那由さんの憂鬱 |
――切ないくらいに穏やかな、秋の日差しが差し込むカフェテラスの中、 「――“ファー・イースト・ウィッチ”様」 そう、『ナイン・トゥース“聖母”安倍 深美』は私に言った…… その名前を聞いた瞬間……私の中で、忌まわしい何かが目覚めたのを……確かに感じた。 「ふーん。で、用件は何かしら?」 でもぉ、な〜んか忌まわしそうだから、深く考えるのはやめましょ。 それよりもそれよりもそ〜れ〜よ〜り〜も〜!!! あの超ウルトラスーパーデンジャラスなナイン・トゥースが目の前にぃ!! ひょえ〜!!!今世紀最大最強最高の美少女こと那由ちゃん大ピンチ!!! 今の私はパニック状態でぇ、他の事は何も考えられないのよ〜!!! 「……あっさり流されましたわね」 「一文の得にもならないしね」 「……そ、そうですか……では、本題に入りましょう」 深美さんとやらはちょっと咳払いをして、上品な笑みを私に浮かべたぁ。 あうあう〜!!逆にコワイわ〜!!! 「単刀直入に言います。今すぐにこの地を離れて、我々の行動に一切関与しないで貰いたいのです」 「だめ」 「……即答ですのね」 「一応、これも仕事の内なのよ」 「今回の貴方様への依頼は、報酬が出ないとの話の筈ですが?」 「痛い所を突くわね……でも、だめ」 「残念ですわ……貴方様だけは敵に回したくなかったのですが……」 「同感ね」 キャー!!ごめんなさいぃぃぃ!!! ホントはこんな事言いたくないのよぉ〜〜!! こう言わざるをえない自分の立場が、とってもとっても恨めしいわぁ〜〜!!! 「……くすくす……」 深美さんは鈴を鳴らすみたいに笑うとぉ、静かにお茶を飲み干したぁ……私も同時にエスプレッソを口元に運ぶのぉ……こーなったら、覚悟を決めて戦いましょ……あうあう、こーゆー場面ではお約束として、お互いが飲み終わると同時にバトルがスタートするよのねぇ……エスプレッソを飲みながら、こっそりと膝の上のバックから呪符を取り出す那由ちゃん…… ……う゛!!しょっぱいぃ!! エスプレッソがなぜか海水に変わっているのを忘れてたわ……あうあう〜那由ちゃんのドジ〜〜でも吹き出しちゃうのはカッコ悪いから、我慢して飲むわぁ…… ――ざざざ…ざざ…… ……あうう〜海水があんまりしょっぱいからぁ、潮騒の幻聴まで聞こえて来たよーな気がするわ…… …ざざ……ざざざざ… ……って、はにゃ?これは幻聴じゃない!? ……ざざざざ…ざざざ…… ホントのホントに潮騒が聞こえるぅ?それも周囲360度全方角からぁ!? …ざざざ…ざざざざ…… ほええええ?よく見るとカフェテラスの床が――いえ、歩道や道路の路面まで、海のテクスチャーを貼ったみたいに、海面に覆われているわぁ!? ひょえええ〜〜〜!!怪奇現象ぉ!? 「すべての生命は、海から生まれました……」 深美さんは、湯飲みからセクシーな唇を離しながら、独り言みたいにお約束な説明的セリフを呟いてるわ……なんだか背景に“ゴゴゴゴゴ……”って効果音が聞こえてくる感じ〜〜!! 「即ち、海こそがあらゆる生き物の偉大なる母であり、あらゆる生き物はその小さな子供に過ぎませんわ……それが、如何に強大な存在であっても、例外はありませぬ」 いけないわ〜!!早くも相手の術中にハメられてるぅ〜!!私をハメて良いのは旦那様だけなのよ〜〜!!! 「母に勝てる子供がいないように……貴方様が如何なる強者であろうとも、“母なる海”には勝てませぬ……」 ……ううぅ、我ながら今のボケは下ネタ過ぎたわ……反省。 って、それどころじゃないわぁ!!今はともかくこの状況を何とかしなくっちゃ!!とりあえず、転移魔法か何かで戦術的撤退を―― ――くらっ ……えっ? 身体が……動かない? ……違う、動かないんじゃないわ……身体がだるい?この倦怠感と疲労感は…… …ざざざ…ざざざ… ――眠い!? …そんな……睡眠魔法をかけられた形跡は…絶対に無いわよ!? ……と、とにかく眠気を取るための魔法を…… 「海こそ全ての母……そして渚の潮騒は海の子守唄……」 ……ざざ…ざざざざ…… …そんな……? ……ま、魔法が…使えない? …違う……使えないんじゃないわ… ……『魔法を使う』という意思が……働かない… ………全ての意識が……潮騒の中に……消えていくの…… 「抵抗は無意味です。母の子守唄に耳を傾けぬ子供はおりませぬ……母の子守唄で眠らぬ子供はおりませぬ……」 …………もう……だめ…… ……いしき…が…… …………… ……… …… 「――『母なる海こそわたくしの化身』……これが“聖母”安倍 深美ですわ……」 一瞬にして那由を戦闘不能とした、恐るべき美女――深美は静かに微笑んだ。 はらり、と那由の手から呪符が落ち、水面に浮かぶ。 テーブルに倒れこんだ那由が、完全に眠りに落ちたのを確認した深美は、 「あと30秒ほど眠りが続けば、それは永遠に覚めませぬ……以外にあっけなかったですわね、那由様……くすくす……」 再び、満足そうに湯飲みを傾けた――が、 「――!?こほっ!!」 口内に広がる、明らかに日本茶とは違った味に、深美は危うく咽かけた。 「これは……ミルクセーキですか?――はっ!?」 何時の間に、どうやって――深美の眼前に、一枚の呪符が浮かんでいた。 「…」 ぽつり、と呟きが聞こえた。 小さな呟き――しかし、はっきりと――そして美しく。 呟きに導かれるように、呪符に輝きの文様が浮かぶ!! 「くっ!!」 深美の身体が後方に跳ねた瞬間―― ドン!!! 巨大な火柱が天を貫く――!! 爆風がカフェテラスを吹き飛ばした。灼熱の風が荒れ狂い、火の粉が世界の終わりの如く舞い乱れる。 通行人は悲鳴をあげながら、我先にと逃げ出した。 「……くっ……そんな筈は……」 人気の無くなった道路――へし折れた街路樹の陰から姿を表した深美の細面には、紛れも無い驚愕が浮かんでいた。 外傷は見当たらないものの、着物の裾が無残に焼け焦げている。世界最強の戦闘能力者ナイン・トゥースである深美ですら、完全には防ぎきれなかったという、凄まじい威力の火炎系攻撃魔法であった。まともに食らえば上級魔族ですら一撃で葬られただろう。 だが――深美を真に驚嘆させたのは、あれほどの破壊力を持った術にもかかわらず、その被害範囲がカフェテラスの内部のみで収まっている事だ。人的被害は一切無く、近隣の建物は窓ガラス一枚割れていない。 驚異的を通り越して奇跡的と言える、術の行使力と制御力であった。 「よもや……那由様があの術を?」 那由の姿は――どこにも見当たらない。カフェテラスと共に焼き尽くされたのか? くしゃ 「……え?」 深美の足の下で、何か紙切れが音を立てた。 それが輝きを放つ呪符だと観とめた刹那――呪符を中心に半径5mの範囲が、質量崩壊級超重力結界に包まれた。その内部重力はブラックホールの数千倍に及ぶ。まるで空間を巨大なアイスカップで刳り貫いたように、効果範囲内のあらゆる物質が消滅した。 だが―― 「……まさか……わたくしの術が……」 結界範囲内のすぐ隣の水面が渦を巻き、そこから人魚の如く踊り出たのは――着物がぼろぼろに千切れ落ちた深美の姿だった。その美しい相貌に、先程までの余裕は浮かんでいない。 「大したものね。2度も私の術から逃れるなんて」 背後からの声。 絶対に聞こえるはずの無い声。 ゆっくりと、深美は振り向いた。 ダークブルーのスーツに身を包んだ美貌の魔女――西野 那由が、そこにいた。 「……如何な方法で、わたくしの『渚の子守唄』を破られたのでしょうか?魔神ですら、この術には逆らえぬ筈……」 内心の動揺を隠すのに、深美はかなり苦労した。 「しっかり術にかかってるわよ。今の私は熟睡しているわ」 「では、なぜ?」 「私って寝相が悪くてね。それに寝言を言う癖があるのよ」 「……流石は、ファー・イースト・ウィッチ様……」 深美は、しかし上品な笑みを浮かべると、しゅるしゅると千切れた着物を脱ぎ捨てた。 那由のオッドアイが、僅かに細められる。 それは感嘆の証だった。 惜しげも無く裸形をさらす深美――紛れも無い完璧な肢体が、そこに存在していた。海の泡から生まれたビーナスとは、彼女の事ではないか。 非の打ち所の無い完璧なプロポーションから滲み出る、熟れきった果実のような、熟女の匂い立つ色香……白絹を思わせる白く木目細やかな肌は海水に濡れて、まるで油を塗ったかの如き艶やかさ……淑女の上品さと娼婦の淫猥さを併せ持つ、魔性すら感じさせる肢体であった。 「ならば、わたくしも本気を出さねばなりませんわ……」 朱鷺色の乳首も黒い茂みに覆われた股間も隠そうとせず、深美は大胆な仕草で髪留めを外した。解かれた黒髪が愛撫するように白い肢体を這い、水墨画を思わせる芸術品の如き美身を完成させた。 一部始終を相変わらずのポーカーフェイスで見送っていた那由は、 「……それなら、私も本気を出すわね……」 おもむろにスーツのボタンを外すと、タイトスカートのホックを緩めて―― 「……なぜ、那由様が脱ぐ必要があるのでしょうか?」 「え?……そ、そうね」 那由は珍しく慌てた調子で、そそくさとボタンを留め直した。 なんとなく、対抗意識を感じてしまったらしい。 ざざざざざ…… 深美の足元の水面が独りでに波立つ。水は這うように深美の肢体を伝って、羽衣のような半透明の着物と化した。 ――水の女王―― 美しく、妖艶な――しかし、見る者全てに戦慄を覚えさせる、まさに魔人と呼ぶのが相応しい姿であった。 周囲の気温が、急激に下がっていく―― 「ナイン・トゥース“聖母”安倍 深美……参ります」 上品な口調だけは相変わらず――だからこそ恐ろしく、そして美しい。 万人が畏敬の念に打たれ、平伏さんばかりの優美さ――だが、そんな姿にもまったく動じる事無く、 「…」 ぽつり、と那由の唇から呟きが漏れた。 那由の眼前に浮かぶ呪符に、蒼い輝きが宿る。いつ、どうやって呪符を取り出したのか――それは誰にもわからない。 呪符から半径2m、長さに至っては不明の超高出力レーザーが発射されて、深美のいた場所を蒸発させたのは次の瞬間であった。 ……もし、神の視点の観測者がいたら、地球から発射されたレーザーが易々と太陽系を離脱し、銀河系中心部を貫いてもなお、まったく威力が衰えていないという脅威現象を目撃できただろう。 しかし―― (……恐ろしい方ですこと……) 水面の至る所から、深美の声が朗々と響いてくる。 レーザーが直撃する寸前、深美の身体が海中に消えたのを、那由は確かに目撃した。 (あれほどの高位魔法を発動させるためには、数十万単語以上の呪文詠唱が必要な筈ですが……それを単音節レベルにまで圧縮させるとは……) 那由が片手をひらひら動かすと、その身体がふわりと宙に浮き、店の屋根の上に降り立った。水面に触れるのを避けたのである。路面を覆う海水の厚さは1cmにも満たないように見えるが、おそらくその内部は遠大なる深海が広がっているのだろう。だが、深美を追って中に飛び込もうとはしない。安易に敵の領域に踏み込む事がどんなに危険であるのかを、那由はよく理解していた。 (恐ろしい方ですこと……) もう一度、同じ台詞が那由の周囲から聞こえてくる。 だが、恐ろしいのははたしてどちらか―― 路面に広がる海面の領域は、いつの間にか視界全ての地面を――あるいは、この都市全ての大地を――完全に覆い隠していたのである。 国会議事堂周辺は、大海原――深美の王国と化したのだ。 今や、異邦者(エトランゼ)“排除される側”は、那由の方であった。 「以外に姑息な手を使うのねぇ……こそこそしないで出て来なさいよ」 (……くすくす……) 楽しげな笑い声が答えた。 実戦の場では『卑怯』とか『姑息』という言葉は、褒め言葉としか通じないのは周知の事実だ。 (遠慮しますわ。貴方様と正面から渡り合えば、命が幾つあっても足りませんもの) ごぽごぽごぽ…… 那由のいる屋根の周囲の海面が、不気味に泡立ち始めた。 (貴方様の相手は彼等が致します……出でよ!“深淵の民”よ!!) 那由が身構えると同時に――爆発するかのように水面が弾け、踊り出たのは、まさしく“異形の民”であった。 魚類のような、両生類のような、爬虫類のような……それでいて直立して歩く、人型の怪物――鱗に覆われた肉厚の身体は、マグナム弾の直撃にも耐えられそうだ。ヒレ状の手から生える巨大な鉤爪は、鉄骨も易々と引き裂くだろう。 「“DEEP ONE”……」 那由はゆっくりと周囲を見回した。 海水を粘液のようにしたたらせながら、屋根の上に這い上がる“深淵の民”の群れ。その数は軽く10を超える。 屋根の真中にいる那由を取り囲むように“深淵の民”は散開していた。ある程度の知能はあるらしい――厄介な事に。 美女に迫る怪物の群れ――まさに絶体絶命の構図だ。 「…」 にもかかわらず、呟き――にしか聞こえない、超圧縮呪文詠唱――を洩らす那由のポーカーフェイスには、恐怖も緊張も、微塵たりとも伺えない。 ただ、華麗に。 そして、美しく。 理不尽なくらいに。 呟きと同時に、怪物たちの足元にばら撒かれていた呪符が、一斉に輝きだした。いつの間に呪符を配置していたのか――それは当人にもわからないかもしれない。 間髪入れずに、青白い輝きの柱が、天と呪符を繋いだ。 鼓膜が破れないのが不思議なくらいの轟音――高圧電流によって空気がイオン化し、周囲がぼんやりと発光する。 落雷の召還魔法だ。それも魔法によって強化されたその威力は、実に数億ボルト――余程強力な魔物でも、一撃で葬られる。 葬られる筈であった―― ぶすぶすと煙を上げる“深淵の民”は、しかし、何事も無かったように接近してくる!! 那由の形のよい眉が、微かに動いた。 おかしい。 那由の強力な魔法なら、一撃で倒せなくとも相当なダメージを与える筈である。まったくの無傷というのは有りえない。 「海水による浄化ね」 那由ははじめて明確に、呪符をハンドバックから取り出した。 (流石にお早い……もう見抜かれましたか) 深美の声には微かな笑いが含まれていた。 (『母なる海』の水が身体を覆う限り、魔法のような不浄なる存在は、すべて『母なる海』に吸収、浄化されますの。雷のアースのようなものですわ) それは、那由の魔法が封じられた事を意味していた。 「厄介ねぇ」 しかし、那由のポーカーフェイスでは、あまり厄介そうには見えない。 事実、取り出した呪符を指先で構える那由の態度には、余裕すら見えた。 「でも、魔法を無効化できれば、勝てると思った?」 (……!?) 「かすみちゃ……こほん、娘に剣を教えているのは私なのよ。“西風霧創流刀舞術”の奥義の前では、DEEP ONE如き……」 呪符が棒状の形に変化していく。魔力を注ぐ事によって、様々な武器に変化する『化剣符』だ。 魔法だけではない。その剣の腕も超一流――だからこそ、あのVIP達に最強と賞されたのだ。その実力はかつての剣聖すら凌駕するという。 「さ、いらっしゃい。三枚におろしてあげるわ」 “深淵の民”に獲物を向けるその姿は、隙など微塵も伺えない完璧さだった。 ……ただ、1点を除いて。 (……那由様?) 「え?……え?…ええぇ!?」 びしり、と構えた手に持つ武器は――吉○名物『巨大ハリセン』であった…… 那由のポーカーなフェイスに、巨大なマンガ汗が浮かんだ。 “深淵の民”の動きが一瞬止まったのも、気のせいじゃないかもしれない…… 「ちょちょちょちょっとタイム!!間違えたわ!!」 今度は露骨に感情をあらわにして、那由は慌ててハンドバックを漁り始めた。 書類やらカードやら、割引券やらマンガやら、携帯ゲーム機やらお菓子やらが、ポップコーンみたいにばら撒かれる。 最後にはバックを逆さにして、何度も上下にブンブンしていたが、 「……化剣符が無い……家に忘れちゃったわ……」 だーっと目の幅涙ナミダを流す那由の美貌には、もはやポーカーフェイスなど欠片も浮かんでいない…… (…………) 水の中なのでよくわからないが、深美もちょっと固まっていた。なんとなく、那由のキャラクターがわかったような気がした…… もっとも“深淵の民”には、ボケに対するお約束などわかる筈が無い。 鋭い鉤爪を光らせながら、ぼーぜんとする那由に襲い掛かった!! 凄まじい勢いで跳びかかる異形の怪物の群れに、那由の姿はたちまち飲み込まれる。 団子状に折り重なった“深淵の民”の中心で、身の毛もよだつような擬音が聞こえてくる…… (……少々予想外の展開でしたが、こんなものでしょう……くすくす……) 鈴の音のような笑い声が、水面に浮かんできた――その時!! ドン!! 数体の“深淵の民”が吹き飛んで、隣のビルの壁面に叩きつけられた。 (!?) 続けて内側から爆発するように、団子状の怪物たちが弾き飛ばされた。 そして、爆発の中心にいたのは―― 「……情熱的なアプローチは嫌いじゃないけど……ちょっと強引過ぎるわね」 タイトスカートの裾をぱんぱんと叩く、五体満足な那由であった。 (ばかな……行きなさい!!) ふらふらと立ち上がった“深淵の民”の1体が、奇声を咆哮しながら突進してきた。 鉤爪が白い喉を引き裂く――刹那、那由の姿が“深淵の民”の視界から消失した!? いや、何の予備動作も無く、身体を地面すれすれにまで屈めて回避したのだ。そのまま旋風の如き足払いが怪物の脚を捉え、その身体を空中に浮かせて―― ドガァ!! 足元の屋根が壊れる程の、凄まじい震脚。同時に突き出された中段の拳が、“深淵の民”を見事にとらえた。身体をくの字に曲げて怪物が吹っ飛び、起き上がろうとしていた同族を2・3体巻き込んで、10mも離れた海面に巨大な水飛沫を立てた。 残る怪物たちが身構える。 あの女……徒手空拳でも戦えるのか!? 那由は無言で敵を見据えている。 僅かに上体を右側に逸らして、腰を少し屈めた体勢。右手は拳を作って腰溜めの位置に、左手は開手して前方に突き出す……この構えは―― (中国拳法ですか!?) 「正解よ。用意(ヨンイー)、不用力(プーヨンリー)、基本は脱力……ってね」 左から跳びかかる相手の喉元に、神速の抜き手が突き刺さった。背後からの鉤爪をしゃがんで回避し、右手を軸に跳ね上がった蹴りが顎を打ち砕く。正面から突進を紙一重で避け、そのまま腕を掴んで引き寄せて、カウンターで肩口から当身を食らわせる――その華麗にして豪壮な秘技の数々は、那由の拳法の腕前が超達人級である事を示していた。僅か数分の間に、10体以上の“深淵の民”たちは、ある者は海中に没し、ある者は屋根の上に伏したのだった。 (よもや中国拳法まで使いこなすとは……どこまで技の引き出しをお持ちなのでしょうか?) 「近所のカルチャーセンターよ」 (え?) 「運動不足解消のために通ってるの。あとジャズダンスとネイルアートもね」 (……ネイルアートは運動不足解消にならないと存じますが) 「う……」 (でも、楽しそうですわね……わたくしもいいかげん歳ですし、仕事以外の趣味も持ちましょうか?) 「更年期障害対策のためにも、趣味は持った方がいいわよ……ただし」 那由はゆっくりと周りを見回した。 「……明日があるならね」 不気味なうめき声が周囲から湧き上がってくる。 何事も無かったかのように立ち上がり、屋根の上に這い上がろうとする“深淵の民”たち――那由の拳法攻撃に、全くダメージを受けていなかった。 (確かに驚嘆すべき技量ですが、所詮は人間の技……生身の打撃で倒せるほど、わたくしの子供たちは甘くありませんわ) 海水に濡れた鉤爪が、ぎらりと輝く。 那由の中国拳法は、まったくの無駄に終わったのか。 今度こそ、絶体絶命――しかし、 「え〜と、『お前はもう、死んでいる』……だったかしら?」 ちょっと小首を傾げる那由――その刹那!! ボゴオッ!!! “深淵の民”たちの身体が内側から膨れ上がり――爆散した!! (えっ!?) 肉片と体液が、雨のように降り注ぐ中、不思議と那由に触れるものはなかった。 あたかも、美しい物が穢れぬよう、穢れ自らが避ける如く。 (そんな……“深淵の民”が素手如きで……) 紛れも無い戦慄が、深美の口調に混じっていた。 那由の態度は、その正反対だ。 「あのね……DEEP ONEを素手で倒せるわけ無いでしょ?」 (……なるほど、素手による接触で、直接体内に魔法を放ったのですわね?それなら『母なる海』の守りも無効化できますわ」 「御名答よ。流石はナイン・トゥース、百点満点の回答ね……で、どうするの?あなたの子供とやらを何体出しても、同じ結果に終わるわよ。諦めて自分から出てきたら?」 (そうですわね……ですが――) 青黒い水面が裂けたのは、次の瞬間だった。 太い紐状の何かが、唸りを上げて那由へと伸びる。反応も出来ない速度で、那由の右足は絡み捕られた。 「!?」 吸盤のない蛸の触椀を思わせる、灰色の触手だった。続けざまに新たな触手が那由の四肢を捉え、瞬く間に那由の身体を拘束し、 ズルズルズル…… 「ちょ、ちょっとちょっと……触手プレイの趣味は無いわよ!!」 那由を屋根の上から海面に引きずり下ろした!! 海中に没する音は、不思議と静かだった。 那由の視界が青黒く歪む。手足の動きが――今は動かせないが――倍も緩慢になる。だが、それだけであった。水の冷たさも無く、呼吸も自由だ。 しかし――那由の周りに白い泡が渦を巻き、遠くには舞い踊る色鮮やかな魚たちが見て取れる。青い揺らぎが無限の質量を湛えて、遥か彼方へ続いている…… ここは『深美の王国』――戦いの舞台は、ついに海中に移行してしまったのだ。 「相手の前に出てくるのは、わたくしではなく貴方様ですわ……」 海中にもかかわらず、声は地上と変わらぬ明瞭さだった。 「ようこそいらっしゃいました。わたくし“聖母”安倍 深美の独壇場『海中』へ……くすくす……」 ぞっとするほど上品な笑みが、那由の瞳に飛び込んだ。 白い裸身を晒す深美――水の衣は周囲に溶け込んでいるのだろう。那由でさえ、思わず見惚れるほどの美しさであった。 その足元には、殻の大きさが軽く10mを超える、巨大な二枚貝が鎮座している。僅かに開いた貝口から伸びる数本の触手が、那由の自由を完全に奪っていた。 「『海神“蜃”』ね」 「あら、御存知ですか」 「以前、娘が同類の魔物に襲われた事があるのよ……商売敵に助けられたって嘆いてたわ」 「ならば、この子の力は御存知の筈……今度こそ、お仕舞いですわね。那由様……くすくす……」 那由は唇を噛み締めた。 確かにその通りであった。全ての魔法が拡散消滅してしまうこの海中では、那由が頼れるものは己の武術しかない。だが、こうして動きを封じられた状況では、文字通り手も足も出せないのだ。 「まいったわ……と言っても許してくれないわよね?」 「一度刃を交えた者に対する礼は、1つだけですわ……さようなら、那由様……」 「死ぬ前に1つ、いいかしら?」 「なにか?」 「ナイン・トゥースがこの地に来た理由は何?どうやら国会議事堂の会議参加メンバーが目的らしいけど……」 「作戦内容を気軽に話すと御思いですか?」 「どうせ殺す相手なんだから良いじゃない。私って気になる事があると眠れないタチなのよ……化けて出るわよ〜?」 深美は微かに笑った。苦笑かもしれない。 白い手が軽く振られると、那由の周りの海水が一瞬淡く輝いた。何らかの魔法が使われたらしい。 「……会話の外部送信や情報記録系魔法の類は無いようですわね。ならば、教えて差し上げますわ……」 深美の笑みに、深い陰が射す。 「我々『ヒュドラ』の目的は、魔界大帝の正確な所在地の情報を入手して、彼に接触する事です」 小さな爆発が起こる間があった。 「……そんな事してどうするの?魔界大帝はあなた達ヒュドラがどうにかできるような相手じゃないわよ?」 「ならば、魔界大帝の所在地が、世界のVIPクラスにしか知らされていない、世界最高級最重要機密情報に指定されているのは何故でしょうか?」 「…………」 「魔界大帝が、現地の人間とコミュニケーションを取っているという情報は、我々も入手しています。その人間に出来るのであれば、我々に出来ないという道理は無いはず……貴方達もそう考えて、すでに人材を派遣しているのではないでしょうか?」 那由の脳裏に、自信たっぷりに『仕事』に出向く、最愛の娘たちの姿が浮かんだ。 「……以前は、ね……でも、今はそれがどんなに危険な行為であるかは十分理解しているわ。一歩間違えれば、冗談じゃなくて世界が滅びるのよ?あまりにもリスクが高過ぎるわ」 「だから、ですのよ。那由様……」 深美はゆっくりと背を向けた。 「『我々が魔界大帝と接触すれば世界が滅ぶ』……これほど効果的な、世界に対する脅迫はありませんわ。あらゆる国家、あらゆる組織、あらゆる勢力が脅迫者の意思に従わざるを得ないでしょう。世界中の核兵器を独占するようなものですわ」 「そんな事したら、貴方たちも共倒れじゃない!!」 「それがどうかしましたか?那由様……」 再び、深美が面を向ける。 「我々『ヒュドラ』の行動は、全てが『破壊』と『破滅』を根源として行われてきたのですのよ!!」 その瞳には、紅い狂光が宿っていた。 「喋り過ぎましたわね……さようなら、那由様。常世でわたくしを御待ちください」 那由の全身を、凄まじい圧迫感が襲った。急に水圧が数十倍に増幅したのだ。苦痛に歪む口元から赤い薔薇のような血煙が洩れる。水圧で折れた肋骨が内臓を傷つけたらしい。その均整の取れた身体が激しくしなった。 「ごほごほっ!!」 「暴れても苦痛が増すだけですわ……大人しくお死にください……くすくす……」 「……そうね……じゃあ、私は大人しくして……」 血煙を吐く口元に、薄く笑みが浮かんだ。 「後は、この子に任せるわ」 「!?」 一陣の赤風が吹いた。 周囲を漂う血煙が棒状に収束して、紅の蛇と化したのだ。紅の蛇はうねくりながら海中を漂うと、突然、那由の周りを高速で乱舞して―― ズババババ――!! 海神“蜃”が声無き悲鳴をあげる。 その太く力強い触手は、全て細切れに切断されていた。 「ありがとね」 自由を取り戻した那由は、のんびりと手足を揉み解した。その眼前には、あの赤い蛇――いや、一本の真紅の刀が浮かんでいた。 刀身の長さだけでも2m近い。その斬撃を受け止めようとすれば、防御ごと叩き斬られそうな豪刀だった。そのくせ刀身から柄に至るまで、優美な装飾が施されていて、美術品のような美しさも併せ持っている。 《ふわわ……子法(しほ)、実体化するの久しぶりだから、ちょっと眠いよ……》 ちょっと舌っ足らずな子供の声は――なんと、その紅刀から発せられていた。 ――『化血刀“子法”』―― 意思を持つ剣――いわゆるインテリジェンス・ソードと称される、那由の使い魔の1つである。 「ばかな!!」 深美の美貌は驚愕に歪んでいた。 「“母なる海”の中にいる限り、魔法はもちろん、使い魔の召還すら不可能な筈ですわ!!」 「あら?そうだったの?」 那由のオッドアイに、かすかな光が宿る。 「ごめんなさい。『知らなかったから使えちゃった』のよ……」 右の蒼瞳は美しく―― 左の紅瞳は妖しく―― それは――そう、まさしく『魔女』の瞳―― 「それじゃ、聞く事も聞いちゃったし……子法ちゃん、やっちゃってちょうだい」 《うん♪》 紅の刀――子法の刃が深美に向けられる。 深美が慌てた様子で右手を振ると、波紋状のスクリーンがその身体を覆った。 《無駄だよ。子法は“万物の魔王”の力を秘めた剣だから、どんな防御も『世界』ごと滅ぼしちゃうんだよ》 赤光の一閃―― ――その斬撃の軌道上にある、全ての『世界』が裂けた―― 〜〜〜〜〜ッ!!! 異形の悲鳴が深淵の世界に轟く。 それは、一撃で真っ二つにされた海神“蜃”のものか、またはこの世界『母なる海』のものか。 「……恐るべし……西野 那由……」 呆然と呟く海の女王――安倍 深美の頭頂から股間まで、赤い線が走る。 次の瞬間――ゆっくりと左右に分かれた深美の身体が、紅の血を朧の如く撒きながら、海底の深淵へと消えていくのを、那由は黒い薔薇のように美しく、冷徹なまでに静かに見つめていた。 「……恐るべし………ファー………イースト…………ウィッチ…………」 《けっこう苦戦したみたいだね。那由ちゃん》 「実戦は久しぶりだったのよ……痛たたた……」 あまり豊かとはいえないが、形のよい胸元に癒身符を貼りながら、那由は言い訳を口にした。あの激戦を潜り抜けたばかりとは思えない落ち着きぶりだ。 深美の『母なる海』は消滅して、街中はすっかり――とは言い難いが――元の姿を取り戻している。 《……それで、これからどうするの?那由ちゃん》 「そうねぇ……」 那由は黒焦げの瓦礫と化したカフェテラスを見回した。 遠くからサイレンの音が近づいてくる。野次馬の数も段々増えてきた。 「とりあえず、逃げるわよ」 《ほえ?》 真紅の刀――子法の刀身に、巨大な汗が見えたのは幻覚だろうか。 「このままでは、私がここを破壊した張本人に思われるわ」 《那由ちゃんがやったんじゃないの?この火炎系魔法の残留波動は、那由ちゃんのと同じだよ》 「……と、とにかく急がないと。国会議事堂のVIPさん達が危険で危ないわ」 《ちょ、ちょっと待ってよ〜〜〜》 那由は脱兎の如くこの場から逃げ出して、子法も慌てて後を追おうとした瞬間――国会議事堂の方角から、巨大な爆音が轟いてきた。比較的距離があるにもかかわらず、破片らしき物もぱらぱら降ってくる。 「……こりゃ、本気でヤバイわね」 那由は疾風の如く駆け出した。 ――那由がカフェテラスから走り去って、数分後…… 誰も目に留めぬであろう、テラス跡の隅にある焼け崩れた柱の影に――ぽつり、と水滴が浮かんだ。 宝石の如く輝く水滴は――よくよく見れば、じわじわと、その体積が増えていく。あたかもシャーレの中の細菌の増殖のようだ。 数十秒後――もはや水溜りと化した液体の表面に、漣のような波紋が立ち――月光を背に海面から踊り出る人魚の如く、美しい人影を生み出した。 水を、いや海水を滴らせる人影は――白い裸身に長い黒髪を着物のように纏わせる、妙齢の美女……“聖母”安倍 深美ではないか!! 「流石ですわ、那由様……死ぬのは久しぶりの体験です」 その美しい肢体には、子法の斬撃の痕跡など、欠片も見当たらない。 「ですが、先程の戦いで、那由様のデータは全て読み取らせて頂きました……次はこうはいきませんよ」 深美は微笑んだ。 上品に―― 美しく―― 邪悪に―― 「それでは、本来の任務に戻りますか……」 …ざざざ……ざざ…ざざざ…… ※※※※※※※※※※※※※※※※ ――同時刻・国会議事堂第零会議室―― 異形の巨獣が咆哮をあげて、美しき孤影に飛びかかった。 同時に、床を蹴って疾走したのは、中身の無い甲冑だけの黒騎士だ。 部屋の真中に立つ、美しく妖しい孤影――“無限”のリーナは、襲い掛かる巨獣と黒騎士を、能面のように無表情で眺めていたが、 「……無駄」 刀身の無い柄だけの魔剣――『無限刀』が無造作に振られると、 グオオオオオオ!!! 人外の絶叫が会議室の壁を震わせる。それは苦痛の悲鳴だったのか。 その瞬間――巨獣の牙は黒騎士の胸を貫き、黒騎士の剣は巨獣の首をはねていた。 同士討ちした怪物たちの『部品』は、妙に機械的な音を立てながら、リーナの周りにばら撒かれた。 「……何度やっても同じ事。お前の『攻撃手段』は、全て私の手の内にあるのだから」 「くっ……」 白尽くめの仮面の魔導将校――『人形遣い』アーリシァ大佐は、手に持つ糸の切れたマリオネット操作棒を、怒りを込めて床に投げ捨てた。 彼の周囲には巨大な異形の影が数体、地上に召還された魔神のように佇んでいる。それが元は木切れの人形であったとは、誰も信じられないだろう。 「……マリオネット人形を媒体に魔神を召還し、自在に操る技か……面白い技だけど、『無限刀』の前には無駄」 確かにその通りであった。 アーリシァは次々と人形を魔神に変身させて、リーナを襲わせているのだが、魔神たちのあらゆる攻撃がその手段を問わず、己自身や仲間を傷つけてしまうのだ。リーナには髪の毛一本触れる事もできない。 アーリシァは仮面の下で荒い息を吐きながら、傍らの壁に寄りかかった。全身傷だらけの無残な姿だ。その傷全てが己の召還した魔神によって与えられたものなのである。 「……だが、私にも見えてきたぞ。お前の“能力”が……」 魔剣を持つ手が、ピクリと動いた。 「『周囲のあらゆる“攻撃手段”のコントロールを支配する』……それが『無限刀』の能力だな」 リーナの美しい無表情に、初めて微笑らしきものが浮かんだ。敵愾心に満ちた笑みだった。 ――『無限刀』―― 物理攻撃、魔法攻撃、超常能力……その攻撃手段の種類と対象を問わず、『攻撃という概念』そのものを完全に支配する力を持つ魔剣――対峙する相手が強力な武器や能力を持てば持つほど、逆に有利となる――己自身に、その武器が牙を向けるからだ。 森羅万象、全てが己の刃――『無限刀』――この刀身の無い剣は、文字通り無限の刃を持つ剣なのだった。 「……正解。だが、見抜いたお前に何ができる?」 傷だらけのアーリシァの仮面を、リーナは薄い笑いを貼り付けて眺めた。 そう、無限刀に攻撃のコントロールを奪われる限り、如何なる攻撃もリーナには通用せず、逆に自分を傷つける結果となる。今のリーナはまさに無敵の存在だ。 「そうだな、私の力では勝てんか……ならば、古人の例に倣うとしよう」 「……三十六計か?……できると思う?」 「できるさ。何のために『部品』を配置したと思う」 リーナははっとしたように、部屋中に撒き散らされた木切れ、歯車、バネ、糸……『人形』の破片に目を向けた。 『部品』? ならば、今までの攻撃は、全てが布石だった……? 「石、皮、布、陶器……命を持たぬ無機の存在に細工を施し、命の依り代を紡ぎ出す……そして、かりそめなる命の抜け殻に、糸と操手の熟練が与うる時、『人形』に『魂』が降臨する……これぞ、“人形遣い”」 白い仮面の人形遣いが、慇懃無礼に一礼した。舞台を見せる芸人のように。 白い手が動いた。何かを操るように。 ドドドドドドドドド――!!! 会議室を凄まじい震動が襲った。天井や壁に大きなひびが入り、かろうじて無事だった装飾品が、床に落ちて砕け散る。 地震ではない。会議室そのものが脈動しているのだ。 まるで、生き物のように。 「……ッ!!」 震度6を超える地震の下では、どんなにバランス感覚の良い者でも立っていられないという。この部屋を襲う震動は、それを遥かに凌駕していた。リーナはたまらず、床に膝をついた―― ――足元をすくわれたのは、その瞬間だった。 「……きゃっ」 思ったよりも女っぽい悲鳴を上げて、リーナは尻餅をついた。その身体は勝手に移動していく。足元の絨毯が独りでに巻き取られていくのだ。 「『部品』を配置して、この部屋を“作り変えた”……この部屋は、もう私の『人形』なのだよ」 巻き取られる真紅の絨毯は即席のローラーと化して、運ばれるリーナを飲み込もうとしていた。絨毯に巻き込まれる寸前、リーナは絨毯の上から転げるように離脱した。 「……できる」 リーナは忌々しそうに頭を振った。ポニーテール状に結えた美しい金髪が、黄金の風のように流れる。 そこに、巨大な影が射した。 はっとリーナが面を上げた瞬間――凄まじい大質量がリーナを押し潰した。 砕けた調度品、粉砕された円卓、折れた椅子、シャンデリアの破片……会議室の中に存在するあらゆる物体が、一斉にリーナに襲い掛かったのだ。アーリシァによって『操られる』瓦礫の、恐ろしいまでの大質量――瓦礫に埋まっているリーナには、ブラックホールに匹敵する重圧がかかっている筈だ。 恐るべし――『人形遣い(ドールマスター)』アーリシァの技よ。 だが―― 「……ナイン・トゥースを……」 くぐもった声が、瓦礫の中から洩れ―― 「……なめるなッ!!!」 瓦礫の山は爆散し、怒りに震える美しき女剣士――リーナを生み出した。 今のも『攻撃』であった以上、無限刀によって支配される存在なのだ。 リーナは無限刀を豪雷の速度で振り下ろした。 瓦礫の弾丸が、今度はアーリシァに向かって殺到する。避ける暇も与えず、大量の瓦礫が白い身体を粉砕した――しかし、 「……!?」 崩れ落ちた白い服と、仮面の中身は――歯車とバネと糸の塊であった。 最後の瓦礫が、床の上に乾いた音をたてて落ちる。 それっきり、会議室は静寂に包まれた。 「……逃げられた」 リーナはアーリシァ『だったもの』に近づいて、部品の山を軽く蹴った。 「……いつの間に人形に姿を変えたのか……いや、初めから人形だけがここにいて、本体は別の場所に?……やるな、アーリシァ大佐よ」 くるり、とリーナは踵を返して―― (今回は引く。だが、次はこうはいかん。貴様らの野望は私が粉砕する) 背後からの声に、愕然として振り返った。 誰もいなかった。 そればかりか、白い服も仮面も部品の山も消えている。 今度こそ、瓦礫の山と化した会議室は静寂に包まれた。 「…………」 リーナは無言で俯き、孤独な影を浮かべていた。 その肩が微かに震えている。すすり泣きが洩れたのは、数秒後の後であった。 意外な反応――しかし、 「……ふふふ」 それは泣き声ではなかった。リーナは笑っているのだった。 「……ふふふ……いいぞ」 突然、リーナは胸元に手を当て、そこを引き裂くようにかき開いた。 美しい乳房が窮屈な服から開放されるように、勢いよく飛び出した。たぷたぷと揺れる双球の大きさは、大人の頭ほどもある。男なら誰でも、その桃色の乳首にむしゃぶりつきたいと願うだろう。 だが、その右の乳房には赤い斜線が走っていた。薄い切り傷だ。 「……ふふふ……私を傷つけた……久しいわ……この痛み」 おそらく、あの瓦礫に潰されかけた時についた傷だろう。 ぷるぷると震えながら、両手が乳房に伸びる。 リーナの細い指が傷に触れて―― ずぶり 傷口に、指先が食い込んだ!! 「……はぁう!!」 鮮血と共に――嬌声が洩れた。 リーナの戦士としての無表情は消えていた。今のリーナは快楽に狂う雌であった。 袴の裾からぽたぽたと匂い立つ液体が垂れる。快楽のあまりに失禁したのだ。 「……痛い……ふふふ……いい……痛いのが……いいの……」 指先がぐりぐりと傷口をめり込み、それを広げていく。したたる血は着物のような道服を真っ赤に染めていた。 「……いいの……もっと私を……感じさせて……」 快楽に身悶えするリーナの右手が、震えながら袴の脇のスリットに伸びていく。その手には、無限刀の柄が握られていた。ゆっくりと、スリットの中に無限刀が吸い込まれる。 まさか――しかし、刀身が無いとはいえ、柄には複雑で刺々しい装飾が施されている。そんな事をすれば、ただでは済まないだろう。 だが、はぁはぁと悦楽の息を吐くリーナの瞳には、快楽への期待と――狂気の光が宿っていた。 なんという女か―― ぐっ、と右手に力が入る。 「……『人形遣い』アーリシァ大佐。次こそ確実に殺す」 ずぶっ!! 「……ッ!!あああああああ〜〜〜!!!」 「――で、逃げられちゃったんだね〜」 ――夕刻―― 都心を遥か高みより睥睨する、真紅の塔――東京タワーは夕日に照らされて、まるで炎の剣を連想させた。 「……面白い。私の剣から逃れられる者がいたなんて」 すでに数年前から老朽化が唱えられてて久しいが、西暦200X年の今をおいても尚、東京のシンボルとして悠然と聳え立っている。 「わたくしも同感ですわ。ああも簡単に殺されるなんて、久方ぶりですもの……くすくす……」 その東京タワーの展望台の上に、風に吹かれながら立つ影が三つ…… 「でも〜VIPのおじちゃん達は封印されちゃって、大僧正のおじーちゃんが持って逃げてるんでしょ〜?捕まえられるのかにゃ〜?」 可愛らしいネコピエロな美少女――“道化”師 ベル・ミュー―― 「……どうせこの町からは逃げられない」 美しくも危険な隻眼の女剣士――“無限”の リーナ―― 「そうですわ。わたくしの結界『聖母の抱擁』は完璧ですのよ」 清楚に和服を着こなした妙齢の美女――“聖母”安倍 深美―― 人外の力を秘めし、世界最強の魔人たち――ナイン・トゥースだ。 しかし、彼女たちはこんな所で何をしているのだろうか。 彼女たちから見れば、魔界大帝の居場所を知るというターゲットにはまんまと逃げられてしまい、しかも見失っているという状況だ。本来ならば血眼になって探し回るべきだろう。 だが、彼女たちの雰囲気には余裕があふれ、不安な様子など欠片も見当たらなかった。 この自信は、一体? ――バババババババババ…… ローターの爆音と共に、新たな突風が美女たちの髪を乱した。 ヘリコプターが、すぐ近くを横切ったのだ。 「あらあら、まだ斯様なものが残っていたのですわね」 ヘリコプターは、だが、展望台の上に立つ三人の美女という異常なシチュエーションに気付く事も無く、遥かな夕日に向かって飛んでいく。彼女たちには気付かなかったのか。 ――いや。 彼女たちを気に留める余裕も無かった――のか? 「無駄なのにね〜♪」 愉しそうにベル・ミューが呟いた瞬間――夕日の中で、小さな爆発音と共に、ヘリコプターは炎の花と消えた…… なるで、見えない壁に激突したかのように。 「……民衆は愚かだ。大人しく運命を受け入れればいいのに」 リーナが無表情のまま見下ろす眼下の街並みは――凄惨な光景が広がっていた。 ……ウ〜ウ〜ウ〜ウ〜…… 消防車とパトカーのサイレンが、ひっきりなしに町中を駆け巡る。しかし、その数は先刻より遥かに減少していた。事件の数が多すぎて、処理がとうてい追いつかないのだ。 あちこちで上がる火の手は、加速度的に数を増していく。東京中が焼き尽くされるのも、時間の問題と見えた。 暴徒と化した民衆の怒号と悲鳴は、展望台の上にまで聞こえてくる。 ……たった、『あれ』だけの処置で、この都市はここまで混乱するのか。 ――国会議事堂を中心に、半径30km地域が『SSSクラス外的干渉排除型結界』によって、外界から完全に遮断され、電気、ガス、水道、通信……あらゆるライフラインが切断されただけで―― 東京都心――この巨大な現代のバビロンは、脱出しようとする者の幾度もの試みと、パニックを起こして暴徒化した住民によって、混沌の坩堝と化していた。 「わたくしの『結界』に閉じ込められた以上、絶対に逃れる事はかないませんわ。あとはゆっくりと燻り出せば良いだけのこと……くすくす……」 深美は春の夢のように笑った。美しい悪魔を思わせる笑みだった。 その時―― (そう簡単にはいかないかもしれませんよ) 「!?」 3人の魔人の間に、稲妻のような緊張が走った。 「そ、その声は……“静寂”ちゃん!?」 ベル・ミューは慌ててきょろきょろと辺りを見回した。 当然ながら、こんな場所には3人以外の人間が存在するわけが無い。 それに、“静寂”といえばナイン・トゥースの一員、つまり仲間ではないか。彼女達は、何をそんなに動揺しているのか? (安心してください。この声はハチソン式超遠距共鳴通信です。あたしは貴方達の半径10km以内には存在していません) 「も〜!!脅かさないでにゃ〜!!」 たちまち、場に安堵の空気が流れた。どうやら、“静寂”の銘が冠された人物は、仲間にも恐れられる存在らしかった。 あの、魔人達にすら―― 「それで、簡単にはいかないとは、如何なる事情なのでしょうか?」 (封印されたVIPを所持する“闇高野”大僧正は、先刻、『人形遣い』アーリシァ大佐と、『ファー・イースト・ウィッチ』西野 那由と接触したそうです) 一瞬の沈黙――しかし、次の瞬間に流れたのは、 「……面白い」 「楽しそうだね〜♪」 「相手にとって不足は無い組み合わせですわね……くすくす……」 紛れも無い、闘志と――殺戮の狂気であった。 (そして、もう1つ――ある意味、この情報の方が問題かもしれませんね) 「……何?」 (深美さんの結界が張られる直前――“魔獣”と“鬼道”が、この都市に侵入しました) 「!!」 殺意さえ含んだ怒りの闘気が、周囲の空間に充満した。 「……なぜあの2人が?今回の作戦は我々だけに任された筈……!!」 「計画がぶち壊しだね……」 「あの2人が戦場(いくさば)を前にして、自分を抑えられる筈がありませんものね……困りましたわ」 夕日は既に地平線に没して、世界を夜の帳が覆っていく。 だが、所構わず発生する火事のために、町は不気味に赤く照らされていた。 「……我々より先に、あの2人に見つからなければ良いけど……」 奇妙な事に、その呟きには紛れも無い那由達に対する懸念の情が込められていた。 “魔獣”――“鬼道” あの魔人達にすらそう思わせる、謎の存在――彼等は何者なのか? 「ダメだわ。次元連結も空間歪曲も効果なし……結界を解除するのは不可能ね」 それだけじゃないわ〜!!テレポートで結界の外に出るのもぉ、結界を強引に破壊する事もできないのぉ…… 「結界の範囲は、国会議事堂を中心に半径30kmか……我々は完全に閉じ込められたらしいな」 「ワシらを逃がさないだけの為に、ここまで大規模な結界を展開するとは、あちらさんも形振り構っていられないようじゃのう……」 段ボール箱の上に腰掛けながら、意見を交えるアーリシァさんと大僧正お爺ちゃん……なんでそんなに冷静でいられるの〜!?那由ちゃん達は絶体絶命の超うるとらドン!さらに倍!!な大ピンチなんですよぉ〜〜〜!!! 《……那由ちゃんもそう落ち着いてないで、相談に参加したら?みんな大ピンチなんだよ……》 「そうね」 あうあう〜〜〜今の私は落ち着いてるんじゃなくってぇ、状況に固まっているだけなのよ、子法ちゃ〜ん…… ……あれから、猛烈なBダッシュで国会議事堂に戻る途中、路地裏の隅で息も絶え絶えで倒れている大僧正サマを発見した私は、自分の懸念が正しかった事を知ったのぉ…… やっぱり手遅れだったわぁ……国会議事堂は炎上していたぁ…… その後、国会議事堂から脱出したアーリシァさんと接触した私とお爺ちゃんはぁ、ナイン・トーゥスと暴徒化した町の人達から逃れる為に、こうして倉庫に使われてるらしい廃ビルの一室に隠れて、脱出の機会を窺っているんだけどぉ…… ふえ〜〜〜ん!!まさか都心ごと結界に閉じ込められるとは思わなかったわぁ!!! 《子法を使ってもダメなのかな?》 「あなたの能力は『世界を滅ぼす力』だから、結界を破壊できても破壊された世界を通れなくなっちゃうのよ」 ああん……こんな事ならガイドブックとかお菓子とかゲーム機とかじゃなくってぇ、ちゃんとしたマジックアイテムを持ってくればよかったわぁ……トホホ〜〜〜イ。 「せめて、外部との連絡が取れればよいのじゃがのう……」 「できますよ」 わ、びっくり!!いきなり2人が私に詰め寄ってきたわぁ。 う〜〜〜ん♪男の人に迫られるってイイわねぇ〜♪ ……って、温厚そうだけどヨボヨボなお坊さんと、性別不詳年齢不詳外見まで不詳な人が相手じゃ、あまり嬉しくないかもぉ…… 「何故それを早く言わない?」 仮面越しだからよくわからないけど、アーリシァさんが私をギロリンと睨みつけたぁ。 そ、そんなに怒っちゃいや〜〜〜ん(心の汗) 「奥の手だから、あまり使いたくなかったの」 ふっふっふ。ホントは言われるまで忘れていた……というのはナイショよ!!(心の滝汗) 「しかし、この完全に閉鎖された結界内部で、どうやって外部に連絡を取れるのかのう?」 「“彼女”は、『どこにでもいて、どこにもいない』存在ですから……結界内部も、彼女の“世界”なのです」 「……?」 呪符を床に並べて、子法ちゃんで床に紋様を描きながら、私は答えたぁ。 え〜と、ここの龍脈とエーテル気流の関係なら、展開式は……よ〜〜し!!魔方陣が完成したわぁ。 「危険ですから、少し下がってください」 2人と子法ちゃんが後ろに下がったのを確認してぇ…… 「…」 那由ちゃんは呪文を唱えた!!ちゃらりらりら〜〜〜♪ 「超高速圧縮詠唱か……速い!!」 アーリシァさんのビックリしたような呟きが聞こえた瞬間―― ぼわん ちょっとおマヌな音と共に、魔方陣の上に映像が浮かび上がって来たわぁ。成功ね〜♪ 「……なんじゃ?これは……」 浮かび上がってきた映像はぁ、何だか古臭くてゴチャゴチャとした、オリエンタルな香り漂う小さな部屋……妙に薄暗くて、お香みたいな靄が漂ってるわぁ……得体の知れない道具が棚に整然と並んで――はいないでぇ、あちこちに山積みになってる。アジアの下町の古道具屋って雰囲気ねぇ〜。 「……『古物屋・魚人亭』……?」 なぜかカウンターの上にある看板を読みながらぁ、大僧正さまが訝しげな声を洩らしたわぁ……確かに、胡散臭さ大爆発よねぇ。 で、その看板の下で、安楽椅子に揺られながらコックリコックリしているのが…… 「……ちょっと起きてよ。“シー・リャンナン”」 「…………?……」 目をこすりこすり顔をあげたのが、『どこにでもいて、どこにもいない』彼女――シーちゃんよ〜〜ン。 古代中国の仙人みたいな服を着てるけど、中身はバリバリの金髪美女……形容じゃなくって真っ白な肌に、ルビーみたいに紅い瞳……オールバックのブロンドヘアーがカッコイイわぁ〜♪ ……でも、全然仙人に見えないわねぇ…… 「…………ええと………………ああ……お久しぶりです……那由さまぁ……」 「……私の事、忘れていたでしょ」 「……そんなこと……ないですよぉ……」 ポケ〜〜〜とした瞳を漂わせながら、気だるそうに手を振るシーちゃん…… ……これで、仙界でも3本の指に入る仙術の達人なんだから……世の中なにか間違ってるわねぇ…… って、ちょっとちょっと…… 「ちょっと、シー……あなた、胸が見えてるわよ」 「……え?……ああ、そうですねぇ」 極端にスレンダーなプロポで、とう○とキャラも真っ青な撫で肩だから、だぶだぶな仙衣がすぐ肩からずり落ちちゃうのよねぇ、この子は…… はだけた胸元から、ほとんど脂肪の無い平坦な乳房が丸見え状態よ……白い肌に赤い乳首がよく目立って、薔薇の花弁を浮かべた処女雪みたいねぇ……う〜ん、那由ちゃんってナイス詩人♪ 「あまり気にしないでくださいよぉ……」 ふっふっふ!!胸の大きさでは(久しぶりに)勝ったわ!!イエーイ!! 「いいから早く仕舞いなさい。殿方もいるんだから」 ……でも、乳輪が小さくて羨ましいわ……トホホーイ…… 「大丈夫なのか?あの女」 「腕は保障するわ」 「…………ぐー」 「寝ておるぞ」 「……本当に大丈夫なのか?」 た、たぶんね…… ――数分後―― 「……で、我々を結界の中から脱出させる事は可能なのか?」 「大丈夫ですよぉ……たぶん……一度、わたしのお店に移動してぇ……別の場所に『揺らげば』脱出できますよぉ」 やった〜!!これでお家に帰れるわ〜ン!! ……あ。 でも、ちょっとまって…… それじゃあ…… ………… ……… …… … ……うん、そうですよね。 そうですよね、あなた…… 「それなら、早く脱出し――」 「やっぱり、ここに残りましょう」 私の一言は、皆さんの注目を一斉に浴びる結果になったわ。 「なぜだ?」 《どうしてなの?》 「私達が脱出しても、奴らは結界を解除しないでしょうね。見せしめのために……都心の人間全てが犠牲になるわ」 軽い震動がビルを揺らすのを感じる。 また、近所で爆発が起こったみたい。 「ならば、どうするのじゃ?」 「この結界は、行使者を倒せば解除されるタイプです。奴らの目的は私達とVIPの記憶ですから、幸か不幸か、行使者は黙っていても向こうからやってきます。それを撃退しましょう」 「つまり、VIPの面々を餌にするというのか!?」 「ありていに言えば、そうね」 すぐ近くで、女性の悲鳴が聞こえてきたわ……また、暴漢にでも襲われてるのかしら? アーリシァさんが片手を振ると、傍らのマリオネット人形が凶暴そうな怪物に変身して、割れた窓ガラスから飛び降りた……直後、今度は複数の男の悲鳴が上がって、すぐに何も聞こえなくなったわ……物騒ねぇ…… 「ちょっと『自分の世界』が混乱しただけで、この体たらく……この町の――いや、この国の人間は腐っている。そんな連中と世界を動かすVIPの方々を、天秤にかける気か?」 「腐ってるのはVIPの人達も同じだと思うけど……どうせなら、数が多い方を助けましょ」 「数が問題ではない。重要なのは、その価値だ」 「あなた、まさか一般市民よりも、お高いVIPの方が価値のある人間だ……なんて思っているわけ?」 「そうだ。それが現実というものだよ。那由殿」 いつの間にか、私とアーリシァさんは顔を突き合わせてたわ。 子法ちゃんから、オロオロとしたような呆れたような気配が伝わってくる。 大僧正お爺ちゃんは、私達を生徒を見守る教師みたいな目で見てる。 シーは……寝てる。 なんだか、妙な展開になってきたわね…… 「このVIPの方々を失えば、世界の政治経済の秩序は崩壊するぞ。どちらを選択するかは自明の理だ」 「そんな事は無いわよ」 う〜ん、自分でも冷酷な口調だわ。娘の前では見せられない姿ねぇ。 「ナンバー1が消えてもナンバー2がその座に収まるだけね。1人の人間が左右できるほど“世界”は単純じゃないわ。『たった1人の人間が歴史を変えた』なんて戯言は、現実を知らない英雄賛美派の絵空事よ。『この世界に必要じゃない人間はいない』という言葉があるけど、『この世界に必要な人間なんていない』というのが正解ね……」 「そこまでにしなされ」 大僧正お爺ちゃんが、静かに私達をたしなめたわ…… 「那由さんや……世界に価値のある人間はいないと申されましたな……同じ言葉を、御自分の子供に言えますかの?」 「…………」 「それならば、なぜこの都市の人間を助けようとするのですかな?」 冷水を浴びせられたような感じ……修行時代、姉さんに怒られた時と同じ感覚…… 「……私には娘がいます。その娘に市民を見捨てて自分だけ逃げ出したって思われたくない……それだけです」 「それでよい。それでよい……小難しく考える事は無いのですじゃよ」 大僧正様は、にっこりと笑みを見せてくれた。 ううう、ちょっと興奮して過激になっちゃったみたいね……反省反省…… 「アーリシァさんや、軍人としてのお主の立場もわかるが、ここでお偉方を脱出させても、今度はその場所で各個狙われるだけじゃろう。ここは1つ、折れてくれんかのぅ?」 「……了解した」 あらら、あっさり折れてくれたわねぇ。この辺は年の功ってヤツねぇ……流石です!!大僧正さまぁ〜♪ 「……あのぉ……それではわたしは、何のために呼ばれたのでしょうかぁ……?」 あ、すっかりシーちゃんの存在を忘れていたわ(汗) そうねぇ…… 「戦闘用のマジックアイテムを、ありったけ購入しましょう。敵との戦力差を少しでも埋めたいです」 「なるほど」 「というわけで、呪力結晶石と特殊呪符台紙とガンマニウムと粉末オリハルコンと――」 「私は、錬気香木とアダマンチウム鋼線と擬似聖骸布とタリスマンと――」 「ワシは、紫紺水晶と圧縮呪文用紙と封印箪と金丹と――」 《子法は、高級研ぎ石と高級銀粉とマンガとポテチと――》 「子法ちゃんはダメよ」 《しくしく》 「毎度ありぃ……それでは、合計5億4907万215円になりまぁす……」 「ツケといて」 「わかりましたぁ……あのぅ、ツケの金額が8京9047兆288億7963万1754円に溜まってるので、そろそろ払ってくださいねぇ……」 「わかったわ」 来世がアラブの油田王にでも生まれ変わったらねぇ…… ……でも、考えれば考えるほどぉ、 「これでも、戦力差は絶望的だな」 「敵の戦力はわかるかしら?」 窓ガラスが、派手な音を立てて割れた。 「大僧正殿と私が確認したのは、ナイン・トゥースの“無限”と、奴が言っていた“静寂”、それに通路で暴れていた奴だ。あの戦闘力はナイン・トゥースの1人だと考えていいだろう」 「私と戦った“聖母”を合わせて、合計4人ってことね」 「“聖母”はお前が仕留めたのではないのか?」 「殺したぐらいで倒せるような相手じゃないわよ……」 綺麗にガラスだけが割れ落ちた窓枠を、青とピンクの肉球付きグローブが掴んだ。 「1人1人が一国の軍隊をも上回る戦闘力を持つ、ナイン・トゥースが4人も……」 「それに、4人という数は『少なくとも』……だ」 ぴょこんと顔を覗かせたのは、ピエロみたいなメイクをした、可愛らしいネコミミ美少女だ。 「比べて、こちらの戦力は、私とアーリシァさんと大僧正様と――」 「ワシは戦力に入れぬ方が良いぞ。戦うのは苦手じゃ」 「あ、そういう噂でしたね」 仏教系退魔組織の中でもぉ、世界最強の武闘派といわれる『闇高野』の大僧正様が、戦いの術を持たない平和主義者だなんて…… よっこいしょ、と窓枠によじ登り、ネコミミ少女は部屋の中に飛び降り――ようとして、ネコシッポが窓枠に引っかかって、部屋の中に頭から転がり落ちた。 ……でも、だからこそ大僧正の座についているのかもねぇ…… 「じゃあ、戦えるのは私とアーリシァさんと子法ちゃんとシーだけね」 「……ええ〜?……わたしも戦うんですかぁ?……わたし、どう考えても部外者……」 「仲間にならないと、ツケを払ってあげないわよ」 「わかりましたよぉ……あ〜あ、あと5・6年は寝たかったのにぃ……」 ぶつけたらしいおでこを痛そうにさすりながら、彼女は相談の輪の中に潜り込んだ。 《那由ちゃん、ムチャクチャだよ……》 「女は多少強引な方が、魅力的なのよ」 《あ、そうなんだ》 「ふ〜ん、そうにゃんだね〜」 ……チリン…チリリン…… ひょっこりと子法ちゃんと私の間に顔を覗かせてきた、ネコミミピエロの女の子―― ――って、ほえええええ??? 「何奴ッ!?」 アーリシァさんと大僧正さまが、慌てて身構えながら散開したわ。あの人達も、たった今この娘の存在に気付いたみたい。 ……しかし、何時、どうやってこの部屋に侵入したのぉ!?那由ちゃんスーパーアイにも気付かれずに、ここまで接近するなんてぇ……絶対に不可能だわぁ!! 「子法ちゃんは大僧正様を守って。シーは……起きなさい!!」 《うん!!》 「…………はいぃ……?」 コスプレ美少女は、ニコニコしながら私達を見回してるぅ……あうあう〜〜〜こーゆー無邪気で無害そーな相手が一番コワイのよねぇ〜!!! 「ベル・ミューがここにいるのが不思議みたいだね〜?『堂々と入ったのに気付かなかった』じゃなくって『堂々と入った“から”気付かなかった』んだよ〜♪」 な、何言ってるの?このネコ娘……? 「お主……まさか!?」 「そうだよ〜♪ヒュドラのナイン・トゥース1のカワイ子ちゃんこと、“道化”師 ベル・ミューここに登場にゃ〜♪」 「なぜ、この場所に……」 「言わなくってもわかるでしょ〜?みんなを殺して殺して殺しまくって、エライ人の記憶を奪いに来たんだにゃ〜♪」 ががが〜〜〜ん!!! そ、そんな……ナイン・トゥースにあんな若い子がいるなんてぇ!!深美さんみたいに同年代のオバ……(くらくら…)……ううう、また脳波が止まりかけたわ……妙齢の人しかいないんじゃなかったのぉ!?ロリ趣味の人までターゲットにするなんて、ヒュドラ恐るべし!! ……って、驚く所が違うわ!!落ち着くのよ私ぃ!!!ととととりあえず動揺を収めるには若い美少年のを3人分飲み込めば――(錯乱中) 「まさか……1人で殴り込みに来たのか!?」 「そうだよ〜♪だってベル・ミューだけでみんな殺せるからね〜♪」 ……チリリン…チリン…… 鈴の音が不気味に鳴り響いてるわぁ…… あうあうう〜〜〜!!!可愛らしい見た目が逆にコワイわぁ〜〜〜!!! 戦慄に包まれてる私達(シーは除く)を、ベル・ミューちゃんは、面白そうにキョロキョロ見回していたけど、やがて那由ちゃんをじろっと睨んでぇ、 「……むっかぁ!!あのオバサンだけベル・ミューを見ても驚かないぃ!!ムカついちゃうにゃ〜!!!」 可愛らしく地団駄を踏むベル・ミューちゃん…… ……って…………え? ……………………オ……バ…サン…………? 死なす!!(0.1秒) 「…」 こっそりとあの小娘の足元に配置した呪符に封じてある魔法を開放するわ!!いつもより余分に開放しておりますぅぅぅぅぅ!!! 食らえぇ!!!那由ちゃんエクスプロージョン!!! 「こ、こ、こらぁ!!こんな所で爆発系呪文を――!!」 ふふふふふふふ!!!アーリシァさんが何か言った気がしたけど、今はな〜〜〜〜〜んにも聞こえないわぁぁぁぁぁ!!! 大爆発 ……………… …………… ………… ……… …… … …ううう…… こ、ここはどこかしら…… 頭の上の瓦礫を払い落としながら、私は辺りを見回した。 現在地点は……どこかの路地裏みたいね。 うぐぅ……東京タワーの位置がさっきと全然違うわぁ……思いっきり遠くに吹っ飛んじゃったみたいねぇ…… 皆の姿は、どこにも見当たらないわ。違う方向に吹き飛ばされたのか、防御に成功したのか……まぁ、あの面子なら無事だとは思うけどぉ…… しかし、さっきのは我ながら無茶な暴走だったわぁ……後で皆さんに謝らなくっちゃあ…… ……いいえっ!!違うわ!!! さっきのは、あの禁断の言葉を言った小娘が悪いのよぉ!!絶対に絶対に絶対に絶対に…… 「絶対にそうなんだからぁ!!!」 「――わかったから、早くどいてくれ」 ……え? 私は声の発生源――足元の地面をみた。 でも、そこは地面じゃなかったわ……白、黒、灰色、茶色、それらの中間色――複雑な色彩の羽根の集合体……鷹や荒鷲を連想させる巨大な翼の上に、私は乗っかっているぅ!? ぐらり―― きゃっ!! いきなり翼が――いえ、翼を生やした誰かが立ち上がって、那由ちゃんは瓦礫の中に尻餅をついちゃったわ。 「痛いわ……」 「痛いのは俺の方だ。いきなり頭の上に落ちて来やがって……」 錆びた鋼みたいな、すっごく男っぽい声――それに相応しい、精悍な鋭い眼差しが、私の瞳を貫いたぁ…… きゃあああああ〜〜〜!!! 渋くてハードボイルドな感じのすっっっっっごくイイ男ぉぉぉぉぉ!!! 軍服みたいなスーツ姿がメチャカッコイイわぁ!!ボタンやポケットみたいな引っ掛かりが無いからぁ、パイロットスーツなのかなぁ〜? やっぱり軍人さん? あああ……ああいう危険な香りのするタイプに弱いのよ〜那由ちゃんはぁ…… ……でも、 「あら、ごめんなさい……でも、こんな所に翼人族がいるなんて……あ、それとも天使族かしら?誰かに召還されたの?」 背中から生えてる巨大な翼が、彼が人外の存在である事を証明してるわ……ちぇっ(爆) 「なんだそれは……地球人類の種族区分法か?」 気だるそうに言いつつも、私の手を取って立ち上がらせてくれたわぁ。見た目によらず、けっこう紳士的ねぇ〜♪ 「あいにく、俺は地球の現地生物じゃない。それならこんな苦労もしなくて済むんだがな……」 何を言ってるのか、よくわからないんだけどぉ……とりあえず、自己紹介ね。 「私の名前は西野 那由……さっきはクッションになってくれてありがとね」 彼は苦笑したみたい。 ……でも、その笑みを見た瞬間―― ――私の身体を、エクスタシーにも似た戦慄が貫いた。 この感覚は…… ……まさか…… ……恐怖?…… 「俺の名は“アヴァロン・クルィエ少佐”だ」 外伝1 〜〜URBAN TRAIL〜〜
・・・・・TO BE CONTINUED
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那由さんの憂鬱 |
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