。
おまけに、六魔焔にこの人ありと業界に名を知らしめている『魔帝仙人』(まていせんにん)と呼ばれる仙術の鬼才、岸川右近まで出てきたのである。
今回三人の誰も命を落とす事がなかったのはまさに僥倖と言えるだろう。

言葉もなく押し黙っていたあすみの携帯電話が突然鳴った。
聡のマンションに残っていた葉子からである。
その電話の内容を知らされた時、かすみは驚きの念に満たされた。
なんと、彼女らの母親でもあり、西野怪物駆除株式会社の社長、人類史上最強にして最凶と言われる退魔師、西野那由が聡に会うために広島にやって来るという報せであったからでる。



午後2時18分

広島へと向かう『700系ひかりRail star』のグリーン車に一人の女性が座っていた。
見るもの全ての心を奪うほどに美しい人が。
夜闇で染め抜いたような漆黒の長い髪。ダークグレーのスーツに包まれた均整の取れたボディライン。
最小限のメイクに質素な、それでいて一目で上物とわかるアクセサリー。
そして、どこか匂い立つかのような大人の色香。若い娘には到底醸し出すことのできない雰囲気である。
彼女こそが、西野怪物駆除株式会社の社長、人類史上最強にして最凶と言われる退魔師、西野那由本人であった。
昼食時を少し過ぎた時間に、彼女の秘書である宗方洋子が葉子から送られた来たFAXを携えて社長室にやってきた。
那由と比べても普段からポーカーフェースでいる彼女の顔がいくらか蒼ざめているのを見て、これはとんでもない代物が来たぞと考えてはいた。
レポートに目を通すなり那由の体に戦慄とも快感とも取れる奇妙な感覚が駆け巡ったのである。
それは、ひょっとする『恐怖』だったのかもしれない。

葉子の送って来たレポートは正直読むのに大分苦労した。
どうも話が前後しすぎていて収拾がついていないのだ。
これでよく大学生などやっていられるものだと半ばあきれ、半ば感心する文面であった。
しかし、その内容を整理して考えるといくつかの気になる事実に行き当たったのである。
対象が評議会と係わりがある。それはいいだろう。
対象は退魔業界とは係わりがない。それもこの際構わない。
しかし、ある部分が気になったので那由はその点の調査をオペレーター班のリーダー、戌衣美帆(いぬいみほ)に直接命じた。F国の革命評議会メンバー、アンドリュー・ガルバドフ中佐についてである。
敏腕オペレーターであり、入社当初は初期調査等の業務も行っていた彼女だけあって、調査は恐ろしく迅速に行われた。
そして、それは少なからざる驚きと興味を那由にも、洋子にも、そして調査にあたった美帆にも与えるに十分だった。

聡は葉子に話をした時に『F国』と言葉を濁して直言しなかったが、これは『フムルグ共和国』、かつてフランス領ギアナだった地域に近年出来た国家である。
12年前にフランス軍が軍備縮小を理由に一方的に当地から撤退してしまった。
その後無政府状態となったかの地では共産主義国家『フムルグ』が誕生した。
しかし、世界情勢の変化について行けなかったこの国はその後の革命によって『フムルグ共和国』として生まれ変わったのだった。

国の成り立ち自体は他の多くの近代化した旧共産圏の国々とそれ程大差はないが、彼女達が注目したのは、『革命評議会』と呼ばれた革命軍の五人の主要メンバーだった。
革命軍のリーダーで後の大統領選挙で2選を果たした、初代大統領ミケーレ・アンドレッティ元大統領。(当時大佐)
革命軍の作戦の実に八割を担当し、現在も国軍の最高位である統帥参謀本部長の座にあるオリビエ・サントス元帥。(当時大佐)
市街地戦闘を得意とした実戦部隊指揮官で、今は退役して多くの牛に囲まれてのんびりと酪農生活を送っているバウム・キトレー退役中佐。
国土の殆どを覆う森林地帯での戦闘や情報戦による謀略を得意とし、退役した今はエッセンシャルオイル『ローズウッド』の交易で世界の名だたる大富豪になったトーマス・ダ・シルバ退役少佐。
そして、この四人の英雄達が口々に「彼の存在無くして革命は成功し得なかっただろう。」と言わしめたのがアンドリュー・ガルバドフ中佐であった。

革命中期に革命軍に加わった彼のおかげで革命戦争は終結したという。
もっとも、共産政府を終焉に追い込んだ最後のミッションで彼は命を落としているのだが。
アンドリュー・ガルバドフの名はフムルグ共和国においては神聖化され、共和制をしいているかの国において、永世国王として彼が愛したサンローラン・ドゥ・マロニーの遺跡を見下ろす小高い丘の上に埋葬されている。
その事自体は革命時の美談であろうが、3人を驚かせ、かつ強く興味をそそらせたのはガルバドフ国王の肖像画であった。
それは、長い戦闘に疲れ切って痩せているにしても、長く南米の強い日差しを受けて日焼けしていても間違える事はない。まさに蓮城聡その人だったからである。

勿論それ以外にも報告内容にはチラホラ気になる点があった。
3ヶ月前のメフィスト2の消滅を受けての調査だったのだから、当然本人にある程度の戦闘能力がある事は分かっていた。
しかし、まさかヒュドラ『7使徒』をまるで子供扱いにしてしまう程とは誰も予想だにしえなかったのだ。
おまけに、そのヒュドラの刺客の一人、カルマ・カルキリアからカルキリアの家系の者にしか使役出来ないとされていた『影魔術』を『盗み出した』という。これには驚く他なかった。
さらに、神代以前から伝わる伝承などにも明るいだけでなく、戦闘時に受けた傷がたちどころに治ってしまう回復力。
回復系の魔法や呪符の使用に長けたものであろうと、人間離れした医術を持った医者であろうと治す事のできない深手を負った葉子を治療した能力。
極め付けは淫魔をイカせた上、使い魔にしているという事実。
そして、これは那由の女の感だが、彼はおそらく葉子の心を射とめたのだろう事は報告書を見るに難くない。
一体どんな男なのだろうと少々楽しみであった。

休日とはいえ広島駅の新幹線ターミナルは比較的閑散としている感じである。
これは単に不況の煽りを受けているだけではなさそうだ。
駅の改札を抜けると耳慣れた声が彼女を出迎えた。

「あ、お母さん、こっちこっちぃ!」

大声でそう呼びかけて手を振っているのは彼女の愛娘、あすみであった。
那由自身トボけた性格ではあるが、さすがに衆人環視の中大声で呼びかけられると恥ずかしい。
だが、そうしないと娘はいつまでも手を振り続ける事は母親である彼女自身よく知っていたため、冷や汗をかきつつも笑顔で小さく手を振りかえした。
そのあすみの傍らにはもう一人の愛娘かすみが困り顔で冷や汗をかいている。無理もないだろう。
二人の娘は既にコスプレから西野(株)指定の制服に着替えている。
いくら母親とはいえ、業務の一環として社長である那由に会うわけだからそのままの姿でと言うわけにはいかないだろう。
もっとも、コスプレルックのままでもこの母親は喜んだのであろうが。

「お待ちしておりました。御無沙汰してます。」

娘達の後ろから巨漢の中国支社長の松井が那由を笑顔で出迎えた。普段はくたびれた背広を着ている彼であるが、さすがに本社社長の会うだけあって、それなりにキチンとした身なりをしていた。
そして、そのために彼が近年気にしているお腹が妙に目立つような気がする。

「お久しぶり。今回はこの子達がお世話になりました。」

と那由は松井に声をかけた。
そして、彼の後ろには出発時とよく似た、しかし違う色のワンピースを着た葉子と、悪趣味な怪物のイラストがプリントされた黒いTシャツ姿の聡が立っていた。
葉子に軽く会釈をると那由は聡に

「はじめまして。昨日お電話頂いた西野怪物駆除株式会社の西野那由と申します。今回の事は貴方にとってはさぞ迷惑な事だったでしょうけど。」

そう言って恭しく頭を下げた。
聡の方はああ、やっぱりと思いつつ

「これはこれは御丁寧に。このような時にのみお目にかかる事ができるというのは悲しい事ではありますが。」

そう言って聡も頭を下げた。

「ここで立ち話も何ですから、表のオープンカフェにでも行きましょう。」

松井にそう促され、6人はそろって歩き出した。



午後2時30分

広島駅のやや東よりの開けた場所にオープンカフェ「ボグナー」はあった。
去年の台風の後に新しく発注した看板には酷く『男前』な字で店名が書かれている。
その看板からは想像もできない、洒落た佇まいの店である。
午後も少し過ぎたあたりのこの辺りは人通りもまばらで、店の客は彼らの他には誰一人いない。
店内、というよりは屋外に並べられている真っ白なテーブルに席を占めると6人はそれぞれに飲み物を注文した。
あすみがキャラメルフラペチーノを注文した以外、全員がコーヒーを注文した。
グァテマラ産の上質の豆を使用したホットコーヒーはこの店の売りの一つである。

さて。各人の前に注文したものが届いてから随分時間が立つが、誰一人言葉を発する者はなかった。
西野(株)関係者はきっと那由が口火を切るであろうと考え特に何も言わなかったが、いつまでたっても、彼女の口からは言葉らしいものは出ない。
ただ、カップになみなみと注がれたコーヒーをすすっているだけである。
いつまでたっても話が始まらない事にイライラしはじめたかすみだが、那由と聡の様子が他の者とは違う事に気がついた。

二人はただそれぞれにコーヒーをすすったり、意味ありげに視線を交わしているだけであった。
少なくとも、はたから素人が見ればそうとしか思えない。
だが、そういった仕草の中で二人が思念を交わしている事は明らかだった。しかも、他の者には決してその内容を漏らさずにである。
あすみは不思議そうに首をかしげ、松井は厳しい表情で二人を見ている。
葉子は不安そうな表情で二人を見つめ、時折何か物思いに沈んでいるかのように目を伏せている。
その間にも那由と聡は『会話』を続けているようだった。
幾度か視線を重ねていた二人にも少しずつ変化が訪れているようだ。
最初は互いに神妙な顔をしていたが、今はどこか打ち解けたような雰囲気で、視線を交わす度に表情が変わっている。
特に、那由が突然ずっこけるかのように肩をずりさげた後、冷や汗をかきながら聡をジト目で睨み、その視線を受けて聡が困ったような笑顔を浮かべて『とんでもない』とでも言いたそうな仕草を見せたのには他の者の印象にも深く残った。

最初にイスに座った時から葉子は不安だった。
なぜなら彼女は、最初から那由にものものしい気配を感じ取っていたからである。
ひょっとしたら、那由は聡を始末するつもりでいるのではないだろうか?
考えられなくもない話ではあった。
彼の力は余りにも強大で、また時をおけばそれはさらに増大する事だろう。
今はこうして一緒にいるが、今後彼がヒュドラや六魔焔に力を貸す可能性だって無いわけではない。
なぜなら、彼にとって『正義』とは移ろいやすいものだからである。
ようやく会えた『お兄ちゃん』である。葉子としてはたとえ那由の意に反する事になっても聡の側につくつもりでいた。
そのためには彼らが今どのような話をしているかを知る必要があった。
彼女はその持ちあわせている強大な魔力を使って全力で二人の会話に干渉し、なんとか傍受する事ができた。

「・・・なたはきょ・・・・らをもっ・・・・・し、それ・・・・・にんげ・・・ので・・・・」

これは聡の声のようである。どうやら今は那由は一切を語らずに聡が那由の疑問に対して答えているようであった。

「たと・・・・きょうだいなまりょく・・・・・・たしをころす・・・・・ふういん・・・・いまはあな・・・・・しかし・・・・・ほんのひととき・・・・すぎないの・・・・ぜなら・・・・みのかけらだから・・・・」

酷く断片的で何についての話なのかはわからない。が、最後の一言ははっきりとわかった。

「まだ娘さん達を悲しませたくはないでしょう?」

実に無機質で、それでいて恐るべき一言を聡は放ったのである。

ついに全てが語り尽くされたのか、聡は傍らに置いてあったパイプポーチからパイプを取りだして火をつけた。
自らが吐きだした白煙をボンヤリと眺めながら

「それで、貴女はどうしたいとお考えですかね?」

そう那由に聞いた。この店に来て以来、飲み物を注文した時を除けば最初に発された言葉であった。

「駆除したいわね。今すぐに。」

事もなげにそう那由が言い放ったので周りの人間は色めきたった。
社長である彼女がそう言ったのだから、その場にいた聡以外の者はその命に従うのは当然の事だろう。
ただ、彼の闘いぶりを目の当たりにしているかすみとあすみはしり込みし、葉子は悲しそうに目を伏せた。
ところが、当の聡本人は

「無理でしょう。例え貴女を持ってしても。」

と言い放つ。周囲にいた者はで驚かなかったものなどいないだろう。
しかし、当の那由は軽く肩をすくめるだけであった。
ただ、彼女の表情には意味深な笑顔が浮かんでいる。

「どうしてもそうすると言うなら・・・・・バラしちまいますよ。」

そういって聡はニヤリと笑った。
この時他の者にはわからなかったが、聡がバラそうとしたのは『那由が本当はコーヒーが大層苦手である』という事だった。
もし、彼がその事をここで暴露してしまえば、彼女のクール&ビューティーなイメージは完全に損なわれてしまうだろう。
そうとは知らないかすみ達は一体何だろうといぶかったが、それ以上二人は何も語らず、ただ目の前にあるコーヒーにゆっくりと手をつけるのみであった。



午後3時

新幹線の乗車口の前で葉子は、聡との別れが名残惜しく、いつまでも彼の傍らから離れようとはしない。
そんな彼女に聡は

「この星の上、この空の下に生きているのであればまた会えるよ。まあ心配しんさんな。そう長く間を置く事もなく会えるじゃろうから。」

その美しい瞳に涙を浮かべながら自分を見つめる葉子をなだめるようにそう言うと、聡はそっと彼女を抱きしめた。

「そうだ。これをあげよう。」

そう言って聡は自分の右手の薬指に輝く指輪を外すと葉子の左手を取り、その細く美しい指にはめた。
それは美しくはあるが流麗な細工等は全く無い、少し地味な印象を受ける指輪であった。
ゆっくりと指輪が自らの薬指に収まった次の瞬間、葉子は我が目を疑うような出来事を目撃する。
なんと、それまで聡の指のサイズに合っていた筈の指輪が瞬く間に葉子の指にフィットするサイズに『小さく』なったのである。
驚きのあまり目を白黒させている葉子の顔を上に向かせると、聡は葉子の可憐な唇に自らのそれを重ね合わせた。

時計は15:11を差している。もはや発車の時間である。
ホームにはその事を告げるサイレンが鳴り響く。
葉子にはそれが自分と聡の間を分かつ号令であるような気がした。
ゆっくりと扉が閉まり、新幹線が動きだす。この列車に乗って元の場所へと戻っていくのだ。
しかし葉子にとって、それは愛する人の居ない世界へ連れ去られるも同然であった。
いつまでも客室に行こうとしない葉子を促して客室に向かおうとする那由が、ふとあすみの肩に目を止めた。

「あすみちゃん。肩に何かついているわよ。」

そう言って、那由はあすみの肩に貼り付けられている紙片を手に取って見た。
その紙片にはこう書かれていた。

『あっぱらぱー娘』

「むっか〜!絶対聡お兄ちゃんですぅ!むぅ〜!ぜっっったいに仕返ししてやるんだから!!」

「『安寧王の力』を使ったってワケね・・・・・この落書きがここにあるように運命付けたんだわ。それにしても、大層な能力の割には陳腐なイタズラね。」

そう言って那由は愉快そうに笑った。そばにいたかすみに至っては大笑いである。

「あははははっ!あんたにピッタリじゃない!!」

「むぅ〜!お母さんもお姉ちゃんもヒドイですぅ!!」

そんなやりとりを聞きながら、葉子は自分に対するメッセージはないのだろうかと考えた。
ふとバッグの中を見ると見慣れないメモ用紙のような紙が入っている。
何だろうと思って開いてみると、中から書きなぐりの汚い字でこう書いてあった。

『わしのなすべき事と、あんたの運命は複雑に絡みあっている。つまり、あんたはわしから逃げれんわけだから今回の別れを悲嘆する事はない。月並なセリフじゃが、愛してるぜベイビー!』

理にかなった言葉などありはしなかった。ただ、『愛してる』の一言が欲しかった葉子はそのメモを見て喜んだ。聡が自分の事を気にかけてくれていると実感できたのだ。
そんな彼女を西野親子は優しい目で見つめていた。
メモの裏に『銀の雫』の再建費用の見積もりと、壊された聡のパイプの弁償請求が記載されているのを彼女達が知るのはそれから2時間以上経ってからであった。

四人を見送った後、聡はしばらく松井と取り留めの無い話をしていた。
その中で聡は、自分の知りあいに県警の偉い方がいるので、今後退魔行に伴う事後処理には羽場狩という人物に自分の名前を出せばいいという事を松井に告げた。
松井にしてもこのテの事で煩わしい警察への対処が軽減される事を大変喜び、聡におおいに感謝した。
松井と別れた聡はゆっくりと歩いていた。

闇に住まいし者の魂に朝日が差すことはかなわない
君、道を誤る事なかれ

気の狂うほどの苦しい孤独の時間
かすかな物音に気付いた君は
愚かにも明かりに手を伸ばし
ドアを開けてそこを去る

夜の闇の中に

いくら叫んでも声は届かない
窓は閉ざされているから
覗こうとしてもその目には見えない
それは隠されているから

夜の闇の中に

そう。全ては夜の・・・・・闇の中に・・・・・・・・

エスリンの待つマンションにたどり着くまでに聡の胸中に去来するものが何であったのかを知るものはいない。
闇の裏側にありし者

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