那由さんの憂鬱 |
闇 闇 闇 ただ、ひたすらな闇―― 『そこ』は、闇が全てを支配していた。 闇に密度があるとしたら、そこは濃密の極致といえるだろう。光一筋どころではない。空気分子1つ、動く気配が無かった。 あるのはただ……暗黒と静寂のみ。 人間がこの空間に踏み込んだら、いかな豪胆な者でも、5分と持たず気が狂うだろう。 深淵なる静寂。 絶対なる暗黒。 全てが闇に閉ざされた世界。 それは世界開闢以前の姿なのか。 あるいは全てが滅んだ―― 「“白無のショウ”が滅びた」 闇の何処かが呟いた。 男なのか、女なのか――若いのか、老いているのか――それ以前に人間なのか――あらゆる個性が欠如した声。 「生きてはいる。心も魂も無事だ。だが、全ての“力”を失った」 聴く者全てが、発狂するのを避けられない声。 「再起不能――リタイア。というわけですか」 同じ類の声――しかし、明かな別人が放った声。 「……おも……しろい……われら……の……なか……に……けついんが……でるの……は……なん……びゃくねん……ぶり……か……」 「ンで、何が起こったっていうのサ」 「あの御方は、我等の中でも三本の指に入られるつわものでしたわ……余程の御事情が御有りでしたのでしょう」 「やれやれ、この忙しい時に……」 何者が話しているのか――それ以前に、これは如何なる存在の声なのか――闇は全てを覆い隠す。 しかし――その数だけは“なぜか”はっきりとわかる。 正確に――8つ。 「その原因を探るのが、今回の任務の1つだ」 「任務の1つぅ〜?じゃあ〜他に任務があるんだねぇ〜」 「それは追って指示する。さて、今回の“牙”だが――」 闇の何処かで、何かが蠢いた。 蠢きは徐々に形状を変え――4つの人影と化した。 人影? この闇の中で? 「“無限”」 「……了解」 「“聖母”」 「承知致しましたわ」 「“道化”」 「出番だねぇ〜♪」 「“静寂”」 「……え?あたし!?」 ほんの微かなざわめきが、闇の中を駆けた。 「……我等『ナイン・トゥース』の4人もが、動かなければならぬ件なのか?この時期は――」 「ヘッドの指示は絶対だ……それに“あいつ”が敵に回った場合、4人でも万全とは言えぬかもしれん」 「……あいつ?」 「今回の件が起こった地域に、あいつの所在が確認されている。あの――が……」 ……その名が出た瞬間――闇の中に、明らかな動揺が走った。 闇が震えた。 闇が戦慄した。 そして闇が―― ――恐怖した。 「――“ファー・イースト・ウィッチ”――」 「――ど、どういう事かね?それは……」 新聞やTVを普通に見ていれば、誰もが知っている有名人――彼は剥げあがった額を拭きながら、その言葉を反芻した。 「言葉通りです。総理」 いや、発言者を除く誰もが、その発言に呆然としていた。 国会議事堂第零会議室――納税者の誰もが目を剥くような豪華絢爛の部屋は、しかし今、その輝きも霞むほどの豪華なメンバーに占められている。 内閣総理大臣を始めとする各党党首に、IMSO(国際魔物対策委員会)の役員達など、まだ小者の方だ。世界経済を動かす大企業の総責任者の面々……国連常任理事国の国家元首達……日本仏教系退魔組織の総本山“闇高野”大僧正……バチカン特務退魔機関“テンプラーズ”騎士団長……イスラム退魔解放戦線“アズラエル・アイ”総大師……『この業界』に足を踏み入れている者にとっては、雲の上どころか太陽にも等しい超VIPの面々が、この極東の島国の会議室に集結しているのだった。 そして今、そのメンバーの視線を一身に集めているのは―― 「何もせずに、放っておきましょう」 ――『黒い薔薇』―― 美しい女性は花に喩えるものだというが、彼女の場合はそれが該当するだろう。 烏の濡れ羽色と呼ばれる艶やかな黒髪。ダークブルーのスーツに包まれた均整の取れたボディ。必要最小限に押さえたメイクに、シンプルだがセンスの良いアクセサリー。 そして、その辺の小娘には絶対に真似できない、大人の魅力に溢れた美貌―― この場の注目を集めているのも、発言の内容ではなく、その美しさの為ではないか。 「ふざけるな!!」 1番最初に我に返った某国大統領が、拳を円卓に叩きつけた。 「奴は魔界大帝――邪悪な悪魔達の親玉だぞ!!その存在が全人類に対してどれだけの脅威なのか理解しているのか!?奴がその気になれば、この地球ごと人類が滅ぼされるんだぞ!!」 「だから、です」 炎の如き怒声にも、彼女は顔色1つ変えない。 「……どういう事なのじゃな?貴方の考えを、もっと詳しく教えてくれんかね?」 温厚そうな好々爺――“闇高野”大僧正が、対照的な静けさで彼女に促した。 「――『西野 那由』さん」 その瞬間――静かな戦慄が一同の間を駆け抜けた。 誰かが――あるいは誰もが――息を飲む音が、広大な会議室にかすかに響く。 “西野 那由” その名前は、この業界――魔物を封じ、怪物を滅するを使命とする聖職――『退魔業』を営む者達にとって、特別な意味を持っていた。 それは―― 「相手が悪過ぎます。その気になるだけで地球ごと人類を滅ぼせる相手を、どうやって封殺しろというのですか?」 嫌味にならないぎりぎりのポーカーフェイス。独特の形に分けられた前髪の影に隠れた右眼が、妖艶に輝いている。よくよく見れば、左右の瞳の色が違う――俗に“オッドアイ”と呼ばれる瞳だ。 「それを考えるために、こうして我々が集結しているのではないかね?」 白銀の法衣に身を包んだ男――“テンプラーズ”騎士団長が、苛烈とさえいえる視線で、その瞳を正面から見据えた。 「そうですよ!!相手がどんな化け物だろうが、こうして世界中の退魔組織が力をあわせれば――」 「無駄です」 「っな……」 「相手はあの“魔界大帝”です。我々全ての退魔師が――いえ、たとえ全人類が世界最強の退魔師の力を手に入れて、一丸となって立ち向かっても、傷つけるどころか触れる事さえできないでしょう。相手と私達の間には、それほどの力の差があるのです」 「……し、しかし……」 「はっきり言います。魔界大帝がこの地球に降臨した瞬間から、世界の命運は彼に握られてしまったのです。私達人類の抵抗は、全てが無意味だと断言できるでしょう」 豪奢な会議室は沈黙で満たされていた。重苦しい沈黙であった。 ――世界の滅亡―― 絵空事でしか語られない戯言が、明確な現実として、彼等の肩に圧し掛かっていたのである。 「……つまり、貴女の言う『何もせずに放置する』というのは、全てを諦めて運命に身を委ねるという事か……」 沈黙を破ったのは、精悍な浅黒い肌を紅のローブに包んだ老人――“アズラエル・アイ”総大師だった。 「そうとも言えます。しかし――」 ここで始めて、彼女の――那由のポーカーフェイスに感情らしき色が浮かんだ。 「現状ではそれがベストと判断します」 それは苦笑だった。 「その根拠は?」 「先程渡したレポートの通りです」 一同――沈黙。 今の会議室を満たしている沈黙は、先程とは明らかに違う種類のものだ。 何か、あっけに取られているような…… 「……正直、このレポート内容を信じるのは、相当な勇気がいる行為なのだがね……」 「全て、事実のみを記載しています」 降り注ぐ不信の眼差しを、那由は軽く肩をすくめて受け止める。 「魔界大帝はその姿を人間に変えて、降臨地点の現地住民と接触。極めて平和的なコミュニケーションを取り、そのまま平穏な生活を送っています」 「信じられん……相手は邪悪な悪魔の親玉だぞ!?こんな事実は有り得ない!!」 「全て、事実のみを記載しています」 「……那由さん、つまり貴方が言いたいのは……」 大僧正の温厚そうな顔に、にこやかな笑みが浮かんだ。 「魔界大帝は、特に悪い事もせずに大人しくしておるのだから、放っておいても大丈夫だ……と言う事じゃな?」 「その通りです。むしろ余計なちょっかいを出して、怒らせる事の方が危険です。監視だけは続けて――いえ、監視も止めて、このさい完全に無視しましょう。手間もお金もかかりません。」 那由も微笑で答える。しかし周囲の反応は―― 「冗談じゃない!!」 「ふざけるな!!」 「そんな馬鹿な話があるか!!」 国会のヤジも真っ青のブーイングが巻き起こった。 無理も無い。 世界の危機を『無視しよう』の一言で片付けられては、たまったものではないだろう。大体、その結論ではこうして超VIPの面々が集結した意味が無い。 誰もが那由を指差して、罵声と非難を浴びせていた。静かに那由の意見を熟考しているのは、三大宗教系退魔組織のトップたる、あの3人だけだ。 「……その平穏な生活とやらが、魔界大帝のカモフラージュであるという可能性はないかね?」 「時空を超越し、世界法則や事象因果律まで操る超高位存在が、そんな小細工する必要があると思いますか?」 「ふむ……けっこうそれが真実かも知れませんな」 怒声が飛び交う中、冷静に話し合いを進めているのは、那由も含めた4人だけである。 世界の頂点に立つVIP達が勢揃いする、空前絶後の大会議は、あからさまな感情の爆発で崩壊しつつあった。 「だいたい、民間人をこの場に召集する事自体が、始めから――!!」 「魔界大帝の存在が経済界に与える影響を――!!」 「12時です」 静かな、しかし凛とした美声の一言――魔法のように、喧騒が止んだ。 「……は?」 「……何が?」 疑問の視線の群れを浴びながら、那由は正面の壁に飾られたアンティーク時計を眺めていた。 「お昼の時間です。休憩にしましょう」 「……へ?」 あっけに取られている一同を尻目に、あくまで毅然とした足取りで出入り口の扉に向かう。女なら誰もが憧れ、そしてとても自分では適わぬと諦めるであろう、その優美さ、可憐さ、美しさ――誰もが彼女を止めずにいたのは、その姿に見惚れていたからか。 「ランチが終わり次第戻ります。それでは失礼します」 あっさりと扉は閉じて、那由の姿は会議室から消滅した。 唖然とした空気の中――どこか華が消えたような雰囲気が、豪奢な会議室に漂っていた…… 国会議事堂周辺の地域は、意外にカフェや食堂の類が多い。 近郊の一流企業に勤めるビジネスマンをターゲットにしている為か、どの店舗も高級感を売り物にした一流店ばかりだ。 この表通りの隅にあるカフェも、そんな有名店の1つである。 セピア色の煉瓦造りがモダンな雰囲気を醸し出しているその店は、お昼時である事も手伝ってか、テラスに出してある席まで満席となっていた。 そんなカフェテラスの通りに面した席に、黒い薄手のコートを纏った美女が物静かに、しかし、女王のように悠然と腰掛けていた。 西野 那由である。 カフェの席に孤影を浮かべる、可憐な美女――通りを歩く男達に、いつ誘われても不思議ではないシチュエーションだが、以外にもそんな軟派な――あるいは勇気ある――者はいない。 彼女のあまりの美しさ、優美さに、とても自分では釣り合わないと、気後れしてしまうのだろう。 そのクールで知的な美貌の内に、如何なる心情があるのか――それを知るためなら、あらゆる男達が己の全てを擲つに違いない。 「お待たせしました。ナッツスコーンとエスプレッソです」 「ありがと」 給仕が運んできた料理を、ごく自然に――しかし、あくまで華麗に受け取る那由。ちょっとした動作1つ1つに、彼女の美しさが滲み出てしまうのだ。 青いマニキュアの塗られた艶やかな指先が、エスプレッソ用の小さなカップに触れた。 ぞくりとするような紅の唇に、ゆっくりとカップが運ばれる。男なら――いや、女でも――誰もが股間を押さえかねないセクシーさだ。 そっと、唇にカップの縁が触れた。 琥珀色の液体が、ゆっくりと流し込まれる―― …………… ……… … う゛う゛う゛う゛う゛う゛…… に… に…… に……… ににににににに苦いのよぉぉぉぉぉ!!! あうあう……やっぱりコーヒーの類は苦手ぇ……でも娘や部下は毎日平気でごくごく飲んでるしぃ……お砂糖入れちゃダメかなぁ…… こっくん…… やっぱり駄目ぇぇぇ!!見栄張らずにミルクセーキにしておけばよかったぁぁぁ…… それにしても…… なによ!なによ!!なぁぁぁによぅ!!! 頭でっかちカチカチで、分からず屋のあのおじーさん達わぁ!! 『現実』ってものをぜ〜〜〜んぜんわかってないんだからぁ!!魔界大帝みたいな超ウルトラスーパーミラクルスペシャルこれでおしまいよクラスの怪物くんを敵に回しちゃったらぁ、人類なんて楽勝余裕のよっちゃんで滅ぼされてナンマイダーなのにぃ!!どーしてわざわざ喧嘩を売るよーな真似しちゃうのよぉ!?わかってくれるのは三大宗教のおじーさん達だけなんだものぉ!!やっぱり現場に身を置いてる人は違うわよねぇ〜♪ それに比べてぇ……あの御大尽さん達ときたら、好き勝手で自分勝手で勝手勝手でいーかげんな事ばっかりぃ……部外者は口を出さないで欲しいわよねぇ!! とってもとっても怒っているのよぅ!!とってもとってもぷんぷんなんだぞぉ!! このびゅーちほぅな那由ちゃんはぁ!!! なーんてね、ちょっと八つ当たりしちゃったぁ。 「ふぅ……」 今日のお日さまはホントに御機嫌ねぇ……もう10月も半分過ぎちゃったのにぃ、コート無しでお外にいけるもン。 にゃんだかの〜んびりした気分……思わずネコ語が出ちゃうにゃ〜♪ 「平和ね……」 ぽつりと溜息が漏れちゃう。 10月の太陽は透き通っててとっても綺麗ぃ……私は――那由ちゃんは、脱力して樫木製チェアーの背凭れに身を委ねちゃったぁ……ホント、のんびりのんびりしちゃう…… でも、不快じゃないのよねぇ……この感じぃ。 この那由ちゃんがこーんなにのんびりできるなんて、数年前までは考えられなかったなぁ…… 娘達――かすみちゃんやあすみちゃんが一人前になってからかなぁ? それまでは、女社長として会社を運営していくので精一杯だったしぃ…… それ以前は…… ……あんまり思い出したくないわねぇ…… まぁ、流石に魔界大帝が来た時は、ムチャクチャ慌てちゃったけど、今は調査で無害だってわかったしぃ…… 「ん……」 吹き付けて来た冷たい感触に、私はちょっぴりキュートなお顔をしかめちゃう。 あう〜〜スコーンにトッピングされているナッツが、お皿からこぼれちゃったぁ。 ちょっと風が出てきたかなぁ? 目の前の大通りを歩く人々は、お昼時なのかサラリーマンさんが多い。世界の危機なんて知らないで、日々の生活に追われるその姿は、今のあたしには羨ましく見えるなぁ…… さてっと!!そんな事よりもぉ!! おっひるおっひるおっひるご飯〜♪ ん〜ナッツスコーンはサクサクで美味しいわぁ。 パンフレットに載っているだけあって、お洒落でイイ店よねぇ……他の席もお客さんで満席満員御礼状態……座れてらっきーだったわぁ。 お日さまさんさんでイイ天気だしぃ……早く無駄無駄無駄ァ!!な会議が終わるといーなー。それから美味しい物食べ歩きして、それからそれからショッピングにごー!!の一大プロジェクトXがあるのよぉ〜ラララ〜♪お洋服にバックが那由ちゃんを呼んでるのよぉ〜♪ ひゅぅぅぅぅ…… あうあう〜〜〜だんだん風が強くなってきたなぁ〜、お店の中で食べれば良かったかなぁ?でもぉ、他のお客さんは平然と食事を続けているしぃ…… その時―― (……え?) 那由ちゃんのキュートなお鼻に、ちょっとヘンな匂いが飛び込んで来たぁ? これは―― はれれ? なんでこんな場所でぇ……潮の香りがぁ? 疑問に頭がハテナマークな私の背後から―― 「相席よろしいでしょうか?」 その声に――なぜか、私はぞっとした。 「――あの女はこの状況を理解しているのかね!?」 品行方正かつ落ち着いた雰囲気が売りの某国首相から、支持者達には想像もできないような、遠慮無しの罵声が飛んだ。 「この非常時にあの態度――だから私は民間人の介入には反対したんだ!!」 「しかし、優秀な退魔師の大半が、今は民間に流失しているのも事実です。その実戦性に基くデータは、決して無視できるものではありません」 「それはわかっている……が、それなら召集するのはあの女じゃなくても良かったのではないか!?」 「国内でも5本の指に入る民間退魔企業『西野怪物駆除株式会社』の代表取締役社長――ここに集まるには十分に過ぎるステータスでしょう……まぁ、私もあんな意見が出るとは思いませんでしたが……」 外見の装飾も中身のメンバーも豪華絢爛とした会議室――魔界大帝の脅威に対する対策を立てるために召集された面々だが、今やその議題の中心は、ついさっき勝手に退席していった『民間退魔業種代表メンバー』こと“西野 那由”に関するものに移っていた。 人類の命運すら左右する豪華メンバーを前にしながら、あのクールな毅然とした態度。そして夢の中でも見られない、絶世の美貌――良きにしろ悪きにしろ、彼女は強く印象に残ったようだ。 「それほど彼女は信頼が置けるのかね?」 「好きにはなれん女だが……彼女は世界でも10本の指に軽く入る力を持つ退魔師だ。その実力は折り紙付きだ」 相変わらず憮然とした態度のまま、“テンプラーズ”騎士団長が答えた。 「さよう、単純な戦闘力だけで見ても、今この場にいる者達で――」 “アズラエル・アイ”総大師は、視線だけで部屋の中を見渡した。 会議室の壁際には、ずらりと黒服の男達が並んでいる。いずれも一騎当千のボディーガード達だが、実はその大半は退魔師を始めとする、様々な超常能力を持つ超人――“使人”なのだ。 誰もが、1人で最新鋭装備を持った軍隊一個師団に匹敵する戦闘力を持つ、恐るべき戦闘能力者達である。護衛としては過剰に見えるが、この場のメンバーを考えれば当然かもしれない。 それだけではない。“闇高野”大僧正、“テンプラーズ”騎士団長、“アズラエル・アイ”総大師という、三大宗教退魔組織のトップが勢揃いしているのだ。もし、この場に魔物が迷い込んだら、それがいかに強力な存在であろうと、己の命運が尽きた事を、瞬時に浄化されながら思い知るだろう。 しかし―― 「今この場にいる者達で、彼女に勝てる者が1人でもいるかな?」 総大師は、はっきりと断言した。 絶対の真実と確信を込めて。 一同は――再び沈黙した。それが答えだった。 世界を動かすVIP達を守る、最強のボディーガード達――そして三大宗教退魔組織の長――この者達ですら、彼女には遅れを取るというのか。 “西野 那由” あの女は本当に何者なのだ? 豪奢な会議室に流れる空気――それは畏怖と敬意だった。 奇妙な事に、彼女の存在を疎ましく思う者の間ですら、それは流れていたのである。 場の雰囲気は一転し、彼女の事を認めようという方向に転びつつあった。 恐れながら。 敬いながら。 ――が、 『……ここに1人いる』 氷の如き冷たい声が、静かに、しかし朗々と会議室に響いた。 三大宗教組織の長が一斉に立ち上がる。壁際のボディーガード達が、拳銃を、呪符を、ロッドを、使い魔を、それぞれの獲物を懐から、あるいは周囲の空間から取り出した。 空気が瞬時に張り詰める。 「何者だ!?」 一同は油断無く身構えながら、しかし、ばらばらに周囲を見回した。声の発生源が、誰にも特定できなかったのである。 「こ、これはどうした事かね……!?」 「まさか……魔界大帝がっ!!」 「静かになされ」 早くもパニック状態に陥りつつあるVIPメンバー達を、静かに大僧正がたしなめた。もはや誰も聞いてはいないだろうが。 「何者だ……姿を見せろ!!」 どうやって隠していたのか、騎士団長が懐からゆっくりと、長さ1.5mもある聖剣を取り出す。 冷気を塗られたような沈黙が、会議室を支配した。 誰の耳にも何も聞こえない。 己の早鐘のような心臓の鼓動以外は。 時折、音も無く人影が床に倒れこんだ。VIPの一部が緊張のあまり失神したのだ。 そして、何の前兆も無く―― 『……参る』 刹那――白銀に輝く巨塊が、円卓の真中に降臨した!! 「ぬっ!?」 「なにぃ!?」 美しくも凄まじい破砕音が轟き、輝きの破片が嵐の如く降り注ぐ。 シャンデリアだ。天井に飾られていた巨大なシャンデリアが、円卓の上に落下したのだ。 誰もが破片から一瞬目をそらし、そして再び前を見据えると―― ――そこに、いた。 円卓の上に堂々と立ち、きらめく破片を踏みしめながら―― それは、奇妙な風体の人間だった。 日本の着物と中国の道服を合わせたような独特の服装からは、禍々しい瘴気が吹き付けてくるようだ。 黄金色の長髪は根元で結わえられている。色白の肌に美形とさえ言える顔立ちはまだ若い。しかし切り傷で潰された右目が、その若さを凄惨さで覆い尽くしていた。 水晶を思わせる冷たい美貌は中性的だが、胸元の意外に豊かなふくらみが、かの者の性を語っている。 抜き身の刀を思わせる、美しくも危険な香りを纏う女だった。 「………」 ゆっくりと、緩慢とさえ言える動きで女が周囲を見渡す。その瞳は鬼火のように蒼い。 誰もが彼女を見据えながら、しかし誰も微動だにできなかった。あまりにも派手な登場に、呆気に取られてしまったのである。 「……どうやってこの部屋に侵入したのだ?チェックは完璧のはずだ……」 一番最初に我に返った総大師が、魔神を封じている指輪を向けながら油断無く尋ねた。 女は――無言で頭を上に向ける。 天井のシャンデリアがあった場所には、人1人がやっと通れるぐらいの小穴が開いていた。ここの上の階の床を、何らかの手段で刳り貫いて、シャンデリアごと落下したのだろう。あまりにも大胆過ぎる強襲だ。 「貴女は……何者じゃ?どう見ても味方とは思えぬが……」 大僧正の問いかけに、女は独り言のような呟きで―― 「……ヒュドラ……“ナイン・トゥース”が1人……」 ――そう、言った。 その瞬間、戦慄と驚愕が一同の間を駆け抜けた――!! ――“ヒュドラ”―― それは、人類に敵なす存在である『魔』を操り、世界を恐怖に包もうとせん、巨大な犯罪バックアップ組織である。 邪教、暗黒魔術結社、魔導軍事組織、カルト・マフィア、etc……“闇”と“邪悪”を己が属性とする、9つの犯罪組織によって運営されており、それが九頭の邪龍――『レルネーのヒュドラ』を連想させる事から、この名が付けられたと言われている。 おおよそ秩序と平和の中に生きる者にとっては、世界最悪と言える組織であり、まさしく『邪悪の化身』の名が冠されるに相応しい、恐るべき巨凶の軍団なのだ。 そして―― ――“ナイン・トゥース”―― ヒュドラは、それを構成する主要な9つの犯罪組織から派遣された幹部によって運営されている。 そして、その9つの組織が所持する最強の戦闘能力者が1人ずつ選出されて、ヒュドラ最強の戦闘部隊が結成された。 その選ばれた9人のエリート戦闘者――それが“ナイン・トゥース”である。 誰もが人類最強クラスの戦闘能力を持つ魔人であり、その暗殺、破壊活動等による被害は、現在地球上における魔物による被害をも上回るという。 あらゆる組織が――ヒュドラ自身ですら――絶対の恐怖と絶望に身を震わせる魔人達……それが“ナイン・トゥース”だ。 「……“ナイン・トゥース”が1人……『“無限”のリーナ』……」 女は――リーナは、そう名乗った。 人間らしい温かみを欠片も感じさせぬ、機械の如く冷たい声だった。 「ナ、ナイン・トゥース……」 瘧のように震えながら、VIPの誰かが呟いた。 声が出るだけましな方だろう。この場にいるVIPのほとんどが失神寸前だった。彼等が絶対に遭遇してはいけない存在が、あの魔人達なのだ。 ナイン・トゥース――その姿を見た者には例外無く『滅び』が訪れる。 それは絶対の真実だ。 「リーナとか言ったか……ヒュドラの番犬が何の目的だ!?」 油断無く聖剣を向ける騎士団長の精悍な顔も、脂汗が滲んでいた。 リーナは答えず、 「……“記憶”は1人分でいい……後は邪魔……」 腰に結わえられた刀を、音も無く抜いた。 「なっ?」 誰かが疑念の声を漏らす。 無理も無いだろう。その刀は異様な形状をしていた。 いや、刀とすら言えるのか……それは柄と鍔だけで、刀身が存在しなかったのだ。 ガシャガシャガシャ!! ボディーガード達が一斉に得物をリーナに向ける。 気にした風もなく、リーナは刀を――いや、柄を無造作に振った。 「………」 そよ風も吹かなかった。 何も起こらない。 数瞬おいて、ボディーガード達の死と破壊の術が炸裂した!! 「!?」 絶叫が会議室に轟いた。 そう、ボディーガード達の術は炸裂した―― ――自分自身に。 引き裂かれ、焼き尽くされ、凍結し、食い尽くされて――ボディーガード達は、一瞬にして『自殺』した。 「き、きさま……何をした!?」 戦慄に身を焼きながら、3人の宗教指導者達はリーナを囲むように散開する。 VIP達は――みな失神寸前だ。 如何なる魔技を使ったのか。一瞬にして百戦錬磨のボディーガード達を葬ったリーナは、沈黙のまま動かない。 美しく。 恐ろしく。 「緊急事態発生だ!!警備の者を頼む!!ありったけの戦力を第零会議室に大至急!!もしもし!!!」 我に返った警備責任者が、通信機に向かって半狂乱に喚き散らした。 「もしもしっ!!聞こえているのか!?返答しろっ!!!」 「……無駄」 リーナの呟き。 「……応援は来ない」 それは無機なる戦闘機械の呟き。 それは殺戮の女神の呟き。 「……来れないのだ」 爆風が渡り廊下を駆け巡った。 悲鳴と共に警備員の身体が吹き飛ばされる。誰もがまともな人間の形を維持していなかった。 「第7班後退しろ!!逃げろ!!逃げるんだ!!!」 血塗れの廊下を這いずり回る警備員。充満する煙のために、1m先も見通せない。 そして、煙の向こうに小柄な影が見えるや―― ……チリン……チリン…… 「逃げても無駄だねぇ〜♪」 絶叫は短かった。 「総員、マガジン“赤”を装填!!目標を視認次第攻撃を開始する!!」 「班長!?“赤”は対魔破砕魔導弾ですよ!!威力が強すぎて――」 「かまわん!!各自が持つ一番強力な弾薬を選択しろ!!」 通路を埋めるように隊列を組んだ警備員達が、自動小銃に弾薬を装填した。 崩れた壁面に、散乱する瓦礫と死体の山――ほんの5分前までは、ここが国会議事堂の豪奢な渡り廊下だったとは、誰も信じられないだろう。 立ち込める硝煙と血煙の饐えた匂い。血桶をぶちまけたような渡り廊下。 崩れ落ちた天井から差し込む陽光が、逆に凄惨な光景を不気味に彩っている。 (まさに地獄だ……) “内閣特務戦闘部隊――内閣が秘密裏に開設した、各々が素手で下級妖魔すら引き裂く戦闘力と、最新鋭の戦闘装備を所有する、最強の特殊部隊――第九特殊戦闘警備班”班長が、戦慄と共に息を飲んだ。 前方10mほどで通路は右に曲がっている。 その向こうに“奴”がいる。 たった1人で、この惨状を作り出した奴が。 そして、奴は―― ……リン……チリン……チリリン…… ――こちらに近づいて来る!! 「……総員、攻撃準備……」 …チリン…チリリン… 幻惑するように響く鈴の音――だんだん大きくなってくる。 影が――曲がり角から通路に差し込んだ。 警備員が自動小銃を震える手で構える。 そして、次の瞬間――!! ずるっ 「はにゃにゃ!?」 どって〜〜〜ん こけた。 見事なヘッドスライディングで目の前に出現したのは――“奴”だった…… 唖然とする警備員の前で、 「いった〜〜〜い!!なんでこんなに薬莢が転がっているのよぉ〜〜〜!!!」 むくりと起き上がった“奴”は、あまりにこの場に相応しからぬ格好の、可憐な少女だった。 青とピンクを基調色とした、可愛らしいピエロ服。ネコをモチーフにしているらしく、ネコ耳と尻尾がくっついている。クラウンメイクに隠れていても、そのキュートな童顔は輝いて見えた。 「うにゅにゅ……おでこ擦りむいちゃったよぉ〜〜〜」 涙目で額を擦る度に、手足の袖口と首輪についた鈴の音が、可憐に鳴り響いた。 そのあまりにも無害で可愛らしい姿に、一瞬気が抜けた警備員達だが―― 「何をしている!!撃てぇ!!!」 班長の怒声に、瞬時に我に帰って引き金を引いた。 外見に騙されてはいけない。 人外の存在は、人の理に収まらないからこそ『人外』なのだ。自分達以外の部隊を全滅させたのは、この無害そうな少女なのだ。 誰もが耳を防ぎたくなるような、凄まじい銃声。狙い違わず、一発で火竜すら仕留める破砕魔導弾が、ピエロ姿の少女に吸い込まれた―― ――が、 ……チリン…チリリン…… 「無駄だよねぇ〜♪」 少女は――笑顔を浮かべたまま、スキップ気味に接近してくる!! 無傷で。 平然と。 ……チリリン…リリン…… 「うわああああああ!!!」 半狂乱で警備員達が自動小銃を乱射する。 弾丸は確実に命中していた。ピエロ服を裂き、柔肌を抉り、幼い肉体を破壊している筈なのに――次の瞬間には、傷1つ無い姿で平然としているのである。 悪夢の如き光景であった。 ……もし、この瞬間、冷静に少女を観察している者がいたら、ある奇妙な現象に――すでに、この状況が奇妙なのだが――気づいたかもしれない。 弾丸が彼女の額に命中した瞬間――『額の擦り傷が消滅した』のである。 これは、一体? 「やったなぁ〜お返しするねぇ〜♪」 もう、少女は手を伸ばせば届く距離にまで接近している。 腰を抜かしながらも銃を乱射する警備員の1人に最高の笑顔を浮かべて、ピエロ少女はその肩に手を置いた。 ……チリン……チリリン…… その瞬間――警備員の絶叫と鮮血が辺りに撒き散らされた!! その警備員は――“裏返った”――そうとしか形容できなかった。 あくまで人の形を維持したまま、血と肉と骨と内臓が外側に露出して、同時に表皮が内側に潜り込んでいったのである。 その警備員は――当然ながら即死した。あまりにも凄惨な姿で。 ……チリリン…リリン…… 「次は誰かなぁ〜?」 ピエロ少女はにっこりと笑った。天使の笑顔で。 「そ、そ、総員退避ぃ!!!」 班長が絶叫するまでもなく、恐怖に駆られた警備員達は、我先にと廊下の奥に逃げようとした。 いやだ。あんな死に方だけはしたくない。 しかし―― ……チリン……チリン…… それは奇怪な光景であった。 必死になって逃げ出そうとする警備員――しかし、彼等が足を動かすたびに、逆に少女に接近していくのである。それも、背中を向けたまま。 まるで喜劇のような姿――しかし当人達にとっては悪夢の極致だ。 涙と悲鳴を撒き散らして、手足をばたつかせる警備員達は、もう、ピエロ少女の鼻先の距離に隣接していた。 「それじゃぁ〜ばいば〜い♪」 ……リリン…チリリン…… ピエロ少女は、おどけた調子で床に手を触れた。 次の瞬間―― 「うわああああぁぁぁぁぁ……」 絶叫が遠くに消えていく。 警備員達は“上に落下”していた。 崩れ落ちた天井には大きな穴が開いていて、青空が顔を覗かせていたのだが、その青空の中に、警備員達は加速度をつけながら急上昇して、遥かな天の高みに消えていったのである。 まるで、天地が逆転したかのように。 「もぉ〜終わりぃ〜?つまんにゃいのぉ〜」 一瞬にして一騎当千の警備員達を葬り去った恐るべき少女は、あくび交じりに背を伸ばした。 「……この程度の相手じゃあ、ナイン・トゥース『“道化”師ベル・ミュー』の“逆しま”も欲求不満だよぉ〜」 ぷぅっと可愛らしい頬を膨らませるピエロ少女――ベル・ミューの背後から、 「総員構えっ!!目標はあの少女だ!!」 増援部隊の声が聞こえてきた。 「獲物獲物ぉ〜♪」 満面の笑みを浮かべながら、ベル・ミューはくるりと振り向いた。 それは悪魔の笑顔だった。 ……チリン……チリン…… 「内閣特務戦闘部隊が全滅だと?まさか――」 会議室の警備責任者は、言葉を最後まで続けられなかった。 右手の通信機に怒鳴り散らしながら、左手で腰のホルスターから拳銃を取り出して、自分のこめかみに当てて―― ――乾いた銃声と共に、血と脳漿を撒き散らし、警備責任者は即死した。最後まで、自分が『自殺させられた』事に気付かずに。 「……残るはお前達」 自分が立つ円卓を取り囲む、三大宗教退魔組織の指導者に一瞥も与えずに、あくまでも淡々とリーナは呟く。 「きさま……この場にいる国家重要人物達の暗殺が、きさまの目的かっ!?」 油断無く聖剣を構える騎士団長の怒声に、 「……言ったはず。私の目的は“記憶”」 独り言のように答えるリーナ。なまじ美しいだけに、その姿は死の女神の如き恐ろしさだ。 「記憶だと……?」 「……無駄話はここまで」 再び、刀身の無い謎の刀が、ゆっくりと振り上げられる。 これが下ろされた時――謎の死が確実に訪れるのだ。あたかも死神の鎌の如く。 「させるかぁ!!」 その瞬間、3人の長から凄まじい魔力が膨れ上がった。 質量すら帯びた魔力が風と化し、会議室の中を吹き荒れる。 1秒にも満たない超高速詠唱で呪文を完成させて――いや、大僧正はまだ詠唱している――騎士団長の聖剣に、総大師の指輪に、眩い輝きが宿った。 「神の名の元に浄化されよ!!邪なる者よ!!」 「食らい尽くせ!!砂風の魔神よ!!」 絶大なる威力を秘めた超常の技が、卓上の女目掛けて放たれ――!! ――ゆっくりと、刀が振られた―― 「――!?」 ……2人の術は発動し、その凄まじい破壊力を行使者の思い通りに発揮した。 ただ1つ、その“目標”を除いて。 それは、悪夢のような光景だった。 騎士団長は風の魔神にその身を食い尽くされて―― 総大師は聖剣の輝きに浄化されて―― 声1つ出せずに、2人はこの世界から消滅したのだ…… からん…… むなしい音と共に、聖剣と指輪が床に落ちた。 「ど、同士討ちじゃと……な、なぜじゃ……」 大僧正は皺だらけの顔に脂汗を浮かべて、無意識のうちに後ずさった。 手にする水晶の数珠を、思わず握り締める。 もはや、あの恐るべき魔女を除いて、この会議室にいる者は大僧正だけだった。 ゆっくりと、リーナが振り向く。 「……命拾いしたな、おまえは獲物を取らなかった」 「……何の事じゃ?」 「……まあ、いい」 再び、刀身無き刀が振られた。そして―― 「……!?これは!!」 大僧正は糸のように細い目を見開いた。 騎士団長の聖剣が、総大師の指輪が、いや、ボディーガード達の武器までもが、ゆっくりと宙に浮いて――その切っ先を大僧正に向けたのだ。 「そうじゃな……読めたぞ、そなたの“能力”が……」 「……もう遅い、お前は死ね。後は会議の参加者から――」 その瞬間、初めてリーナの氷の美貌に感情が走った。 愕然として、円卓の周りを見渡したのだ。 ――そう、この会議室にいる者は、あの女を除いて、大僧正“だけ”だ。 VIPメンバー達は、会議室から忽然と消滅してしまったのである。 何時の間に!?どうやって!? 「……結界は完璧、転移の術は不可能……おまえ、あの者達を封印したな」 「流石じゃのう、もう見抜いたか……」 戦慄の張りついた笑みが、大僧正の顔に浮かんだ。 その手の数珠が、僅かに輝いている。 「この封印はワシにしか解けぬ。ワシから記憶を探ろうとしたり、洗脳しようとするなら、その瞬間にワシは命を絶つ。さて、どうするのかの?」 「………」 血生臭い沈黙が、会議室を満たした。 しかし―― 「……かまわない。あの“静寂”ならば問題無い……」 「ぬっ……!?」 再び、ゆっくりと魔刀が振り上げられた。 宙に浮かぶ様々な武器と魔道具に、邪悪な魔力が宿る。 大僧正の足元に、脂汗が落下した。 起死回生の試みも、無駄に終わるのか。大僧正の命と共に―― その刹那―― (――!?) 背後の気配を感じると同時に――リーナの身体は宙を舞っていた。 バシュン!! 間髪入れずに、一瞬前までリーナがいた円卓を、瞬速の斬撃が破壊する。 アクロバット選手のように空中で身体を捻りながら、リーナは“それ”を見た。 自分がいた場所に巨大な戦斧を振り下ろしている、異形の影を。 身の丈3mを超える、屈強な怪物だった。直立した獅子の胴体に、脚は馬、腕は人間で、頭部に至っては、なんと時折稲妻が光る黒雲だ。 この不気味な怪物の背後に、音も無くリーナは降り立った。 怪物が、咆哮のように雷音を轟かせながら振り返る。 巨大な戦斧が振り上げられた。 まったく同時に、あの魔刀が振り上げられる。 振り下ろすタイミングも同時だった。 しかし、その結果は―― 雷雲の咆哮。それは苦悶の叫びだった。 巨大な戦斧は、怪物自身の肩に深く食い込んでいたのだ。 「……消えろ」 無造作に刀が振られた。 宙を漂う武器が、一斉に異形の怪物に突き刺さる。 悲鳴を上げる間もなく、怪物は空中に蒸発するように消滅した。 「……今のは一体……ん?」 リーナは身を屈めて、怪物が消滅した場所に転がる物を拾い上げた。 それは、木彫りの人形――多関節の作りで、手足と頭部の先に切れた糸がついている――俗に言うマリオネット人形だ。 「……これが、今の怪物?」 「御明察だ」 背後からの唐突な声。 今までこの場のどこにも存在しなかった、完全な第三者の声。 ゆっくりと、リーナは振り返った。 胸元に手を当て、頭を深々と下げた、身長30cmにも満たないマリオネット人形の御辞儀が、彼女を迎える。 人形の四肢の先端についた糸の先には――白い皮手袋に包まれた手があった。 その腕は――いや、全身は白い布製の服で包まれている。砂漠の遊牧民が着るような、ゆったりとした服だ。 ――人形遣い―― 突然、会議室に出現した人形遣いは、先刻まで総理大臣が在席していた椅子に、悠然と腰掛けていた。 まるで、始めからそこに存在していたかのように。 冷然と。 朗々と。 「……何者?」 「滅する者だ。お前達をな」 まるで人間とは思えない、機械の合成音声の如き声だった。男なのか女なのかもわからない――服に体型が隠されている上に、髪をターバンで包み、顔は白木の仮面に覆われているのである。 「……いつの間にこの部屋に?」 「応援要請を受けてここに来た。お前が来室に気付かなかったのは、そんな風に入室したからだ」 「……面白い。名乗れ」 「イスラム退魔解放戦線“アズラエル・アイ”魔導将校――」 マリオネット人形が、かたかたと一礼した。 「――アーリシァ大佐だ」 リーナの魔刀が、微かに震えた。 「……“人形遣い(ドールマスター)”アーリシァ大佐……アズラエル・アイ最強の“戦闘退魔師”か……面白い。相手にとって不足は無い」 「お前も相手にとって不足は無いな。伝説の魔剣『無限刀』を持つ『ナイン・トゥース“無限”のリーナ』なら……」 目に見えない何かが、両者の間を結ぶ。 ふと、リーナは何かを感じて、目線だけで隣を見回した。 闇高野大僧正の姿は――どこにも存在しない。会議室から忽然と姿を消していた。 「……いつの間に逃げたか……したたかな人」 「いくぞ」 何時、どうやって並べたのか……アーリシァの足元には、数体のマリオネットが佇んでいた。 リーナがゆっくりと、死の魔刀『無限刀』を振りかざす。 きぃぃぃぃぃぃん…… 戦士にのみ聞こえる戦慄の響きが、両者を取り囲む。 この音が止んだ瞬間――どちらかが滅び去るのだ。 きぃぃぃぃぃぃん…… そして――魔人達による人外の戦歌が、静かに奏でられた―― 「美味しい御茶ですこと……くすくす……」 はぁ……きれーな人ねぇ…… 向かいの席に座るその人に、私はぼーぜんと見惚れていた。 本当に綺麗な女の人ってぇ、同性でも目が離せなくなっちゃうのよねぇ…… 深い海の底みたいな藍色の髪は綺麗に結え上げられていて、それだけで美術品みたいぃ……後れ毛が色っぽいわねぇ〜♪ 白い肌は真砂の砂みたいにしっとりとしててぇ……女の私でも思わず撫で回したくなるわぁ〜♪ 流し目1つでどんな男の人でもフラフラ〜っと魅了されちゃうこと間違い無しの、妖艶な美貌ぉ……その辺の小娘じゃあ、どんなにカワイクても出せない、オトナの魅力よねぇ〜♪ 南洋の珊瑚海みたいな、クリアブルーの布地に色鮮やかな模様が描かれた着物……ヤマトナデシコな和服美人って感じねぇ〜♪あ、でも留袖だから既婚者なのかなぁ?この那由ちゃんと同年代みたいだけどぉ…… はぁぁ……ホント溜息が出ちゃうぐらいの美女よねぇ……着物パワー恐るべし!! あ、着物といえば御正月には娘達にも着せたけどぉ、我が娘ながらとぉっっっても可愛かったわぁぁぁぁ!!!思わず『帯ぐるぐる』やっちゃったしぃ。でも、あの時はかすみちゃんにムチャクチャ怒られちゃったわねぇ……あすみちゃんは喜んでくれたけどぉ〜♪ この那由ちゃんが着物を着たのは、成人式が最後だからぁ、今からじゅう―― (………くらっ) 「?……どうなさいましたか?」 「何でも無いわ」 あうあう……ちょっと魂が抜けそうになっちゃったわぁ……年齢の事を考えるのは止めましょお…… 「それにしても美味しい御茶です……斯様な街中で、是ほどの逸品に合間見えるとは……真に幸運ですわ」 「でしょう?ここは結構穴場なのよ」 エスプレッソは苦いけどねぇ…… しかしぃ……静かな笑みを湛えながら、上品にお茶を啜るすーぱー和服美女美女さン……絵になるわねぇ〜女の私がそう思ったり思わなかったりしちゃうんだからぁ、街中を歩けばステキな殿方がオプションはんたぁの如くストーキングレッツらゴー!!になる事間違い無しよねぇ〜スーパーひ○し君人形かけてもイイわぁ!! ……さて、というわけでぇ―― 「――で、私に何の用かしら?」 口元に運ぶお茶の動きが一瞬止まったのを、那由ちゃんスーパーアイは見逃さなかったわ。 「用も何も……わたくしは他の席が満席であったので、御相席を求めたのでございますが……」 「それはウソ」 「仰られる意味がわかりませんが……」 「だって、この店にいる客は、全員ホムンクルスよ。それもあなたが作った」 「……なぜ、それが御分かりなのですか?」 「スコーンのナッツが全部飛び散るような強風が吹いているのに、髪もスカートも押さえずに、平然と食事を続けるなんてね……ホムンクルスを作るのなら、ちゃんと自意識反射もインプットした方が良いわよ」 「なぜ、ホムンクルスがわたくしの愚作と見抜かれたのでしょうか?」 「あ、それはハッタリ」 「……流石で御座いますわね……“西野 那由”様……くすくす……」 薄く紅が塗られた口元に、白く細い指を当てて、上品に微笑む和服美人さん……こーゆー美人になれるのならぁ、歳を取るのも悪くないかもねぇ…… でもぉ、そんな印象をかき消すぐらいに、彼女の笑みは凄まじい殺気に彩られているわ…… キャー!!コワイわよ〜〜 「されば、隠し事は無粋でございますね……名乗っても宜しいでしょうか?」 「どうぞ」 ざざざざざ…… どこからともなく、潮騒が聞こえてきたぁ?……あうあう、あめーじんぐな予感…… 「わたくし、“安倍 深美(あべの ふかみ)”と申します……またの名を――」 どーせいつも通り、ライバル組織かヒュドラの刺客なんでしょお?ホント、民間退魔組織の社長業って大変よねぇ……3日に一度はこーゆー嫌がらせが来るしぃ…… 「――『“聖母”安倍 深美』……ナイン・トゥースの1人です……くすくす……」 ほーら、那由ちゃんの予想は大正解〜!!那由ちゃんあったまイイ〜♪ …………… ……… … へ? … ……… …………… ななななななななななな!!! なっなっなっなっナイン・トゥースぅぅぅぅぅぅぅ!!?? ひょええええええええええええええええ!!! ななななななんでそんな超ド級マグナムスーパー危険なヒトが那由ちゃんの目の前にぃぃぃぃぃ!? どーしよ!?どーしよ!? おろおろあたふた おろおろあたふた 「流石でございますね。この名を聞いても顔色1つ変えぬとは……」 「そうかしら」 ヘルプミー!! 那由ちゃんウルトラスーパー大ぴんちぃぃぃぃぃ!!! 「それで、そのナイン・トゥースの人が、私に何の用なのかしら?」 きっと西野怪物駆除株式会社のスーパー美人女社長である、この那由ちゃんをイジメル気ねぇ!? ふえ〜〜〜ん!!怖いよぉ〜〜〜ヤダよぉ〜〜〜助けて旦那様〜〜〜!!! 「あらあら……エスプレッソが冷めちゃったわ」 とととととととととととにかく落ち着くのよ私ぃ!!! ととととととりあえずぅ、えそぷれそそこーしーでも飲んでぇ…… 「こう見えても、私、忙しいのよ。これを飲み終えるまでに、用件を話してくれないかしら?」 「……このわたくしを眼前にして、ナイン・トゥースを前にして、その落ち着き払った冷静沈着な態度……気に入りましたわ……くすくす……」 あ、あ、あ、あうあう……やややややっぱりとぉっても苦く――苦く無いぃ!? って言うより……しょっぱいぃ!? これはぁ……塩水……いえ…… ……海の水ぅ!? 「それでは、本題に入らせてもらいますわ。西野 那由様……いえ――」 エスプレッソの“塩辛さ”のお陰で、パニック状態から醒めつつある私に、彼女は――“聖母”の安倍 深美は、怖いくらいに綺麗な瞳で、私をねめつけたぁ…… 深く暗い、蒼い瞳―― まるで、深い海の底みたいな―― ――そして、 「――“ファー・イースト・ウィッチ”様」 その名前を聞いた瞬間―― ――私の中で、何かが目覚めたのを、確かに感じた。 忌まわしい……何かが…… 外伝1 〜〜LEVEL ZERO〜〜
・・・・・TO BE CONTINUED
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那由さんの憂鬱 |
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