闇の裏側にありし者
貴女にこれを授けます。
これはあなた達が作ったあの星の光で精練したもの。
どうという物でもありませんが、あなた達と私の記念にしましょう。
神人の長上王たる貴女と、光と焔の女神たる私。
貴女の名はサクラ。私の名はメヌエル。



「葉子さん。もうすぐサントリーニ島の上空です。」

シコルスキー社が誇る民間向けの高性能ヘリコプター「S-92」の機内でウトウトしていた葉子の耳に、スピーカーから響く戌衣深帆(いぬいみほ)の声が聞こえた。
元々軍用ヘリの生産で定評のあるこの会社のヘリコプターの乗り心地は快適の一言で、キャビンの広さなど商用に使用してもおおかた15〜19席は確保できる。
天井も高く、機内騒音もほとんど気にならない。
とはいえ、日本を出発して、第三国経由で30時間以上のフライトだ。
ヘリを操縦する深帆も当然だが、乗っている葉子の方にも大分疲れが溜まっているのは明々白々であった。
そのため、スピーカーから聞こえる深帆の声にもどこか安堵感のようなものが漂っていたし、それを聞いた葉子にも当然そういった思いが心のどこかにある。
だが、目的地への到着とは、つまり任務の始まりを意味する。
たっぷりと息を吸い込み、それを吐きだすと、葉子は窓の外に見える風景に目をやった。
ヨーロッパが世界に誇る観光地、そして、この星の至宝とさえ言われる美しきエーゲ海。
それに浮かぶ無数の島々の中に、今回の目的地、サントリーニ島がある。

「前に来た時は、目をきらきらさせながら見てたっけ・・・・」

そう。葉子は高校卒業の年に一度、このサントリーニ島を旅行で訪れていたのであった。
島の中心地であるフィラ。夕日のえも言われぬ美しさが有名なイア。紀元前9世紀頃に栄えた街の遺構ティラ遺跡。そして、今回の事件が起こったアクロティリ遺跡。
あの当時はまさに観光気分で、次はどこに行くか。何があるか。
そればかり考えて胸躍る気持ちで一杯だった。
まさか、その同じ風景を全く違った気持ちで眺める事になろうとは。
再び座席に戻った葉子はシートベルトを閉め、着陸態勢に入ったヘリに身を委ねながら行方不明となったかすみの身を案じるのであった。



「う・・・・ん・・・」

自らの頬に水滴が滴り落ちるような感じがして、キャサリン・ローレンスは気がついた。
ゆっくりと目を開くと、ボンヤリとではあるが薄暗い狭い場所に自分がいるのがわかる。
しかし、それ以上の事は何もわからなかった。
ひんやりとした床石の冷たさが背中に伝わり、さほど寒くないにもかかわらず悪寒が彼女の体を通り抜けていった。
なんとか体を起そうと試みるも、どういうわけか、身動き一つ取る事ができない。
あるいは、そんな「勇気」はとても持てないと言った方が正しいのだろうか。
とにかく彼女は、気がついた時と同じ格好のまま、冷たい石に背中を当てて天井と思える方をじっと見つめた。
やがて目もこの薄暗さに慣れ、意識もハッキリしてきた彼女は、自分の今置かれている状況を理解するため、彼女自身の記憶の糸をたぐって行く事にした。

米イェール大学で人文学を修めている彼女は、世界的にも歴史家、探検家として名高い同大学のトーマス・フランクリン教授が組織した「アクロティリ発掘隊」に参加したのである。
アクロティリとは、ギリシャが誇る美しきエーゲ海を臨む小島、サントリーニ島にある遺跡の事である。
そして、この遺跡こそが今世界でもっとも注目されているのであった。
理由は2つある。1つは、この遺跡こそが古代神代学で言われているアスターテ、つまり現代の言葉でいえばアトランティスの遺構ではないかという学説である。
この話題は、以前から学者達の間で論議が続いていた事ではあったのだが、近年に至ってこの遺跡の地下に巨大な地下神殿らしいものの影が地底エコー調査で発見され、そのため神代学者や考古学者から注目を集める事となった。
もう1つの理由は、かつて存在していた民間退魔団体としては空前の規模を誇る「四門会」である。
この四門会の崩壊以降、彼らが守護・封印していた4つのパワーポイントのうち、3つまでは明らかになっていた。
しかし、最後の1つ「青龍門」のみが未だにその所在が不明だったのだ。
それがどうやらこのアクロティリ遺跡のどこかにあるという事がまさに、地下神殿の存在が明らかになったのと時同じくして判明したのである。
こうして、神代学、考古学、退魔業界とそれぞれの分野から注目されるようになったがため、それまで一般にも開放されていたアクロティリ遺跡は、ギリシャ政府から許可を受けた発掘チームや退魔関係の機関に所属する人間以外は出入りができなくなってしまっていた。
島への出入りも大きく規制されてしまい、そのため地元の人々は不便な生活を強いられている。
おまけに、島の主要な資金源だった観光招致が一切できなくなってしまい、島民の収入は激減。
そのために、不満を持った住民達によって、発掘隊や学術調査団が襲われるなどといった小競り合いもしばしば起こっている。

ここまでは何とか思い出す事ができたが、それ以降の事、つまり自分たちが遺跡に入る前後の事がどうも判然としない。
確か、彼女がこの遺跡の中央に新たに発見された地下抗へトーマス教授らと共に入ったのは11:00だった。
周囲は相変わらず見えるか見えないかという程度の明るさで、窓などの外光を取り入れるものがないので時間の当て推量もできない。
地下抗に入った直後にトーマス教授と彼の助手であり、キャサリンの恋人でもあるジェームス・コットンが通路を西へ。
自分と、彼女が良く知らないIMSOとかいう機関から派遣されて来たというカスミ・ニシノという日本人女性が東へと向かい、一時間後にもう一度入口で落ち合う事になっていたのを思い出した。
連れとなったカスミという女性はなんでも、魔物や幽霊の類いを撃退する事を生業としている人物らしいという事以外はキャサリンも良く知らなかった。
ジェームスもそういった力を持っているらしく、ベッドでそんな話をいくつか聞かされていたが、彼女はそんな話は信じなかった。
ただ、ジェームスにしてもカスミにしてもとても礼儀正しく親切な人である事に変わりはない。
自分の事も不安だが、彼らはどうなったのだろう?トーマス教授は大丈夫だろうか?
ここで心配していても始まらない。
どうにか動き出す勇気と気力が自分に戻ってきたことを知ったキャサリンは、とにかく立ち上がると周囲の壁を調べ始めた。

四方を囲む壁を調べたキャサリンはため息をついた。
この壁には入口らしき隙間はおろか、継ぎ目のようなものさえ見当たらないのだ。
天井の高さはしかとは分からないが、彼女が手を伸ばしてもジャンプしてみても届く様子はない。
少し声を出してみると反響がかなりある。それを考えると天井はかなり高いようだ。
彼女が上から落ちて来たのであれば、それは絶望的な状況と言えるだろうが、体に痛みや怪我が無い事を考えると、彼女はなんらかの理由で気を失い、ここに運ばれたと考える事ができる。
誰がなんのためにそんな事をしたのかは知りようも無いが、もしその推測が当たっているなら必ずどこかに出入りできる箇所があるはずだ。
神代学によれば、その昔の優れた技法で作られた隠し扉は何らかの支配を受けていて、例えば合言葉であったり、あるいは特定の時間、特定の人物によってのみ開かれるものもあるという。
場合によってはそれらの条件を満たした上で、さらに鍵を必要とするものもあったとの事だが、特定の人物でなければ開かないのであれば、そのような技法が現代に伝わっていない以上は開く事はできないはずだ。
開く事ができないのであれば、キャサリンをここに運び込む事もできないはずである。
壁に穴一つない事から考えても、恐らく鍵の類いが必要なものではないはずだ。
そうなると合言葉か、あるいは時間という事になる。
時間であればその時を待つしかないが、合言葉であればそれらしい言葉を彼女もいくつか知ってはいる。
とりあえずそれらを全て思い出して言ってみようと思った時、彼女の後ろで音もなく壁が動き始めた。
突然後方から差し込んだ光に驚きつつも見つめていると、その入口の向こうから人影が見えた。
背の高いくすらりとしたその人はどうやら女性のようで、美しい曲線を描きながら隆起するくびれた肢体はそのシルエットしか見えないにも係わらずため息が出てしまう。
頭にはどうやら帽子を被っているようだが、その形はお洒落なキャサリンも見たことがない形をしている。
目が光に慣れてくるにつけ、どうやら質素ないでたちをしているその女性は、おそらく古いキリスト教の一派「アーミッシュ」の修道女のようだ。
キャサリンはこの時は考えもしなかった。
まさか自分の身にジェームスが話したような「事件」が振りかかって来るとは。
そして、一見この出来事とは無関係そうに見える修道女がその首謀者の一人であろうとは。



アクロティリ遺跡からほど近いレッドビーチを、アガティアス・グイード氏は毎朝散歩をするのを日課としていた。
愛犬のアカンサはいつも元気に波打ち際を走り回り、彼はそれを笑顔で追いかける。
もはやこの地域のこの時間帯の風物詩であり、彼を浜辺で見かける時間に時計を合わせる人も少なくはない。
今日もいつもの如く、アカンサを放し、その後を目で追っていたのだが、今日はどうも様子が変だ。
いつもであれば、ずっと遠くまで走ったあと、主人を振り返って追いかけて来るのを待っているのだが、今日はそう遠くない場所で、浜に打ち上げられた何か大きな黒っぽいものの周りでうるさく吠えている。
訝しく思って近づいたアガティアスは、一見すると浜辺に流れ着いた潅木の成れの果てとしか思えないものをじっと見た。
というのも、その漂流物はまるで人の服を着ているように見えたからである。
たまたまその木が人のように見えたから、どこかの物好きが面白がって服を着せて、それを海へと投げ込んだのかもしれない。
そう考えると面白いかもしれないが、それにしてはズボンがあまりにも上手く履けている。
妙だと思って上着を引っ張った彼は、あまりの恐ろしさに尻餅をついた。
これは流木が流れ着いたものではない。遺体だ。
なぜなら、黒く年老いた木の幹のようなものにしか見えないその遺体の頭部と思われる場所に、はっきりと目が2つ見えたからだ。
苦悶の跡がありありと見えるその目は、他が完全に干からびたように見えるにもかかわらず、その部分だけがいやに瑞々しくハッキリと人の目に見える。
暫くその姿勢のままガクガクと震えていたアガティアスは、やがて自分でもまるで分からない言葉とも叫びとも取れる声を発しながらその場を離れた。
彼の愛犬はなおもその遺体のそばでけたたましく吠え続け、やがて騒ぎを聞きつけた周辺住人や警察がどやどやと押しかけてきた。
遺体の身元はすぐに判明した。
衣服はトーマス探検隊のそれで、上着のポケットから身分証が出てきたのである。
被害者の名はジェームス・コットン。
トーマス教授の右腕にして、アメリカの退魔業界ではそこそこ知名度のある退魔士でもあった。



暮れなずむ西の空を男は一人、眺めていた。
涼やかな夜風にその身を委ねながら、今眺めている空がにわかに曇ってくるのをみとめた。
渇いたこの砂漠にさえも一時雨が降りそそぐ。
雨が通り過ぎると美しい三日月が夜空に輝いていた。

「龍が空へ昇るにはいい日かもしれんな・・・・・・」

輝く銀髪をなびかせて男はいずこかへと去って行った。
闇の裏側にありし者

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