那由さんの憂鬱 |
――同時刻―― あの、異常を通り越して冗談じみていた東京都心の地価高騰も、バブルが弾けて久しい現在(西暦200X年)では、それなりの落ち着きを見せている。 しかし、それでもこの町の土地が、世界で一番高価である事は変わらない。 人、金、情報、メディア……今もなお、生き物のように成長するこの都市は、貪欲にそれらを貪っているのだが……土地の広さが有限である以上、単純に面積を二次元的に増やす訳にはいかない。 その結果、この町は三次元的に成長する事を選択したのだ。 ビルは高層化し、地下スペースは加速度的に掘り下げられて……結果、この都市は他に類を見ない階層構造となった。 あたかも、天の轟雷に焼かれた塔の如く。 そして、この地下街も、そんな現代のバベルに相応しい惨状を晒していた―― 「…………ぐー……」 「寝てないで早く走れッ!!」 ――新宿駅地下ショッピング街―― 普段は歩行者天国もかくやとばかりに、人の波がごった返すこの地下通りも、今は人の気配すらしない。 飲食店の割れた自動ドアの奥からは腐臭が漂い、暴徒に火をつけられたらしい本屋は、単なる灰燼の展示場と化していた。ショーウィンドーに飾られた、最新ファッションに身を包む無表情なマネキン人形の寂しさよ。 「……ぜいぜい……年寄りにはきついのぅ……」 《おじいちゃん頑張って!!》 しかし、その寂寥感も、地下ショッピング街の端――右に折れた通路の奥から接近してくる複数の叫び声に、打ち消されようとしていた。 声の数は4つ。だが―― ゴゴゴ…… パラパラと壁面の漆喰が剥がれ落ちる。 先程から、腹の底に響くような振動が、途切れる事無くこの地下通りを揺るがしているのだ。 ゴゴゴゴゴ…… ピシリとショーウィンドーに亀裂が走る。 振動は徐々に大きくなる。途方も無い大質量の『何か』が、4人の声と共に接近してくるのだ。 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…… マネキン人形が将棋倒しに崩れ、安定の悪い調度品やオブジェの類が落下して、派手な音を立てて砕け散る。 もはや通りを揺るがす振動は、かつて大正の時代、関東近辺を壊滅させた大震災に匹敵していた。 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…… 「――来るぞ!!!」 そして、崩壊しつつある通路の角から飛び出してきたのは、3人の男女と一振りの太刀だ。 誰もが必死の形相で――いや、1人は眠っていて、足を掴まれて引き摺られているが――死に物狂いに疾走している。明らかな逃走の図だ。彼等は何から逃げようとしているのか? その解答は、すぐに“出現”した。 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――!!! 彼等に続いて地下通りに踊り出たのは――凄まじい『肉の洪水』――としか表現できない存在だった。 筋肉、内臓、骨、血管、神経、etc……ぐちゃぐちゃにすり潰された人間の身体が寄り集まって、アメーバ型の粘性生命体と化したようなおぞましい姿――その途方も無い巨体ときたら、すり潰す人間の数は千や万では済まないだろう。 どんな悪夢でも再現できない、恐怖と狂気の具現のような『肉の洪水』は、生きた津波の如き怒涛となって、逃げる彼等を飲み込もうとしていた。 《――もぉ!!しつこいよ!!!》 真紅の太刀――化血刀“子法”がくるりと振り向いて、赤く輝く切っ先を、押し寄せる『肉の洪水』に向けた。 地下通りは、地震どころか爆撃を受けたように崩壊していく。通路の大きさに比べて『肉の洪水』の量が大過ぎるからだ。細いストローに無理矢理大蛇が入り込もうとしているようなものか。 《ええぃ!!》 赤射の斬線。 “万物の魔王”の力を秘めた魔刀、子法の斬撃の凄まじさよ。軌道上のあらゆる『世界』を滅ぼす攻撃は、あの肉の洪水を易々と貫通し、宇宙の果てまでを切り裂いただろう。 それだけだ。 たちまち斬られた部分が融合して、何事も無かったかのように押し寄せる怒涛を前に、 《やっぱり攻撃は効かないね……》 子法は呆れたように呟いた。 「無駄な事はやめろ!!そんな暇があったら早く逃げ――」 白尽くめの中東風の衣装を纏った、仮面の人物――“人形遣い”アーリシァ大佐が、子法の柄を掴んだ瞬間!! ――ガシャアアアン!!! 彼等の右前方のショーウィンドーが粉々に砕け散って――蠢く肉の集合体があふれ出た。 『肉の洪水』は、密かに別の通路に己の一部を先行させて、逃げる獲物の前方に回り込んでいたのだ。明らかに、知性ある存在の行動――あのおぞましい肉の塊には、知性と意思があるというのか!? ――いや、意思なら疑問も無く明確な存在が感じられる。 それは…… 「……逃げ道がぁ、無くなっちゃいましたねぇ……ぐー」 古代中国の仙女みたいな服を着た金髪の美女――シー・リャンナンが、ふにゃあと欠伸をしながら呟いて、再びくムニャムニャと瞳を閉じる。 肉の集合体の間に見え隠れしているマネキン人形が、ばきばきと音を立てて砕かれて、肉の中に消えていく。 食われているのだ。 「むむぅ……これはいかんぞ」 僧衣を纏った白髭の老人――“闇高野”大僧正が、手にする数珠に力を込めた。 彼等を包囲した『肉の洪水』は、ゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。 この化け物の持つ、明確な意思――それは、狂的なまでに純粋な『殺戮の意思』だ。 絶体絶命――そして、ついに、 ドバァ!!! 何の前振りも無く、『肉の洪水』はあらゆる方向から4人に覆い被さってきた。 逃げ道など、どこにも無い。 成す術も無く、彼等は恐るべき肉の奔流に飲み込まれた―― ――いや、 「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バン……」 大僧正の真言が低く響く。 五方星を描くように床に並べられた数珠の珠。そこから光の膜が大僧正達を守るようにドーム状に広がって、恐るべき肉の怒涛を食い止めていた。 《間一髪だったね。おじいちゃんエライっ♪》 子法が空中でぴょこぴょこ跳ねて、大僧正に感謝の意を示した。なんとなく、この老人に好意を抱いているらしい。外見が太刀なのでよくわからないが。 「……これでぇ、ようやく眠れますねぇ……ぐー」 「寝るなッ!!」 《……でも、どうやってこのピンチをクリアすればいいのかな?》 子法の不安気な言葉に、アーリシァ大佐は忌々しそうに『結界』に貼りつく“魔獣”を睨んだ。 ――数時間前……何を思ったのか、いきなり那由が爆破系魔法を放ち、彼等は廃ビルから文字通り吹き飛ばされたのである。 幸い、那由以外のメンバーは全員すぐに合流できた。だが、那由とベル・ミューと名乗る刺客はの姿は見当たらず、もしや交戦中では、と那由を探そうとした、その時―― ――その女が、ビルの影からふらりと出現したのだ。 真紅のドレスを優雅に着こなした、亡霊のように虚ろな美女だった。艶やかなその姿が、この状況には全くそぐわないと認識するまでも無く、一同は『あの女は敵だ』と判断した。 と、同時に―― 「……ヒュドラ……ナイン……トゥース……“魔獣”……魎子……」 そう、名乗ったのだ。 胸元をかき開いて、豊満な乳房を露出させながら。 ナイン・トゥースの名に戦慄しながらも、何のつもりだ?と皆が身構えた。 次の瞬間――乳房の谷間に、赤い亀裂が走ったのと同時に、その亀裂から爆ぜる勢いであふれ出たのが、あの『肉の洪水』だったのだ。 いったい、どうやって身体の中に閉じ込めていたのか――『肉の洪水』は、凄まじい速度で増殖を始め、本体である魎子――いや、この増殖する肉腫が本体なのか?――までも飲み込んで、彼等に襲いかかってきたのである。 しかし、単なる巨大なスライムと変わらない、大質量による押し潰しと消化吸収能力による攻撃だけでは、この面子には傷1つ付けられまい。 アーリシァ大佐がマリオネット人形を操り―― 大僧正が数珠を構え―― 子法が『万物の魔王』の力を発揮し―― シーは眠っていたが―― 各々の持てる力でもって、これを撃退した。 ……いや、撃退しようとした。 暗黒の波動で吹き飛ばそうが、精神のコントロールを奪おうが、地獄の業火で焼き尽くそうが、生物の『本能』を完全に破壊しようが、絶対零度で凍らせようが、素粒子レベルでバラバラにしようが……あらゆる攻撃がまるで通用しないのだ。 物理的、精神的な攻撃が通用しない!? それならばと、今度は純粋な『虚無』で完全に消滅させ、超純魔導結界に封印し、時空ごと異世界に追放までしたのだが……静止した時間のなかで平然と蠢き、虚無に帰そうが異世界に追放しようが、次の瞬間には何事も無かったかのように、変わらぬ姿で襲いかかってくるのである。 これは、単なる無限再生増殖能力や攻撃吸収能力ではない。 ならば、何なのか? ――如何なる手段をもってしても倒せない―― そんな敵への対処方法は、1つしかない。 三十六計だ。 だが、テレポート、超加速、時空閉塞、完全幻覚……あらゆる手段であの魔獣から逃げようとしても、なぜかすぐに追い付かれてしまうのである。 何らかの方法で、此方の居場所を知られている訳ではない。それならば、テレポートで逃げた先に、肉の海が待ち構えている筈が無いのだ。 ならば、何なのか? そして、ついに彼等はここに追い詰められて―― 「……いかん、限界じゃ」 大僧正の光の結界のあちこちに、赤い染みがポツポツと浮かび、ジワジワと広がっていく。肉との接触面から溶かされるが如く、結界が破壊されようとしているのだ。 「特SSS級クラスの結界なのに……はぁ、凄いですねぇ。このクラスの結界って外部からの破壊は不可能じゃなかったですかぁ?」 緊張感のまるで無いシーの呟きだが、本人は結構あせっているらしい。事実、絶体絶命の状況だ。 「いや、違う……結界が壊れていくんじゃない。まさか、『組替えられている』のか!!」 何かに気付いたアーリシァが、懐から新たなマリオネット人形を取り出す。 「……だが……遅い……!!」 ドグシャアッ!!! ガラスのように砕けた結界の破片と共に、3人と一振りの姿は『肉の洪水』に飲み込まれた―― 「…………」 沈黙。 先刻とはうってかわった静寂が、崩壊した地下通りを支配している。 地下通りを埋め尽くす膨大な『肉の洪水』は暴走を止めて、今は静かに脈動しているだけだ。 「…………」 突然、音も無く肉のごく一部が盛り上がってきた。モーフィングするかのように、その部分は形を変えて――あの、赤いドレスの美女“魔獣”魎子の上半身の姿を作り出した。 下半身は、まだ肉の海と一体化したままだ。 「……やる……な……」 続けて、魎子の目の前の肉が盛り上がり、新たな人影を生み出す。 それは、アーリシァ大佐、大僧正、シー・リャンナン、子法――の、ミニチュア化した木彫りの人形だった。 「……変わり身……とは……」 こちらも人形じみた無表情のまま、魎子は視線を前に向ける。 結界ごと奴等を押し潰した場所の床には、人1人がやっと通れるぐらいの小さな穴が開いている。情報によれば、この地下通りの真下には地下鉄の線路がある筈だ。 逃げられたのだ。 「……でも……まだ……殺……せる……」 耳を塞ぎたくなるような怪音を響かせながら、肉の海は再び行動を開始した。ズルズルと穴の中に進攻を始める―― 「…………!?」 肉の動きが止まった。 上半身の向きはそのままに、首だけがギリリと真後ろを向く。 前方には――崩壊した通路があるだけだ。 しかし―― 「……来……る……強い……獲……物……が…………わたし……を……殺……せる……くらい……に……」 それっきり、逃げた獲物への興味は失ったように、肉の海の脈動も停止する。 きっかり1秒後――地下通りを満たしていた『肉の洪水』こと“魔獣”魎子の姿は、肉片1つ残さずに、通路から消えていた…… がんがんがんがんがん…… 「……妙だな、なぜ追って来ない?」 硬いブーツの音を線路の上に鳴り響かせ、アーリシァが先程からの疑問を口にした。 《ずっと追われるよりはイイよ》 「それはそうじゃが……かえって不気味な気もするのぅ」 がんがんがんがんがん…… 間一髪、地下通りからこの地下鉄線路に逃れてから、もう5分以上も全力疾走しているのだが、まるで追ってくる気配が無いのだ。今までは、どんなに逃げても10秒とかからずに、あの『肉の洪水』が追い付いて来たのだが。 「このまま街から逃げられたらいいですねぇ……」 「無駄だ。あの忌々しい結界は地下にまで及んでいるだろう……ところで、シー・リャンナン」 「……はいぃ?」 がんがんがんがんがん…… 「起きているなら、自分の足で走れ!!」 ちなみに、このがんがんがん……という音は、足を掴んで引き摺られているシーの頭が、連続で線路の枕木にぶつかる音である。 「そんなぁ、今もけっこう痛いんですよぉ」 「関係あるか!!このまま置いていくぞ!!」 線路はしばらく先で大きく右にカーブしているのだが、そこから僅かな光が見えている。何らかの理由で天井が崩れるなどして、地上へ繋がっているのだろう。 《そういえば、那由ちゃんはどうするの?》 「脱出するにせよ敵を誘き寄せるにせよ、あの女とは合流するしか――」 「ヒュドラ、ナイン・トゥース。『“鬼道”なる嵐』」 その男は、カーブを曲がった先に待ち受けていた。 「――!?」 両足を大きく開き、両手の二丁拳銃を真っ直ぐ前に向けたまま。 人間の範疇を超えた速度で疾走していた一同は驚愕しながらも、一部の隙も無く、慣性を無視して急停止する。次の瞬間には、各々の――シーは除いて――獲物がその男に向けられていた。 二丁拳銃の男こと、『“鬼道”なる嵐』。 詰襟の学生服、妖しい紅目、屍衣を思わせる銀髪、禍々しい二丁拳銃――右手にはあのモーゼル、左手はベレッタだ――そして、何よりもその凄まじいまでの美貌に、誰もが戦慄した。 「魎子さんは、来ないネ。挟み撃ちの作戦だったのに……別の獲物でも見つけたのかナ?」 あさっての方向に余所見しながらも、二丁の拳銃は一同を捕らえたまま微動だにしない。 そして、彼達もまた動けなかった。 銃は二丁しかないのに、3人と一振りは2つの銃口が自分に真っ直ぐ向けられているようにしか思えないのだ。 一瞬でも隙を見せれば撃たれる。 ……しかし、この面子に銃で撃たれたぐらいでダメージを受けるような者はいないだろう。 何を恐れているのか? 「仕方ないネ。こいつ等はボクが殺しちゃおっと♪」 若さに満ちた晴れやかな笑みも、この状況では神経を逆撫でする効果しかない。 「できるかな?」 「ボクなら楽勝だネ」 《む〜〜〜イヤなヤツだよ!!》 「事実を言っただけだヨ。ボクは君達を皆殺しにできる力があるんだから♪」 「殺して良いのかな?」 大僧正が、ゆっくりと数珠を掲げた。 「ワシ等を殺せば、会議参加者達の記憶は永遠に失われるのじゃぞ」 黄金の鈴を鳴らしたような笑い声が、薄暗い地下鉄線路に延々と響く。 「くすくすくす……本気でそんな話を信じているのかい?」 「なに!?」 「それに、ボクや魎子さんは今回の作戦には関係無いんだヨ。ただ強い獲物を殺せれば――」 ドシャアッ!! 学生服の美少年――嵐の背後にいつのまにか召還されていた異形の魔神が、アーリシァの操る人形の動きに合わせて、巨大な鉤爪で白髪の頭を握り潰した。反応すらできない唐突さだ。 斬!! 間髪入れずに、子法の斬撃が脳天から股下までを、世界ごと切り裂いた――ついでに、背後の魔神まで。 《あ、ゴメンね》 「気をつけろ」 しかし―― 「まったくだヨ」 平然とした嵐の声と姿。 一同は驚愕と同時に、心のどこかで(やっぱりな)という感想を抱いた。 ナイン・トゥースが、この程度で倒せる相手なら、始めから苦労は無い。 「貴様……不死者か」 「いや、これは“鬼の血”じゃな」 「御名答だヨ。鬼の肉を食み、血を啜ったボクの身体は、鬼に等しい生命力を持っているんダ♪」 おぞましい鬼神の影が、ゆらりと美少年に重なって見える。 嵐――この美少年は“鬼道”の異名の通り、鬼の肉体を持つ魔人なのだ。 こうなると、通常の攻撃や魔法はほとんど全てが無効化されてしまう。傷付ける事ができるのは、『鬼斬り』の力を持った武器か技のみ。 あるいは―― 「でも、その子の攻撃はけっこう効いたヨ……」 ふらり、とよろめく嵐の姿には、紅い斬線がはっきりと浮かんでいる。“万物の魔王”の力は、あらゆる種族の特性を無視して、対象の『世界』そのものを滅ぼすのだ。 「よくもやってくれたネ。次はボクの番だよ」 その笑顔の奥に隠された狂念に、皆が気付いた瞬間――乾いた銃声が轟いた。 モーゼルの銃口から、ゆっくりと硝煙が立ち昇る。 しかし―― 「……何のつもりだ?」 しかし、それだけだった。 モーゼルから射出されたのは、銃声と火薬の匂いだけだ。弾丸は撃たれなかったのである。 「貴様……何をした?」 「…………」 「子法、やれ」 《うん、了解だよ》 あの学生服の行動に何の意味があるのかは不明だが、実害が出ていない内に、速攻で仕留めるのが最良とアーリシァは判断した。当面では、子法だけが有効打を与えられる。アーリシァの呼びかけに、真紅の刀身に“万物の魔王”の輝きが宿った。 《これで終わりだよ!!》 真紅のオーラを振り撒きながら、子法が高々と振り上げられて――!! ずん…… ――!? その足音に、嵐を除く全員の動きが止まった。 「……古の刻、鈴鹿山の鬼女が操りし魔刀、その名は“大通連”……」 ずん……ずん…… 地下道の奥から、途方も無い巨人が近づいて来る……それはそんな足音だった。 「……かの魔刀に与えられし、もう1つの名は“鬼生みの剣”という……」 ずん……ずん……ずん…… アーリシァが周囲に魔神を召還する。大僧正が索敵の呪文を唱え、子法がキョロキョロと辺りを見回す。目の前の敵以上に、その足音の主が脅威だと判断したのだ。 だが、誰も感知できない……それなのに、 ずん……ずん……ずん……ずん…… 重々しい足音は、確実に接近している!? 「……“鬼生みの剣”は、しかし現世に鬼を生むにあらず。それは、“人の心に鬼を宿す”刀であったという……」 そして――!! ぼり 数珠が線路の上に散らばって、澄んだ音を立てる。 大僧正は、ゆっくりと自分の右腕を見た。 ない。 右腕は、僧衣ごと消滅していた。 「うぉおおおっ!?」 苦痛と驚愕の叫びを漏らす大僧正の小柄な身体が、目に見えぬ何かに担ぎ上げられた。だが、大僧正本人には、持ち上げられているという感覚はまるで無かった。右腕のうじゃけた切断面からは、1滴も血が出ない。 ぼり その右肩に、肉食獣ならこうであろう歯型が確かに浮かんで――瞬く間に“食い千切られた”。 「な、なにぃ!?」 空中で仰け反っているアーリシァの右足が、 ぼり 同様に、消滅する。 「ばかなっ!?」 片足を失った事よりも、接近する者全てを撃退するように命令してある魔神達が、この状況でも何も反応しない事に、アーリシァは驚愕した。 目に見えない、あるいは実体の無いタイプの魔物でも、彼の魔神なら対応できる筈である。ならば、彼を襲うこれは何なのだ? 《ひゃあああん!!》 パニックに陥った子法が、闇雲に“万物の魔王”の力を放出する。床も壁も天井も、全てが世界ごと斬り裂かれた。混乱しても仲間達は斬らないのは流石だが、如何なる存在でも斬り滅ぼせる筈の力は、何も捕らえられなかった。 みしみしみし…… 目に見えない巨人の腕にねじ折られるように、真紅の刀身が大きく歪み、子法は悲鳴を上げた。 「……そして、その“鬼生みの剣”を溶解して造られたのが、この銃なんだヨ」 新しいおもちゃを自慢するように上機嫌な嵐の端正な顔は、 「君達を襲っている“鬼”は、君達の『心の中』にいるんだヨ。だからどんな攻撃も効かないし、どんな防御も通用しないのサ♪」 途方も無い邪悪に覆われていた。 「相手の心の中に鬼を生み、絶対防御不可能な攻撃で滅殺させる……それが、このモーゼルM712“大通連”の能力」 誰も尋ねていないのに、自らの能力を暴露する……しかし、彼の場合は那由の挙げた例ではなく、エルフィール・Dのように理由がある訳でもない。 楽しんでいるのだ。 血みどろの戦いを。 敵が苦痛にのたうち回る姿を。 自分自身が傷つく事すら。 「さぁ、もっと苦しんでヨ……さぁ、もっとボクを苦しませてヨ……もっと戦いの愉悦を感じさせてヨ!!」 あくまでもさわやかに、そして傲慢なまで不遜に、学生服の美少年の高笑いが虐殺の地下道に反響した。 「……うぅん……騒がしいですねぇ……」 高笑いが止んだ。 「もう少し、寝たかったんですがぁ……まぁ、皆さん大変な事になってますねぇ」 むにゃむにゃと目をこする、タレ目の金髪女仙――シー・リャンナンは、薄い唇を半開きにしながら、ぼーぜんと仲間を見まわした。 「……お姉さン……なぜ、ボクの“大通連”が効かなかったの?」 「はいぃ?……え〜〜〜とぉ……寝ていたので気付きませんでしたぁ」 だぶだぶの仙衣が肩からずり落ちて、ぺったりとした胸が丸見え状態な金髪女仙の姿は、造形的には美しいのだろうが、この状況ではあまりにも怠惰で情けなく見える。 しかし、彼の恐るべき魔人――嵐の美貌には、明らかな戦慄が貼りついていた。 「皆さぁん、わたしはどうすればいいのでしょうかぁ?」 「構うな!!あの男を倒せ……」 「……で、できれば助けて欲しいのぅ……」 《見てないで助けてよぉ!!》 「えぇと……2対1で助ける事にしますねぇ」 シーの白く細い腕が、面倒そうにひらひらと揺れると、心の中の“鬼”に八つ裂きにされかけている2人と一振りの周りに、虹色の霞が漂った。 「……くっ!?」 「……むむぅ……」 《おやすみなさぁい……くー》 ばたばたと、宙に浮かんでいた2人と一振りが線路の上に落下する。彼等の顔には、この上ない安らかな寝顔が浮かんでいた。 「どんなに辛い事も、どんなに苦しい事も、夢の中では忘れられますよぉ」 「……やるネ、お姉さん」 苦々しい笑みを浮かべる嵐。 “鬼”の餌食になっていた獲物達が眠りに落ちたのと同時に、心の中の“鬼”も消滅した事を、彼は知っていた。 「……人の求める快楽の中で、最も甘美にして不可欠なものこそ『眠り』なのですぅ……人は『眠り』なしでは3日と耐えられず、『眠り』の中でのみ真なる安らぎを得る事ができるのでぇす……浮世の雑事に追われる事が無ければぁ、人は一生を『眠り』の中で生きるでしょう……えぇと……確か、これが仙術“成功力・夢幻胡蝶法”の基本原理ですよねぇ?」 「ボクに聞くなッ!!」 モーゼルが立て続けに火を吹いた。 今度は、本物の実弾が発射されて、シーの細身に容赦無く弾痕を穿つ!! 「――ッ!?」 「あららぁ……危ないですよぉ」 穿たれた弾痕は、小石を落とした水面のように波紋状に揺らめいて――瞬く間に消え去った。 シーの姿が、夢のように揺らぐ。 「今のわたしは『夢の中』にいますからぁ……貴方とは“違う現実”に存在しているんですぅ……だから、貴方のどんな干渉も通用しないんですよぉ……あぁ、でも、わたしからも貴方に干渉できませんねぇ……どうしましょうかぁ?」 タレ目をさらにトロンと垂らして、小首を傾げるシーの無防備な姿に、しかし嵐は何もできなかった。 シーと眠る3人の周囲を漂う虹色の霞――これは、シーの『夢』そのものだ。それに触れれば、その存在自体が『シーの夢』と一体化して、文字通り“夢と消えて”、現実の世界から『存在しなかった事』にされてしまう。 「……そうですねぇ、やっぱり逃げる事にしますぅ。それじゃあ、お休みなさぁい……ぐー」 「待てッ!!」 朧のようにシーと3人の姿が霞んで……一瞬の後、その姿は完全に消滅していた。 微かな虹色の薄霧を残して。 「……夢の中に逃げたか……このボクから逃げおせるなんて……」 線路の奥から指し込む、地上の微かな光――まるで、夢から覚めたような奇妙な現実感――それだけが、嵐の孤影を包んでいる。 「シー・リャンナンと言ったネ……確か“蒼鱗公主”“懺那教主”に並んで、崑崙山でも三本の指に入る女仙だと聞いていたけど……」 獲物に逃げられた――戦士としては、これ以上無い屈辱、敗北感――だが、 「スゴイや!!こんなに殺しがいのある獲物がごろごろしているなんて……本当にここに来て良かったヨ!!」 その顔に浮かぶは、悦楽と憎悪、歓喜と狂気!! 「今度こそ、ボクにこの“そはや丸”を使わせてくれるかもしれない……そうだよね!?姉さン!!」 もう1つの拳銃――ベレッタの銃身を、ぬらぬらと赤い舌が這う。 そのまま引き金が引かれた。 端正な美顔の右半分が吹き飛ぶ。 飛び散る鮮血と肉片を、新たな弾丸が破裂させる。 「あはははははははは!!!」 狂ったように乱射される拳銃の銃声が、薄暗い地下鉄線路を陰鬱に震わせる。 そして―― ……ざわ……ざわ…… 闇の中に浮かぶは、幾百もの真紅の光―― 「あははははははははははははは!!!」 ――鬼の狂眼―― ※※※※※※※※※※※※※※※※ ひゃあああああああああん!!! 「大変な状況ね」 おーたーすーけぇ〜〜〜!!! 「無駄口叩かずに、しっかりしがみついてろ!!」 一体全体、何がどうなってるのぉおおおお!? 那由ちゃんのスマートな胴体の10倍は太そうな、巨大な肉の触手がぁ、四方八方から怒涛の勢いで襲いかかってくるのぉ!!その狭間を猛スピードで掻い潜るクルィエさんとぉ、その背中にしがみついてる私ぃ……笑っちゃうほど大ピンチな状況よぉ!! 「みんなを探すのは無理そうね」 飛翔するクルィエさんのスピードはぁ、軽く時速400kmは超えてるわぁ。どんなジェットコースターよりも大迫力ぅううう!!! バシュシュシュシュ!!! 真下から槍のように伸びてきた触手の束を、身体を傾けて紙一重でかわすクルィエさん。那由ちゃんは背中にしがみついているのが精一杯よぉ〜〜〜。 「この状況でできると思うか?」 すぐ『足元』から伸びてくる触手を回避しながらぁ、私とクルィエさんは『彼女』を見た。 広大な地下シェルターを埋め尽くす、『肉の海原』――“魔獣”魎子さんを。 ――エルフィール・Dさんに導かれた大穴の先にはぁ、野球場が軽く20個は入りそうな、やたらだだっ広い空間があったのぉ。 壁や天井、床の材質はぁ、コンクリートや合成樹脂ブロック、鉄筋とかで造られていてぇ、綺麗なドーム状に広がっていたわ。明らかに人の手が加わった空間よねぇ。わ〜たしの記憶が確かならぁ、この辺に、国会議員用の地下シェルターが建設中だって噂だったけどぉ……どうやら、これがそうみたいねぇ。 で、その真ん中にぃ、赤いドレスの美人なオバサ――いいえ、三十路は超えていてもぉ、私より年下っぽいからオバサ……とは言えないわね。オホホのホ♪――が、ポツネンと佇んでいたのぉ。 これって、明らかな待ち伏せよねぇ?……って、思ったのと同時に、彼女は自分がヒュドラでナイン・トゥースで“魔獣”で魎子だって名乗ったのぉ!! あ、あ、アレがエルフィールのDさんが言ってた『東京中の人間を意味も無く皆殺しにしちゃうような、お魚くわえたサイコさん』な感じの、ナイン・トゥースの中でも一番ヤバイ存在の1人だって言う、魎子さんんんん!? なんでナイン・トゥースってあーゆー美人ばっかりなのぉ!?那由ちゃんの美貌がかすれちゃうじゃない!! なーんて考えていたらぁ、いきなりその魎子さんが『変身』したのよぉ……とてつもない『肉の魔獣』にぃ!!! まるでぇ、昔のアニメ映画の『AKI○A』の鉄○の暴走状態みたいな、グチャグチャ人肉ミンチスライムって感じかしらぁ?しばらく肉料理が食べたくなくなるデザインよぉ……うえっぷ。 その『肉の魔獣』はガン細胞みたいに、みるみる増殖を始めてぇ――あっと言う間に、この地下シェルターを埋め尽くすぐらいに巨大化しちゃったのぉ!!ひーん。 で、魎子さんは『それじゃあ、貴方を攻撃しまーす♪』の一言も言わずにぃ、こうして問答無用に襲いかかって来ている訳なのぉ。 私も空飛ぶクルィエさんの背中に精一杯しがみつきながら応戦したんだけどぉ、ありったけの魔法を叩き込んでも全然通用しないのよぉ!! なんでナイン・トゥースってあーゆー攻撃が効かない連中ばっかりなのぉ!?那由ちゃんの強さがかすれちゃうじゃない!! 逃げようにも、何時の間にかシェルターの壁も天井も『肉腫』に覆われていてぇ、完全に密室状態で逃げ道がどこにも無いのよぉ!! ふぇえええええん!!!どうしたらいいのぉおおおおお!?!? 「こいつは……“瘴気兵器”だ」 「え?」 襲いかかる触手をホントにギリギリでかわしながらぁ、クルィエさんが独り言みたいに呟いたわぁ。もう、ほとんど音速に近い速度で飛んでいるから、はっきりとは聞き取れないけどぉ。 「“瘴気兵器”……それは何なのかしら?」 「悪魔族が使う“瘴気”を利用した、大規模破壊兵器の総称だ。その威力は使用した場所の世界構成をも変質させる……俺も悪魔族との戦いで何度か見かけた事があるが、その度に部隊は全滅に近い状態で撤退を余儀なくされた」 「……え?」 「これは瘴気兵器の1つ『無限肉腫』だろう。その原理は、宇宙を構成する次元振動パターンに、自分の身体情報をインプットして、ナノアセンブラーの応用で時空間を自分の身体に組替えるというものだ。いわば、宇宙そのものがそいつの身体と一体化したと考えればいいだろうな。無限の増殖、再生、同化能力を持ち、どんな攻撃も封印も消滅処理も通用しない。この宇宙そのものを完全に消滅させない限り、絶対に滅ぼす事ができない……」 「ふぅん」 ななななな何よそれぇ!!! そんなムチャクチャな相手とぉ、どーやって戦えばいいのよぉ!? ……あ、でもそんなに詳しいんだったらぁ、クルィエさんは対処法を知っているかも。なんてったって、その対悪魔戦闘におけるプロフェッショナルな神族の戦士さんだしぃ♪ 「どうすれば倒せるのかしら?」 「どうすれば倒せると思う?」 ……2人の声は見事にハモったわ。ギャー。 「貴方にもわからないの?」 「神族の科学力でも、瘴気兵器への対処技術は確立されていないんだぜ。いわば悪魔族の切り札的な存在なんだ。ま、威力が強過ぎて滅多に使われないのが、せめてのも救いだがな」 この状況では全然救いになってないわぁああああ!!! 神様も対処できないような敵をぉ、このちょっぴり無敵な美少女でしかない那由ちゃんがどーすればイイっていうのよぉ!? 今度こそ正真正銘の絶体絶命これでおしまいよ大ピンチぃ!!! ああ……あなた……かすみちゃん……あすみちゃん……先立つママを許してねぇ……先に約束の地でハッピー死後ライフをブレイクしてるわぁ……でもぉ、死ぬ前に戸棚の裏に隠してあった牛乳キャンディーを、全部食べておくべきだったわぁ…… 「……方法が無い事も無いが」 「それは何?」 「この宇宙を完全に消滅させる」 「……却下ね」 「そうだな、そんな力を使ったら追っ手に俺の事がばれるしな」 いえ、そういう問題じゃなくってぇ(汗)。 ふえ〜ん。でもホントにどうしよぉ〜〜〜!? 「まずいな」 え? クルィエさんの緊張感に包まれまくってる声に我に帰って、辺りを見まわしてみるとぉ…… 「まずいわね」 ズッギャー――ン!!! 床を壁を天井を……360°を被い尽している“無限肉腫”の量がぁ、さっきと比べ物にならないくらい増殖しているぅ!? 「このまま空間全体に増殖して、俺達を押し潰そうって腹か」 「…………」 ゆっくりと翼を羽ばたかせるクルィエさんと、背中にしがみ付く私―― ゆっくりと私達に迫り来る無限肉腫“魔獣”魎子―― 現実から遠く離れた、悪夢の世界の中で、私が口にしたその人は―― 夫でも―― 娘達でも―― 仲間達でもなく―― あの―― 私に恐怖の愉悦と絶望への開放を与えてくれる―― あの人―― 「藤一郎さん……」 外伝1 〜〜GRID SEEKER “Wings of Darkness”〜〜
・・・・・TO BE CONTINUED
|
<< BACK |
那由さんの憂鬱 |
Back 小説インデックスへ |