現在のIMSOの前身――俗に、旧IMSOと呼ばれる――の名を聞けば、どんな退魔師でも顔をしかめ、唾を吐き捨てるという。 希少技術の国際的管理を名目に、世界中の退魔関連技術を強引に独占し、高名な退魔師を脅迫紛いの手段でメンバーに加盟させて、あらゆる退魔活動を徹底的に管理、傘下に収めようとしていたのだ。 この為に、ちょっとした退魔業においても、権利行使料や運営維持費という名目の、莫大な料金を収めなくてはならず、一部の金持ち以外は、魔物の恐怖にはただ蹂躙されるしかなかった。 解体された後の資料開放で発覚した悪行の中には、ある魔物のデータを調べる為に、辺境の村を襲わせて、住民を皆殺しにさせた事例も確認されたという。 現在、三大宗教系退魔組織が現IMSOに協力の意を示さず、優秀な退魔師の大半が民間退魔業界に流れているのも、この悪名が後を引いている為だろう。 だが、この旧IMSOが現在においてもなお、人類の歴史上最大最強の退魔組織であった事も紛れも無い事実であった。その総合戦力は世界中の軍隊をも凌駕し、あらゆる非難と憎悪を強引に抑えつける力を持っていたのである。 誰も、この組織には逆らえなかった。 20年前までは―― ……ここに、1つの部屋がある。 特殊強化セラミックで造られた密室――電灯も無いのに薄明るいのは、あちこちに点在する監視用モニターから光が漏れている為だ。 何かをかき混ぜるようなぐちゃぐちゃとした音に、明らかに人外の存在が漏らす嬌声。それも1つや2つでは無い。 部屋に充満する澱んだ空気の匂い……これは、魔物用の媚薬だ。それも恐ろしいほど高濃度の。 だが、その部屋で何よりも目を引くのは――鎖で中空に吊るされた女と、それに群がる魔物の群れだった。 美しい女であった。 過去形だ。 全裸の肢体には魔物の精液が泥のようにこびり付き、素肌が露出している部分はほとんど無かった。 手足は自由を奪われ、更に鎖で繋がれて大の字に広げられている。 目には特殊なゴーグルが装着されていて、そこからは24時間洗脳用の画像が流れる仕組みだ。 そして……臨月の妊婦の軽く5倍は膨らんだ腹部――はたして中に何十体の胎児がいるのだろうか。 女は犯されていた。 様々な種類の、おぞましい魔物の群れに犯されていた。 膣、肛門、尿道、へそ、口、鼻、耳……あらゆる『穴』を犯されていた。 女は『オニノメ』であった。 特別な『オニノメ』であった。 『オニノメ』――魔物の子を孕み、その魔物の力を我が物とする能力者――は、通常、他の魔物と交われば、孕んだ子は流産して、魔物の力も失ってしまう。 しかし、女は特別な『オニノメ』だった。 同時にいくらでも魔物の子を妊娠する事が可能で、子を産んでも魔物の力を維持する事ができたのである。 だから――こうして旧IMSOに捕らえられ、研究材料にされているのだ。 性器を犯していた魔物が奇声を上げながら射精して、ずるりとグロテスクなペニスを抜き出す。一拍置いて、新たな魔物の赤子が自ら膣をこじ開けるように産まれて、ボトリと床に落ちた。 特殊な結界が施されているこの部屋では、母体は常に排卵を促され、受精から数日で赤子が産まれる。同時に赤子は2日たらずで成体に成長して、そのまま新たな子種として母親を犯すという仕組みだ。 隣室では、研究者達が検出されるデータを機械のように冷酷に調べている。 彼等の理論が正しいなら、このまま女は無限に魔物の力を取り込んで、生きた魔導ジェネレーターと言うべき存在となって、組織に無限のエネルギーを与えてくれる筈だ。 だが―― 旧IMSOは、2つのミスを犯した。 1つは、ある種の洗脳魔法で完全に制御化にあるはずの魔物達が、その数が増え過ぎた為に制御力が弱まり、女の身体を奪い合って、その身体を再生不可能なまでに引き裂いてしまった事。 そして――もう1つ。 行方不明の姉を探していた双子の妹に、その事実を知られてしまった事…… ……旧IMSOは一夜で消滅した。 世界最強の軍事力も、世界最強の能力者達も、たった1人の“彼女”の前に壊滅された。 皮肉にも、これを機に旧IMSOは再編成されて、現在のように健全な組織となったのである。 “彼女”の行為も情状酌量の余地があるとして、厳重な監視下に置く事を条件に、その責を問われる事は無かった。旧IMSOの存在を、誰もが疎ましく思っていたのも理由の1つだろう。 だが―― 真に“彼女”の責が問われなかった理由―― それは、誰もが“彼女”を恐れたからだ―― みんな、“彼女”を恐れた―― 人類最強の力を持つ、その存在を恐れた―― だから―― “彼女”には、あの二つ名が冠される事となった―― その名は…… 鮮血が道路にぶちまけられた。 続いて、重火器とマジックアイテムで武装した男が、全身を穴だらけにしてアスファルトに沈む。 「ひ、怯むな!!撃てぇ!!」 “内閣特務戦闘部隊――内閣が秘密裏に開設した、各々が素手で下級妖魔すら引き裂く戦闘力と、最新鋭の戦闘装備を所有する、最強の特殊部隊――第3特殊戦闘警備班”班長の叫びに、隊員達が死に物狂いで自動小銃を乱射した。 火を吹く銃口の数は30を超える。それは全て同一の――1組の目標に向けられていた。 ターゲットは――人類最強の戦闘力を持つ、巨凶なる魔人―― 真紅の満月が降臨する夜空の下――閉鎖された商店街の大通り――遠巻きに見つめる近所の野次馬達――即席のバリケードに陣を張る特殊部隊――そして、弾丸のシャワーを浴びながら、まっすぐ銃口に向かって歩いて来る、1組の男女―― 異様な外見の男女だった。 いや、服装そのものは奇妙な所は無い。ただ場違いなだけだ。 男は、下半身がデニムのジーンズ。上半身はなんと裸だ。 女は、近世ヨーロッパ風のメイド服。ただし、エプロンドレスから頭のホワイトプリムまで、完全な黒1色に染められている。 そして、異様と称されたのは、その美しさがあまりにも人間離れしているからだった。 「おいで……」 その声を聞いた全ての者が、股間から脳天まで電気が走る感覚に身悶えする――そんな声が、男の口から発せられた。 ウェーブのかかったプラチナブロンドの長髪が、風も無いのにさらさらと流れて、無駄な脂肪の無い引き締まった裸体を撫でる。 危険な光を宿した切れ長の瞳。赤くぬらぬらと濡れた唇。絶妙な曲線を描く顎のライン――どこを取っても完璧な、そして恐ろしいほどセクシーな、天使のように――いや、悪魔のように美しい青年だった。 「さぁ、おいで……」 紫のマニキュアが塗られた指が、ゆっくりと手招きする。 何もかも忘れて、フラフラと青年の足元に傅きたいのを必死に抑えながら、隊員達は自動小銃の引き金を引き続けた。 だが、実際に青年が呼びかけているのは、隊員ではなかったのだ。もし、隊員に呼びかけていれば、彼等は全てを投げ捨てて青年の元に走っただろう。 それは―― 「――!?」 隊員達は目を見張った。 発射された弾丸は、全て青年に命中するギリギリの所で、空中に停止しているのである。 結界やバリアーの類ではない。この弾丸は対魔物用の強化魔導破砕弾だ。一撃で巨竜すら仕留める威力があり、如何なる物理防御も魔法防御も無効とする……筈であった。いや、それ以前に、センサーにはあの青年が魔法や特殊能力を使用した痕跡は、何も感知されていないのだ。 では、これは――? 「欲しいですか?」 青年が蕩けるような声で呼びかける。 隊員や相棒の女へではない。 「欲しいですか?……私の心が。私の愛が。私の快楽が」 それは、彼の周囲に浮かぶ『弾丸』に語られていた。 「ならば、私に隷属するのです。私にその身体を捧げるのです。私の隷奴となるのです」 弾丸が――震えた。 「そうすれば、私が望みをかなえてあげましょう。私が愛してあげましょう。私が悠久の快楽をあげましょう。」 青年が微笑んだ。 「さぁ、行きなさい」 弾丸も微笑んだ。 「ぐわぁああああ!!!」 身体中を穴だらけにしながら、隊員達が吹き飛ばされたのは次の一瞬だった。 青年の周囲の弾丸は、どこにも見当たらない。 そう、隊員達を襲ったのは、自分が撃った弾丸だったのである。 「さ、散開しろ!!」 生き残った隊員達が、半ば恐慌状態になりながら青年を取り囲む。 がたがた震える銃口に、その恐るべき魔人―― ――地上を被う邪悪の深淵を支配せし、闇より暗き影。国際犯罪組織『ヒュドラ』……かの九頭の邪竜が剥く牙の、最も鋭き毒牙『ナイン・トゥース』……その呪われた称号に名を連ねる者の1人、『“邪淫”王リムリス』は、最高の笑みを浮かべて見せた。 「ひぃいいいい!!!」 もう1人の魔人――あの片割れのメイド女と対峙した隊員の方は、更に異様な体験をする事となった。 死に物狂いで乱射される弾丸が、灼熱の螺旋を大気に穿ちながら、メイド女に殺到する。 ……だが、リムリスの例を上げるまでもなく、この魔人にも弾丸は通用しないだろう…… 果たして弾丸は――避けられるか?受けられるか?無効化されるか? まさか、すり抜けるとは。 メイド女の背後のビルが、強化魔導破砕弾に焼き尽くされて、轟音を立てて倒壊する。 瓦礫と炎がもうもうと立ちこめる中、黒尽くめのメイド女が、地獄を彷徨する魔王のように悠然と歩み寄ってきた。 黒い。黒い。どこまでも黒い女だった。 三つ編みにまとめた黒髪に、全てが黒1色で統一されたメイド服。顔や手首から先などの地肌が露出する部分まで、黒い包帯状の布で被われていた。闇夜にでも紛れたら、誰にも見つけられないだろう。 ただ、1個所を除いて―― 鈍く輝く、銀色の流線。 右手に握られた、肉切り包丁だ。 女の周囲に転がるのは、隊員の生首と、首の無い胴体――まさか、この包丁一本で? ……ここで、黒い女が奇妙な行動を取った。 それまでは、真っ直ぐ隊員達に向かっていたのだが、なぜか意識的に1歩、右に身体をずらしたのだ。この状況では、何か意味があるとは思えない。 だが、そんな事を気にしていられる者など1人もいなかった。 自動小銃を構え、攻撃用呪符を取り出し、防御用結界の呪文を詠唱していた隊員達が、突然、一斉に苦悶の叫びを漏らしながら喉を掻き毟り、どうっと大地に倒れこんだのだ。 そのまま動かない。 全員、即死していた。 何が起こったのか。 苦痛に歪む顔の下にも、傷1つ無い――いや、今この瞬間、何の前触れもなく、突然その喉元がぱっくりと裂けた!! どくどくとどす黒い血があふれ出る傷口は、異様にシャープな断面を覗かせていた。 まるで、鋭利な刃物で斬られたような―― 謎の手段で一瞬にして隊員達を葬った女は、ここでまた奇妙な行動を取った。 即死した隊員のそばに近付いて――何も無い空間を、その肉切り包丁で切り裂いたのだ。 その場所は、殺された隊員が立っていれば、ちょうど喉元に位置していた。 まさか―― 「ば、化け物めッ!!!」 半狂乱の隊員達が乱射する、弾丸の洗礼を『素通し』させながら、メイド女が残る獲物を仕留めようと、悠然と歩み寄る姿を横目で見て、 「――流石は『“破神”冥(めい)』……我が同志ながら、決して敵には回したくない、恐ろしい御方ですね」 “邪淫”王リムリスは、さわやかに唇を歪めた。 「増援を派遣できないだと!?どういう事だ!!」 後方で指揮をとっていた第3特殊戦闘警備班班長が、通信機のコンソールに怒鳴り散らした。その顔には焦りと絶望が深く深く刻まれている。 この第3特殊戦闘警備班は、現在における人類最大の脅威たる『魔界大帝』と、その関係者を監視するのが役目であった。場合によっては、彼等に接触する存在への警告と排除も任務に含まれている。 だが、本来ならばこの内閣直属戦闘部隊以外にも、数多くの退魔組織が独自に魔界大帝達への監視と警備を行っていたのだ。しかし、1週間以上前から世界を騒がしている、首都東京の結界封鎖事件に駆り出されてしまい。現在、その任務についているのは、この第3特殊戦闘警備班だけとなっていた。 「部隊は壊滅状態だ。もう戦線を維持できない!!……いいかっ!!あのナイン・トゥースが2人もこの場にいるんだぞ!!」 国際犯罪組織『ヒュドラ』の特務戦闘員『ナイン・トゥース』といえば、人類最強にして最凶の戦闘能力者として、その恐怖があらゆる組織に轟いている存在だ。その戦闘能力は、まさに『魔人』の形容が相応しく、同じく人類最強クラスの能力者で対処しなければ、たとえ国連軍を派遣しても壊滅を免れないと言われている。 そんな怪物が2人も――班長の動揺も無理は無かった。 「――首都結界閉鎖の件に、全ての人員が駆り出されているだと?……増援を派遣するには最低でも5時間は必要だぁ!?ふざけろ!!奴等の目的は間違い無く魔界大帝だ!!このままでは世界が滅び――」 コンソールに叫ぶ態勢のまま、班長の動きが止まった。 雷光のように閃いた1つの答えに、全ての思考が支配されたのである。 「……まさか……あの、首都を結界で封じて、ナイン・トゥースが暴れているという状況は……全ての退魔組織をそこに釘付けにする為の……陽動!?……そして……ヒュドラの真の目的は……」 ぼとり 通信機の上に落ちてきた物体が、班長の思考を停止させる。 部下の生首だった。 「正解ですよ」 目の前に立つ、2人のナイン・トゥースの姿に、班長は凍りついた。 「い、いつの間に……」 「東京の大騒ぎは、全て目障りな連中の目をこの町からそらす為の囮。我等がナイン・トゥースを4人も使った――いや、勝手に乱入してきたのが2人いますから、6人でしたね――とても贅沢な陽動です。そして、この私と冥さんこそが、今回の作戦の本命なのですよ」 芝居めいた身振りを交えて、リムリスは自分の発言に酔いしれていた。見た目通りのナルシズムを、たっぷりと持っているらしい。 「我等ヒュドラの真の目的……それは、魔界大帝とコミュニケーションを取っている女、『セリナ』の奪取と、彼女を利用した魔界大帝の完全支配で――」 がん ぐきっ 真横から激突してきた瓦礫の衝撃に、リムリスの首が90°折れた。 「……あいたたた……な、何をするのですか!?冥さん!!」 「…………」 「え?敵に作戦を教えるバカがどこにいるって!?……いいじゃないですか。どうせみんな殺すのですから――」 ゴトゴトゴト…… やられっぱなしとはいえ、身内漫才の隙を見逃すような内閣特務戦闘部隊ではない。 班長が素早く離脱したのと同時に、リムリスの足元に転がってきた物体。それは―― 紅蓮の爆風が美青年を被い尽くす。 虚無魔法付与対消滅手榴弾――この破壊力に耐えうる生物は、地球上には存在しない。 「命中すれば――ね」 存在しない筈であった。 無傷のリムリスの周囲には、あたかも時間を止めたように、爆風がそのままの形で固まっていた。 いや、よく見れば爆風がかすかに震えているのがわかる。 あたかも、オルガスムスに達した美女の裸身の如く。 これは――先程の弾丸と同じだ。 「強い人なら苦痛に耐えられます。優しい人なら悲しみに耐えられます。明日を信じる人なら絶望に耐えられます……しかし、『快楽』に耐えられる人はいません。絶対に」 細く、しなやかな指先が、そっと爆風を撫でると――案の定、紅蓮の爆風は手榴弾を投擲した隊員の元へ押し寄せてきた。 「なぜなら、人が求める身体と心の究極目的とは、とどのつまり全てが快楽に基づく存在だからです。食欲、性欲、睡眠欲……人類の存続に必要なこれらは、全て快楽を伴っています。愛、友情、信頼、向上心、達成感、充実感……人生の目標とされる全ては、精神の快楽そのものです」 隊員は慌てながらも対・虚無魔法付与対消滅手榴弾用防御スクリーンのスイッチを入れた。自分の武器や技に対する防御手段を準備しておくのは、戦闘者として基本中の基本だ。 だが、その防御手段を完全に無効化する属性に、爆風そのものが変化していたら? 「女は男で変わります。男は女で変わります。純粋無垢な乙女が、苦痛と快楽の元に調教され、淫猥な隷奴となる……よくある戯言です。しかし、私にとっては真実だ。その爆風は、もう元の爆風ではありません」 その隊員は声も無く焼き尽くされた。 絶望の呻き声を洩らし、じりじりと後退する隊員達。黄金色の前髪をかきあげながら、ぞくりとする流し目を送るリムリス――それはまさしく、邪なる淫魔の王者の風格。 「単なる物質や抽象的概念に至るまで、快楽の奴隷として支配し、好きな存在へと作り変える……それがこの私『“邪淫”王リムリス』の能力で――」 ごん ばきっ 己自身に陶酔しているリムリスの後頭部に、鉄骨が勢いよく食い込んだ。 「……ぐぉおおお……な、な、何をするのですか!?冥さん!!」 「…………」 「え?敵に自分の能力を教えるアホがどこにいるって!?……い、いいじゃないですか。これは一種のお約束で――」 冥が更にツッコミを入れようとした時――その額に風穴が開いて、血と脳漿がぶちまけられた。続けて全身が蜂の巣にされる。糸が切れた人形のように、冥の小柄な身体は瓦礫の中に沈んだ。 「やったぞ!!」 自動小銃の銃口から硝煙を立ち昇らせながら、隊員の1人が歓声を上げた。 今回はちゃんとあの女に命中した。すり抜けなかったのは、ツッコミに気を取られていたからだろうか? いや―― 「おやおや、また死んでしまいましたねぇ」 他人事のようなリムリスの言葉に抗議するように、死んでいる筈の冥の頭が、ぎりぎりと上を向いた。 隊員達の間に動揺が走る。 ばかな!!今のはあらゆる属性の攻撃系魔法が付与された特殊魔導弾だ。無効化されるならまだしも、直撃を食らって生きていられる筈が無い――!! 「死にましたよ。彼女は」 ゆっくりと、漆黒のメイド女が上体を持ち上げる。 「ただし、死ぬのが実行されるのは、今から数兆年後の事ですがね」 ゆらり、と幽鬼の如く立ち上がった冥を見ながら、リムリスは可笑しそうに笑った。 黒い包帯の隙間から覗く瞳が、自分を攻撃した隊員に向けられる。 「ひっ」 短い悲鳴を上げて、思わず1歩後退した隊員は、 ごとり すぐ近くに、何かが落ちる音を聞いた。 辺りを見回すと、落とした物はすぐ足元で見つかった。 人間の生首だ。 彼は、その生首に見覚えがあった。 よく見かける顔だ――特に鏡を見た時に。 それは、自分の生首だった。 噴水のように撒き散らされる鮮血を浴びながら、冥は悠然と隊員の傍に近付いて――何も無い空間を、肉切り包丁で薙いだ。 その隊員が立っていれば、ちょうど喉元に位置する空間を。 「その女……まさか……『順番』を……!!」 「やれやれ、やっと気付きましたか」 絶望に包まれた班長の呟きを、呆れた調子でリムリスが受けた。 「普通、攻撃を回避するには、その攻撃を動いて避ける必要があります。しかし、彼女は『回避した後で、攻撃を動いて避ける』事ができるのです。相手を攻撃する時も同様に、切ってから相手が死ぬのではなく、『相手をいきなり殺してから、後で切る』のですよ。事象の流れの順番を自在に操る――それが彼女『“破神”冥』の能力“順逆自在”です」 事象の順番を操る。その能力は―― どんな攻撃も避ける事ができる。後で避ければいいからだ。 どんな攻撃を受けても無効化できる。攻撃を受けたという事実を、はるか未来に持ち越せばいいからだ。 どんな相手にも攻撃を当てる事ができる。後で当てればいいからだ。 どんな相手も殺す事ができる。後で殺す方法を探せばいいからだ。 まさに無敵の能力―― 「“破神”冥――それは、まさしく『神の摂理を破壊する』力を持つ魔人なので――」 どがん めしゃ 高らかに唄うリムリスの脳天に、折れた電柱が直撃した。 「……あがががが……な、な、な、何をするのですか!?冥さん!!」 「…………」 「え?勝手に人の能力を暴露するんじゃない!?……で、でも貴方の能力ってわかりにくいですから、ちゃんと解説しないと……」 再び身内漫才を続けるナイン・トゥースだが、その隙に攻撃しようとする者は、もう誰もいなかった。 天地がひっくり返っても、絶対に勝てない。 それが絶対の真実だと、隊員達には理解できたのだ。わかってしまったのだ。 「おや、もうお終いですか?それでは大人しく死んでくださいね」 「……悪魔め……」 「…………」 「心外な事を言うな。攻撃してきたのはお前達だ。私達は反撃しただけ。剣を向けた代償は、己の命で償え――そう、彼女は言っています」 「くっ……」 「では、お死になさい」 2人の美しき魔人が、ゆっくりと隊員達に向かって足を進め始める。 恐怖と絶望に心を握り締められながら、隊員達は誰もが同じ事を祈っていた。 ――ああ、神でも悪魔でもかまわない。かの魔人を打ち倒したまえ―― その願い かなえよう でも はたして 来るのはどちらかな? 「はいはい、ちょっと通してくださいね」 ――今、彼は来り―― その時――立ちすくむ隊員達をかき分けて、リムリスと冥の前に、1人の男が出現した。 歳は30直前ぐらいか。薄汚れたつなぎの作業着を着た、特徴の無い事が特徴になりそうな、地味な印象の男だった。それなりに整った顔つきだが、異性にモテるタイプでは無い。体付きも肉体労働者に相応しく頑健そうだが、どことなく頼りなさそうな雰囲気だ。 「――ば、バカ野郎!!民間人は引っ込んでいろ!!」 「いやぁ、ちょっと急いでるもので。この道が一番の近道なんですよ」 隊員の制止を丁重に無視して、目の前の相手が地上最強の魔人であることも知らずに、男は平然と歩んでいく。そのあまりにも飄々とした姿に、ナイン・トゥースの面々も少しあっけに取られたようだが、 「……これはこれは堂々とした御方ですね」 リムリスはにこやかに微笑んで、冥は無言のまま彼を迎えた。犯罪組織に仕えているとはいえ、2人ともそれほど血の気が多いわけでは無いのである。少なくとも敵以外の者も無作為に殺すような性癖は持ち合わせていなかった。東京で無差別殺戮に興じている同僚と比べれば、相当な平和主義者だといえるだろう。 「それでは早く通り抜けてください。ここは危険ですから」 「あ、スンマセン」 いそいそと2人の間を、男が小走りで駆け抜け――ようとした瞬間!! ――ッ!? リムリスの『邪淫の手』が、神速の抜き手と化して走った。 冥の肉切り包丁が、白銀の斬線を描いた。 男は成す術も無く、その身体を貫かれ、切り裂かれた。 ――が、 「危ないなぁ」 何事も無かったように歩み去る無傷の男――2人が攻撃したのは残像だったのだ。 「……やはり、一筋縄ではいきませんか……」 ざざざ、と2人の魔人が男の前に回り込む。 その可憐で、恐ろしい美貌には、先程、内閣特務戦闘部隊を相手にしていた時の余裕は、どこにも無かった。 「まさか、斯様な地で貴方に会えるとは思いませんでしたよ……『“死殺天人(シャアティェンレン)”御剣 刀一郎』!!!」 リムリスの端正な額を、一筋の汗が流れる―― 「……何をしているんだ?あいつ等……」 突然、矛先を見知らぬ一般人に向けたナイン・トゥースを遠巻きに散開しながら、隊員達が疑問を抱いた。 どう考えても、あんな頼りなさそうな男に、かの世界最強の魔人を引き付ける要素があるとは思えない。 「ですが、今がチャンスですよ」 そう言って、構えたライフルのスコープを覗いた隊員は――次の瞬間、転げ落ちる自分の生首を同僚に見せる羽目となった。 「くっ……俺達に隙は見せても、奴等の戦力には関係無いのか」 もはや、内閣特務戦闘部隊の手におえる相手ではない事は明白であった。こうして、野次馬どもと一緒に遠巻きに見ているのが精一杯だ。 「しかし――“死殺天人”――その名、何処かで……」 「……“死殺天人”ねぇ……まさか、その名前を知っている人がまだいたなんて……」 男は溜息を吐きながら、ぼさぼさ頭をぼりぼりと掻いた。酷く疲れた様子だった。 「え〜と、でも今の僕の名前は『御剣 刀一郎』じゃなくって『三剣 藤一郎』だからね。間違えないようにね」 「……?」 「あ、発音は同じだからわからないか」 「何を意味不明な事を――!!」 リムリスは静かに腰を屈めた。冥は無言で肉切り包丁を構えている。 「それで、僕に何の用ですか?」 「今更説明する必要も無いでしょう。貴方ほどの危険な存在を無視する訳にはいきません。これは正義も悪も関係のない、人類としての義務です」 じりっ 藤一郎の薄汚れた作業靴が、微かな音を立てた。 周囲の空気に一本、冷たい『線』が走ったような感覚が、場の全員に感じられた。 冷たく、鋭く、危険な『線』が。 その『線』に何かが触れた時――誰かが死ぬ。 「……あのぅ、本当にやめませんか……」 どこか苦しそうな表情で、藤一郎が呻いた。 「今の僕は……ちょっと下品な言い方だけど……爆発しそうなんですよ」 「ならば、その前に滅びなさい!!」 リムリスの『邪淫の手』が、素早く地面を撫でた。 大地が震えた。 突然の地震――後に判明した事だが、この瞬間、世界中のあらゆる場所で地震が観測されたのである。 微細な振動は止まらない。まるで、快楽に震える淫女の如く―― ――まさか、地球を!? 「行きなさい。我が愛奴よ!!」 大地が悦楽の叫びをあげる。 藤一郎の足元が突然裂けた。慌ててバランスを立て直そうとした瞬間、背後のアスファルトがめくれ上がって、藤一郎を押し潰さんと襲いかかる。思わず動きが止まったのと同時に、地割れがその身体をすっぽりと飲み込んだ。大地の牙が噛み合う、凄まじい轟音――が、 「ととと……」 地割れの傍でよろけているのは、間違い無く藤一郎だ。地割れが閉じる瞬間に、その中から脱出できたのだ。 だが、 「その動きは予想済みですよ!!」 ばっと背後に出現したリムリスの抜き手が、藤一郎の背中に突き刺さった!! “邪淫”王リムリスの『邪淫の手』。 生物、非生物を問わず、あらゆる存在に無限の快楽を与え、己の奴隷とする恐るべき魔技――その手が人間に直接触れれば? 解答は『あまりの快楽に、精神崩壊する』だ。その答えに例外は無い。 「――けっこう気持ちいいっスね。按摩さんですか?」 「――ッ!!」 これが、最初の例外――常識が崩壊した瞬間だった。 やけに緩慢な動きで、藤一郎が振り返る。 温厚で暢気そうな顔立ち――いつもの藤一郎だ。 そして、いつもの藤一郎ではなかった。 「お返し」 どっ!! リムリスの切れ長の目が、大きく見開かれる。真紅のしたたりが、美しい唇からあふれ出る。 ちょうど心臓の位置に、藤一郎の抜き手が深々と突き刺さっていた。 「……ば…ばかなッ……なぜ……わたし…に……ふれ…る……こ……と……が………」 ずるり、と赤い掌が引き抜かれる。 その美しい身体が大地に沈む前に、“邪淫”王リムリスの命は消滅していた。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 沈黙が世界を支配する。 誰もが、指一本動かせない。 『世界最強の魔人、ナイン・トゥースが、素手の一撃で殺された!?』 有り得ない光景を目撃した人間の、唯一の反応――それが、ヒトという生き物の限界だ。 「…………」 黒尽くめの影が動いた。 最初に行動できた者は、やはりもう1人の魔人だった。 右手の肉切り包丁が、死神の手招きを思わせる動きで、ゆらゆらと揺れる。 「やっぱり、あなたもやるんですか……」 他人事のような藤一郎の溜息。その無防備な姿に何を感じたのか、 「…………」 「え?気に入らない奴だけど、同志を滅ぼされて黙っていられる訳が無い?……そう言われても、最初に仕掛けてきたのはあなた達でしょ?」 冥の全身から、漲るような激情が噴出した。 殺気と――戦慄が。 「…………」 肉切り包丁の形を取った死神の鎌が、必殺の力を解き放つ!! 「んっ……」 藤一郎が、顔をしかめながら喉元を押さえた。 あらゆる事象の『順番』を入れ替える能力――この脅威の力の前には、如何なる防御も不可能だ。『殺された』という事実が先行して、どんな相手でも即死してしまう。後は死んだ相手をゆっくり攻撃すればいい。 「ごほっごほっ……失礼、ちょっと風邪気味で」 黒い包帯の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。 何事も無かったように、喉を撫でる藤一郎――有り得ない!! 冥の能力なら、たとえ物理的攻撃が通じない相手でも、一撃で切り殺す事が可能な筈だ。後で倒す方法を探せば良いのだから―― 「…………」 稲妻の如き閃き――その予測が、冥の心臓を握り潰した。 まさか……未来永劫、如何なる奇跡が起こっても、絶対にこの男を殺す方法は発見できないという事か!? 「じゃ、お姉さんにもお返し」 ざんっ 園芸用の鋸を――いつ、取り出したのか?――薙ぎ払った姿勢のまま、藤一郎はにこやかに微笑んだ。 普段と変わらぬ笑み――そして、普段とかけ離れた笑み。 「…………」 その笑みを見つめながら、冥の生首は鮮血を撒き散らして地面に落下した。 己に対する全ての干渉を、遥か未来へ後回しにできる能力が、完全に無効化された事実に驚愕しながら、“破神”冥は即死した。 「ははは、まいったなぁ……」 返り血に染まった作業着を、苦笑しながら摘まむ、三十路間近の冴えない男――この男が、あのナイン・トゥースを瞬殺したというのか!? この血塗れの男が、あの藤一郎だというのか!? 秋の夜空を鮮血に染める――滑稽なる悪夢の降臨。 「き、君……」 俯いたまま動かない藤一郎の前に、今まで遠巻きに見ていた班長が恐る恐る近付いた。 藤一郎は――無反応だ。 「よくぞナイン・トゥースを退治してくれた。貴君の協力に感謝する」 「……はぁ」 「そして、さよならだ」 重々しい銃声が、夜の街に轟いた。 額に1箇所、心臓と腹部に2箇所づつ、対人用破砕魔導弾をぶちこまれた藤一郎は、風穴から脳漿とどす黒い血を噴き出しながら、あっけなく吹き飛ばされた。 2・3回アスファルトの上をバウンドして、そのままうつ伏せの姿勢で動かない『命の恩人』が、完全に死亡した事を視認してから、 「掃射開始」 感情の無い命令だった。 「ぎゃあ!!」 「ひ、ひぃぃ!!」 「た、た、助け――!!」 あちこちで悲鳴と断末魔が上がった。 隊員の生き残り達が、一部始終を目撃していた野次馬に、自動小銃を発砲しているのだ。 ただ、そこに居ただけの理由で、一般市民が穴だらけにされていく。 咄嗟に恋人をかばおうとした青年が、その恋人ごと蜂の巣になる。 頭が吹っ飛んだ母親の死体にすがりつき、泣きじゃくる女の子が、次の瞬間に挽肉と化す。 地獄はこれからが本番だった。 「少々トラブルはあったが、ナイン・トゥースの排除は成功した。現在、証拠と目撃者を処分している」 通信機のコンソールに話し掛ける班長の口元には、薄い笑みすら浮かんでいた。 「我々の撤退を確認後、この地区に対消滅ミサイルを撃ち込め……そうだ、証拠の抹消が最優先だ……いいか、絶対に魔界大帝の所在地に被害が及ばないよう注意するんだぞ……安心しろ。全てはヒュドラがやった事にすればいい」 魔界大帝の情報と、我等が内閣特務戦闘部隊の存在は、絶対に外部に洩らしてはならない。その為なら、町と住民の1つや2つ消滅した所で、政府には何のデメリットも無いのだ―― 「目撃者の掃討を完了しました」 背後からの部下の連絡に、 「了解。総員、撤退を開始しろ」 振り向きもしないで、班長が答える。 「…………」 「……どうした?返事は――」 「あなた達の所為だよ」 部下の声ではなかった。 愕然と振り向いた班長の目の前に、全身をズタズタに切り裂かれた部下が崩れ落ちた。 その向こうに、あの男がいた。 全身を真紅に染めて、奇妙な園芸道具を持った冴えない庭師――三剣 藤一郎が。 いや、御剣 刀一郎が―― 「きっかけを作ったのはセリナさんとアンコさんだけど、僕を目覚めさせたのは、あなた達の所為だからね」 その姿は――まさに、恐怖と戦慄の魔人。 ……いや、そんな単純なものではない。 生あるものに等しく死を与える使命を、天上の存在から授かった、『死と殺戮』の――『人にして天なる者』。 「う、撃てっ!!撃ち殺せぇ!!!」 半狂乱の班長の叫び――だが、銃声は1つも鳴らない。 周囲を見回さなくても、その理由は容易く理解できた。 「……お、お、思い出したぞ……『死殺天人』……その二つ名を……」 ぺたん、と血溜まりの上に腰を抜かしたまま、顔面蒼白の班長は何者かに強要されるように、言葉を続ける。 「……15年前……東京……たった1人で数百万人もの都民を虐殺し……派遣された世界中の戦闘能力者達を皆殺しにした男……この世で唯一『魔人』を駆逐できる存在……『天人』……それが……お前かぁ!!」 ……昔、ある狂死した聖者が言った。 『1人殺すのは殺人だが、百万人殺せば英雄になる。そして、全てを殺すのは“神”である』 ――と。 生きとし生けるものは、必ず死ぬ――それは絶対の真理。この世界を構成する最初で最後の法則。それは“天”の意志―― 古来より、幾度かこの『天の法則』そのものの力を持つ者が出現した。 それは、“天”なる“人”――すなわち『天人』。 『天人』とは何者なのか――それは、誰にもわからない。人にわかる筈が無い。 彼等は、真の意味で『人を超越したもの』なのだから。 そして、彼の司る“天の法則”は―― ――『死』―― 生あるものは必ず死ぬ。形あるものはいずれ滅びる。この世に不変のものなど無い――それが、彼の存在そのもの。 すなわち――“死殺天人”―― なぜ、彼のような者が存在するのか――存在できるのか―― それは…… 「うん」 新たな鮮血が、アスファルトを赤く染めた。 それっきり、この地獄で蠢く存在は、彼だけとなった。 『“死殺天人”御剣 刀一郎』――ナイン・トゥースすら凌駕せし、ただ唯一『極東魔女』のみが対抗できる、地上最大最強の戦闘能力者―― ――ここに、復活。 |
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