《―――長かった……》
 『彼』は独り呟いた。
 酷く疲れた声であった。
 砂の粒を1つずつ、また1つずつ積み重ねて――悠久の年月の末に、峨々たる大山脈を築き上げた……そんな果てしない疲労と限りなき達成感が、その声には込められていた。
 右手を――彼の『種族』にとって、右手に当たる箇所を――ゆっくりと目の前にかざしてみる。
 それは長い長い時の流れが年輪の様に刻み込まれ、深遠なる樹海の中心に聳え立つ、1本の巨木を思わせた。
《老いたな……》
 苦笑する。
 彼の種族の平均寿命の、200倍も生きれば当然か。
《……だが、間に合った》
 今もなお全盛期の力を宿し、さらにそれを上回る“万能の力”を秘めたその右手を、静かに胸元に当てる。
 何かの感触を、確かめる様に。
 そのぬくもりの為だけに、今まで生きてきたのだ。
 たとえ、全てが徒労に終わろうとしても……
《悔いは無い……》
 この世界を支配するに必要な資格と権利は、信頼のおける後継者に全て譲った。それを惜しむ声も多かったが、今から彼がする事を知れば、誰もが狂ったと思うだろう。あくまで現役を引退した一個人の暴走なのだ。己の行為によって、臣下や民に責が及ぶ事はあるまい……彼はそう思い込む事にした。
《ふう……》
 心地良い溜息をついて、豪奢な椅子に身を委ねる。
 彼がこんな脱力した姿を取れるのも、あとほんの僅かな時間だけだろう。
 全ての準備は整った。後は“奴等”が来るのを待つだけだ。
《長かった……》
 もう一度、彼は呟いた。
 ……いや、こんな歳月など……“あの人”が生きてきた時の流れに比べれば……瞬きにも満たない一瞬に過ぎないだろう……
 そっと瞳を閉じて、あの輝ける時に思いをはせる。

 それは朝露にも似た、一瞬の輝き。
 それは夕焼けにも似た、一瞬の美しさ。
 それは母の抱擁にも似た、一瞬のぬくもり。

《……もうすぐだよ……セリナ……》





































セリナの世界最後の平穏な日々





































EPISODE 1. 『魔界大帝クリシュファルス・クリシュバルスの場合』





































――西暦200X年 5月○日 P.M.2:47 西野怪物駆除株式会社・中央管理センター総合指令室――


…BEEEP!!BEEEP!!BEEEP!!…

《…第1級緊急事態発生…第1級緊急事態発生…総員直ちに指定配置に就いてください…総員直ちに指定配置に就いてください…》

 耳障りな警報音と共に、成人女性の合成音声が無機的な警報を唱える中、
「……ちょっとちょっと!!何事なの!?」
 自動ドアがかき開けられる様にスライドして、赤いポニテがトレードマークの、勝気な印象の美女“西野 かすみ”が、愛用のジャケットに腕を通しながら転がり込んできた。
 若干19歳の身でありながら、西野(株)でトップクラスの実力の持ち主であり、国内でも有数の魔物スイーパーである彼女だが、その美貌には明からな戦慄の冷や汗が浮かんでいる。
「……聞いての通りよ……第1級緊急事態を発令させたわ……」
 藍色のスーツを寸分の無駄なく着こなした年齢不詳の美女が、独り言の様に呟いた。
 彼女の名は“西野 那由”――西野怪物駆除株式会社・代表取締役社長にして、かすみの実母――その眼前の超大型モニターを凝視する姿には、普段の人を食った様なおちゃらけた印象は欠片も見つからない。
 悲鳴に近い怒声と膨大なデータが転送され、書類を抱えた事務員が多機能デスクを飛び越える。
 中央管理センター総合指令室……NASAのコントロールルームが、子供の遊び場に見える程の設備が備わっているこの司令室は、突然の緊急事態に大混乱に陥っていた。
「第1級緊急事態ぃ!?『あらゆる行動に優先して、組織の総合戦力全てを結集して対処する事態』……そんな物騒なのが発令されるなんて、一体何が起こったの!?」
「このデータを見て……」
 那由の細指がコンソールの上を撫でると、大型モニターに大量の文字が羅列されていく。
 その情報量は極めて膨大だが、簡潔にまとめて一言で表せば――
「……つまり、『異世界から、とんでもなく強力な魔物がやって来た』って事!?」
「IMSO(国際魔物対策委員会)に、バチカン、チベット、エルサレムの三大宗教組織から、民間の怪物駆除企業に至るまで、あらゆる退魔組織から同様の情報が送られてきたわ……うちも今調べている所よ。国内最大最高の設備をフル動員しているから、かなり細かい情報が入手できると思うけど……」
 かすみは目を丸くした。
 IMSOや民間組織はともかく、宗教関係の退魔組織は同業者に対する横の繋がりが薄い――簡単に言えば、お互い非常に仲が悪いというのが業界の常識だ。それが民間企業に至るまで情報を公開し合うとは……命より大事な“組織のプライド”すらも無視する程の、前代未聞の危機が訪れようとしているという事だ。
「……これって、もしかして……世界の危機ってやつ?」
「もしかして、じゃなくて世界の危機よ……」
 那由がおどけた調子で肩を竦めた――しかし、その目は少しも笑っていない――その時!!
「情報分析完了しました!!」
 オペレーターの叫び声に、司令室は一転、沈黙が支配した。
 機械の稼動音だけが、残酷なまでに無機的な音楽を奏でている……
「……続けてちょうだい」
「は、はいっ!!」
 場の全員の視線を一身に集めた事で、硬直してしまったオペレーターが、慌ててコンソールに指を走らせる。
「……今回の分析対象である、異世界より来訪した魔物の認識パターンは……黒!!『悪魔族』です!!
 オペレーターの声は悲鳴に近かった。
 一同の間に戦慄が走る!!
 『悪魔族』――IMSOが設定した魔物の分類法によれば、《異世界“魔界”に存在する知的生命体の総称》と定義されている超常生命体である。その性質は我々が想像する『悪魔』のイメージ通り「極めて邪悪」とされ、あらゆる退魔組織が、我々人類における最大最強の敵であると認知している極めて危険な存在である。
「あ、悪魔族かぁ……厄介な奴が来てくれたわね……」
 かすみが苦渋の声を洩らした。
 悪魔族の力は、あらゆる意味で人間を遥かに凌駕している。生物の限界を遥かに超える身体能力に、地形すら変える恐るべき魔力を兼ね備え、さらには文字通り人外たる奇怪な超常能力を駆使しうる……下級の悪魔を相手にした場合でも、かなり大規模な退魔行となるのが普通だ。この一連の大騒ぎも、悪魔族が相手となれば決して大げさではない。
 ……余談だが、この『悪魔族』を含め、『神族』『鬼族』『龍族』の4つが、現在認知されている魔物の『四強』とされている。いずれにしても、生半な退魔師や魔物スイーパーでは相手にもならない、全知万能たる恐るべき存在なのだ。
 再び喧騒に包まれた司令室に、那由の凛とした声が響く。
「……その悪魔の総合能力値を検出して。『SRMC値』でお願い……」
 SRMC値とは、魔物の中でも特に強力な個体の、強さを表すランク値の事である。『1人前と認定されて、1人立ちが許されるレベルの退魔師の全能力』がSRMC値“1”と考えればいいだろう。
「了解しました!!」
 恐怖を吹き飛ばすかの様に、必要以上に力を込めて返事をして、
「………あれ?……おかしいなぁ……」
 何度もコンソールに指を走らせるオペレーターに、
「……どうしたの?」
 かすみの怪訝な声がかけられる。
「いえ……それが、もうとっくに計算が終了していい筈なのに、まだSRMC値の検出が終わらないのですよ……」
 那由とかすみは、思わず顔を見合わせた。
「……これって、まさか……」
「たぶんそうよ。その悪魔の力が途方も無く大きくて、SRMC値で表現するのに時間がかかっているのよ……」
 ……SRMC値が10を超えると、よほど強力な魔物スイーパーや退魔師でも総力戦となり、100を超えるとまず個人の手には負えなくなる。そして、極めて稀ではあるが、SRMC値1000に達する魔物が出現すると、歴史の流れにまで影響を与えると言う。
 ちなみに、現在までの歴史上において確認されている最大最高最強の魔物(龍族だと言われている)は、なんとSRMC値10000に達し、1万2千年前に1度だけ出現した時には、2つの大陸が海の藻屑と消えたらしい……
「……SRMC値の検出はそのまま続行、終わり次第報告して……先に、退魔目標の出現地域を特定してちょうだい……」
 別のオペレーターに指示を出しながら、誰にもわからないように、那由はさり気なく額の汗を拭った。
「了解……特定できました。メインモニターに映します」
 目標の出現地域は、レーダーの様に地図上の光点で表示される。地図の倍率を変える事によって、出現地域を細かく指定できるという仕組みなのだ……が、
「……ちょっと、なにこれ!?」
 かすみの唖然とした声も当然であった。メインモニターには何も映っていない……いや、モニター全体が光に満たされているのである。
「まさか故障!?こんな時に……」
「……違います……」
 オペレーターの声は震えていた。
「……地球上のどこかにいる事は確実なのですが……退魔目標の『存在』があまりに強大すぎて、地図上で光点を表示しきれないのです!!」
「じ、じゃあ、もっと地図の倍率を上げてみたら……」
「これが倍率の限界です!!今表示しているのは銀河系の星図ですよ!!」
 今度こそ、完全なる沈黙が落ちた――
 空調は完璧なはずなのに、誰もが心の底から震えている。
 これは――魂の震えだ。
 絶対なる存在に対しての、無力なる人間の反応だ。
 神を眼前にした時、誰もがそれに跪く様に――
「………目標のSRMC値……検出が終了しました……」
 消え去りそうなオペレーターの声であった……場を沈黙が支配していなかったら、誰の耳にも届かなかっただろう。
「……報告して」
「………了解……退魔目標のSRMC値……」
 オペレーターの体は、もはや瘧の如く震えている。
「……ひ…ひゃ……百億っ!!!」
 世界は凍結した。
 そのくせ、戦慄と恐怖だけがぐつぐつと煮えたぎっていく……
「……母さぁん……」
 子供の如きかすみの呟きが、耳に届かない様に、
「……第1級緊急事態はこのまま続行……総員戦闘態勢のまま現状維持して……」
 普段と変わらない落ちついた声で、那由は静かに指示を出した。冷静なのは彼女だけ――の様に見える……が、
「……これほどのSRMC値を持つ存在とは……悪魔族の頂点に立つ魔界の支配者……『魔界大帝』が降臨したとしか考えられない……」
 その声には、誰にもわからぬ絶望の因子が含まれていた……
 沈黙に続いて、闇が世界を満たしていく。
「……母さん……世界が滅びちゃうの……?」
 答えは無い。
 それが答えだった。



――西暦200X年 5月○日 P.M.2:45――
《魔界大帝・降臨》




 空気が不味い……
 それが第1印象だ。
 余のいる周辺の大気が汚れているという訳ではない。この惑星――“地球”と言ったか――自体が腐りかけているのだろう……大地を我が物顔で這いつくばる人間どもによって。
 何と勿体無い事をするのか。これほど多種多様な生態系が築かれている星は、世界でも滅多に存在しないというのに……これでは自然保護区域に指定しても意味無いではないか。
 ……って、教科書に書いてあった筈だ。確か……

 ……ワイワイ……ガヤガヤ……ザワザワ……

 不味いだけではなかった。大気がうるさい。
 余がいる場所は、おそらく人間どもの集落の真ん中だろう。周りは石みたいな材質で建造された直方体の建築物が、天に届かんと建ち並び、目の前の平らな道を、人間が入った鉄の箱が騒音と共に走り抜けて行く。そして道を歩く人間の多さときたら……数える気にもなれない。
 まぁ、ここが人間が生活している集落なら、ある程度うるさいのは仕方ないだろう……
 
 ……ねぇちょっと……ガヤガヤ……なにアレ?……ヒソヒソ……
 
 ……が、いくらなんでもうるさ過ぎるぞコレは!?
「!?」
 気がつくと、余の周りを遠巻きに人間どもが取り囲んでいた。
 皆一様に小声で話しており、余の事を露骨に指差す者までいる。
 失礼な連中だ。いっそ真の姿に戻って脅かしてやろうかと思ったが、無用な騒ぎを起こさないために、わざわざ人間の姿に変化したのだからやめよう。
 すると、人間としての余の姿がヘンなのであろうか?
 見を纏う衣装は……問題無いはずだ。
 世界の黎明の時代。宇宙開闢の輝きから最も離れた空間にあった『深淵なる闇』を紡いで仕立てた最上の闇の衣だ。支配者だけが纏う事を許されたこの衣を見れば、平伏はされども、陰口を叩かれる事は無いはずだ。
 では、変身した身体そのものが、人間としておかしいのか?
 それも違うだろう。余が実行した変身術は『転写変身』と呼ばれる物だ。これは異なる種族に変身する場合、その種族の美的感覚の帳尻を合わせる様に自動的に変身後の姿を修正してくれるという、なかなか便利な術である。簡単に説明すれば、絶世の美女がこの術でカエルに変身すると、カエルの美的基準における絶世の美カエルに変身するのだ。カエルに美的感覚があればだが……
 とにかく、この術で変身する限り、異種族に変身する時にありがちな『本人は上手く変身したつもりでも、その種族から見ればヘン』という事態も防げるのだ。
 ………ん?
 ぶるっと震えがきた。
 ……という事は、以前の余の容姿に対する評価が、そのまま人間の姿にも当てはまるという事か!?
 その瞬間、余を取り囲む人間どもの――特に女の――瞳に、明らかに危険な輝きが宿っている事に気付いた……
 ま、まずいぞこれはっ!!
 余は早急にこの場から立ち去ろうと――

 ぐに。

 おうっ!?
 地面が高速で眼前に迫って来る!?

 びたー――ん!!!

 受身も取れずに、余は顔面から地面に突っ込んでいた。
 いいい痛いぞ!!
 思わず涙ぐんでしまう。
 どうやら、闇の衣の裾を踏んで転んでしまったらしい。見栄え重視の豪奢な衣装も考え物だ。もっと動きやすい服にすれば良かった……
 とりわけ痛む部分――“鼻”と言うらしい――を押さえて唸っていると、
「――ほらほら、大丈夫?立てる?」
 笑いを含んだ声と共に、目の前に手が差し出された。反射的にその手にすがって立ち上がる。
「いたた……うむ、かんしゃする」
 余の前に立つ人間は、一目で官憲のそれとわかる制服に身を包んだ女であった。この手の職業の制服は、なぜかあらゆる種族で共通する部分がある……らしい。
 なかなか整った顔立ちだ。年齢は25万歳ぐらいであろうか?
 ……いやいや、人間の寿命は我が種族の一万分の一だから、25歳ぐらいが正しかったな。
「どうしたのかなボク?ママとはぐれちゃったの?」
 かちん。
 失礼な奴だ。これでも余は12万歳。来年には中等部に進学する身だ。
 ……まぁ、大人とは言えないだろうが、少なくともボク呼ばわりされる年齢ではないと思うぞ!!……たぶん。
「ぶれいものめ!なをなのれ!!」
「はいはい。私は名も無き婦警さんよ。ボクのお名前はぁ?」
「……いだいなるあくまぞくのしはいしゃにして、まかいせいたいけいのちょうてんにたつぜったいそんざい……だい275308だいめ“魔界大帝”のなをつぎしもの……クリシュファルス・クリシュバルスとは、よのことなり!!」
 悪魔族の王者たる“魔界大帝”としての威厳を込めて、余は堂々と名乗った。普段なら、臣下達が一斉に平伏するところだが――
「はいはいはい。それじゃあ魔界大帝くんの保護者……あ、パパかママは何処にいるのかなぁ?」
 ……人の話を聞かない女だ。しかも、無礼な事に余の手を離そうとしない。
 ………それに………
「………ぱぱとまま……コホン……ちちじゃとははじゃは、もういないのだ……」
「???(こんな小さな子が、1人で街中に来たとは思えないし……迷子かしら?)……それじゃあね、お姉さんと交番でパパとママが来るのを待ってようか?」
 一人納得した様に頷くと、『ふけいさん』とやらは、無遠慮に余の手を取ったまま歩き始めた。
 ぬぬぬ!!さては魔界最高のVIPたる余を拉致しようというのか!?
「なにをするか!!はなせぶれいものめ!!よをだれとこころえる!!いだいなるまかいのしはいしゃ――」
「はいはいはいはい。ゴッコ遊びならお姉さんが付き合ってあげるから、良い子にしましょうね〜♪」
 余はずるずると引き摺られて行く。
 ぐぬぬぬぬ……悪魔族としての真の姿ならともかく、今の人間の姿ではまるで力が出ない!!
 とにかく、『ふけいさん』とやらの属する組織が何なのかわからないという状況では、このまま拉致される訳にはいかない。背後に神族や龍族が絡んでいたら、大変な事になってしまう!!
「はなせぇ!!」

 ぶんぶん……ばっ!!

「あっ!?」
 よし!!なんとか振りほどけたぞ!!
 すかさず余はその場から逃走……もとい、戦略的撤退を開始した。何人たりも目に追えぬ(と思う)まさに風の如き疾走だ!!……その時!!
「危ない!!!」
 ん?
 絹を裂くような声に振り返ると……

 キキキ―――――ッ!!!

 いきなり目の前に、人間の入った大きな鉄の箱が猛スピードで突撃してくる!!
 フン……先日、遠足で行ったべヒモス牧場で、赤い布に興奮したべヒモスの暴走に巻き込まれた時にも傷1つ負わなかった余の無敵の身体に、そんな鉄の箱の突進如きが通用する筈が無い!!このまま跳ね返してくれよう!!!
 ……って、今の余は人間の姿だったぁ!!!

 どっか〜〜〜ん!!!

 気付いた時にはもう遅かった。凄まじい衝撃と共に、世界がグルグルと高速回転を始めて――

 どんがらがっしゃ〜〜〜ん!!!

 2度目の衝撃が全身を襲って、キリモミ状にふっ飛んでいた余の身体はようやく停止した。
 ……あだだだだ……
 ふらつきながらも何とか立ち上がる。とても臣下達やクラスメートには見せられない姿だ……トホホ……
 世界の高速回転は収まったが、今度は世界が星と火花に包まれている。ぷるぷる頭を振って、火花と星々を追い払うと……
「……ここは……?」
 辺りの光景が一転していた。余がいるのは石造りの殺風景な部屋の中だった。やけに狭苦しく、汚らしい印象だ。
「……なぜこんなところに?」
 余がもたれかかっている壁の反対側、つまり余の正面には、扉すら無い出入り口がポッカリと口を開いている。あの鉄の箱に―――後に、それがトラックであると知った―――跳ね飛ばされた後、あそこからこの部屋に飛び込んだらしい……当初の予定とはだいぶ違ったが……とりあえず、あの場から撤退する事には成功したぞ。うん。
 それにしても……本当にここは何処なんだ?
 右側の壁には4枚の扉が並んでいる。扉は閉じられているので、その内部はここからは窺い知れない。そして、その反対側には……
「む、かがみか」
 丁度いい。この並んでいる鏡で、今の余の容姿を確認してみよう。何か非常に嫌な予感がするのだ。

 ぴょん、ぴょん……

 ――うぐぐぐぐ、鏡の位置が高くて、背が届かない……しかたないので、鏡の下にある奇妙なオブジェ――後に、それが洗面台だと知った――によじ登ってみると……
「……はぁ……」
 思わず溜息が出る。嫌な予感は見事に的中していた。
 前に述べた通り、今の余は人間の姿に変身している。したがって、美的感覚なども人間のそれと同じになるのだ。
 だからわかる。今の余の容貌が、絶世のロリータ美少年である事が……
「……これでは、ひつよういじょうにこどもあつかいされてもしかたないな……なさけない……」
 しかも、『転写変身』でこの姿に変身したという事は、悪魔の際の姿でも、悪魔の美的感覚において、絶世のロリータ美少年であるという事なのだ。
「しろのうばたちが『カワイイカワイイ』とよをかわいがろうとするのも、このためか……」
 悪魔の姿の時から、女顔の幼児体型だと思ってはいたが、こうして人間の姿になって客観視して見ると、自分がいかに保護欲をそそる容姿であるかがよくわかる。美形と言えば聞こえはいいが、偉大なる悪魔族の支配者としては大いに問題だろう……
 もう一度、余は溜息をついた。
「はぁ……せめて、としそうおうにはせいちょうしたいものだ……」
「そんな事はないわよぉ。キミって可愛くってプニプニで最高よぉ!!」
 背後から響く異様に艶っぽい声に、余は愕然と振り返った。
 目の前に30万歳……いや、30歳ぐらいの派手な格好の女がいた。それなりに美人だと言えるが、厚化粧の匂いがむっと鼻を刺し、余の顔を歪ませる。
「おぬし、なにものだ!!」
「アタシは名も無き美人ホステスさんよン」
「その『なもなきびじんほすてすさん』とやらが、ここでなにをしている!!」
「何って……ここは公園の女子トイレよン。キミこそなんでここにいるのぉ?」
「…………」
 ……何も言い返せない。
「うふふん♪……おマセさんねぇ」

 さわさわさわ……

「!?!?」
 そして、女がゆっくりと余の身体を弄り始めた……って、おい!?
「ななななななにをするっ!?」
「うふふふん♪誤魔化さなくてもいいのよぉ……でも、女子トイレを覗こうとするなんて、マニアックな子ねぇ……いいわン、アタシがお・し・え・て・あ・げ・る♪」
 だ〜〜〜!!!違う違う違う!!何考えているのだこの女は!!さては淫魔の血でも引いて――

 さわさわさわさわ……

「はうぅぅん!!」
 女の手が微妙な所を撫で回し、余はあられもない嬌声をあげた……
 ……あわわわわわ!!本格的にやばいぞ!!!
 必死になって余は抵抗したが、見た目以上に女の腕力は強く――いや、今の余が外見相応の力しか出せないのか――余の身体は成す術も無く蹂躙されつつあった。
「うふふふふン♪カワイイわぁ……」

 ぺろり……

 ぞくぞくぞく〜〜〜!!!

「あふぅぅぅん!!」
 首元を蛭のような舌が嘗め回して、余の口から瀕死の女みたいな声が洩れる。事実、今の余は限りなくそれに近かった。
 あああああ……このまま余はこの女に陵辱されてしまうのか……(もう半分されているが)……悪魔族の頂点たるこの余が……
 ……ん?
 そうだ!!変身を解除して、悪魔族の力を発揮すれば良かったのだ!!気が動転して思いつかなかった。

 バシュシュシュシュシュシュ!!!

 突然、余の身体から漆黒の光が溢れ出して、女は慌てて余から体を引き離した。
「なななななによぉ!?」
 漆黒の光は余の身体を瞬時に覆い隠し、そして次の瞬間!!

 バシュゥゥゥゥゥン!!!

 弾けるように漆黒の光は消滅して、再び余の身体を開放した。
 今の余の姿は、先程までとほとんど変化は無い。しかし、頭部には悪魔族特有の捻れた角が――それも、王者の証したる6本角だ――堂々と生え揃い、背中からは漆黒の翼が天駆けようと羽ばたいている。
 本当は、完全な悪魔の姿に戻りたかったのだが、そうするとこの女が発狂してしまう恐れがあるので、やむを得ずほんの1億分の1だけ戻る事にした。それに、完全に元の力を取り戻すと、神族や龍族の連中に気付かれる恐れがあるのだ。
「……………」
 女は茫然自失している。まぁ、無理も無いだろう。
 今がチャンスだ!!暗黒の翼を羽ばたかせて、余は風の様に女子トイレから脱出した。
 人間とほとんど変わらない今の姿でも、本来の力には程遠いが、ほんの少しだけは悪魔族の力を発揮できるのだ。
 振り返りもせずに、余はあの場からできるだけ離れようと、青い空を飛んで行く。
 ううう……酷い目にあった……
「―――イヤ〜〜〜ン!!コスプレした姿もカワイイ〜〜〜!!!」
 ……遥かな下界で砂粒よりも小さく見える女子トイレから、紛れも無いあの女の叫びが耳に飛び込んで来て、余はもっともっと遠くに離れようと、翼を大きく羽ばたかせた……
--続--        

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