那由さんの憂鬱

 夕陽の最後の一片が地平線に消えても、黄昏は終わらなかった。
 どろどろと暗雲が蠢く空は赤黒さを留めている。あたかも血桶を天球にぶちまけた様だ。
 いや、空だけでは無い。瓦礫の大地も赤く紅く染められている。
 それは全て、血に塗れた死体だった。
 死体の種類に老若男女の区別は無い。この場所がつい10日前までは東京都心の霞ヶ関一帯であった為か、サラリーマンらしい格好の者が目立つくらいだ。
 刺殺、絞殺、僕殺、轢死……死因も様々だが、その傷跡から1つの答えが導き出される。
 殺し合ったのだ。
 1人の例外も無く、最後の者が息絶えるまで。
 狂気の具現。
 その兆候は、この東京都心が結界に閉ざされた瞬間から起こっていた。
 閉じ込められた人々は、自分達が絶対にこの中から逃げられないと『なぜか』知ってから、暴行、略奪、レイプ……様々な犯罪に暴走し始めたのだ。
 それは、確かに絶望感から齎される『やけっぱち』という部分もあっただろう。だが、やがて人々は理由も無い暴力に興じ、あげくに互いを殺し始めた。
 殺戮の宴――結界に封じられた人の数は数百万に及ぶが、その全てが供覧の叫びを上げながら殺戮に狂う――ぐちゃぐちゃになったOLの死体に、何度も何度もゴルフクラブを叩きつけるサラリーマンの背中を、調理服を真っ赤に染めたコックの柳刃包丁が突き刺す。狂ったように咆哮するコックの頭部が、西瓜の様に爆ぜる。警察署の保管庫から違法銃器を持ち出した警察署長が、見境無くショットガンを乱射している。その署長ごと大通りの人々を跳ね飛ばしたのは、無茶苦茶に暴走する消防車だ。直後、大爆発が天を焦がした。時速100キロを超える速度で消防車がガソリンスタンドに突っ込んだのだ――
 全ての人々が狂乱していた。狂乱しながら、ただ1つの事を成そうとしていた。
 殺せ!
 殺せ!!
 殺せ!!!
 ただひたすらに殺戮に邁進する人々――それは、あたかも何らかの『儀式』を連想させた。
 そして――
 ついに、僅かな例外を除く、全ての生きとし生けるものが死に絶えたのである。
 今はもう、そよ風も吹かない。
 血臭が辺りに充満し、空気すらも赤く染まって見えた。
 動くものは何も無い。ある筈が無い。

 ぎし

 ありえない。
 腐敗の兆候が見える死体の1つが、がくんと胸を反らす――ありえない!!
 だが、瓦礫の平野全ての――いや、都心を囲む結界の中にある全ての死体が一斉に動き始めた――この事実の前に、世俗の常識など何の意味がある?
 そして、それは全く同じタイミングで起こった。
 腐りかけた血を撒き散らしながら、死体を突き破って心臓が飛び出したのだ。
 ぼたぼたと赤黒い血が滴る心臓は、しばらく死体の上に浮かんでいたが――やがて、これも一斉に地平線の彼方へ飛んで行ってしまった。
 砲弾に等しい速度で空を飛ぶ心臓――こっけいな悪夢に似た光景は、明らかに何らかの意志に導かれている。心臓の群れの進行方向は、全てが1点に集中しているのだ。
 そして、その地には――

 ……ざざざ……ざざ……

 万物の母なる鼓動が、『それ』を迎えようとしていた。

 心臓――それは、魂の象徴。命の源泉。
 そして――神への供物。

 深い……深い……深淵の底で――『それ』は捧げ物の臭いを嗅いで――

 目覚めた。
 
 ――そはとこしえに横たわる死者にあらねど――
 ――測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの――

 ――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるぅ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――



※※※※※※※※※※※※※※※※




「……ここでいい」

 瓦礫の塔の頂きに、リーナは音も無く降り立った。

「ここがお前の戦場か」

 一拍置いて、もう1つの頂きにアーリシァも降り立つ。音も無く、とはいかなかった。かなり大きな震動が瓦礫の塔を揺るがす。数十体に及ぶ異形の魔神達が、彼を取り巻いているからだ。
 彼等の選択した戦場――それは、かつて日本経済バブルの残光と呼ばれた巨大なビル――東京都庁――の残骸だった。今は中央部分から倒壊して、あの二股の上階部分のみが、かろうじて寄り添うように建っている。
 とうに日は落ちているのに、空はどろどろと赤黒く脈動している。それはあの二股の斜塔を、恐ろしく寂しいシルエットに浮かび上げていた。
 そして、その頂きに対峙する――2人の魔人。

「……よく誘いに乗ってくれた。感謝する」

 ナイン・トゥース『“無限”のリーナ』

「奴等がいない方が、私も戦いやすいからだ」

 アズラエル・アイ筆頭退魔師『“人形使い”アーリシァ大佐』

「……私は……安全の確保のため」
「安全?……そうか、あの女“聖母”が何か企んでいるのだな」
「……それを知る必要は無意味」

 ゆっくりと、リーナが腰の無限刀を抜く。
 刀身の無い剣なのに、ゆらめく青白いオーラは確かにその刃を映し出していた。
 森羅万象、あらゆる『戦闘手段』を武器とする、無限の刃を。

「……この塔が、お前の墓標だから」
「やってみろ!!」

 アーリシァの白手袋に被われた指先が、神の精度で動いた。その手に握られているマリオネット操作棒が、配下の魔神に絶対の指令を送る。
 異形の魔神達が一斉に消えた。
 リーナの周囲の何も無い虚空から、魔神の群れが出現したのは次の瞬間だった。
 その一撃全てが上級妖魔すら虚無に帰すという、魔神の攻撃が唸りを上げて無防備に佇むリーナへ吸い込まれ――!!
 無限の力が振られた。
 全ての攻撃のベクトルが逆転した。
 骸骨騎士のランスが、岩魔人の拳が、夜魔の邪眼が、霧乙女の細手が、泥人形の念動波が、機械獅子の牙が、巨大怪蟲の触手が――全ての攻撃が己自身に、あるいは仲間の魔神へと矛先を変えて、その存在を一瞬にして引き裂いた。
 歯車や木片がばらばらと散乱する。瞬きの間に、アーリシァの魔神達は全滅したのである。

「……無駄。全ての『攻撃』は私の支配下にあるのだから」

 リーナは無表情に唇を歪めた。
 その通りだ。敵味方を問わず、あらゆる『攻撃』という概念のコントロールを奪う恐るべき魔剣『無限刀』がある限り、あらゆる攻撃が無効となる。いや、むしろ己自身に跳ね返って来るのだ。
 『どんな攻撃も』――『絶対に通用しない』
 すなわち、それは何者もリーナには勝てないという事を意味しているのではないか。
 どう戦う?アーリシァよ。

「かかったな」

 しかし――アーリシァの声には微かな笑いが含まれていたのだ。

「協力に感謝する。わざわざ『部品』を配置してくれて」
「……!?」

 はっとしたように、リーナは辺りを見回した。
 かつてアーリシァの操る魔神であったマリオネット人形――その残骸である部品が、周囲に満遍なくばら撒かれている。この構図は、あの会議室の再現!!
 震動――咄嗟にリーナは跳躍しようとした――が、

「遅い!!」

 足元の瓦礫の塔――都庁の残骸が『立ち上がった』。
 周囲の瓦礫をも己の一部と同化して、都庁跡はいびつな人型の巨大人形と化して命を吹き込まれたのだ。
 直立した『瓦礫の巨人』――体高は300mを超える――は残骸を撒き散らしながら、足元のリーナとアーリシァを睥睨して――そのまま圧しかかるように倒壊した!!
 瞬く間に、アーリシァとリーナは圧倒的な瓦礫の怒涛に飲み込まれた。

「これを墓標とするは、お前の方だ」

 上空でその様子を見張っていたアーリシァ――潰されたアーリシァは、彼の人形による偽者――が、独り言のように呟く。
 あの瓦礫の巨人は、わざと時限的に倒壊するように造っていたのだった。意識的な『攻撃』ではなく、単なる自然現象である『倒壊』ならば、あの魔剣でも支配する事は適わない――

「……いいえ、お前の墓標で正しいの」

 ――適わない筈であった。

「!?」

 次の一瞬、倒壊した巨人が再び立ち上がり、巨大な瓦礫の拳でアーリシァを襲った。
 瞬時に人形の間合いから離脱する。しかし、それでも勢いのついた瓦礫の一部が連弾となって、アーリシァに叩きこまれた。

「ぐふっ!!」

 紛れも無い苦痛のうめき。アーリシァの純白のローブと仮面は、真紅のまだら模様に染められた。
 巨人の肩の上に立つリーナの片目が、妖しい光を放つ。

「……たとえ自然現象や偶然の類でも、その発生理由が『攻撃』に基くのなら、私の無限刀は支配できる。森羅万象、全てが私の武器となる」

 恐るべし“無限”のリーナ。
 もはや、アーリシァに反撃の手段が残っているとは思えない。事実、今の満身創痍のアーリシァは、目の前の脅威をただ眺めているだけだ。

 どうやって戦う?
 どうやって勝つ?


(――アーリシァさん、聞こえる?)



※※※※※※※※※※※※※※※※




 斬!!

 真紅の斬線――子法の斬撃が、数体の鬼をまとめて斬り裂いた。ついでに背景の『夢幻空間』――シー・リャンナンの創造した夢の世界まで。

「ああん、気をつけてくださいよぉ」

 フラフラとよろめく様に踊るシーが、珍しく唇を尖らせた。例によって仙衣がずり落ちて平坦な胸が丸見えな姿では、迫力などまるで無いが。

《あ、ゴメンね》
「この世界を維持するのも、結構大変なのですよぉ」

 全然大変そうには見えないが、このヨロヨロとしたシーの踊りは、夢の世界を操作する為の一種の舞踏術なのである。シーがヘロヘロと舞う度に虹色の靄が流れて、それに触れた鬼は文字通り雲散霧消した。この世界そのものが彼女の夢であり、相手が不死身の鬼でも、この世界における存在自体を否定して消滅させる事が可能なのだ。
 しかし、彼女達を取り囲む鬼の大群は圧倒的だった。子法の『世界斬』やシーの『夢靄の虚無』ですら対応できる数ではない。

「……オン、キリキリ……ウンハッタ……」

 座を組み朗々と真言を詠唱する大僧正。その周囲に展開された結界が、鬼達の進攻を止めているのだ。この結界が無ければ、鬼の大群による怒涛の進撃をとても止められなかっただろう。

「ふふン……なかなか粘るじゃないカ」

 そして、彼等の奮闘振りを面白そうに眺める美少年――“鬼道”なる嵐。その笑みが邪悪に歪んでいようと――いや、だからこそ――その魔性の美貌は健在だった。

「でも、どこまで持つかナ?」

 事の顛末――3人がシーの夢の中に退避した際、すかさず嵐もこの世界に乱入してきたのである。あまり戦闘的とは言えないメンバーであった事もあり、当初は夢の世界を逃げ回ろうとしたのだが、嵐の魔銃『大通連』は那由との戦いで破損していて、あの恐るべき“心の鬼”による攻撃は行われなかった。
 それならば、ここがシーのホームグラウンドなのも利用して、今の内に倒してしまおうと3人は考えたのだ。
 それが間違いだった。
 3対1の状況にもかかわらず、余裕の笑みを浮かべたまま、嵐はどこからともなく一丁のベレッタ――聖銃『そはや丸』を取り出した。そのまま自分のこめかみに当てて――
 銃声。
 血と脳漿と肉片が辺りに飛び散った。
 しかし、嵐の美しい頭部は瞬く間に再生したのだ。これは鬼の不死性の発現だろう。だが、それだけでは終わらなかった。
 辺りに散乱する嵐の肉片が、爆発するように増殖して――数秒も経たない内に数百体の鬼の軍団が誕生したのである。1体だけでも『3人掛りでなんとか勝てる』程の力を持つ鬼が数百体――戦力差もここまでくると笑うしか無いだろう。
 こうして、3人は絶望的な現状に追い込まれているのだった。

「こうして足掻くのを見ていても面白いんだけド――」
《ううう〜やっぱりイヤなヤツだよ!!》
「親御さんの教育が悪いのかのう……オン、バサラウンハッタ……」
「きっと地ですよ……くー」
《夢の中で寝ないでぇ!!ちゃんと戦ってよぉ〜》
「……僕の話の腰を折らないで欲しいナ」
「あぁ、ちゃんと聞いてますからぁ……くー」
「……続けるヨ。君達を見ていても面白いんだけど、あまり時間をかけると那由さんを取られちゃうんダ。だから――」

 銃声。
 時が止まった。
 そう思わせるほどの沈黙が、3人を覆い尽くした。
 まっすぐ3人に向けられたベレッタ――それをいつ抜いたのかは、誰にもわからない――『そはや丸』の銃口から、白煙が幽鬼の如く立ち昇る。
 それだけだ。3人の身体には傷1つ付いていない。そもそも弾丸は発射されていないのだ。
 しかし――その瞬間、3人は自己の存在を構成する要素の非常に重要な何かが『殺された』――そんな感覚がおぼろげに――だが、絶対の事実として確信したのである。

「……何をしたのじゃ?」
「ふふふ……すぐにわかるヨ」

 嵐の口元が嘲笑に歪むより先に、鬼の群れが再び踊りかかった。岩をも引き千切りそうな鉤爪と牙が、獲物に食い込む感触を楽しもうと殺到する。そうはさせないと、シーと子法が迎撃しようとして――!!
 ……あれ?
 ――硬直――呆然――当惑――

《……あ、あれれ?》
「……はれぇ?」

 明らかな戸惑いの気配が、美しき女仙と豪刀を包む。
 殺到する鬼を目の前にして……何をすればいいのかわからない!?

「……ぬぬぬ……これは……ワシ達の“心の鬼”を殺したのじゃな!!」

 如何なる時も穏やかな光を放つ大僧正の両眼が、今は驚愕に見開かれていた。
 その大僧正も、鬼の進攻を食い止める結界を維持する事を――いや、鬼の攻撃を止めようとする行為そのものを放棄しているのだ。
 あの那由すらも追い詰めた“鬼斬り”の魔性――もはや3人は迫り来る脅威に対して何もできない!!
 恐るべきは“鬼道”なる嵐――あの美しさは、やはり魔性のものか。

「へえ、わかるんだ」

 ふっと硝煙を吹き消して、嫌味なくらいゆっくりと聖銃『そはや丸』を懐にしまい、

「それがわかるのなら、もう解説の必要はないネ。それじゃ、バイバイ♪」

 鬼の怒涛に飲み込まれる3人に背を向けて、嵐は片手を振りながら立ち去っていった――



※※※※※※※※※※※※※※※※




「では、わたくしの御相手は那由様とそちらの殿方になりますわね」

 親しい知人をお茶を誘うような自然さで、深美はにこやかに微笑んだ。慈愛と母性に満ち満ちた笑み――臨終間近の半死人でも蘇りそうな美しさ。

「あなたと私達しかこの場にいないのでは、そうするしかないわね」

 対する那由は、相変わらずのポーカーフェイスだ。感情が無いようには見えないが、その中身がまるで読み取れない。クールビューティーもここまでくると、人間よりも絵画や彫刻等の芸術品の美しさが該当しそうである。
 水平線の彼方へ夕陽は沈み、赤黒いどよ雲だけが天球を支配していた。日は落ち月明かりも無いが、行動には何も支障は無いほど世界は不気味に明るい。赤黒い雲と――大地を被い尽くした遥かなる波涛がぼんやりと輝くからだ。
 それは、輝く波涛の上に立つ妙齢の美女――深美の美貌を見事にライトアップしていた。
 だが、美しさなら那由の方も互角以上だ。高層ビルの屋上部分だけが、無限に広がる海原から小島のように突き出ている。その僅かな足場に悠然と立つダークブルーのスーツ姿は、何者も侵食されない孤高の美しさを誇っていた。
 慈愛と冷徹――
 花弁と氷薄――
 陽光と月光――
 どこまでも対照的な――そしてどこか似通った2人の魔人は、逃れられない戦いの宿命の元に対峙していた。
 触れれば――いや、傍にいるだけで切り裂かれそうな緊迫感――

(ふえぇ〜〜〜ん!!!何でこんな『戦闘できなくてヤバイにゃ♪』な状態でぇ、あ〜〜〜んなドエライ相手と戦わなくっちゃならないのぉ〜〜〜!!!私って世界一不幸な美少女よぉおおおおお!!!)

 ……もっとも、内心そう思っている者もいたりするが……

「でも、本気で私に勝てると思っているの?一度勝った相手に負けてあげるほど私は甘く無いわよ」
「斯様にわたくしが那由様の前に立たせて頂く身であれば、敗北したとは言えませんわ……くすくす……それに」

 今度の深美の微笑みは、先程とは正反対の種類だった。

「今の那由様は“鬼道”様の力で、決して戦えぬ身体になっておられる筈……違いますか?」
「どうかしらね」
「……そちらの殿方の背中に隠れながら言う台詞ではありませんわね」
「おいっ!!」

 流石にクルィエもコケながら怒鳴った。

「そういえば、御挨拶がまだでしたね。初めまして、安倍 深美と申します。今度とも御見知り御気を……」
「こりゃ御丁寧にどうも。俺の名前はアヴァロン・クルィエだ。クルィエと呼び捨てていいぜ」
「光栄至極ですわ」
「俺もあんたとは、是非ともファーストネームを呼び捨てられる間柄になりたいものだな」
「まぁ……でも、そのような台詞は、那由様の背中に隠れながら言うものではありませんわね」
「ちょっとぉ!!」

 那由も自分の事を棚に上げて怒鳴った。
 何せ、どちらもまともに戦えない立場にいるのだからしょうがない。そうは言っても、互いの背中に隠れようとする姿は、思いっきり見苦しいが。
 そんな光景を見ても、深美はあくまで穏やかだ。

「あら、よくよく拝見すればクルィエ様は人外の身で在らせられるようですわね」
「おもいっきり背中から大きな翼が生えてるじゃない。今まで気付かなかったの?」
「……こほん、最近歳のせいか目が遠くて……さて、那由様が戦えなくとも、その代わりの方が居られるという事ですわね。安心しましたわ。今までの準備が水泡に帰す所でしたもの」
「準備って……まさか、この東京の状態が?」
「流石ですわね、それだけの言葉で見抜かれましたか……御名答です。この都市の人々が狂気に犯され、互いの命を貪りあったのは、わたくしの術に拠るものですわ」
「……何の為にそんな無茶な事を?……嗜虐的な趣味があるようには見えないけど」
「解説が必要なようですわね」

 深美の笑みが、その名に相応しく深く美しく転じていく。

「御存知の通り、わたくしに那由様と正面から戦える力はありませんわ。ならば、確実に那由様に勝てる存在を当てがえば良い事……」
「……それが、あなたの言った“最後の手段”なのね」
「然様ですわ。クルィエ様も那由様に劣らぬ実力の持ち主と診受けられます。ならば、この手段を使わざるを得ませんわね」
「あなた自身が使いたくてたまらない様に見えるけど……それが、東京中の人間を虐殺させあったのと何の関係があるのかしら?」
「“宴”ですわ」

 その一言で、那由は凍りついた。傍目にも動揺がはっきりと見える。あの那由が!?

「……“宴”……まさか、殺し合いそのものが『儀式』と『生贄』を兼ねていたと言うの?つまり、あなたの目的は――」

 ぼちゃん

 鏡のように穏やかな水面が、小さく弾けた。
 那由とクルィエの視線が『それ』に向けられる。深美は静かに微笑むだけだ。
 ぷかぷかと海面に浮かぶのは――赤黒い心臓だった。
 心臓はしばらく波に揺られていたが、突然、下から引き込まれるように海中に没して、たちまち深淵の底に消えていった。

 ぼちゃん ぼちゃん

 入れ替わるように、新たな心臓が水面に浮かんでいる。

 ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん

 遥かな高空から、心臓が落下してくるのだ。それも1つや2つではない――

 ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん

 いや、そんなものでは済まされない。加速度的に数を増す『落下する心臓』は、今や雨に等しい密度で降り注いでいた――

 ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん ぼちゃん……!!

 夥しい数の心臓が海面に落下して、次々と海中に沈んでいく……この異常を通り越して悪夢的な光景にも、那由は――外見上は――眉一筋動かさない。不思議な事に、落下する心臓も那由達の身体に触れる物は無かった。
 あたかも、美しいものを汚さぬ様にと、天の意志が介在したが如く――
 数分にも満たない時間に、数百万に及ぶ心臓が落下したか――始まりと同じ様に、唐突に心臓の雨は止んだ。

「あなたの目的――それは」

 最後の心臓が海中に没すると、全ては怪異の直前の光景に戻っていた。
 ただ1つ――

「それは“召還”ね……それも人類が今だ遭遇した事も無いほどの、超々高位存在の魔物を!!」
「くすくすくすくす……」

 那由の激情と、深美の笑い声だけが赤と黒の夜空に轟く事を除いて――!!

「あなた……何を考えているの!?」

 那由の声が、普段のクールな響きとはかけ離れているのも無理はなかった。
 人外の存在を召還するのに『儀式』や『生贄』を必要とする――それ自体は特に珍しい事では無いだろう。
 しかし、東京都心の住民全員を犠牲に召還するとは――!?
 当然ながら、より高位存在の魔物を召還する為には、儀式の複雑さと生贄の質と量が正比例する。
 ならば、この数百万もの『純粋な狂気に浸された心臓』を媒体とすれば、どれほどの超高位存在が召還されるのか!?人類史上、今だかつてこれほど大規模な召還儀式が行われた事実は無い。
 しかも、召還者はあの世界最高最強の魔人に名を連ねる“聖母”安倍 深美……もはや、召還される存在を語るには人類の言葉では不可能なレベルの――!!

 世界が悲鳴を上げた。


 ――そはとこしえに横たわる死者にあらねど――
 ――測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの――

 ――ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるぅ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――


 ……そう、それはまさに『大いなるもの』と呼ばれる存在だった。
 震動が世界を襲う。
 深美の背後の海面が、ぐるぐると渦を巻き始めた。その渦潮の大きさたるや、小さな島なら丸ごと飲み込みかねない。途方も無い巨大な物体が、深い深い深淵の底から浮上しているのだ。

「やべぇ……」

 クルィエが慌てた調子でマチェットを自分の右腕に走らせた。

「……え?」

 突然、目の前に血の滴る腕を突き付けられて、流石に那由も訝しげな表情を浮かべる。

「吸え」
「……いきなりそんな事言われても……そんなマニアックなプレイしている状況じゃ無いでしょ?」
「こんな状況だからやってるんだぜ」

 クルィエの口調は真面目だった。

「発狂したくなければ、俺の生き血を飲め」
「なぜ?」
「今召還されてる奴は、地球人類の精神レベルじゃ絶対に耐えられない『存在質量』を持つ超高位存在だ」
「ふぅん」
「直視どころか近くにいるだけで、あんたの魂は消し飛んじまうぞ」
「あら」
「俺のような第1級神族の血を服用すれば、何とか助かると思うが――って痛ぇ!!」

 話が終わらない内に、光の速度で腕にかぶりつく那由であった。

「がじがじ……ふう、夫との夜を思い出すわね」
「……あんた、普段ご亭主とどんなプレイしてるんだ?」
「夫婦のヒミツ」
「……まぁいい……さて、来るぜ」

 渦の中心が爆発し――

「常世と現世の狭間に眠りし大いなる大司教よ……今、その時は来り。目覚めよ!!『水の王』よ!!!」

 ――『それ』は降臨した。
 ねじくれた鉤爪は、触れるもの全てを滅ぼすだろう。
 瘤だらけの青黒い鱗状の肌は、人の手による如何なる攻撃も跳ね返すだろう。
 蛸に似たおぞましい頭部と口の部分に生える触椀は、見るもの全てを発狂させるだろう。
 蝙蝠を連想させる禍々しい翼は、その存在が決して人の手に負えぬものだと万人に理解させるだろう。
 巨大だ。
 腰から下は海中に没しているのに、既に100mを超える巨体。
 偉大だ。
 誰もがわかる。誰もが理解できる。全ての人間が持つ根源の『恐怖』――これはその具現なのだ。
 巨大な――そして偉大な――あまりにも大き過ぎる存在。

 『水の王』

 ここに降臨す――

「……なんてものを召還するのよ……あなたは……」

 もう、那由の声は以前の那由ではなかった。
 震えている。
 どんな場合でも――外見だけは――気丈で冷静沈着な姿を見せていた那由が、今は恐怖に震えていた。
 無理も無い。
 今、那由が目撃しているのは、人類が決して遭遇してはいけない存在の1つなのだから。
 もし、クルィエの血を服用していなければ、那由といえども間違い無く発狂していただろう。それほどの存在なのだ。

「土御門流五行操術“水門”究極奥義・禁――『繰流』――これがわたくしの奥の手ですわ」

 ならば、それを平然と使役する水衣の美女こそ、真の魔人と言えた。
 事実、通常人間が召還できる魔物の限界を、軽く1000ケタは超える超高位存在を召還したのだ。
 恐るべし海の聖母――安倍 深美よ。
 深美は優しく恐ろしい笑みを浮かべながら、そのぬめぬめとした鱗状の肌を撫でると、『水の王』は操られるように異形の視線を那由に向けた。
 それは深美に対する服従と――那由に対する攻撃の意志だ。
 もはや、天地が逆転しても那由が勝てる可能性は無い。那由だけではなく、地上の如何なる者もこの『水の王』には指一本触れられないだろう。

「これが終わりの始まりですわ」

 絶体絶命の窮地――那由がこの危機から逃れる事は不可能だ。奇跡でも起こらぬ限り……

「……それじゃあ、ようやく」

 奇跡――

「俺の出番だな」

 褐色の翼が、ばさりと羽ばたいた。
 地上に降りた1人の武神――クルィエ少佐が、片目をつむって見せる。

 そう――奇跡を起こすのは、常に“神”の役目だ。

「異世界の超高位存在か。データには無いが四大種族に匹敵する力を持っているらしいな。だが、こいつなら俺も戦える」

 敵に不吉な戦慄を、そして味方に絶対の信頼を覚えさせる笑みが、口元に浮かぶ。

「戦えるって……いくらあなたが神様でも、あの大いなる『水の王』に勝てるとは思えないわ」
「やれるだけやってみるさ。こう見えても第1級武争神族なんだぜ」
「それに、あなたは天界に見つからないように力を封印しているのでしょう?そんな状態で戦えるの?」
「ん、確かに今の状態じゃボコられて終わりだな」

 ぴしっ

 血の色に染まった天球に――明らかな亀裂が走った。稲妻を思わせる亀裂の波が、放射状に広がっていく。そして――!!

「だがな、神族の天界軍が全宇宙全次元全世界最強と呼ばれているのは――」

 かしゃあああああん!!

 天の一角が――砕けた!!
 赤黒い破片がぱらぱらと舞い落ちる。
 そして、次元の亀裂から踊り出たのは――!!

「伊達じゃないぜ」

 巨大な水柱がクルィエの背後に上がった。
 深美と背後の『水の王』が、“それ”を見据える。

「こ、これは――!?」

 黒光りするシャドーメタル外骨格装甲に身を包んだ漆黒の巨人武者が、長大なバスターライフルをゆっくりと構えた。
 時折、青白い電子の輝きが全身に走る。
 琴を爪弾くような機械音が雅楽の如く鳴り響く。
 幾何学模様のスクリーン状『ウィング』が周囲に展開される。
 『水の王』とも肩を並べる巨体。
 黒金の機械神――これぞ、神族の究極兵器“ZEXL”の最新鋭機――

 『ZEXL−22 トライゴン』

 再び降臨す――

「……最近の神様は巨大ロボットが流行りなのね」
「言ってる事が意味不明だぜ……」

 軍用コートのフックを外したクルィエが、それを那由に投げ渡す。一瞬、視界がコートに隠れた次の瞬間には、

「このでかぶつは俺が何とかする。あの美人は……自分で何とかしてくれ」

 トライゴンの開放されたコックピットハッチの中に、パイロットスーツに身を包んだクルィエの姿があった。

「ちょっと、自分だけ巨大ロボットに乗るなんてズルイわよ」
「まだ言うのかよ……あんたなら、たとえ戦闘ができなくても戦える筈だ。違うか?」
「……そう思う?」
「あんたの『真の強さ』は別の所にある。それを今度こそ見せてもらうぜ」

 片目をつむるクルィエの姿が、閉じゆくハッチの中に隠れていく。

「じゃあな。互いに生きて再会できたら、キスの1つでもしてくれ」
「ちょっとぉ!!」

 胸部装甲が完全に閉じたのと同時に――トライゴンの鬼神武者を思わせるフェイスマスクに、真紅の眼光が宿った。
 同時に、『水の王』の周囲の空間が陽炎のように歪む。この異次元の思考を持つ存在も、己が戦うべき相手を見出したようだ。
 黒金の機神――トライゴンが前に出る。
 大いなるもの――『水の王』が前に出る。
 両者とも下半身が海中に没しているのだが、まるでそれを感じさせないスムーズな動きだ。いや、実際に水の抵抗など無視できるのだろう。それは、この戦いが既に人外の領域にある事を意味していた。

「いくぜ」

 多機能メインディスプレイに写る異界の巨神に、クルィエは微笑みを浮かべた。未知なる敵を前に、戦いの神としての血が疼く。それがたまらない快感なのだ。
 必殺の意志が両者を繋ぎ――万物を睥睨する異形の神々はついに激突した――!!
 鉤爪が振り下ろされた。
 バスターライフルが跳ね上がった。
 絶対なる破壊の交錯――

「おや」
「あらあら」

 次に起こった事を考えれば、少々惚け過ぎた呟きだったかもしれない。
 ドーム状に膨れ上がった――高さは軽く500mを超える――海水の爆発が巨大な津波と化して、結界内部のあらゆるものを押し流した。あの激突の瞬間、どれほどのエネルギーが開放されたのか。
 那由と深美の姿も、怒涛の津波に瞬く間に飲み込まれた……

「やれやれ、ね」



※※※※※※※※※※※※※※※※




 限りなく暗黒に近い青が、その空間を支配していた。
 時折ごぼごぼと水泡が上がるのを除けば、ただ闇色の水が揺らめく以外に何の変化も無い。
 “聖母”安倍 深美が都心に創造した広大な海原――その海中は、魚どころか生物の姿1つも無いという、完全な死の世界だった。
 その深海数万m地点――この海に底は無いのか――に、2つの『存在』が対峙していた。
 黒と黒。
 青くグロテスクに揺らめく黒と、光沢のある金属的な黒。
 大いなる『水の王』と――黒鉄の巨神『トライゴン』。
 この暗黒の質量に満たされた死の空間が、両者の選んだ戦場なのだ。
 『水の王』が鉤爪を振るった――ように見えた。青黒い表皮がほとんど背景と保護色になっている。目の前に立っていてもほとんど周囲と見分けがつかないだろう。ただ、黄色く濁った光を放つ双眼が、この狂気の支配者の存在をおぼろげに示していた。
 股下に滑り込むようにトライゴンが鉤爪をかわす。海中ならではの三次元的な軌道だ。
 だが――

 がきん!!

「クッ!!」

 激しい揺れがコックピット内部のクルィエを襲った。
 警告や被害個所を表示した映像スクリーンが、周囲のあちこちに展開する。
 スクリーンを見なくてもわかった。今の攻撃で軽くウィングの半分は粉砕されただろう。
 鉤爪の攻撃は軽く避けたのだが、その際に一種の次元振動波のようなものが放出されて、トライゴンを襲ったのだ。かすめただけでこのダメージ――直撃すればやられたと感じる間も無く素粒子単位で分解されるに違いない。

「冗談じゃねぇ」

 機体の体勢を整えつつ、反撃の銃口をターゲットに向ける。この反応の早さは、天界軍ZEXL部隊の超エースパイロットの名に相応しいものだ。
 だが、照準モニターの先には、暗黒の海水が揺らめくだけ――クルィエの首筋をぞくりと悪寒が襲った。
 トライゴンが横滑りに回避行動を取る――と同時に、背面装甲とバックブースターが次元振動波に粉砕された。背後からの奇襲攻撃だ。直撃を避けられたのはクルィエの勘の冴えだったが、背中側の内部機関が剥き出しになるほどのダメージを受けてしまった。

「くそっ……重い、鈍い、脆い……!!」

 一方的な戦いだった。
 確かに、相手はあの『水の王』――しかも、そのホームグラウンドでの戦い――なのである。一筋縄では行かない強敵なのは当然だろう。しかし、クルィエの駆る黒金の機神は、あの“神将元帥”の対ホワイトスネイク・ヴァージニティー戦と比べて、そのスピード、パワー、防御力……全ての機体性能が格段に低下していた。

「地球の現地生物相手なら、今のコイツでも何とかなると思ったが……まさか異世界の超高位存在が相手になるとはな。見通しが甘かったか……」

 そう、クルィエが神族としての力を封印している限り、パイロットの神聖力をエネルギーにしているZEXLは、本来の能力を1兆分の1も発揮できない状態にあるのだ。もちろん、奥の手であるトリニティ・システムなど使える筈がない。
 無論、かの大いなる『水の王』は、クルィエの事情など知る由もなく猛攻を続けている。ねじれた鉤爪が揺らめく度に、トライゴンの外部装甲は確実に削り取られていた。

「『水の王』か。この世界にこれほどの存在がいるとは、世の中は本当に広いぜ……最悪の意味でな」

 クルィエは引きつった笑みを浮かべながら、メインモニターに映る『水の王』を睨んだ。
 暗蒼なる深淵に身を同化させた『水の王』は、真正面から黄色い狂眼でこちらを見つめている。あいつが異次元の思考で何を考えているのかはわからないが、眼前の異界の巨神を滅ぼそうという意図だけは確実のようだ。
 彼の計算が正しければ、今の状態であの化け物に勝てる確率は――

 ――0%――

 生まれて始めて、クルィエは自分の計算が間違っている事を祈った。

 祈った……?

 誰に?



※※※※※※※※※※※※※※※※




「予想外の展開ですわね」

 赤黒い雲が徐々に薄れていく。
 もう太陽が地平線に消えてから相当な時間が経過した。天球を覆う雲以外の空間は、完全な闇に閉ざされていた。

「私にも予想外よ」

 しかし、先刻の超高位存在同士の激突による衝撃波が、大気組成に影響を与えたらしく、永久に晴れる事が無いのではと思わせた赤暗雲も、溶けるように消えていく。

「よもや、『水の王』と正面から戦える存在があろうとは……まさか彼の殿方は“真性神族”なのですか?」

 雲の切れ目から、紫の光が差し込む。
 大気組成の変化は可視光線にも影響を与えるのか、巨大な満月は不気味な赤紫色に輝いていた。

「自称だけどね」

 紫色の月光が照らすのは――ここだけは奇跡的に破壊を免れていた、巨大な鋼とワイヤーの吊り橋――東京湾レインボーブリッジ。そして、中央分離帯越しに対峙する、魔性にして優美、幻想にして琥惑なる美女が2人――

「では、残る戦いはわたくしと――」

 “聖母”安倍 深美――

「私よ」

 “ファー・イースト・ウィッチ”西野 那由――

 両者、再び相対す。
 
「ですが、今の那由様で戦いになるのでしょうか……くすくす……」

 言葉尻だけなら単なる嫌味だが、不思議とそうは感じさせない上品かつ優しい口調だ。万人が望む妻の理想であり、母の体現といえた。

「やってみなくてはわからないわよ」

 対する那由は、絶対零度の剃刀――クールビューティーの極地だ。自己と言うものを欠片も表に出さず、ただ孤高の美しさを醸し出すだけ……
 しかし、今の那由にそんな態度を取る余裕があるのだろうか。
 “鬼道”の聖銃『そはや丸』に、戦いという概念そのものを奪われた今の那由は、虫一匹攻撃できない。無論、深美の攻撃を防ぐ事も一切不可能なのだ。那由が如何なる手段を講じようと、深美が死の力を振るっただけで瞬殺されるのは間違い無いだろう。
 絶体絶命を通り越した、完全な『詰み』の構図――そして、

 ざざざ……ざざざ……ざざ……

「では、それが如何に虚しい思いであるかを、証明してみせますわ」

 レインボーブリッジの橋桁ぎりぎりまで満たされた『母なる海』が、不気味に波立ち始めた。
 後は、深美が考えるだけで、恐るべき海原の攻撃が那由を確実に滅ぼすのだ。

「御別れです。その名は悠久無限の彼方まで鳴り響くでしょう」

 殺戮の意志が、深淵の海に伝わって――!!

「“聖母”安倍 深美……本名『安倍 灯(あかり)』……日本最強の陰陽師集団『土御門流』先代当主の第一子女として生を受ける」

 深美の世界が凍りついた。
 驚愕の表情を浮かべて、全身を硬直させる。

「その後、土御門流陰陽術師の中でも最強の使い手に成長したが、生まれつき子を産めない身体であった為、当主の座は双子の妹『安倍 縁(ゆかり)』に譲る事になる」

 独り言のような那由の呟き。それが深美の絶対なる滅びの一撃を中止させたのだ。
 誰に語る事も無い独白が続く。

「数年後、縁は双子の女子を産み落として他界される。双子は灯が育てる事となった」
「…………」
「更に十数年後、双子が当主の座を受け継ぐと同時に、灯は土御門流の首脳陣を惨殺して失踪」
「…………」
「そして、今、私の目の前にいる……というわけね」

 黒味を帯びた魔風が、2人の間を駆け抜けた。
 月光だけが、静かにこの光景を見つめている。

「……どこで、その情報を御知りになられたのですか?」
「さっき、大僧正様とアーリシァさんにテレパシーで聞いたの」
「何の為に?」
「敵の情報を知るのに、労力を惜しまないだけよ」

 那由は溜息を吐きながら肩を竦めた。普段の那由なら決して見せる事のない、どこか疲れた態度だった。

「噂では、灯さんは慈愛と優しさにあふれた、まさに聖女に相応しい人物だって聞いたけれど……そんなあなたが、なぜヒュドラの一員に?」

 深美はゆっくりと瞳を閉じた。夜風がかすかに後れ毛を揺らす。

「先程の話には、少々間違いがあります。土御門流当主の座は、譲ったのではなく奪われたのです。妹を……縁を利用しようとする輩に」

 虚空の中に消えそうな呟き。

「御存知でしたか?土御門流の首脳陣は、旧IMSOと通じていたのですわ。受精卵の段階で、わたくしには術師として最強の力を、縁には更なる力を持つ子を産むように、身体を改造されていた……実力とは関係無く、初めからわたくしに当主の道は閉ざされていたのです」
「……それは初耳ね」
「恥ずかしい話ですが、当時は相当荒れましたわ。当主になることがわたくしの唯一にして絶対なる望みだったのですから……ですが、子を産んだ縁は力尽きたように命の灯火が消え、子供達をわたくしが育てる事になってから、その未練は嘘のように消えました。那由様も御分かりでしょう。初めて愛しき赤子を抱いた瞬間の感動を。己が母親としての実感を得る喜びを」
「……そうね」

 興味の無さそうな口調だが、心根はその逆だった。
 那由にはその気持ちがよく理解できた。あの頃、夫と子供達の愛が無ければ、自分は到底立ち直れなかっただろう……

「しかし、子供達が退魔師として一人前と言える実力を身につけた際、わたくしは首脳陣の命令で無理矢理あの子達から引き剥がされました。わたくしの師はこう言いましたわ。――『お前はあいつ達を育てる為だけに“作られた”のだ。もう、その必要は無い。“離魂滅伝”の術を使い、その役目を終えるがよい』――“離魂滅伝”とは、己の命を引き換えに他者に全能力を与える、土御門流陰陽術の奥義です」

 ざざざざざ……

 細波が震えた。

「後に知りましたが、縁の死も初めから決められていた事だったのです。始めから、道具として、利用する為に……世界に絶望するには、まだ不充分でしょうか?」
「だからといって、土御門流の首脳陣を皆殺しにする必要は……」
「奴等は、子供達にも同じ事をしようとしていました」
「…………」

 月光が照らす世界はどこまでも透明で、ただ静かに美しい。
 悲劇とは、そんな世界に相応しかった。

「それが全ての真実です。ですが、こんな事実は次代の土御門流当主たるあの子達が知ってはならぬ事ゆえ……」
「全ての罪を被って、ヒュドラの一員となった……」

 深美は顔を上げて微笑んだ。
 泣き出しそうな笑みだった。

「……あなたはこんな事が似合う人じゃないわ……もう、ヒュドラの悪行に荷担するのはやめなさい!!子供達に会いたくは無いの?」
「東京の無辜なる民を虐殺したわたくしに、ナイン・トゥースに名を連ねるわたくしに、あの子達に向ける顔があるとおもいますか?」
「…………」
「わたくしは、もう後戻りできないのですよ」

 一筋の涙が、深美の頬を伝う。
 静かに深美の目の前に歩み寄った那由は、そっと頬に手を添えた。

「大丈夫……もう、苦しむ必要は無いのよ。あなたは必ず立ち直れるわ」
「……那由様……」
「だから、もう……」
「……ええ」

 那由は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
 深美も笑みを浮かべた。

「ええ、戯言に付き合うのはもう十分ですわ」

 邪悪と怒りに満ちた笑みを!!

 バシュ!!

 海面から弾けた『水の鞭』が、那由の胴を薙ぎ払った。声も出せずに吹き飛んだ那由は、木の葉のように路上を跳ね飛んで、手摺りに激突してようやく停止した。
 苦笑を浮かべる深美が、ぐったりと手摺りに寄り掛かる那由を見下ろした。

「会話の中に、密かに感情操作系の術を折り込んでいたとは……なるほど、その系統の術なら『戦闘行為』には該当しませんわね。あくまでわたくしを慰め、そして懐柔するための行動ですから……流石は那由様、危うく術中に陥る所でしたわ」
「……ごふっ……あら……やっぱり……バレちゃった……?」

 ぐったりと俯く那由の口元から、鮮血がぽたぽたと垂れる。
 しかし、深美の苦笑はそれに向けられたものではなかった。
 危ない所だった。
 確実に『戦闘行為』を封じられた状況なら、本来は感情操作系の魔法を使う事すら思い付かない筈である。その常識すらある程度は無視できるとは……あの美貌の女社長が『あの名』で呼ばれている理由を、改めて深美は思い知らされた。
 だが、深美は今更くだらない不幸自慢に酔えるような甘ちゃんではない。
 ――ナイン・トゥース――世界最強の魔人達に、センチメンタルなどという感情は存在しないのだ。

「刹那の油断も許さぬ御方……やはり、時を置かずに確実に滅ぼすが最良ですわ!!」

 怒涛の水柱が深美の周囲に噴出した。今度こそ、本当の『一撃必殺』が、那由へ撃ち込まれようと――!!

「間に合ったわ」
「――っ!?」

 那由は笑った。
 深美は驚愕した。
 世界のどこかで、あってはならぬ事が起こった――それが感じられたのだ。

「……この魔力波動の消失率は……まさか、彼の者たちが!?」
「その通り!!」

 ばっと頭を上げた那由が、不敵な笑みを浮かべながら印を結ぶ。

「…」
「っ!?」

 巨大な火柱が、紫の月まで届かんと隆起して、驚愕の深美を飲み込んだ――!!



※※※※※※※※※※※※※※※※




「ぐっ!!」

 激しく背中を打ち付けて、アーリシァは仮面の奥でくぐもった声を洩らした。長い縦穴を軽く数百mは落下して、瓦礫の中に突っ込んだのだ。声を出せるだけましだろう。
 いや、その前からアーリシァの純白の衣装は血と泥に塗れ、仮面には大きな亀裂が走っている。立ち上がれないのは手足を骨折しているからだろう。満身創痍の形容すら生温い、無残な姿だ。
 
「……地の底とは、墓場にするには都合がいい」

 音も無く縦穴を降下して、姿を見せた死神――“無限”のリーナは、皮肉にも空から降臨する天女を連想させた。
 かすかな月明かりしか指さない地下空洞は、瓦礫の山に被われて、2人の魔人以外に生物の気配すら無い。終末の鐘が鳴り響く時、世界に広がる滅亡の荒野とは、この光景なのではないか。
 そして、ここにまた1つ、確実なる滅びが訪れようとしていた。

「……アズラエル・アイ筆頭退魔師ともあろう者が、逃げの一手……いいえ、私を前にそこまで逃げられたのは立派」
「……くっ……」

 よろよろとリーナに背中を向けて、這うように瓦礫の上を逃げようとするアーリシァ……そのあわれな姿を、リーナの無感情な瞳が居抜いた。どこか怠惰な様子で、逃走するアーリシァの後を追う。
 どうせ、逃げられやしないのだ。
 ――あれから、アーリシァはただひたすら逃げ回っていた。
 如何なる攻撃もコントロールを奪われてしまうという状態では、アーリシァに勝ち目がないのは万人の認める所だ。
 しかし、抵抗の意思を欠片も見せずに、惨めな敗北者の立場に甘んじて、こそこそと逃げ回るのは……あまりに無残。あまりに惨め。リーナの無表情に、かすかな侮蔑が浮かぶのも無理はなかった。

 がらん

「ぐっ!?」

 手元の瓦礫が崩れた。
 バランスを失って、ごろごろと坂を転げ落ちたアーリシァは、かろうじて残っていた壁に激突して、そのままぐったりと崩れ落ちた。

「……終わり」

 目の前の瓦礫の山に音も無く降り立ったりーナが、淡々と腰の魔剣『無限刀』を抜く。禍々しいオーラが見えない刀身から立ち昇り、暗闇の空間を冷気で満たした。
 そう、彼女の言葉通り、この戦いもついに最後の時を迎えたようだ。

「……そうだな……これで、終わりにしよう……」

 もはや、全てを諦めたのか、妙にさばさばした口調で、アーリシァは呟いた。
 そして――

「……何のつもり?」

 まっすぐ自分に向けられた銃口を、リーナはきょとんと見つめた。
 震える白手袋が、しかし正確に狙いを定めて拳銃――デザートイーグルを握り締めている。何の特殊効果も無い、ごく普通の軍用拳銃を。
 この行為に、何の意味があるというのか。
 『無限刀』がある限り、銃など何の役にも立たないのは自明の理だ。仮に『無限刀』が無くとも、リーナの体術なら弾丸を避ける事など容易い。
 なぜ、今更拳銃など?

「1つ……話をしてやる」

 仮面の奥から漏れる声は――

「私がアズラエル・アイの筆頭退魔師として選ばれた夜……師父からこの拳銃を与えられた」

 ――微かな笑いが含まれている!?

「『人形使い』の技があるからと、拳銃を持とうとしない私を、師父は厳しく戒めた……『己の力を盲信する者は、必ずそれに裏切られて、破滅する』……と」
「……だから?」
「今こそ、その意味を理解した……そして、それこそが私の勝利に繋がったのだ」
「……!?」

 じゃりっ

 リーナが1歩、必殺の間合いに歩み寄る。驚愕の光を隻眼に宿しながら!!
 ――『私の勝利』!?
 ――アーリシァの勝利!?
 ――この状況で!?

「……お前の勝利……だと!?」
「もう1つ……話してやろう」

 ひび割れた純白の仮面が――笑った。

「私が逃げる直前、“ファー・イースト・ウィッチ”西野 那由がテレパシーである情報を送ってきたのだ。それは――」

 その笑いを見た瞬間、リーナは気付いた。

「それは――この地に政府要人用地下シェルターがあると、そして、まさにこの場所に、ナイン・トゥース“静寂”なるエルフィール・Dが埋まっていると」

 『無限刀』の纏うオーラが、そして、その魔性の力が消え失せている事に!!
 咄嗟に飛び退こうとするリーナ。だが、その動きはあくまで『普通の成人女性』のレベルだ!!

「……ッッッ!!!」
「私の勝利だ」
 
 銃声が暗闇を切り裂いた。
 一瞬、全ての動きが停止する。

「…………そ……んな……」

 ……数秒後、隻眼を見開きながら、

「…………ば……かな……」

 豊満な乳房の谷間に、真紅の花を咲き散らして、

「…………わ……たし……が……」

 がくり、と膝をつき、

「…………まけ……た……?」

 からん

 リーナの手から、力無く『無限刀』の柄が離れ落ち、瓦礫の上に渇いた音を立てた……

「ただ逃げていた訳では無い。私は誘導していたのだ。その恐るべき『無限刀』の力を打ち消す事ができる、ただ1つの場所へ」

 ふらつきながらも、確かな足取りでアーリシァは立ち上がった。

「お前の敗因、それは『無限刀』の力を、自分の力を過信し過ぎていた事だ。強大な力を持つ者ほど、それを失うと脆い。お前は自分自身の力に負けたのだ」

 大地に伏すリーナ。
 大地に立つアーリシァ。
 今、ここに“勝者”と“敗者”が決定したのだ。

「…………痛い……寒い……ふふふ……これが……敗北……か……ふふ……ふ……」

 微かな呟きを残して――それっきり、“無限”のリーナは沈黙した。

「……感謝します……師父よ」

 リーナが完全に動かなくなったのを確認した直後、アーリシァは力が抜けたように壁に寄り掛かった。数秒間、死んだように動かなかったが、

「流石に少々……疲れた……だが、まだやるべき事が残っている……人使いが荒いな……西野 那由よ……」

 よろよろとふらつきながら、アーリシァ大佐は『新たな戦場』へと足を運んだ――

 ――――

 ―――

 ――

 ―

 ――ごごごごご……

 地に伏すリーナが――いや、彼女の真下の大地が、不気味な振動を始めたのは、アーリシァが立ち去ってから数分後の事だった。

 ごごごごごごご…………ビシッ!!

 更に数分後、瓦礫を突き破って出現したのは――

『……まだ……終わりでは……』

 ――黒光りするワイヤーロッド!!



※※※※※※※※※※※※※※※※




「それじゃ、バイバイ♪」

 鬼の怒涛に飲み込まれる3人に背を向けて、嵐は片手を振りながら立ち去っていった――
 ――その時、

「――!?」

 ぐにゃり

 嵐の視界が歪んだ。
 水墨画を思わせるシーの夢幻世界が、水に溶けるように消えていく。大僧正、子法、シー、そして嵐を除く全ての存在が溶け消えていくのだ。
 そして、あの鬼の大群も。
 嵐を奇妙な感覚が襲った。
 まるで、夢から覚めるような……
 今、彼等が立つのは、赤黒い暗雲が広がる廃墟の中だった。

「……そうか、お姉さんの夢幻世界を解除したんだネ」
「ええ、夢の出来事はあくまで夢。現実に持ち込む事はできませんから、だからあの鬼の群れも消えてしまったのですよぉ」
「ふふン、やるじゃないか……でも、僕の『そはや丸』の力までは絶対に消せないヨ」

 そう、依然として3人の『戦闘という概念』は封印されたままだ。
 絶体絶命の状況は変わらない。
 小憎らしいくらいさわやかな笑顔を浮かべて、嵐がゆっくりと近付いていく。自らの手で始末する気だ。鬼の力を持つ彼にとっては、赤子の手を捻るよりも容易い事だろう。彼には絶対の自信があった。
 だから、いつのまにか大僧正が真紅の豪刀――子法を手にして、此方に向けていても、余裕の笑みを浮かべていた。

「何のつもり?そのお嬢ちゃん刀を構えても、絶対に僕には攻撃できないんだヨ」
《子法をお嬢ちゃんって言わないでよぉ!!》
「その通りじゃな、確かにワシ等はおぬしと戦う事はできん……じゃが、奢るな“鬼道”よ!!その奢りこそがおぬしの敗因なのじゃ」

 ――!?

「……敗因?……敗因だって!?」
《あれれ?まだ自分が負けている事に気付かないの〜?》
「意外に鈍感ですねぇ……くー」

 子法とシーの嫌味には、余裕の響きすらあった。
 嵐の秀麗な顔が、疑惑に包まれる。
 自分がもう敗北している?
 あの連中のあらゆる『戦闘行為』を封印しているのは確実だ。それを解除するには自分を倒すしかない。つまり、負ける要素は絶対に有り得ないのだ。
 ブラフだ。そうとしか考えられない。

「つまらない事を言うのはやめてヨ。僕はもう君達と遊ぶのには飽きたんだかラ」

 嵐の口元が邪悪に歪んだ。
 細く白い両腕が、鬼の豪腕に異形化していく。大僧正やシーの華奢な身体など、触れるどころか風圧だけで引き裂かれるに違いない。

「これで、本当に……サヨナラだヨ!!!」

 跳躍。
 軽く10mは跳び上がった嵐の鉤爪が、真上から大僧正達へ襲い掛かる――!!

「そう、さよならじゃ」

 ――斬!

 紅に染まる魔刀が――踊った。

 ボンッ

 鬼の豪腕が――宙を舞った。
 “万物の魔王”の力で、肘から切断されて。

「――え?」

 肘から先が消滅した右腕を、唖然と見つめる“鬼道”なる嵐。

「“闇高野式封魔剣法・猫爪『十二単』”」

 あの枯木のような老人のどこに、これほど華麗な剣舞を繰る技量があるのか――“化血刀”子法が『万物の魔王』の力を発揮して、世界に赤い軌跡を走らせる度に――

《解体しちゃえ!!》

 左肘から先が――右膝から先が――左腕の付け根から――左膝から先が――右腕の付け根から――そして、美しい生首が――嵐の五体は瞬時に切断された!!

「封魔完了……」

 最後に胴体が十字に分断されて――嵐“だった”肉隗が、子法を構える大僧正の周囲に、ボトボトと落下した……

《お爺ちゃんカッコイイよ!!》
「うわぁ、すごいですねぇ」

 ぱちぱちと力無い拍手を送るシーの前で、

「……痛たたた……年甲斐の無い事をするものじゃないのぅ……」

 腰を押さえてしゃがむ大僧正であった。

《お爺ちゃん大丈夫?》
「……義経じゃ」
《ほえ?》
「“鈴音 義経(りおん よしつね)”……それがワシの名じゃよ」

 痛みをこらえながらも、不敵な笑みをニヤリと浮かべる大僧正の背後に、シーと子法は豪刀を振るう野性的な若武者の姿を見たような気がした。
 恐るべきは“闇高野”大僧正よ――
 恐るべきは“化血刀”子法よ――

「鈴音 義経さん?……それって、かつて世界最強の魔剣士と呼ばれた、伝説の戦士の名前――」

 シーの(全然そうは見えない)驚きの言葉を邪魔したのは、

「……なぜ?」

 足元にごろりと転がる美少年の生首――嵐の頭部だった。

「なぜ……僕を攻撃できたノ?」

 意外に明確な声で嵐は呟いた。この状態で喋れるのも、鬼の不死性故か。

「無理ですよぉ、私達は貴方のナントカ丸のおかげで、今も戦うことができませんよぉ」
「じゃあ……なぜ?」
「おぬしの敗因は2つ。まず第一の敗因は、ワシ等を戦えぬ身体にしたと思いこんだ事じゃ。よく考えてみよ。本当にワシ達全員を、その『そはや丸』の力で戦えなくしたと言えるのかの?」

 その瞬間、嵐は気付いた。
 大僧正を、子法を、シーを、三者の全身を、細い透明な『糸』が、遥か天の高みから繋いでいるのを!!

「その糸は……まさカ!!アーリシァ大佐が!?」
《大正解!!実は子法達は何もしていないんだよ。アーリシァさんが『人形使い』の技で、子法と大僧正様を遠隔操作していたんだよ♪》
「剣術はワシの記憶を伝達して使ったのじゃがな」
「アーリシァさんはぁ、貴方の『そはや丸』に心の鬼を殺されていませんからねぇ。こうやって戦う事もできるのですよぉ」

 恐るべきは“人形使い”アーリシァよ――

「で、でも……なぜ、この僕がその事に気付かなかったノ!?鬼の超感覚を持つ僕なら見逃がす筈が――!!」
「ああ、それならぁ……」

 シーの細指が、目に見えぬ琴を爪弾いた。

 ぐにゃり

「……え!?」

 周囲の光景――赤黒い瓦礫の廃墟が、水に溶けるように消え失せて……たちまち、あの中華風な幻想的光景が広がる、『シーの夢の世界』へと転じてしまった。

「先程は、夢幻世界を解除したのではないんですぅ。私達は『夢から覚めた夢』を見ていたのですよぉ。ここはまだ私の支配する世界の中……アーリシァさんの糸を隠すぐらいなら簡単ですよぉ」
「……まさか……夢の中で夢を見せるなんて……」

 恐るべきは“翠蝶麗君”シー・リャンナンよ――

「人の力とは不思議なものでな、1人1人が脆弱でも、それが合わさると1+1が百にも千にもなるのじゃ。だからこそ、人は支え合い、互いを求め合う……これが『仲間』の力じゃ。人間をやめたおぬしには、理解できぬかもしれんがのぅ」
「…………」

 どこか憐れみを含んだ3つの視線が、足元に転がる鬼の首を見下ろす。
 そう、ここに勝敗は決したのだ。

「おぬしの最大の敗因は、その人間の力を見くびった事じゃ。先刻も油断して刀の間合いに入らなければ、おぬしほどの者がこの老いぼれの剣を食らう事も無かったろうに……」
《それって、子法にも失礼な台詞だよ。ぷんぷん》
「謙遜ですよぉ……くー」

 足元の生首に狙いを定めて、大僧正は子法を上段に振り上げる――それは、もう嵐の『そはや丸』の力が消滅している事を示していた。
 後は、この刃を振り下ろせば、全ての決着が――

「……ふふふ……ふふふふふ……」

 その時――鬼が――笑った。

「ふふふふふ……ふははははははは!!!凄い凄い凄いヨ!!なんて凄い人間なんだ!!この僕を殺せるなんて、姉さんしかいないと思っていたよ!!!」

 歓喜の笑いだった。狂喜の笑いだった。そう、それこそ血みどろの戦場に在るべき『鬼』の真の姿だった。

「殺す!!殺してやる!!大僧正!!シー・リャンナン!!子法!!アーリシァ!!そして那由!!必ず僕が殺してやるよ!!!あははははははははは――!!!」

 斬

 そして、恐るべきは“鬼道”なる嵐よ……

 
 ――――

 ―――

 ――

 ―

 数分後……瓦礫の地平の真ん中に、シーの夢幻世界から捨てられた、脳天から分断された嵐の生首が転がっていた。
 そよ風1つ吹かない、死の沈黙が広がる――

 ――ごごごごご……

 ――否――

『……そう……これこそが……』

 天から降臨するロケットブースターの轟音に――

 ………………あはははは…………

 ――『鬼』の凶眼が、瞬きで答えた!!
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那由さんの憂鬱
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