きりきり きりきり

 きりきり きりきり


 私はこの音が好き

 義手の関節が軋む音

 私の『機械』が奏でる音


 きりきり きりきり

 きりきり きりきり


 部下や上司は「不良品だ」と言う

 私も不良品だと思う

 少しの調整で直す事ができるけど

 でも

 私はこの音が好き


 きりきり きりきり

 きりきり きりきり


 戦場で物音を立てるのは致命的だ

 軍人としては問題かもしれない

 もっと機能的な義手に替える事もできるけど

 でも

 私はこの音が好き


 きりきり きりきり

 きりきり きりきり


 私はこの音が好き

 自分が不良品である事を

 自分が致命的である事を

 自分が『機械』である事を

 思い知らせてくれるから……





「――それでは、本題に入る」

 薄暗い部屋。
 12本の円柱が周囲を囲んでいる。
 招かれた者に威圧感を与えるように、計算されて設計された部屋。
 正面の円柱が語り掛ける。

「ここ最近、我々神族を始めとする高位存在の間で流れている噂は、君も承知していると思うが……」
「承知しておりません」

 舌打ちの音が聞こえた。
 この位置からは見えないけど、正面の柱上に鎮座するのは、確か生命神の長のはず。

「現“魔界大帝”クリシュファルス・クリシュバルス殿が行方不明になっている。という噂ですよ」

 右柱上の情報神の長が説明を受ける。どこか苦笑気味の声。

「我が情報部の調査の結果、その魔界大帝の所在が明らかとなったのです」

 目の前にスクリーンが浮かび上がる。第3次元の宇宙地図。拡大。拡大。拡大……地球と呼ばれる惑星が表示される。

「この惑星“地球”に魔界大帝がいます」
「それも、何の軍事力も持たずに単身で、よ……」

 今の声は、左斜め後ろの時空神の長の声。

「この件が、どれだけ重要な意味を持つかわかるか?」
「わかりません」
「……悪魔族最高の重要人物が、全くの無防備状態でいるのだ。悪魔族の連中に決定打を与える千載一遇のチャンスだとは思わんか?」
「この機に魔界大帝を殺すのですか?」
「……不謹慎な発言は控えたまえ。それでは悪魔族との全面抗争は必至だ」

 私たち神族と悪魔族は、全面戦争寸前にまで緊張が高まっている。『個人の暴走行為』を名目とした小競り合いは日常茶飯事。私もついさっきまで最前線にいた。
 でも、全面戦争になればその隙に龍族や鬼族が台頭して来るだろう。大規模な戦争状態に陥る訳にはいかない。だから、どちらの上層部も外面は戦いを避けるふりをして、こっそりと互いの寝首を斯く機会をうかがっている。
 今、その『機会』が来たみたい。

「それでは、“十二神王会談”での決議に基く指令を伝える」
「天界軍第1機甲師団第1連隊長・第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアード大佐――君に“0596785025作戦”を担当してもらう」
「了解」
 失笑の気配。作戦内容も知らずに引き受けた事に、呆れているんだろう。
 どうせ拒否権は無いのに。
「詳しい作戦データは、そこに転送しておいたわ」
 スクリーンを高速で流れて行く情報圧縮文章の羅列。容量は標準的な辞書データ50万冊分。流石に長い。読破するのに2秒もかかった。
 でも、これは暗号化された内容。頭の中で解読を開始……終了。


 作戦内容――魔界大帝クリシュファルス=クリシュバルスの拉致

 作戦時間――24時間以内

 派遣兵力――天界軍第1機甲師団第1連隊長・第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアード大佐 1名

 派遣物資――当事者に一任


 ……これは何?

「つまり、君単身で魔界大帝を拉致してもらいたいのだ」

 無茶を言う。
 あの“魔界大帝”を私1人だけで拉致しろと?何のバックアップも無しで?しかも具体的な作戦計画まで私に任せるの?

「単純に拉致するだけなら話は簡単だ。魔界大帝とはいえ、相手はまだ初等部も卒業していない子供だからな。神軍の5個師団でも派遣すればいい。だが……」
「厄介な事に、地球という惑星は『自然保護地区』に指定されているのです。軍事介入どころか、神族が立ち入る事も禁止されています。大規模な軍の派遣は不可能なのですよ」
「つまり、他種族の連中に条約違反を知られずに魔界大帝を拉致するには、他種族に認知されない必要最小限の戦力で、できる限り早急に作戦を実行する事が絶対条件なのだ」
「この条件を満たす能力を持ち、なおかつ単身で現時点の魔界大帝を拉致できる戦闘力を持つ存在……該当する者は君しかおるまい」
「作戦に必要な物資は、全て貴方の要求通りに用意するわ……ただし、個人携帯・使用が可能な物に限ります」

 周囲の神王たちが威圧的に語り始める。こうして有無を言わさずに指令を押し付けるのがいつものやり方。
 でも。
 私にそんな小手先は必要無い。
 なぜなら……

「了解。3分以内に私専用のアラバスター級ZEXL−08を15番装備でロールアウトしてください。5分後に作戦を執行します」
「承知した。君の“ヴァージニティー”はもう用意してある。他に必要な装備はあるかね?」
「必要ありません」
「それでは健闘を祈る」
「失礼します」

 ……なぜなら、私は『剣』なのだから。

 ここだけは古風な造りの重々しい大扉を押し開けて、私は神族最高評議会会議場から退室した。




「――なんだねあの女は!!十二神王を前にして、頭を垂れようともしないとは!!無礼にも程がある!!」

「彼女があのガルアード嬢かね。私は始めて見たが……」

「噂通りの美しさでしたね。胸が薄い点と無愛想な所が少々マイナスですが、それを補って余りある美貌……彼女が美瑛神族ではなく、武争神族だというデータは本当なのですか?」

「データに間違いは無い……ところで、貴君は少々ソウルレイパーの打ち過ぎではないか?」

「これは失礼……しかし、如何に彼女が神族最強の戦士と呼ばれているとはいえ、単身で魔界大帝を拿捕するというのは、かなり荷が重いのではないですか?」

「計算上は問題無い。彼女の神格、身体能力、戦闘力、作戦決行能力、知能、経験、精神安定性、全ての数値が過去のデータも含めた神族最高ランクに位置している。『神族最強』の銘は伊達ではないといった所か……成功確率は99.99718069700894%だ。何らかのイレギュラー要因が加わらない限り、まず作戦失敗は考えられないだろう」

「100%でない限り完全とは言えませんわ。いいえ、100%でも安心できない……魔界大帝なら確率ぐらい平気で制御できるでしょう……それに、今回の作戦には失敗は許されませんのよ。もし失敗した場合は誰が責任を取るというのですか?」

「安心したまえ。今回の作戦が神軍の軍事データバンクに残る事は無い。ここでの会議も記録されない事になっている」
 
「……なるほど。全ては彼女が独断で行った事にするのですか」

「少なくとも、我々に責が及ぶ事はない」

「それでも、神族から重大な条約違反者を出したという事実は、外交上も大きなペナルティーとなります。それだけのリスクを犯す価値がこの作戦にあるのですか?」

「魔界大帝の小僧さえ手に入るのなら、その程度のペナルティーは補って余りあるだろう。無論、彼女が失敗した場合の“備え”は準備してある。魔界大帝を拉致できる事は、まず確実と認識してかまわん」

「……しかし、その場合、我々は彼女という強力な手駒を失うという事になるのですね。あんな美人を勿体無い……」

「……貴君は――」

「冗談ですよ。しかし真面目な話、神族最強の戦士を失うというのは、軍事的にも大きな損失ではありませんか?」

「確かに。軍人としても戦士としてもZEXLパイロットとしても、彼女は神軍の最終兵器とさえ言われる程の実績を残している。あまつさえ四大種族に伝わる武道における最高峰の1つである“奥義『静水』”を極め、その戦闘力は神軍5個師団に匹敵するだろう。その美貌もあいまって、兵士達の間では圧倒的なカリスマ的存在だ。挙句についた渾名が“神将元帥”」

「“神将元帥”?……確か神軍の階級最高位は上級大将ではなくって?」

「現行の階級では表現できない程の実力の持ち主だ……という意味なのでしょうね」

「そこが問題なのだよ。軍上層部では彼女の名声の影響力を危惧する声が大きくなっているのだ。また、単純にその実力を妬む者の数も、無視できない規模になっている」

「特出した才能は、かえって有害……組織論の基本ですね」

「むしろ、消えてもらった方が好都合というわけか」

「……それに、パーソナルデータによれば、彼女には身寄りと言える存在が全くおりませんわ。もし、彼女に不幸があれば、武争神族の名門『ガルアード家』の資産が、そのまま国庫に転がり込む事もお忘れなく……」

「なるほど。リスクよりもリターンの方が大きそうですな」

「……では、今回の件はこのまま進行するという事で、次回の報告を待つ事にしましょう」

「異論はあるかね?……それでは、次の議題に移る――」



 ――ゆっくりと大扉から身体を剥がす。

 神族最高評議会会議場の大扉――5cm程の厚さに組み込まれた『次元転移フィールド』『ベクトル消失システム』『ヴァーチャルディメンション回路』etc……この過剰に過ぎる防御システムを前にしては、盗聴など不可能に近い。
 不可能に近い――つまり、不可能じゃない。
 私の義耳のセンサーには無意味。
 
 会話は予想通りの内容。

 どうでもいい内容だった。

 捨て駒にされる事も、濡れ衣を着せられる事も、どうでもいい。

 私は『剣』なのだから。

 道具に自由意思がある筈が無い。あってはいけない。

 このまま朽ちる事に異存は無い。

 異存する意思も無い。

 私はあの瞬間に、もう死んでしまったのだから――




 ぱちり

 覚醒。
 ゆっくりと上体を起こす。
 私はベッドの上にいた。
 ピンク色のパジャマを着ている。
 辺りを見まわす。
 若草色のカーペットに、黒檀のデスクチェアー。小さな額縁の花の絵。大きな窓から差し込む陽光が、枕元の水差しにきらきら輝いている。
 小さな、でも小奇麗な部屋。
 こんなに静かで落ちついた部屋で目を覚ますなんて、何万年ぶりだろう。
 だから、地球に出撃する前の夢なんて見たのだろうか。
 夢を見たなんて、何万年ぶりだろう。
 良い夢じゃなかったけど。
 それにしても……
 ここは何処?
 
 コンコン

 ノックが聞こえた。

「失礼します……です」
 
 挨拶と同時にドアが開く。
 ノックと同時にドアの脇に身を潜ませていた私は、素早く侵入者の背後に回り、腕を逆手に取って、カーペットの上に抑えこんだ。そのまま頚椎を圧し折ろうと――

「きゃあ!!です!!」

 人間だった。
 殺傷したら条約違反。
 どうしよう。

《セリナ!!》

 !?

 背後からのプレッシャー。
 前方の窓に向かって跳躍。
 間髪入れず、私が抑え込んでいた人間の上を、闇の波動が襲いかかった。
 この暗黒波動係数は、魔界大帝に間違い無い。
 義手から超重高速振動エストック“ヴェンデッタ”を取り出す。
 窓に激突する寸前、身体の質量とスピードをゼロに変換。
 窓に着地。
 跳躍。
 前方の闇の波動の向こう側にいるだろう、魔界大帝に“ヴェンデッタ”の一撃を――

「いたたたた……です」

 !?

 人間が頭を抑えながら立ち上がろうとしている。
 この突進スピードでは人間はひとたまりも無い。
 急ブレーキ。
 スピードは落ちた。でも、激突は免れな――

 ぼよよ〜〜〜ん

 !?

 跳ね返された?
 なにか柔らかい物にぶつかった感触だった。
 窓の下の壁に激突。
 痛い。
 素早く体勢を整えようと――

 バシュシュシュシュ!!

 闇の波動が私の身体を拘束する。
 首から下が完全に闇の波動に覆われた。
 指一本動かせない。
 魔力も神聖力も完全に拘束封印されている。
 全身の力を抜く。
 抵抗はもう無意味みたい。

《大丈夫か!?セリナ!!》
「私は大丈夫でピンピンしてますです」

 頬に片手を当てながら立ち上がる人間。
 女だ。
 メイドの服を着ている。
 綺麗な女性だった。
 美瑛神と比べても遜色無いくらい。
 表情も体付きも、とてもやわらかで温厚な印象。
 そう。
 この人間の女性は、あの時、勝負を邪魔して、『だるまさんがころんだ』なる勝負方法を提案した女だ。
 名前はセリナと記憶している。

《それなら良いのだが……》

 漆黒の異形の巨体が、部屋の中に進入してきた。
 扉を壊さなかったのが不思議。体高3m・全長10mは超える。
 サイズダウンしているけど、あれは魔界大帝クリシュファルス・クリシュバルス。
 かわいくない。
 人間形態じゃなかった。
 残念。

《抵抗は無意味だ。降伏せよ》

 闇の波動を締め付けながら、魔界大帝が詰問する。
 どうする?
 私はまだ戦える。
 でも、戦う理由があるのだろうか。
 私は『剣』だ。道具に自由意思は無い。
 主に戦う意思が無ければ、剣がふるわれる道理も無い。

「私はどのくらいの時間、心身喪失状態にあった?」
《……え〜と……》
「3日間です。よくお眠りでしたよ……です」

 3日間も?
 今さら作戦を執行しても手遅れ。
 それ以前に、魔界大帝を前に3日間も無防備状態でいたのは致命的だ。戦闘力を奪われた事は間違い無い。“ヴァージニティー”も見当たらないし。
 それに、3日間も天界からの音沙汰がないのは、間違い無く切り捨てられたという事。
 『天界軍第1機甲師団第1連隊長・第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアード大佐』としての私は終わった。
 終わってしまった。

「降伏する」
《……随分あっさり言うな……魔界大帝に牙を向けたその愚行、その意を帥は理解しておるのか?八つ裂きにされても文句は言えんぞ……》
「軍事条約における捕虜としての扱いは不要だ。私の軍権は剥奪されている」
《ふむ、潔い事だな。ならば帥を煮るも焼くも、余の胸の内次第という訳か……》

 魔界大帝は隣の人間女性の顔を覗き込んだ。
 女性はきょとんとしている。
 魔界大帝は苦笑した――ように見えた気がする。

《……帥を滅ぼしはせぬ……だが……》
 
 闇の波動が身体から離れて、握り拳大に収縮する。
 胸元に飛び込んだ。
 軽い痛み。
 身体は動けるようになった。
 胸元をかき開く。
 牙みたいな紋様が、胸元に張り付いている。

《帥の力は封印させてもらう》

 確かに。
 あらゆる能力が1兆分の1以下に減少。
 魔法や神聖能力も、完全に使用不能ではないが、極めて初歩的な術しか使用できない。
 インナーウェポンは出力の99.9998%が沈黙。
 神族としての力は封じられた。

《これが魔界大帝の審判なり……ええと……『我、是なる帥の非を問う認を持たず』……だったかな?》

 それは『もう、お前の罪は問わない』という意味の、魔界最高審判の判決宣誓文。少し間違っているけど。
 これ以上、私を責める気は無いみたい。
 見た目よりもずっと寛大。
 魔界大帝の誘拐未遂。百万回滅ぼされても文句は言えない罪状だ。
 

 でも

 これからどうしよう


《……で、これから帥はどうするのだ……天界に帰るのか?》

 答え難い事を、はっきり言ってくれる。

「天界には戻れない」
《何故だ?》
「貴方に能力を封じられた」
《うぐぐ……そうだったな。帰る分の力は返してやろう》
「帰る気は無い」
《なに?》
「『自然保護区域への不法侵入』『その内部干渉』『魔界大帝への誘拐未遂』――私が天界に戻れば、それらの罪状が異種族にまで発覚する事になる。責任者への追求は免れまい。だが、私が戻らなければ、事件の当事者は行方不明として処理され、事件の詳細は不明。情報不足から事件の背景まで捜査の手が伸びる事は無い。3日以上、私に連絡が無い点から、天界が以上の処置を選択した事は間違い無い」
《……あえて主に切り捨てられ、汚名を被る道を選ぶと言うか……忠臣をそうも残酷に切り捨てる輩に、そこまで義理立てする義務があるのか!?》
「答える義務は無い」

 信じられない。という表情を――たぶん――浮かべた魔界大帝。
 悪魔族のリーダーには――『使い手』たる立場の者には理解できないだろう。
 私は『剣』だ。
 剣がその使い手に逆らう事は無い。
 これは忠義とも違う観念。
 忠義には意思がある。『剣』には意思も無い。
 ただ、使い手に道具として利用されて、最後には打ち捨てられた。
 それだけだ。

《……それでは、帥はこれからどうするのだ!?》

 どこか気遣うような声。
 変なの。
 ついさっきまで、敵同士だったのに。
 私を気遣って、何の利益があるの?


 でも

 本当に

 これからどうしよう

 捨てる側はいい

 でも

 捨てられた剣は

 どうしたらいいの?


「わからない」
《わ、わからないって……》
「貴方を誘拐して天界に戻り、犯罪人として処理される。もしくは貴方に滅ぼされる。どちらかになる筈だった。この結果は予想外だ」
《……おい》
「事実を述べただけだ」

 身体の中が寒い。
 裸で戦場に放りこまれた感じ。
 意外だ。
 私にまだ、こんな感情が残っていたなんて。


 私は

 どうすれば?


「あのぅ、ちょっといいですか?」

 その時、それまでボーっと立っていた人間の女が、眼前に接近してきた。

「自己紹介させていただきますです。私はこのお屋敷で住み込みでメイドの仕事させて頂いております、セリナと申しますです」

 唐突な自己紹介。
 面食らった。
 それに理解できない。
 ついさっきは自分を殺そうとした相手に、なぜそんな笑顔を向けられるのか。
 とりあえず、名乗られたら名乗り返すのが礼儀。

「私は第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアードだ」
「あ、ア、あ?……アコ……こ……です???」
「私は第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアードだ」
「アコ…あん……アンコ…あこやが……ですです???」
「私は第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアードだ」
「あうう……アンコ…こ……こか…コカ?……餡子家具屋ギャル亜土ちゃんです???」
「私は第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアードだ」
「あんんこぉぉぉぉ椿はぁぁぁこぉぉいぃのはぁぁなぁぁぁぁ……です???」
「私は第1級武争神・アコンカグヤ=ガルアードだ」
「鮟鱇の肝は冬場が油が乗っていて美味し――」

 ぽかっ

「あうっ、です」
《何時までボケとるのだぁ!!》

 魔界大帝の触手が、人間の女――セリナの後頭部を軽く小突いた。

《前回と同じパターンを繰り返すでない!!》
「は、はいです……あのうぅ、私はおバカなので、長いお名前が覚えられませんです……とりあえず、ここは『アンコさん』という事で妥協しては頂けないでしょうか?……です」
《それも前回と同じパターンだろうがぁ!!そなたには学習能力は無いのかぁ!?》
「いえいえ、覚えられる名前の文字数が、2文字から3文字にぱわーあっぷしてますです」
《それはパワーアップとは言わぬ!!》
「その名前で構わない」

《へ?》
「はいです?」

「その名前で 構わない。と発言した」

 魔界大帝は唖然とした表情(推定)で、セリナは嬉しそうに私を見ている。
 名前なんてどうでもいい。
 個体識別用の記号に過ぎないから。
 どう呼ばれようと関係無い。

「よかったです!!……アンコさん……ああ、とっても甘くてモチモチしていてお饅頭の中身が粒餡だとちょっと嬉しくて熱々のアンマンにかぶりつくと時々餡が熱すぎて跳び上がりそうになってちーといつ狙いでドラがアンコになると悩んじゃうのですね!!とっても良い愛称だと私は思いますです!!」

 セリナの垂れた瞳がキラキラ発光している。

《……本当にその名で呼ばれて良いのか?》
「少し後悔している」

 いや、かなり後悔。

「それで、自己紹介が用件なのか?」
「……あ、大変申し訳ありませんでした。それでは本題に入りますです」

 す〜〜〜っ

 セリナの深呼吸。

 びしっ!!

 いきなり指を突き付けられた。

「アンコさん!!あなたはスゴイです!!!」
「は?」
「私はこう見えてもプロレスごっこには自信があるのです。あすみさんとの対戦では256勝0敗なのです。ちなみに得意なふぃにっしゅほーるどは『覇極琉体術・卍天牛固め』なのです。その私をあーも簡単にふぉーるできちゃうなんて、アンコさんは本当のホントに凄いです!!」

 何を言っているのか理解できない。

「そこでアンコさん!!私はあなたをスカウターしたいのです!!」
《……セリナよ、スカウトだ……》
「え?……え〜と、スカートしたいのです!!」

 何を言っているのか理解できない。

「実はですね……旦那様が御改心なされてから、私以外のメイドさんがみんな辞められてしまったのです。旦那様が皆さんの借金を帳消しなされて、脅迫の材料を処分なされて、全員に莫大な慰謝料をお支払いになって、事業を全て慈善事業に切り替われてから、腹黒家の家計は火の車がたーぼぶーすとで激走しているのです。新しいメイドさんを雇いたくても、お金が無くてあまり高い給金は支払えませんし、以前の頃の悪い噂がまだ流れているらしくて、誰も引き受けてくれません……今や旦那様とクリさんと私と庭師さんの4人だけで、この広い広い敷地を管理しておりますです。毎日毎日とっっっっっても家事が大変なのです。私は家事がお仕事で大好きなので、別に大変でも構わないのですが、私の恩人であられます旦那様や、お客様でお友達であられるクリさんに、毎日雨戸閉めやお風呂掃除や庭掃除やその他えとせとらをお頼みするのは、私としてもこれでいいのでしょうか?と心苦しくて……です」
《いや、気にするでない。まぁ、始めの頃は勝手がわからず戸惑ったが……余も居候の身だ。これぐらいは義務の内であろう》

 何を言っているのか理解できない。
 でも、何か複雑な事情があるみたい。

《……しかし、確かに忙しいのは事実ではあるな。もっと人手が欲し……おい、まさかセリナ!?》
「というわけで、アンコさん!!あなたにメイドさんになって欲しいのです!!」

 びしぃ!!

 指を突き付けるセリナ。
 ……完全に理解不能。
 いや、言いたい事は理解できる。
 しかし、さっきまで敵対関係にあった相手に、『メイドになって欲しい』とは?
 何を考えているの?

「このお屋敷には部屋がいっぱい余っているので、住み込みでも大丈夫です。3度の食事にオヤツも出ます。衣服も色々な制服がたくさんありますです。お給金は……旦那様と相談なさるという事で。あ、ちなみに私は1日100円のお小遣いを頂いておりますです」
《ぬぅ……本気でこの第1級武争神を、メイドに雇いたいと言っておるのか……大胆過ぎるぞ、セリナよ……》

 本当に、何を考えているのだろう。
 ひょっとして、現在の私の立場に同情しているの?
 それこそ他人には関係無い事だ。
 同情されるのはまっぴら……という訳ではない。
 『剣』はそんな事を考えない。
 確かに、これから私はどうすれば良いのかわからない。
 不安は無い、と言えば嘘になる。
 でも、捨てられた剣は朽ち果てるだけ。
 それだけ。
 ならば、このまま朽ち果てるのが道理。


 それなのに……


「どうでしょうか?です?」

 断る。

 当然、そう返答する筈だった。


 それなのに……


「承知した」


 そう返答した。

 どうして?

 理由は不明。

 セリナの顔に浮かぶ笑み。静かで優しくて、でも、とても真剣な表情。

 それを見ていると……

 強制ではなく、自暴自棄でもなく、私はごく自然にそう返答した。してしまったのだ。


「わぁ……とっても嬉しいです。今後ともよろしくお願いしますです」
《し、し、正気かそなた達はぁ!?》

 深々と頭を下げるセリナ。
 驚愕の表情(おそらく)を浮かべる魔界大帝。
 魔界大帝が驚くのも当然。
 私自身が一番驚いているのだから。
 第1級武争神が人間世界でメイドとして働くなんて、空前にして絶後だろう。
 ……でも、別にこの状況でも問題無い。
 どうせこのまま朽ち果てるのを待つ身。
 場に流される運命も、今の私には相応しいわね……


 その後、私はこの館の主である腹黒氏と接触。
 個性的な風貌の中年男性だった。
 私をメイドとして雇うという件はあっさりと承諾。
 むしろ『お願いだから雇われてください!!』と泣き付かれた。
 少しびっくり。
 3食オヤツ付きの食事と、1日100円(通貨観念と価値はまだ不明)の給金。さらに館の一室を住居として宛がわれるという、セリナと同じ条件で契約。
 魔界大帝は最後まで私を雇う事に反対していたが、本人も居候の立場なので、あまり説得力は無い。セリナに簡単に諭された。
 メイドの仕事内容は、セリナの指導で順次マスターしていく事となる。




 ――そして、私のメイドとしての生活が始まった――




「――では、まずは『廊下のモップ掃除』から始めますです。この掃除は、かの伝説のメイドロボットが――」

 スカートの裾を摘んでみる。
 ロングスカートなんて、子供の時以来だ。
 ……ちょっと恥かしい。
 腕を伸ばしてみる。
 藍色の上着は、袖口が少し短い気がする。手首がガードしきれていない。防御面に不安が残る構造だ。
 でも、仕方がない。
 私は身長180cm。神族女性の平均身長以下の小柄な背丈だが、人類から見ればかなりの長身だという。
 体格も同僚と比べれば細い方だが、軍人としてそれなりに体も鍛えているつもり。少なくともひ弱ではない。
 その結果……私に合うサイズのメイド服が在庫に無かった。
 セリナの予備のメイド服を借りて急場をしのぐ事にする……でも、翼を無理矢理入れている事もあって、少々窮屈なのは否めない。
 ……ある一部分を除いて。

「――というわけで、これはとっても由緒正しい掃除なのです……って、アンコさん?……あ、服が気になるのでしょうか?大変申し訳ありませんが、後日アンコさん用のメイド服が届くまでは、その服で我慢してくださいです」

 頭を下げながら接近してくるセリナ……そして、その胸部。
 大きい。
 ものすごく大きい。
 とてつもなく大きい。
 しかも全然型崩れしていない。
 大迫力。
 女性の象徴の必要以上の具現化。
 あの時、私の突撃が跳ね返されたのも、あのボリュームなら納得できる。

 ……それに比べて……

 自分の胸部を観察。
 薄い。
 平坦。
 絶壁。
 フラット。
 トップとアンダーの差が無い。
 ここだけ服が余りに余っている。

 …
 ……
 ………

「……あのう、アンコさん?どうなさったのですか?」

 廊下の隅にしゃがみこんで、床に『の』の字を書いている私に、セリナが心配そうな声をかける。

《何をやっておるのだ……さっさと床掃除を済ませるぞ》

 呆れた声の魔界大帝。
 私が近くにいる時、魔界大帝は常に戦闘形態(小型バージョン)を取っている。さすがに瘴気や魔力は抑えているけど。
 私を完全には信用していないみたい。
 無用だが賢明な判断。
 でも、あの漆黒の異形の巨体でモップを構えてる姿は、あまり威厳があるとは言えない。

 その後、モップ掃除の解説を受けた。
 先端に湿らせた布が装着してある棒で、床に付着する汚れを洗浄するシステム。
 とてもシンプルな掃除。
 地球人類はある程度の黎明期機械文明を築いていると記憶しているけど、こんな単純作業も機械自動化できないなんて、テクノロジーの利用効率度数は、あまり発展していないみたい。
 後に、その事をセリナに話してみると、
『私はおバカなのでよくわかりませんが……こういう事は、手作業の方が暖かみがあって良いと思いますです』
 と、笑顔で諭された。
 確かに、大よそ考えられるあらゆる生活関連の事象が、完全オートメーション化されている神族社会は、効率面では非の打ち所は無い。けど、その無味乾燥さが味気なく思えるのも事実。

 ……いや、私はそう考えていない。

『僕は機械が嫌いなんだよ……鋼の光沢に触れる度に、僕の心も冷たくなる気がするんだ』

 士官学校に入学する前の、兄様の口癖……

 私はそれに、追随しているだけなのかもしれない。

 私を愛してくれた頃の兄様に……



「――モップを床に添えて、一気に『とりゃあああああああ!!!』って廊下の端まで疾走するのです。思いっきり力を込めるのがコツです……では、いきますですよ……とりゃあああああああ!!!ですぅぅぅぅぅぅ!!!」

 廊下の向かい側まで走り抜けるセリナ。
 モップの跡がキラキラ輝いている。

《ちぇすとおおおおおおお!!!》

 魔界大帝も追随。
 次は私の番だ。

 力を込めて、全力疾走ね……それなら……

 義手と義足のリミッターを解除。
 神族としての能力は封じられ、インナーウェポンも出力の99.9998%が沈黙しているから、リミッターを解除しても、そんなにパワーは無い……だろう。
 モップを床に構える。
 腕と下半身に力を込める。
 ミッション:モップによる床掃除――
 ――開始。

「と――」

 大爆音

 ……頭を振って起き上がる。
 草いきれのむっとする香り。
 私は雑木林の中にいた。
 ここは何処?
 テレポートを実行した覚えは無いけど……

《何をやっておるのだ〜〜〜!!!》

 遠くから魔界大帝の声が聞こえる。
 声の方向に振り向くと、折れた木々の間から屋敷の遠影が見えた。その距離、正確に4.07156km。
 屋敷に開いた巨大な穴から、セリナと魔界大帝の姿を確認。
 どうやら、モップ掃除時の出力が高すぎて、壁を突き破ってここまで吹っ飛んで来たみたい。大穴から向こう側の景色が見えるのは、加速時のバックファイヤで反対側の壁も破壊したからだろう。
 魔界大帝の怒鳴り声と、セリナの取り成す声がかすかに聞こえる。
 悪魔族の初等部学科内容に、物体修復か時間操作系の魔法がある事を祈りながら、私はため息をついた。

 …
 ……
 ………?

 ……ため息?

 私が?

 
 

《――まったく、なぜ余が帥に買い物の指導をせねばならぬのだ!!》
「セリナは洗濯で手を離せないから」
《わかっておる!!……ぶつぶつぶつ……》

 ここ3日間は雨続きだった。洗濯物が溜まっている。
 私も洗濯を手伝おうと申請したが、5日前に指導を受けた際、しつこい汚れを服ごと『消滅』させた件が響き、またの機会に譲る事となった。前科持ちが信用されないのは、人間世界でも同じみたい。
 
「ところで、貴方はその姿で買い物に行くの?」
《ぬ?》

 魔界大帝の漆黒の巨体を見上げる。
 この異形の姿で外出すれば、住民がパニックに陥るのは確実。

《……うぅむ……しかし……》
「私の事なら心配無用だ。神族の能力、内蔵兵器類、全てがほぼ完全に封印されている」
《い、いや……そういう事ではないのだが……》

 意味不明。
 何を心配しているの?

《……まぁ、やむをえんか……》

 小声で何か呟いた。
 瞬間、魔界大帝の巨体が黒い輝きに包まれる。
 黒い光球は瞬時に縮小。人の輪郭を形取り、弾ける様に拡散した。
 そして、その中から――

 きゅぅぅぅぅぅん!!!

 ――脈拍急上昇。
 ――最大血圧10倍に増加。
 ――体温90度まで上昇。
 ――脳内麻薬物質放出量レッドゾーンをオーバー。
 ――神聖力値限界レベルまで増大。

 視界が1点に集中する。
 意識が完全に固定化される。

 か

 か

 か

 かわいい

 かわいい

 かわいい――



「――ええい!!はなせといっておるのだ!!やはりそちも、このぱたーんかぁ!!!」

 はっ

 何時の間にか、私は魔界大帝――クリシュファルス君を抱き締めていた。
 クリシュファルス君は腕の中でもがいている。

 状況から判断して、無意識の内にクリシュファルス君を捕獲、抱擁したものと推測。
 ……私が一瞬ならずとも我を失うなんて……

「不覚だ」
「“ふかく”はいいから、はやくはなしてくれぇ!!」
「了解」
「うぅ……」
「………」
「………」
「………」
「……おい」
「なに?」
「だから!!はなせといっておるだろうが!!」
「惜しい」
「なにがだぁ!!てぃ!!」

 げしっ

 蹴飛ばされた。
 衝撃でクリシュファルス君が離脱する。
 酷い。それに残念。

「ううぅ……むかんじょうけいなそちなら、このすがたにもはんのうしないかもしれないと、あわいきたいをよせておったが……やはりそちも“そのけ”があったか……」

 酷い事を言う。
 私の趣向は無関係。
 あの可愛らしさは反則。絶対に反則。
 あの戦いの際、意識を奪われて一敗地に塗れたのも、無理は無いと推論する。
 クリシュファルス君の最大の武器は、悪魔族のトップに位置する最強の血筋ではなく、あの可愛さだと断言してもいい。

「……とにかく、そちはよのはんけい3mいないにちかずくでないぞ!!やくそくだ!!」
「拒否する」
「あ、あのなぁ……そ、それなら……このやくじょうをたがえたら、もうにどとこのすがたにならないぞ!!」

 それは嫌。

「了解。この外出の期間、半径3m以内に接近しない事を約束する」
「……と、とにかくはやくかいものをすませるぞ!!いっこくもはやくもとのすがたにもどるのだ!!」

 ずんずん先導するクリシュファルス君の後姿を記憶中枢に焼き付けながら、私はできるだけゆっくりと買い物をしようと決意した。



 じ〜〜〜

「――というわけで、このかみときんぞくへんで、しなものをこうにゅうするというしくみなのだ……なんともきみょうなふうしゅうであるな」

 じ〜〜〜

「特に奇妙な社会構造ではないと思うが」

 じ〜〜〜

「そうかぁ?かようなかみきれをいくらつんだところで、だいこんいっぽんほどのかちもないとおもうぞ」

 じ〜〜〜

 そういえば、悪魔族の社会には通貨の概念は無かったはず。

 じ〜〜〜

「確かに原始的で非効率的ではあるが、通貨経済社会としての構造には、問題は見受けられないと判断するが」

 じ〜〜〜

 データによれば、神族と地球人類の精神構造は、ほぼ同一の基本パターンを示している。
 だから、地球人類の社会構造は、神族のそれと共通する部分がかなり多い。
 まだ一般常識等の細かい事は、不明な点が多いけど。

 じ〜〜〜

「よにはりかいできんな……ところで、アコンカグヤよ……」

 じ〜〜〜

「何か?」

 じ〜〜〜
 じ〜〜〜
 じ〜〜〜

「はんけい3mいないにちかづいていないのはみとめよう……だがな、そのむひょうじょうのまま、ず〜〜〜っとよをぎょうしするのはやめろっ!!!」


 ――その後、数店の小売店を巡回。
 『サラダオイル』『がんもどき』『洗濯石鹸』etc……を購入。
 何人かの人間男性に声をかけられたが、全て無視。その1人には強引に肩を掴まれたが、腕を少し捻ったら大人しくなった。右腕の関節を全部外しただけなのに、あんなにのた打ち回るなんて……人間は脆い。
 クリシュファルス君も、平均して5m歩く毎に一回は声をかけられていた。その73.25%に抱き付かれている。
 抱き付く人間が羨ましい。
 本人は泣くほど迷惑らしいけど。
 また、幾人かに私達の外見について詰問された。セリナの指示通り『これはコスプレです』と説明すると、簡単に納得してくれた。意味不明。

「へいらっしゃい!!おお、クリ坊かい。どうだね景気は?」
「まずまずだな」
「こっちは相変わらず火の車よ……ところで、その別嬪さんは連れなのかい?」
「うむ、やしきにあたらしくはいることになってしまっためいどだ」
「へぇぇ……こんな別嬪さんを雇えるなんて、確かに景気はいいみたいだねぇ」
「よがのぞんだわけではないのだがな……で、だいこんとにんじんをごほんずつだ」
「へいまいど!!その別嬪さんに免じてまけとくよ!!」

 時々、クリシュファルス君から視線を離して、空を見上げた。
 建築物の陰に侵食された、歪な形状の青空が確認できる。
 不恰好な――でも綺麗な青空。
 完全階層構造に設計された神族居住区は、こんな空の切れ端も見る事ができない。
 空を見上げる事ができたのは、いつも戦場だった。
 でも、見ていたのは青い空ではなく、上空から飛来する悪魔族の戦士の黒影。
 こんなにも静かに青空を見上げるのは、生まれて始めてかもしれない。
 何の意味も無い、怠惰な時が流れる。

 でも、この感じ……

 ……悪くない。
 

「ふむ、どうしたものかな」

 T字路の前でクリシュファルス君が立ち止まった。
 左右に道が分かれている。

「何か?」
「いや、あとにけんまわればかいものはおわるのだが……たがいのみせのばしょが、かなりはなれているのでな。このままではおやつのじかんにまにあわぬかもしれぬのだ」

 それは問題。

「二手に分かれる?」
「う〜む……そちひとりでもかいものできるのか?」
「人間社会の貨幣経済システムは、完全に理解したと断言できる」
「ふむ、ならばそちは“さかなや”で“あじを6ぴき”かってきてくれ。かいものがおわったら、またここでおちあうことにしよう」
「了解……ところで“さかなや”の場所を知りたい」

 クリシュファルス君は、左の道を指差した。
 指も可愛い。

「ここをまっすぐすすめば、つきあたりに“さかなや”があるはずだ。まがりかどやわきみちもおおいが、ひたすらまっすぐすすめばだいじょうぶだ」
「了解」

 右の道を進むクリシュファルス君が、視界から完全に消えたのを確認。
 左の道への進行を開始。
 ミッションは『“さかなや”で“あじろっぴき”を購入』――

 ぴたり

 歩みが停止する。
 重大な問題点が発覚。
 
 ……“さかなや”……“あじろっぴき”って……何?

 困惑。
 しかし、このまま固まっていても、状況が改善されないのは確実。
 とりあえず、説明された通りに真っ直ぐ進む事にする。
 真っ直ぐ……曖昧過ぎる表現だ。
 クリシュファルス君が指を突き出した方向は、指の微妙な湾曲から角度まで完璧に記憶してある。
 その直線状に進むと――
 ……大気圏を離脱してしまう。
 地球の形状を計算に入れて修正。
 進行方向を確認。
 前進開始。
 前進。
 前進。
 進行方向に位置する店舗を調べていけば、いずれ“さかなや”に接触するはず。
 前進。
 前進。
 高さ50m級の、大型建造物が立ち塞がる。
 『○×商事』の看板――この店じゃない。
 飛び越える。
 後ろで人間がなにか叫んでいる。
 無視。
 前進。
 前進。
 十字路を横切る時、真横から原始的な自動車両が高速突進してきた。
 足を止めずに、激突寸前に片手で放り投げる。
 自動車両は、100mほど離れた建築物の屋根に音も立てずに着地。
 また人間達がなにか騒いでいるが、例によって無視。
 前進。
 前進。
 前進。
 前進――


 ――1週間後 ケニア・サバンナ地区――

 褐色の肌の逞しい半裸の男達に“さかなや”の場所を聞いていた私の後頭部に、

『なにをやっとるか〜〜〜!!!』

 クリシュファルス君の叫び声と飛び蹴りが叩き込まれた。
 お返しにおもいっきりウリウリしてあげたら、本気で嫌がられた。
 悲しい。

 …
 ……
 ………
 
 悲しい?

 私は自分が『悲しい』と思っている事に驚愕した。
 そして、何よりも私を動揺させたのは、この私が『驚愕している』という事実だった――





 溜め息。
 ベッドに横になる。

 窓の外は満天の星空。
 虫の音が静かな音楽を奏でる。
 置時計の秒針のリズムが、私の瞼を重くする――

 今日も仕事は失敗続き。
 いや、メイドの任に就いてから2週間、まともに仕事をこなせた事は、ただの1度も無い。
 セリナは『慣れればすぐにできる様になりますよ』と、フォローを入れてくれるが、内心は忌々しく思っているだろう。魔界大帝は露骨に非難してくれる。
 自己嫌悪。
 挫折感。
 敗北感。
 いくら神族の力を封じられてるとはいえ、地球人類にできる仕事すら満足に処理できないなんて……これが“神将元帥”の体たらくか。
 苦笑する気も起きない。

 …
 ……
 ………

 私は何を考えている?
 
 ここに来てからの私は変だ。
 もう失った筈の感情が、少しずつ少しずつ、しかし確実に露呈している。
 環境の変化?
 それは違う。
 如何な形容でも表現できない、様々な環境の戦場を渡り歩いてきたが、感情らしい心情が発揮した経験は皆無だったのに。
 久しく忘れていた、この感覚――
 ……奇妙な感じ……

 シーツに包まり、目を閉じる。
 太陽の香り。
 セリナが洗浄してくれたのか。

 ……そういえば、もう1つ奇妙な事象があった。
 ここに来てから、ほぼ毎日夢を見る。

 内容は――決まって私の過去。


 それも回数を重ねる度に、徐々に時間を遡っていく。



 ……前回見た夢は、身体の破壊された箇所を義肢と取りかえる為に……入院していた時期の……




 ………なら……次に見る夢は………





 …………兄様が……私を………






 ……………にい…さ……ま…………







 ……………………









 ………………











 …………














―ガチャッ―

 扉を開くかすかな音。薄く目を開くと、そこにはいつもの影が立っていた。
 あわててベットから降り、その足元に跪いて靴に口付けをする。

「兄様、お帰りなさいませ」
「………」

 兄様は一言も発することなく、ただ私を見下ろしていた。
 冷たい瞳、憎しみ、蔑みだけがそこに存在している。

「…奉仕しろ」
「はい、兄様…」

 唇だけでズボンのファスナーを下ろし、口だけで兄様の肉茎を取り出す。それはまだ力なく垂れ下がり、私の唇のすぐ近くで揺れている。
 やや兄様を見上げるような格好で、その先端を舌の上に乗せる。そのままゆっくりと、口の中に納めていく。

「んっ…んんっ…」

 グチュグチュといやらしい音が、私の口の中で聞こえる。最近は、兄様のを見ただけで自然と唾液が出てくるようになった。

「……っ…んっ…」

 次第に兄様のものが熱を持ち、大きく、硬くなってくる。

―ピチャッ、クチュッ、グチュッ―

「………」

 兄様の冷ややかな目、それと裏腹な熱い肉茎。
 私は兄様のものを含んでいる時が好き。兄様の体温、味、臭い。全てが私の中に染み込んでいく感じがするから。そして、『私』という存在が、兄様の『所有物』であるという不思議な充足感を感じられるから。

―ポタッ―

 兄様の肉茎から、啜りきれなかった唾液が一滴、床に落ちた。
 その瞬間、兄様は私の髪の毛を掴み、唇を引き剥がす。

「お前のおかげで床が汚れたぞ!どうしてくれるんだっ!!」

―ボスッ!―

 怒声と同時に、全力の蹴りが腹に叩き込まれる。
 全身に激痛が走り、口の中に鉄の味が広がる。あまりの痛みに身体を丸めようとした瞬間、胸の下あたりに激痛が走った。

「グフッ!」

 思わず床を転げ、胃液の混じった紅いものを口から溢れさせて更に床を汚す。

―ボスッ!ゴスッ!ドスッ!―

 容赦の無い蹴りが、次々に叩き込まれる。
 けど、私は無抵抗で蹴りを受けつづける。


―――いつもの事―――


 不意に、蹴りが止んだ。

―ジャラッ―

 私の首輪に付けられた鎖で、私を引っ張り上げる。
 『首輪』…私の普段着。それ以外を身に付けることは、外出時以外、兄様に許されていないから。

「床がまた汚れたな、綺麗にしてくれるよな」
「……は…い………兄様…」

 首が絞まらないように、膝立ちになって答える。それに満足したのか、兄様はそのまま鎖から手を離した。反射的に床に両手を突く。激痛。そして、頭から血溜まりの中に突っ込む。

「んっ、れろっ、んくっ」

 ぴちゃぴちゃと、舌で血を舐め取る音だけが部屋に響く。息が苦しい。さっきの蹴りで、肋骨が3本ほど折れてしまったのだろう。でも、それもいつもの事。
 顔半分を血で濡らしながら、床を綺麗にする。自分の味でも良くわからない。兄様の味なら、どんな物でも覚えているのに…

「フン…お前にはこれもくれてやる。全部綺麗にするんだぞ…」

 そう、私の頭の上から話し掛けると、温かい液体が頭の上からかけられた。

―ジョロジョロジョロ…―

 髪の毛、背中、翼。体中に温かい液体が浴びせられる。
 独特の臭い、温度、舌で感じる味。間違い無い、兄様のオシッコだ。でも、別に気にすることは無い。床にこぼれたものを舐め、啜り、飲み込んでいく。

 私の上半身や翼が血まみれになり、太股まである私の髪の毛の隅々まで、血と小便の臭いが染み込んだ時、ようやく床は元の姿を取り戻していた。

「犬…いや、犬以下だな。四つん這いになって、床を舐めながら、ここまで濡らしているんだからなっ!」

―グチュッ!―

「ああっ!」

 そう、私の恥かしい部分は、その間も半透明の液を垂れ流し、太股はもちろん、膝の裏まで濡らし、月明りに反射して、きらきらと輝いていた。
 いつからそうなったのだろう、でもそんな事は些細な事。今、兄様は私だけを見てくれている、それで十分…

―ズチュッ!―

「あっ?!…ああっ…あ、あんっ…」

 何の前触れもなしに、兄様のものが後ろから突き入れられた。その衝撃に反射したのか、部屋を埋め尽くすように翼が広がった。
 普段は真っ白な羽根が、赤や黄色に汚れ、今の私を象徴している。

「ふぁっ…兄様…んあっ…にいさまっ!…」

 肉と肉がぶつかり合う音が部屋中に響きわたる。兄様と繋がっている所が、ジュプジュプと淫らな音を立て、絶え間なく与えられる痛みと快感に、私の意識は混乱していた。

「アコンカグヤ、お前は私の『物』だよな?」
「あぐっ…は…い…私は…あっ!…ずっと……兄…様のものです…」
「…なら…これは要らないな」

 その瞬間の兄様の表情が、私には見えなかった。

「…え…?」

 兄様の言葉の意味を理解するより早く、兄様は私の右翼の根元を掴んだ。そして、一気に捻りを加えて引き抜く。

―バキゴキッ!ブチッ!!―

「あ、やっ…うああああっ!!!」

 骨が捻り外され肉が捩じ切られる、想像を絶する痛みが私を襲う。一瞬、何が起こったか、私には理解できなかった。背中を熱い液体が伝っていく感触が、妙にはっきりと感じる事ができた。。
 しかし、ドサッ、という音がすぐ前で聞こえ、そこに目をやったとき、私は全てを理解した。
 目の前には、赤、黄色がまだらになった、以前は白かったであろう物が転がっていた。
 …私の翼…

「これで、お前は完全に私の『物』だ。永遠に、飼ってやる…永遠に、苦しめてやる」
「私は…永遠に…兄様の『物』…」

 『永遠』これが、私を支配していた。兄様がずっと私を見てくれる。ずっと飼ってくれる……『永遠』に憎んでくれる。
 何故か、幸福だった。

 いつの間にか、私と兄様は正常位で繋がっていた。兄様は、強く私の中を突き、体中に痛みと快感を与えている。私は、そんな兄様を微笑んで見つめている。
 兄様も私を見つめている。しかし、いつもと違う目をしていた。確かに兄様は私を見つめている。でも、兄様は私ではなく、私の瞳の奥の何かを見つめているような気がした。しかし、もうそんな事はどうでも良かった。兄様の『物』になれるのだから…

「……何故微笑う…」
「…え?…」
「私は苦しめると言ったはずだ。そうか…まだ足りないか…これでは、お前は私の物にはならないのか」
「に…兄様…?」

 そう言うと、兄様は肉茎を挿したまま、私を横向きに寝かせた。身体を捻られ、新しい苦痛が私を包む。
 兄様は、私の見えないところで、何かを壁から外していた。確か、そこに飾られていたのは…良く思い出せない。何だっただろうか。

「お前には、これも要らないな…」
「に…いさ……ま?」

―ドシュッ!…ゴトッ…―

「グッ…あああっ!!…あ…?」

 私の右脚の付け根に、激痛と熱が走ったかと思うと、感覚が無くなる。後には、熱さだけが残っていた。
 首をそちらに向けると、私の右脚があるべき場所に、剣が突きたてられていた。そして、良く見ると剣の影に、私の足が見えていた。

「私の、脚が…」
「そう。切り落とした。これで、もうお前はここから動けない」
「兄様…」

 大量の血が、床を、そして私の羽根と身体を汚していた。
 一人では動けない私、より兄様に支配されるという実感が、私を支配する。なによりも、兄様だけが私を見てくれるのが嬉しかった。
 しかし、兄様はより憎悪の表情で私を睨んでいる。

「何故っ!…何故お前は苦しまないっ!!何故泣かない!?」
「なぜって…」
「…泣かない目は、私の『物』には要らないな…」
「…え?…」

 兄様はそう言うと、左手を私の顔に近づけていく。兄様の手…いや、親指が私の左眼に近づいてくる。

「い…嫌…怖い…」

 兄様は、私の表情を楽しむように、恐ろしいほどゆっくりと指を近づけていく。そして、

―グリッ!グチッ!―

「うぁっ!…あああっ!!」

―グチュ…ブチグチュッ!―

 ゼラチン質のものが潰れる音が、激痛と共に頭の中に響いた。指が抜けるとともに、眼球だったものが流れ出て、私の顔をたれていった。

「さあ、もっと苦しめてあげよう。そして、完全に壊して…私の『物』にする…」

 そう言うと、兄様は鎖を引き上げ、無理矢理私を立ち上がらせた。私が流した大量の血液は、床を文字通り血の海にし、私と、兄様の全身を真赤に染め上げていた。

―ズチュッ!グチュッ!ズプッ!―

 片脚だけで立っている私を、兄様は壁に押し付け、無理矢理突き上げていた。私のそこは、恥かしいくらいに濡れ、与えられる快感は、全身の苦痛をも甘い疼痛に変換しているようだった。

「あふっ!…に…いさま…もっと…こふっ…」

 私は、残っている脚で必死にバランスをとり、両腕で兄様にしがみついていた。そして、血を吐きながらも、なりふり構わず兄様を求めていた。
 しかし、私が吐き出した血を被りながら、兄様は冷たい目で私を見つめている。

「私は、お前に…」
「…ふぁ…?」
「苦しめといったはずだ!!」

―ブチブチッ!―

 兄様は、私の左耳に噛み付くと、一気に食いちぎった!

「ぎぐっ!…ああああ〜っ!!」

 敏感な部分に与えられた激痛に、私は悲鳴を上げる。涙で濡れた瞳は、兄様が咥えている私の左耳を、ぼやけながらも捉えていた。

「そう、その顔だ。もっと…もっと苦しめ!!」

 そう言って、兄様は私の左の二の腕を掴むと、肉茎で更に激しく私を突き上げ始めた。そして、その突き上げが激しくなるにつれて、右手の力を強めていった。

「ぐっ!に…兄様…あぐっ…!」
「その顔だ、いいぞ…うおっ!」

 私の左腕は、完全に鬱血して紫色に変色していた。しかし、兄様は全く手の力を緩める事はなく、むしろ信じられない力で腕を握り潰していった。


―グチッ、ブツ、ブチッ!―

「あ、あ、あ…あぐ…」

 腕の脂肪と筋肉が潰れる音が、はっきりと私には聞こえる。筋肉の繊維一本一本が切れる度に、そして、骨がミシミシと悲鳴を上げる度に、私に苦痛が与えられる。

「くっ…そろそろ…出すぞ……うおおぉっ!!」
「ごふっ…兄様…あぐぅ…にいさまあぁぁぁっ!」

 兄様が私の一番奥で、熱い精を注ぎ込むのと、左腕が握りつぶされるのと、私が絶頂を迎えるのは同時にだった。

―ゴトッ―

 思ったより大きな音をたてて、私の腕が床に落ちた。残った左腕には、神経か何かが垂れ下がり、骨から骨髄がはみ出しているのが見えた。
 もう、苦痛は感じなくなっていた。ただ、傷口の熱と、いまだに私の中に挿入されている、兄様ものの熱さだけを感じる事ができた。そして私は、異常な絶頂感の余韻に浸り、残った右腕で兄様にしがみついていた。

「はぁ…はぁ…兄様ぁ…」
「アコンカグヤ…」
「…兄様…?」
「もっと…苦しめてあげるよ…」

 その時、やっと私は兄様の瞳に宿る、ある種の光に気が付いた。でも…もうそんな事はどうでも良かった。やっと…私は兄様だけの『所有物』になれる。たとえバラバラに壊されても、永遠に兄様だけのものになることができる。

「さぁ…仕上げだよ…これで、お前は私の『物』になる…」

 兄様が、剣を振りかぶる。そして、私に剣先が近づいていく。妙に時間がゆっくりと流れていくような気がした。

―ドスッ!―

 意外に軽い音を立てて、私の臍のあたりに剣が突き立てられた。剣は、そのまま私の身体を貫通し、壁に突き刺さる。

「にい……ごふっ…さまぁ…」

 私は、兄様に右手を差し出しながら、微笑みかける。右手が兄様の頬を撫でると、それに沿って、紅い筋ができる。

―ズルッ…ヌロッー

 私の中に入っていたものが、ゆっくりと引き抜かれる。その後を追うように、兄様の精と私の愛液の混合物が溢れでる。
 これで私の体重は、全て剣が支える事になった。徐々に、しかし、確実に剣は私を両断していく。

―ズルッ、ズルッ、ゴリッ―

「ああぁ…」

 私は、ただ兄様を見つめ、右手は頬に添えたまま、内臓を切り開かれる感触を味あわされていた。大腸、小腸が次々に、ぶつぶつと斬られて行く。

「もう少しだ…」
「こふっ…あ…うぁ…」

 剣の刃が胃に到達する直前で、私の残った脚が身体を支えてしまい、それ以上進まなくなった。下を見ると、開いた腹から腸がこぼれ、鮮やかなピンク色を見せている。
 すると兄様が近づき、私の腹に腕を伸ばす。

―グボッ!グチッ、メチッ!―

 兄様の腕が、腹の中に差し入れられる。兄様は、私の腹の中をかき回し、中で腕を上に曲げ、更に奥へと差し込んでいく。

「ゲホッ!…グボッ…に゛い゛…さ゛…」
「…あった…」

 掻き分けられた内臓は、鮮やかな色を見せながら、私の中から溢れ出していた。腸、肝臓、腎臓、子宮…
 そして、兄様は私の中心、『心臓』を掴んでいた。私の鼓動が兄様に伝わり、本来は感じる事のない兄様の手のぬくもりを、私は確かに感じていた。

「これで…お前は『物』になる…ものを言わない、動かない、私だけの…」
「これで…私は兄様だけの『物』になる…誰のものでもない、兄様だけの…」

 兄様の手に力がかかったその時、

―トントン…ガチャッ―

「アコンカグヤ様…何かお部屋から物音が………キャァァーッ!!!誰か!誰かっ!!!………」

 薄れ行く意識の中で私が最後に見たのは、兄様が良くわからない複数の人影に、連れていかれる所だった。

 …だ…め…兄様は………わたしだけの………わたしの…………









 悲鳴。
 ベッドから跳ね起きる。

 窓の外は満天の星空。
 虫の音が静かな音楽を奏でる。
 置時計の秒針のリズムが、私を現実に引き戻す――

 そう、今は現実――
 夢は、終わったの――

 ……自分の身体を抱き締める。
 強く。
 強く。
 強く。
 強く。
 強く――

 びしっ

 肩甲骨が圧し折れる。
 肋骨が粉砕される。

 もっと強く、身体を抱き締める。
 強く。
 強く。
 強く。
 強く。
 強く――

 折れた骨が内蔵に突き刺さる。
 唇から黒血が滴り落ちる。

 もっと痛みが欲しかった。
 やっと痛みを思い出せた。

 兄様の思い出は、苦痛の中の思い出だから……


 身体の震えが止まらない。
 自分の感情が説明できない。

 これは恐怖?

 これは歓喜?


 やっと、兄様に会えた――


 私を誰よりも愛してくれた兄様――

 私を誰よりも憎んでいた兄様――


 悲しかった――

 嬉しかった――

 
 やっと、兄様に会えた――


 でも――

 悲しいのに――

 嬉しいのに――


 
 ……なぜ……涙が出ないの……

 ……なぜ……笑えないの……


 きりきり きりきり

 きりきり きりきり


 義手が軋む……

 義手が鳴く……

 機械が軋んで……

 機械が鳴いた……


 きりきり きりきり

 きりきり きりきり


 きりきり きりきり

 きりきり きりきり
TO BE CONTINUED

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