「――はぁ……」

 もう何度目かわからない溜息が、余の口から洩れていく。
 人間の集落から少し離れた、比較的自然が残っている丘の巨木の枝の上に、余はしょんぼりと腰掛けていた。
 あれから散々だった。
 空を飛んでいたら巨大な鉄の鳥に轢かれるわ、落下した学校で小生意気な子供―――余とあまり外見年齢は変わらなかったが―――に変人扱いされて石を投げられるわ、犬に追われるわ、etc,etc……やっとの思いで人気の無い所を見つけ出し、こうして一息ついているのだった。
 でも……
「……1人、か……」

 青い空――
 白い雲――
 緑の大地――
 透明な陽光――
 全てが、余の馴染んでいた世界と違う。
 この世界にとって、自分が異端者である事をイヤと言うほど思い知らされる。
「はぁ……」

 『孤独』

 真の意味でこれを味わうのは、もしかすると生まれて初めてかもしれない。
 余が誕生したのとほぼ同時に、父者と母者は御隠れになり、余は唯一の魔界正統王家の継承者として、必要以上に大事に育てられてきた。
 その過保護ぶりに嫌気が差す日々であったが、こうして自由を手に入れてみると、早くも『1人でいる事』に押し潰されそうになっている。
 自由とは、孤独と同義なのであろうか……
「………うぅ……」
 偉大なる悪魔族の支配者“魔界大帝”だと粋がってみても、所詮その中身は孤独に怯える子供というわけか……もう、自嘲する気にもなれない……

 ひゅぅぅぅぅ……
 空っ風が、しな垂れた黒い翼を虚しく揺り動かす。

「……ううぅ……」
 自分の周りに、見えない壁ができたような気がする。頭の奥にツーンとした感覚が走り、固く熱く重いものが、鳩尾の辺りで蠢いた。
「うううぅぅ……ひっく……」
 ―――このまま僕は、誰にもわからないまま世界から消えてしまうんじゃないかな――

 すっ……
 眼の下を細くやさしい指がそっと拭った。
 そのままぎゅっと抱きしめられる。
 やわらかな胸の中で嗚咽しながら、僕は干したてのシーツのような香りに包まれて――

「………って、だれだおまえはぁ!!!」
 余は慌てて身を引き剥がした。
 爽やかな涼風が、木々の枝葉をやさしく揺り動かす。
 ややタレ気味の慈愛に満ちた瞳が、余を見つめていた。
 腰まで届く金色の髪は、それ自身が光を放っているかの様な輝きだ。
 藍と白を基調とした独特の服装――後に、それがメイド服と呼ばれる物だと知った――がよく似合っている。
 歳は20万……20歳前後であろうか、人間の女にしてはやや大柄だが、プロポーションは非の打ち所の無い見事さだ。
 と、とくに……おっぱいが大きいぞ……
「な、な、なにものだおぬしはぁ!!なをなのれ!!」
 余はおもいっきり動揺していた。恥ずかしい所を見られた所為もあるが、その人間は時を忘れて見惚れてしまうぐらい、美しい女だったのである。この地に降臨してから見てきた人間たちの中でも、最高の美しさだと断言できるだろう。もちろん、人間の美的感覚でだ。
 女はにっこりと微笑んだ。
「私はセリナ……セリナが私の名前です」
 いかなる悪意も感じさせない、童女の様な純粋な笑みだった。
 自分でも情けないくらい動揺する余に、
「貴方様のお名前もお聞かせ下さいますか?……です」
 初対面にも関わらず、友人知人とでも話すような口調で女が語り掛ける。
 落ち着け落ち着け……余は2・3回こっそりと深呼吸した。名乗られたら名乗り返すのが礼儀だろう。ここでとちったら格好悪いぞ……
「……まかいのぜったいなるしはいしゃにして、いだいなるあくまぞくのちょうてんたる“魔界大帝”のなをつぎしもの……われこそがクリシュファルス・クリシュバルスなり!!」
 なんとか上手く名乗れたと思うが……正直、余は不安であった。
 この惑星に降臨してから、今まで何十回も人間たちに名乗りを上げたが、誰もまともに取り合ってくれなかったのだ。今回もまた馬鹿にされるのだろうか……
「……あのぅ……大変申し訳ありません。私はおバカなので、おっしゃる意味が全然わからないのです……」
 ずるっ……
 余は枝からずり落ちそうになった。
 この返答は予想してなかったぞ……
「……だからな、いだいなるまかいの――」
「“まかい”って何なのでしょうか?……あ、食べ物の名前ですか?」
 ずるずるっ……
「きっと美味しいのでしょうねぇ……私は甘党なので、甘いと嬉しいです」
 なんだ、この女は……
「たべものではない!!……まかいとは、おぬしたちがそんざいするせかいにとって、へいこうじげんにそんざいするせかいのことだ……きょうかしょにかいてあったからまちがいない……」
 女――セリナと言ったか――は、きょとんとした表情で首を傾げた。
「……えぇと……えぇぇと……あ、わかりましたです!!つまり、“まかい”は外国なんですね!!すごいですねぇ……私は外国に行った事が無いので、とってもすごいと思いますです!!」
 ……何が凄いのだろう……って、それ以前に魔界を間違って理解していないか?
「外人さんだから、頭にツノや背中にハネが生えているのですね……納得です」
 セリナは瞳を輝かせて、意味無くぱちぱちと拍手をした。いや、自分にとっては意味にある行為なのだろう。
「……もう、それでいいよ……」
 もう、訂正する気にもなれない……
「……では、続きをお願いしますです」
「………は?」
「あ、説明不足でした。大変申し訳ありません……自己紹介の説明の続きをお願いしますです」
 深々とセリナはお辞儀した。思わず余もつられてお辞儀してしまう。

 ――いつの間にか、余はセリナのペースにはまっていた――

「つづけるぞ……あくまぞくのちょうてんたる――」
「……悪魔族?……外人さんは悪魔さんだったのですか。でも、悪魔さんは悪魔だから悪魔みたいに悪魔的な事をする悪魔な悪魔さんなのでしょうか?です……」
「はぁ……それはちがうのだ……」
 思わず溜息が出る。
 この地球と呼ばれる惑星は、我が悪魔族、神族、龍族、鬼族の間に結ばれた条約によって、『自然保護区域』に指定されている。あそこまで多種多様な生態系が確立されている環境というのは、あらゆる世界において極めて稀な存在らしい。
 そして、その独自の自然環境に外部からの影響を与えないために、『自然保護区域』に対する干渉はあらゆる種族において禁止されているのだ。
 まぁ、簡潔に言えば『悪魔族、神族、龍族、鬼族は、地球に来ちゃダメ』という条約なのである。
 ところが……神族や龍族の、
 『自分達よりも下等な種族に対して、文字通り神様気分を味わいたい』
 という、性根の腐りきった連中や、
 『貴重な地球産の“魂”を入手したい』
 という、悪魔族と鬼族の密猟者などが、法の目を掻い潜って地球に来るというケースが、ここ数万年前から多発しているのだ。
 そんな連中が好き放題に地球で暴れ回った痕跡が、人間達の間に『神話』という形で残っているのだろう。
 しかし……神様気取りの連中はともかく、おかげで悪魔族は完全に人間達から『邪悪の化身』として認知されているらしい……密猟者どもが邪悪なのは当然だが、あんな腐った連中は、悪魔族の中でも極めて少数派だ!!
 元々悪魔族は、礼儀正しく義理人情に厚い、温厚な種族なのだぞ!!外面ばかり気にする神族や、プライドが高いだけの龍族や、粗暴な鬼族の奴等よりも、よっぽどマトモだと思うぞ!!
 挙句の果てに、我等の種族名は人間の言語では『“悪”魔』などと訳される始末……本当の種族名は人間には発音できないから、仕方なく使ってはいるが……納得いかんぞ……ぶつぶつ……
 ……ん?
 いかんいかん、話が脱線してしまった。あの女に説明しなくては……
「……あくまといっても、ほんとうにわるいことをするものはすこしだけだ。よをはじめとするたいはんのあくまたちは、みなぜんにんばかりだぞ」
 ……あの女に合わせた、実にわかりやすい噛み砕いた説明だと思うが……我が種族に対する数万年に及ぶ偏見は、そう簡単に拭い去れる物ではないだろう……正直、人間には信じてもらえないだろうな……
 ――なぜか余は、その事に一抹の寂しさを覚えていた……ところが、
「申し訳ありませんです……」
 いきなりセリナは、器用にも木の枝の上で土下座した……って、おい!?
「な、なんだぁ!?」
「私はおバカなので、たいへん失礼な事を言ってしまいましたです……どうかお許しを……です……」
 そのまま額を枝に擦り付け始めたりもする。
「い、いや、べつにしつれいなことはいっていないとおもうぞ……あたまをあげてくれ……」
 余は先程以上に慌てた。信じてくれたのは嬉しいが、ここまで自分の発言に責任を感じる必要は無いと思うぞ……
「……お許しを戴けるのですね……ありがとうございますです!!」
 ぱっと面を上げるセリナ。その顔に満面の笑みが浮かんで……

 きゅうううううん!!!

「――!!?」
 ななななんだっ!?
 その時!!余の身体に急激な変調が訪れた!!
 セリナの笑顔を見た瞬間、胸の辺りにぎゅっと締めつけられるような感覚が走ったのだ!!顔面の温度が急上昇しているのがはっきりと理解できる。心拍数と脈拍数も急上昇だ。激発性の心臓疾患か!?
 ううう……人間の体の事はよくわからないので、自分の身体に何が起こったのか理解できない……
「……あのぅ……大丈夫ですか?」
 きょとんとして首を傾けるセリナに、
「な、な、な、なんでもない!!はなしをつづけるぞ!!“魔界大帝”とは、まかいでいちばんえらいおうさまのことなのだ!!」
 余はなぜかドギマギして、強引に話を進めた。
「まぁ!!外国の王様なのですか!!」
 セリナはタレ目をキラキラと輝かせた……が、
「それはとってもスゴイです!!……く…く……く……ええと……」
 急に語尾が小さくなって、
「……あのぅ……大変申し訳ありません。私はおバカなので、“まかいたいてい”さんのお名前を忘れてしまいましたです……」
 再び、頭を枝に擦り付けた……って、いちいち土下座しなくていいって!!
「たのむから、あたまをあげてくれ!!……では、もういちどいうぞ。よのなまえは“クリシュファルス・クリシュバルス”である」
「……く、くり……くり……?」
「“クリシュファルス・クリシュバルス”だ」
 まぁ、自分でも長い名前だと思うから、すぐには覚えられないだろう。
「……くり……くり……クリ……はうぅ……」
「……“クリシュファルス・クリシュバルス”だってば……」
 ひょっとして、2文字以上覚えられないのか?
「…くり……くりっ……くっ……くっくっく……クリック?くるる?」
「………“クリシュファルス・クリシュバルス”……」
 ……自分で言う通り、この女は少しおバカかもしれない……
「……ようこそここ〜へ〜くっくくっく……」
 なんだそれは……
「……あのぅ……大変申し訳ありません。私はおバカなので“クリ”までしか覚えられませんです……」
 ずるずるずるっ……
 余はまた枝からずり落ちそうになった。
 ホントに2文字までしか覚えられなかったのか……
「ここはひとつ、『クリちゃん』という事で妥協していただけませんか?……です」
「だ、だきょうって……あのな……」
「ダメですか?……くすん……です……」
「……せめて、『クリさん』にしてくれ……」
 『クリちゃん』は、少しエッチな気がする。余はまだ12万歳なのでよくわからないが……
「はい!!です!!」
 セリナは再び破顔した。例によって、余の胸がきゅぅううんとなる。ぬぬぬ……近い内に治療師の元に行かねば……
「では、改めまして……です……」
 今度は、枝の上でセリナは正座した。妙にバランス感覚はいいのだな……
「クリさん始めまして。今後ともよろしくお願いします……です」
 三つ指を揃えて、深々とセリナはお辞儀する。
「う、うむ……こちらこそはじめまして。セリナさん……」
 反射的に、余も三つ指でお辞儀してしまう……ん?

 その瞬間、余は気付いた。
 初対面にもかかわらず、この得体の知れない女に対して何の警戒もせずに、平然と会話している事に……
 これはどういう事だ?

「……セリナよ、おぬしはなにものだ!?」
 余はこっそりと『嘘感知』の魔法を使った。セリナに探りを入れるためだ。
 正直、セリナに対して邪推はしたくないが、彼女が神族か龍族の手先である可能性は否定できない。余がこの状況を平然と受け入れたのも、何らかの仕掛があったのかもしれないのだ。
「私はセリナです」
「いや、そうじゃなくて……」
「???……それでは、私はセリナではないのでしょうか?……です」
「い、いや、だから……」
「私がセリナでないのなら、私は何なのでしょうか?……です」
「あのねぇ……」
「私は甘党なので、甘い物だと嬉しいです」
「だからぁ……」
「そうですねぇ……これから私は『ようかん』になる事にしますです」
「…………」
「甘くてモチモチしていて、とっても美味しいんです。私はクリさんが入っているようかんが好きです」
 ……質問の仕方が悪かったようだ。
「セリナよ、おぬしの……」
「私は『ようかん』ですよ」
「……なまえを『セリナ』にもどしてくれぬか?」
「はいです」
「……セリナよ、おぬしのしょくぎょうはなんなのだ?」
「私の職業は『メイド』です」
 メイド?……確か、使用人の事だったな……
「あのお屋敷に、住み込みで働かせてもらっています……です」
 セリナが指差す方向の遥か先には、一軒の屋敷の遠影が丘の上にぽつんと佇んでいた。
 さすがに余の住む居城とは比べ物にもならないが、人間の住む屋敷としては、相当大きな部類に入るだろう。
 もしかすると、この自然が残されている一帯は、あの屋敷の敷地内なのかもしれん。
 『嘘感知』の魔法は……反応しない。
 どうやら、本当にただのメイドらしいな。
 だが……それならそれで、新たな疑問が浮上する。
「……ではきくが、そのただのめいどが、なぜよにせっしょくしてきたのだ?」
 そのものズバリを、単刀直入に聞いてみた。この女に遠回しな言い方は通用しない事が、だんだんわかってきた……
「せっしょく?触ることですか?私は触ることも触られることも大好きです。とっても難しい言葉で言うと“こみゅにけーしょんのいっかん”なんだそうですね♪」
「……そうではない。なぜセリナはよにちかづいてきたのだ?」
 セリナは頬に片手を当てて、少し困った表情を浮かべた。そのさり気無い仕草に、余の胸は再び早鐘と化してしまう……むうう、本当にどうしてしまったのだ?余の身体は……
「……あのぅ……お買い物の帰りにですね、この木のそばを通りかかった時にですね、男の子の鳴き声が聞こえてきたんですよ。それで、木の上に一生懸命登ってみましたです。そして、私は泣いている男の子に、クリさんに出会いましたです……」
 緑の葉の間から木漏れ日が差し込み、セリナの髪に黄金の輝きが宿る。宝石を纏ったような美しさだ。
「……寂しそうに泣いているクリさんを見ていると、私も悲しくなってきたのです。とてもとても悲しくなって、でも、とてもとても優しい気持ちにもなって……気がついたら私はクリさんを抱き締めていましたです……なぜ、私は失礼にも無断でクリさんを抱き締めたのでしょうか?……私はおバカなので、うまく自分のやった事を説明できませんです……」
 ……余は、無言で『嘘感知』の魔法を解除した。
 こんな魔法を使った自分が恥ずかしかった。
 この女は―――セリナは、何の打算も欲望も無く、何の策謀も優越感も無く、純粋な慈悲の心……“やさしさ”だけで、余を慰めてくれたのだ。
「……すまぬ、じゃすいをしてしまった。いまのといかけはわすれてくれ……」
「……よくわかりませんですが……はいです。忘れますです」
 セリナはにっこりと微笑んだ。
 こんなに優しくて暖かな笑みを浮かべる事ができるなんて……
 余は、ますます恥ずかしくなった。
 何だか変な気持ちになってきたではないか……

 くきゅるるるるる……

 その時、感傷に浸っていた余の腹の中から、緊張感の無い音が響いてきた。
 なんだこりゃ?これはどんな生理現象なのだ?
「……あのぅ……クリさんはお腹が空いたのですか?」
 少し控えめな感じで、セリナが尋ねてきた。
 そういえば、腹の中がせつない気がする。これが人間の身体における『空腹感』か。悪魔族のものとはだいぶ違う感覚だな。
「……たぶん、そうであろう……と思う」
 セリナはぱっと破顔した。
 どきん!!
 ううう……余はなぜ、セリナの笑みから目を離せないのか……
「さっき買い物に行った時にですね、私の食べ物も買ってきたのです。宜しければ、クリさんもいかがでしょうか?です」
 ふむ、人間の食べ物か。話のタネに食べてみるのも一興だな。
 ……それに、この地に来てから何も口にしていないし……
「そうだな、いただくとしよう」
「はいです♪」
 なぜか嬉しそうに答えると、セリナは懐から奇妙な物体を取り出した。
 金属製の筒のような物体だ。高さは15cm。円筒の太さは8cmぐらいだろう。側面には奇妙な絵と文字が描かれている。
「これはなんなのだ?」
「ドックフードです」

 ひゅうううう……

 ……その時吹いた風は、なぜか妙に冷たかった気がした。
「どっくふーど?……にんげんは、こんなにかたいものをたべるのか?」
「あ、違いますです」
 セリナは奇妙な金属片を取り出すと、“どっくふーど”に当てて、それをキコキコ開けていく。
「はいです」
 手渡された“どっくふーど”は、円筒の上部が開かれて、内部から赤茶色のペースト状の物質を覗かせていた。
 なるほど。このペーストが“どっくふーど”の本体で、金属の筒は容器だったのか。なかなか効率的な食べ物だな。
「それでは、いただきますです」
 深々とお辞儀して、セリナは“どっくふーど”を食べ始めた。
 ふむふむ、手掴みで食べるのか。
「うむ……いただきます」
 指でペーストを少しすくってみる。ねとねとで油っこく、正直、あまり美味そうには見えないが……セリナは美味しそうに食べているので、少なくとも人体に悪影響を及ぼす事は無いのだろう。勇気を出して、指をくわえてみた――

 ゴゴゴゴゴ……

 ……こ……これは………

 ピキ―――ン!!!

 美味いぞおおおおお!!!

 ざっぱ〜〜〜ん!!!

 な、なんだ!?今の波の音は!?
 しかし……美味い!!まったりとしていてコクがあり、それでいて少しもしつこくない……魔界大帝として美食には慣れているつもりだが、こんな美味い食べ物は初めてだ!!
「くすくす……そんなに慌てて食べなくても大丈夫ですよ。まだたくさんありますから……です」
 可笑しそうに笑いながら、セリナは懐から幾つもの“どっくふーど”を取り出していく。
 うぐっ……そんなに余は意地汚く食べていたのか?いかんいかん、反省しなくては……
 ……しかし……
「おぬしはいつもこんなものをたべているのか?」
「はいです。私はドックフードしか食べてはいけないんです」
 ほう、普段からこんな美味いものを食しているとは、中々に裕福な生活を送っているのかもしれんな。
「それと……そんなにたくさんのどっくふーどを、どこにしにばせていたのだ?」
 枝の上に並べられていく“どっくふーど”の数は、10や20では済まないぞ……
「色々な所に、分けて持ってますです。メイド服には、たくさんポケットがあるんですよ」
 ……それでも、物理的に不可能な気がする。
「おいしいですね」
 ……でも、セリナの嬉しそうな微笑みを見ていると、
「うむ……」
 そんな事は、どうでもいい気がしてきた。

「………」
「………」
 しばらくの間、余とセリナは無言で“どっくふーど”を食べていた。
 場が気まずい訳でも、話題が途切れた訳でもない。
 言葉などいらなかった。
 静寂が心地良かった。
 青い空――
 白い雲――
 緑の大地――
 透明な日差し――
 つい先程まで、余に違和感を与えていた光景が、この上なく美しく感じられた。
 そう……
 
 ………セリナが傍にいる事が、たまらなくうれしかった………

 ………そして………

「……セリナよ……」
 ぽつり、と余は呟いた。
「はいです?」
「はなしをきいてくれぬか……」

 ――なぜ、こんな話を始めたのか、自分でもわからない。
 ただ、余はセリナに伝えたかったのだ。
 心の奥深くに閉じ込めていた、偽ざる自分の思いを――

 余は、ぽつりぽつりと語り出した。
 セリナは、無言で聞いてくれた。
 生まれた時から、有無を言わさず“魔界大帝”として育てられた事――
 周りの者は、みな臣下であり、支配すべき民であり、余の足元に平伏す存在であった事――
 家族、友人……余と対等の位置で接してくれる者は、誰もいなかった事――
 そんな日々が、耐えられないくらい苦痛だった事――
 ある日、学校での『転移魔法』の授業の際、わざと魔力を暴走させて、事故に見せかけて魔界から『逃げ出した』事――
 そして、あれほど渇望した“自由”を手に入れてみたら、今度は孤独に押し潰されそうになっている事――

 ――どれほどの時間が経過したのか。
 いつの間にか、空は紅く染まっていた。
「……こんななさけないぼくに、魔界大帝とよばれるしかくはあるのかな……ううん……そうじゃなくて……こんなつらいおもいをしてまで、ぼくは魔界大帝としていきなければならないのかな……」
 まるで赤子のように、僕はセリナに抱擁されていた。
 嗚咽する僕の髪を、セリナはやさしく撫でていてくれたが……
「……クリさん、いいものを見てみませんか?……です」
「……え?」
 すくっ、とセリナは立ち上がって、
「場所を変えましょうです」
 僕の手を取り、さらに木の高みへと登ろうとする。
「どこにいくの?」
「登ってからのお楽しみですよ」
 セリナに微笑まれると、僕は何も言えなくなる。
 涙を拭いながら、僕はセリナの後に続いて木の幹を登り始めた……


 息を呑む。
 紅と金のコントラストが、静かなる怒涛となって僕とセリナを飲み込んでいた。
 紅い空――
 赤い雲――
 黄金の大地――
 白金の日差し――
 大木の頂上に辿り着いた僕とセリナを迎えたのは、地平線に沈む太陽の――黄昏の輝きだった。
 山の端に夕陽が沈んでいくのが、はっきりと見えた。あの色が山の緑を染めて、夕陽は半ばまでその陰に隠れても、真紅の輝きを失っていない……
 360°視界を遮る物は何も無かった。
 360°紅の光に包まれて。
 360°全てが美しかった。
 ただ、ひたすら美しい……
 かつて無い感動が、僕の心を満たしていた。
「………すごい……」
「綺麗ですか?」
「うん……」
「これを見て、良かったと思いますですか?」
「うん……」
「それなら大丈夫です。クリさんは今まで生きていた意味がありますし、これから生きる事ができますです」
 僕は、はっとして隣に並ぶセリナを見た。
 再び、息を呑む。
 真紅の輝きに彩られているセリナ……それは周りの美しさも忘れるくらい、本当に、本当に綺麗だった……
「……私はおバカなので、うまく言えませんですが……」
 セリナの紅い手が、そっと僕の手に添えられた。それだけで、僕の顔は夕陽に負けないくらい真っ赤になってしまう。
 しかし……そんなセリナの手は……震えていた……
「生きるって事は、必ず苦しい事や悲しい事を経験するものだと思うのです。それは、絶対に避けられない事だと思うのです……誰もが生きている限り、今までに苦しいなって感じた事があって、これから悲しいなって思う事があるんです……生きるという事は、たとえ魔界の王様でも私みたいなメイドでも、本当にくじけそうなくらい、苦しくって悲しいんです……」
「…………」
 髪を揺らす風は冷たかった。
 僕は何も言えなかった……
 言葉の内容も衝撃だったけど、それ以上にセリナの口調が僕を動揺させていた。
 まるで、自分に言い聞かせるような口調だったんだ。
 ――セリナも、やっぱり僕と同じなの?
 ――生きる事が、辛くて、苦しくて、悲しいの?
「……でも、です……」
 でも……
「……一回だけでいいんです……」
 僕に向けたセリナの顔は……
「でも……たった一回でいいんです。一回だけでも心の底から『嬉しいな』『綺麗だな』『楽しいな』って感じる事ができれば、それだけで今まで生きていた意味があるんです……そして、その思い出を胸に、これから生きていく事ができるんです……私は、そう思いますです!!」
 最高の笑みを浮かべていたんだ!!

 僕の心は、今までで最大の衝撃を受けていた。
 ……そんな考え方も、あったんだ。
 あまりにも簡単で―――でも、簡単だからこそ、誰もが見失っている事実……
 胸の中で、何か重く冷たい物が消えるのを、僕は確かに感じた……

「今、私はとっても幸せですよ。クリさんとお会いできて、クリさんとお食事できて、クリさんとお喋りできて……」
 満面の笑みを浮かべる、紅のセリナに、
「ぼくも……いや、よもそうおもう……ありがとう。セリナ……よにいきるいみをあたえてくれて……」
 同じく、紅に染まった余が笑いかけた。
 真紅の世界が、ますます輝いて見える気がする。
「そんな大げさな事では無いですよ〜!!当たり前の事を言っただけですから……私はおバカなので、当たり前の事しか言えないんです」

 そんな事は無いぞ。
 今の言葉で、余は勇気付けられた。
 この夕焼けの光景と……
 セリナとの思い出があれば……
 余は、魔界大帝の銘の重みに耐える事ができるだろう。
 孤独の重みに耐える事ができるだろう。
 そうだ。
 今なら胸を張って、この立場を受け入れる事ができる。
 余は“魔界大帝”クリシュファルス・クリシュバルス!!
 偉大なる魔界の支配者にして、悪魔族の頂点に立つ存在なのだ!!

「すごいな、セリナは……」
 実に晴れ晴れとした気分で、余はセリナに語りかけた。
 余は本気で感心していた。
 始めは正体不明のヘンな女だと思ったけど、僅かな時間の触れ合いだけで、余の12万年に及ぶ悩みを吹き飛ばしてしまったのだ。
「そ、そんな事は無いですよ〜!!大げさ過ぎますです〜!!」
 セリナの顔が赤いのは、夕陽に照らされているだけでは無いと思う。
 どうやら、誉められる事に慣れていないのだろう。 
 両手を振りながら、顔を真っ赤にしてあたふたする姿は、本当に可愛らしい。
 そんな姿を見せられたら……
「いや、ほんとうにすごいぞ。セリナはめいかうんせらーだ。セリナはききじょうずで、セリナははなしじょうずだ」
「ややややめてくださいですよ〜!!恥ずかしいです〜!!」
 ……ますます、からかいたくなるではないか。
「セリナはかしこい。セリナはえらい。セリナはかっこいい。セリナはびじん――」
「あうあうあう……照れちゃいますです〜!!もう勘弁してくださいです〜!!」
 ぽかぽかぽかぽか!!
 こらこら、照れるのはいいが余を叩くでない……って、こんな所でそんなに暴れたら――
 ずるっ!!
「――!!」
「きゃあっ!!です!!」
 言わんこっちゃ無い。足を滑らせたセリナは、瞬く間に木の上から落下した!!
 かなりの高さだ。落ちたらただでは済まないだろう……余は黒き翼を広げて、すかさずセリナを追いかけた!!
 5mほど落下した所でセリナに追い付いて、余はメイド服の襟元を掴んだ。

 がくん!!

 よし、落下スピードは落ちた……が、このままでは安定が悪い……
「よにつかまるのだ!!セリナ!!」
「はいっ!!です!!」
 がしぃ!!
 ――って、翼にしがみつくなぁ!!!
 ひゅるるるるるるるる……
 余とセリナは、成す術も無くキリモミ状に自由落下して――!!

 ざっぱ〜〜〜ん!!!

 がばごぼげべ!!

 ぶくぶくぶくぶく……

 ぷはっ!!
 
「ごほっごほっ!!――ううう……これはどういうことだ!?」
 肩まで水に浸かった状態で、余は辺りを見渡した。
 ……なるほど、藪に覆われていてわからなかったが、あの大木のすぐ傍には、小さいながらもちゃんとした池があったのだ。余とセリナは、そこに落下したのである。
 おかげで助かった。あの高さから地面に叩き付けられていたら、余はともかくセリナは――
「――って、セリナは!?」
 慌てて池を見回すと――
 ……いた。
 うつ伏せになって、池にぷかーっと浮かぶセリナ……どこかシュールな姿だ……って、大変だ!!
「セリナ!!だいじょうぶか!?いきているならへんじをするのだ!!」
 何とか沼から引き摺り上げると、気絶しているセリナの頭を抱きかかえて、ぺしぺしと頬を叩く。
「……あうう……こほこほ……あ…おはようございますです……今日も元気でご飯が美味しいです……」
 しばらくして、けほけほと咳き込みながら、セリナは覚醒した。
 よかった。ボケたセリフを言えるのだから無事なようだ。
 ……普通は逆な気がするが、セリナの場合はこれが正しいと思う。
 しかし……
「あうあう……ドロドロです……」
 確かに……余とセリナは全身泥まみれになっていた。落ちた所は、池よりは沼と言った方が正しかったか……
「むむぅ……どこか、みをきよめられるところはないか?」
「“みをきよめられる”って何でしょうか?……です」
「……からだをあらえるところはないか?」
「そうですね……」
 例によって、頬に片手を当てて首を傾げるセリナ……すこし、困った風にも見える。
「……あ、今ならお屋敷のお風呂が使えると思いますです」
「おやしき?……セリナがすみこみではたらいているという、あのやしきのことか?」
「はいです……でも、ホントは許可無くお風呂に入ってはいけないのですが……」
 そう言われても……こんな泥だらけでは気持ち悪いし、もう夜も近いから、余はともかくセリナが風邪をひく恐れがあるぞ。
「ひじょうじたいだ。やむをえん」
「そうですね……では、私はちょっとだけ悪い子になりますです」
 チロッと可愛い舌を出して、微笑むセリナ……
 ずきゅううううん!!!
 ううう……余にとって、セリナの笑顔は健康に悪いかもしれない……でも目が離せない……
「では、案内致しますです……」
 セリナは手を差し出した。
 ごく自然に、余はその手を取った。
 余とセリナはお互いの手で繋がって、屋敷へと並んで歩いていく。
 夕闇に浮かぶセリナのシルエットは、やっぱり美しかった……
「あうあう……歩くと泥がヌルヌルで気持ち悪いです……」
 ……それさえ無ければな……
--続--        

Back
小説インデックスへ