今から100億年前――天界、魔界、精霊界、冥界……四大種族の世界は、恐怖と絶望の影に閉ざされていた。
 世界最大最強最高の超々々高位存在、『大聖』によって、全ての四大種族は存在意義レベルまで完全支配されていたのである。
 歴代2番目の出現である大聖――通称『陽龍大聖』は、誕生とほぼ同時に大聖として覚醒し、その絶大な力によって瞬く間に四大種族を支配化に置いたという。
 そして、“恐怖”の歴史が始まった。
 あらゆる悪の形容詞が該当すると称された陽龍大聖は、呼吸するように邪悪を振り撒いた。彼の思考は最悪の狂気しか存在せず、しかも己自身がその邪悪を自覚して、楽しんでいたのだ。
 陽龍大聖が世界を支配していた期間、あらゆる種族の人口の80%が、陽龍大聖自身の手による拷問で殺されたというのは紛れも無い事実である。冥界は冥王もろとも破壊され、精霊界は焼き尽くされた。天界は上層部を皆殺しにされた上、二度と汚染が浄化されないよう呪いをかけられた。魔界に至っては、民の絶対の忠誠対象である魔界大帝(女帝だった)を大聖専属の肉奴隷に堕とされた。嘲笑いながら魔界大帝を陵辱する大聖の姿を見て、魔界の民は百億の叫びを洩らし、千億の涙を流したという。
 更に陽龍大聖は、世界のあらゆる存在に無限の苦痛と永遠の恐怖を与えながら、この世界そのものを完全に消滅させようと考えていた。彼にとって自分以外の存在は、その邪悪を満たすためだけの獲物に過ぎず、最終的には自分以外のあらゆる存在を否定していたのである。
 絶望と恐怖の渦中、世界は滅びようとしていた……『それ』が誕生するまでは。
 僅かな抵抗を続けていたレジスタンスの中で、天界軍科学技術省の残党と鬼族院アカデミーのメンバーが、ある鬼族の天才科学者の協力を経て、対陽龍大聖用の兵器を完成させたのだ。
 最後の希望となった兵器――それは、ある神族を母体に完成した生体兵器――1人の暗殺者であった。
 だが、すぐにこの事実は陽龍大聖に発覚し、関係者は全て究極の苦痛の中で惨殺されたという。
 ただ1人、その暗殺者を除いて。
 数日後――この世のあらゆる富と恵みを集結させた豪奢な城砦の中から、陽龍大聖と魔界大帝の死体が発見された。
 無限の力で世界を支配し、その名を口にする事すら許されぬ恐怖の化身――陽龍大聖は、あの暗殺者に殺されたのである。
 余談ではあるが、この暗殺者に陽龍大聖と自分自身の暗殺を依頼したのは、かの魔界大帝であったという。
 その後、四大種族の解放と世界の支配権を巡って様々な混乱が起こる中、あの暗殺者の存在は、やがて歴史の奔流の中に消えた。
 しかし――誰もが覚えていた。
 世界の救世主であると同時に、大聖すら殺し得る恐怖の死神である暗殺者を遺伝子レベルで記憶していた。
 それゆえ、神々は暗殺者にあの称号を与えたのだ。
 “神”でありながら“魔”の二つ名を持つ、ただ1人の神族――暗殺者はこう呼ばれていた。
 ――“魔将元帥”と――



※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 きゅっと蛇口を締める音が洗面所に響き、絞られた布が洗面器の中に放られる。
 背筋を伸ばしながら洗面所の扉を開けたのは、どこか眠そうな藤一郎であった。

「アンコさん、大丈夫かなぁ」

 あまり心配しているようには聞こえない口調で藤一郎は呟いたが、無論、本気で彼女を心配していた。どんな時も呑気な風体に見られるというのは、彼にとってはあまり有り難く無い特徴だった。

「あの2人は大丈夫みたいだけど……」

 不幸中の幸いといえば、先程クリシュファルスと樹羅夢姫の様子を見に行った際、2人とも特に苦しい様子を見せずに安眠していた事だろう。やはり2人の体調不良は精神的なものらしかった。上手く行けば思ったよりも早く回復するかもしれない。

「とにかく、アンコさんが戻ってくるまでは僕が2人を守らなきゃ」

 とはいっても、神様が本当に攻めて来たら、脆弱な地球人類の1人に過ぎない自分は何の役にもたたないだろう……ネガティブな事実が脳裏に浮かんで、藤一郎はぼさぼさの頭を軽く振った。どうも暗い考えになってしまう。思ったより自分も疲れているのかもしれない。
 とりあえず、樹羅夢姫達が寝ている部屋で本でも読んでいようかと、足を運ぼうとして――ふと、藤一郎は奇妙な光景を目撃した。
 正確には奇妙でも何でも無い。見慣れた廊下の光景であり、壁が壊れているなど特に廊下として異常があるわけでも無い。
 奇妙な点とは――高さ。
 視界の高さだった。
 まるで自分が床すれすれまで身を屈めているかのように、視界が異常に低いのである。

(……え?)

 疑念に首を傾げようとした矢先、ぼたぼたと頭に大量の雨を感じた――屋敷の中で!?
 生暖かく、どろどろとした真っ赤な雨……それが鮮血だと理解した時、藤一郎は自分の首が切断されている事を知った。
 廊下を歩こうとした姿勢のまま、頭の無い藤一郎が首の切断面から噴水のように真紅の血を噴出し、足元に転がる藤一郎の生首を赤く染める。
 その前方に、天井からひらひらと1枚の布が舞い落ちた。
 テーブルクロスぐらいの薄汚いボロ布だった。あちこちがほつれた灰色の布は、軽く手揉みするだけでバラバラになりそうだ。
 平べったく廊下に広がった灰色の布は、しかしただの布切れではなかった。
 異変が生じた。
 上から摘むように中心部分が盛り上がり、瞬く間にそれは――1人の人間の姿となったのである。
 いや、人間なのかどうかはわからない。頭から足元まで灰色の布をすっぽりとかぶり、身体の輪郭が見える部分はどこにも無かった。背は低い。1mにも満たないかもしれない。そして、おそらく手があると思われる部分の布の隙間から、異様な武器を覗かせていた。トンファーと呼ばれる武器に似ているが、異常なほど長く、打棒の部分が鋭利な両刃の剣になっている。刃の部分だけで2mを軽く超えるだろう長大なブレードトンファーは、地球上の武器には有り得ない光学的な輝きを放っていた。
 まさか――この怪人が、本人に気付かれる事も無く藤一郎の首をはねたというのか。
 ずるずると布の裾を引き摺りながら、怪人は藤一郎の死体を見向きもせずに場を立ち去ろうとして――

「酷いなぁ……いきなりクリティカルヒットするなんて、忍者?」

 ――立ち止まった。
 緩慢な動作で振り返る。
 痛そうな表情で首筋を撫でる、五体満足な藤一郎がそこにいた。

「やっぱり上にいる神族の刺客?でも、僕をさっきの攻撃で倒せなかったって事は、人間側の刺客なのかな?」

 心底億劫そうに肩を回し――そして、藤一郎は変わった。
 肉体と精神は何も変化が無い。しかし、変わった。
 その“存在”が変わった。

「それじゃ……いくよ」

 『死殺天人(シャアティェンレン)』――“死”という概念そのものが人の形を取った存在。
 藤一郎は“それ”に変わった。
 三剣 藤一郎から――御剣 刀一郎へと。



 ――“天人”――それは、この世界の秩序を構成する『法則』そのものを己の力とした最強の超常能力者である。
 この銘を持つ者は、人類の歴史上数名の存在が確認されているが、全てが人類の歴史に大きく影響を与える脅威的な存在だった。
 藤一郎が天人として司る概念は『死』――死を自在に制御し、万物に死を与え得る死殺天人は、誇張抜きで地球上最強の存在と言っても過言では無い。
 己自身の“死”を認めない限り、如何なる攻撃も魔法も特殊能力も絶対に通用せず、逆に相手のあらゆる抵抗を無視して“殺す”事ができる。“死”を与える対象は生物非生物を問わず、単なる物質や魔法的存在、抽象概念や哲学的観念すらも対象となる。死者や宇宙意志すら殺す事が可能なのだ。
 しかも、この力そのものが『世界の法則』であるがために、例え“死”を否定する如何なる手段があろうとも、それに優先して“死”の能力が発揮されるのである。
 以上の要素から、あらゆる戦闘で“死殺天人”は無敵足りえた。その事実はこれからも変わらないだろう。
 ――いや、変わらなかった。
 ならば……この光景は、どう説明すればいいのだろうか?

「……はぁ……はぁ…はぁ……」

 ――10分後。
 電灯の光が無機的に照らす廊下の隅、何が描かれているのか意味不明だが、とにかく高そうな抽象画の飾られた壁によりかかってへたれ込み、荒い息を吐きながら庭師七つ道具を入れた箱の蓋を開けて、震える手で鋸を取り出すのは、疲労困憊の極地といった刀一郎だ。
 外傷は見られないが、普段からあまり清潔とは言えなかった作業着はますます血で汚れ、汗が浮かぶ肌にも乾いた血がこびり付いている。
 何が起こったのか。

「あいつは……どこへ……」

 ずるずると背中を壁に擦らせながら立ち上がり、鋸を構えようとして――その動きが止まった。
 目線を下にずらす。
 心臓の位置から生えた長大な刃が、真紅に染まっていた。

「――わぁああああああああ!?!?」

 よろめきながら刀一郎は壁際から離れ、背中からブレードトンファーがずるりと抜ける。鮮血の吹き出る心臓の傷口を押さえた刀一郎の目の前で、壁と抽象画に幾筋もの光が走り、ばらばらに分断された向こうから、灰色の怪人を生み出した。

「また器物破損を……その絵高いんだよ!!たぶん」

 血反吐を吐きながら、逆手に振り下ろす鋸の一撃――刀一郎は武術の技量は素人同然だが、どんな達人でもその攻撃を避ける事はできない。攻撃が届くまでの時間や空間、相手の技術や回避という概念を“殺す”事ができるからだ。
 だが――

「!?」

 怪人の脳天に鋸が触れる寸前、なんとブレードトンファーの切っ先が鋸の刃先を食い止めていた。接触面積は針先にも満たないだろう。

「ははは……漫画みたい」

 渾身の力を込めて鋸を押しても、あの小さな身体が持つブレードトンファーは微動だにしない。それどころか鋸をずらす事も離す事もできないのだ。あたかも空間が固定したかのように。

「何者なの君は……」

 地上最強の戦闘能力者は、目の前の小さな灰色の人影に本物の恐怖を覚えた。恐怖しながら、いつのまにか鋸を止めていたブレードトンファーが消えている事に気付いた。
 光の筋が見えた――刀一郎にはそれしか認識できない。
 百に分断された刀一郎の肉片と血潮が、廊下の壁と床と天井をグロテスクに染色した。
 ――が、

「ヒドイなぁ」

 肉片や鮮血は次の瞬間には消滅し、傷1つ無い刀一郎がそこに平然と立っている。自分が殺されたという事実を“殺した”のである。
 この脅威現象を前にしても、灰色の怪人には動揺の気配など欠片も見受けられない。
 再びブレードトンファーが翻った。
 それと同時に、刀一郎は“死”の波動を周囲に放っていた。
 一瞬にして壁に床と天井が“死ぬ”。
 瞬間、崩れ落ちた瓦礫の怒涛に、刀一郎と恐るべき灰色の影はたちまち飲み込まれた――



 「――いったい何なの?……あのサイファー使いは……」

 ぶ厚いハードカバーの本が本棚にずらりと並んだ部屋の中で、刀一郎はデスクの影に腰を下ろし、喘息の様に息を荒げてむせ返っていた。全身から流れる大量の汗が毛足の高い絨毯に落ち、次々と黒い染みを描く。
 ここは屋敷の3階にある第4書斎――ここの住民にはあまり読む機会の無い学術書などお堅い本が保管されている。刀一郎は1階の廊下であの怪人と激闘を繰り広げていたが、その最中に死の力で壁や天井を破壊して、落下する瓦礫に紛れてこの部屋に身を隠した――はっきり言えば尻尾を巻いて逃げ出したのである。
 敗走の理由は明らかだ。万物に死を与えるはずの死殺天人の能力が、あの灰色の怪人には全く通用しないのである。如何なる手段を用いても絶対に防げないはずの能力を、どんな方法で無効化しているのか……ほとんど本能で天人としての力を使い、専門的な知識は全く無い刀一郎にはさっぱりわからなかった。
 かろうじて、自分自身に関しては“死”を制御する事が可能だが、それも段々怪しくなってきている。攻撃されたという事実を“殺す”事によって、ダメージを完全に無効化しているのは確実なのだが、今の刀一郎は全身に走る激痛に顔をしかめて、疲労のあまり倒れ込んでいる状態だ。さっき大量の血も吐いた。どうやらいつまでも無敵を気取ってはいられないらしい。

「とにかく……相手の正体がわからないと……戦いようがないよ……」

 正体がわかったとしても、有効な戦法は全く見えないと内心思うが、とりあえず刀一郎はその事を忘れる事にした。
 ――と、その時、刀一郎の脳内に感情を感じさせない女性の『意志』が響いた。すぐにアコンカグヤのテレパシー通信だとは気付いたが、その無機的な声の中に必死な何かを感じ取り、刀一郎は息を飲んだ。

『藤一郎さん、そちらは大丈夫!?』
「……全然大丈夫じゃないよ……現在交戦真っ只中……何なのあいつは?……ちょっと反則過ぎだよ……」
『よく聞いて。その相手は“魔将元帥”ヌル・ゾマ中尉だ。四大種族の歴史上最強と呼ばれる暗殺者よ』

 刀一郎の全身が強張り、次に力が抜けてへたりこんだ。

「……そうなんだ……どうりで強過ぎると思った……」

 あの灰色の怪人――ゾマ中尉がクリシュファルスやアコンカグヤと同じく四大種族の超高位存在ならば、樹羅夢姫が言う所の『下賎な下等種族』である刀一郎が勝てるわけが無い。ここは急いでアコンカグヤに救援に来てもらうか、かわいそうだけど無理を承知でクリシュファルスと樹羅夢姫に戦ってもらうしかないだろう……
 そんな考えが甘過ぎる事を、刀一郎は次のアコンカグヤの言葉で思い知らされた。

『いい?相手はオーバーロード・キャンセラーという道具を持っている筈。四大種族のあらゆる能力を封印して、身体能力も地球人類並みに低下させる秘密兵器だ。それが作動している限り、私は救援に迎えないし、クリシュファルス君と樹羅夢姫も力を発揮できないの。それを何とかして破壊するしかない』
「……え?……」

 刀一郎は戦慄した。そのオーバーロード・キャンセラーとやらが何なのかはわからないが、それが作動している限りアコンカグヤの救援は期待できず、クリシュファルスと樹羅夢姫は無力な人間の子供に成り下がってしまう……つまり、簡単に拉致するなり殺すなりできるのだ。
 しかし、刀一郎を戦慄させたのはそれだけではない。

『しかし、それが同時にゾマ中尉の神族能力も封印しているわ。これなら理論上は地球人類でもゾマ中尉を倒せる……かもしれない』
「……ははは……はぁ……」

 そうだ。あの灰色の神族――ゾマ中尉は、あらゆる能力を封印されて身体能力を人間レベルまで低下しているにも関わらず、あの荒唐無稽な戦闘力を発揮しているという。四大種族最強の歴史上最強の暗殺者というのも十二分に納得できた。

『まず何とかしてゾマ中尉を倒して、それからオーバーロード・キャンセラーを…破壊して欲しい……順番…を逆に……す…れば……貴方……が……殺さ…れる……から………間違……え………な……い…………様…………に……」
「ちょっとアンコさん、雑音が酷くてよく聞こえないんですけど……もしもし?もしもーし!!」

 始まりと同じように、唐突にテレパシー通信は止んだ。どうやらアコンカグヤの方も切羽詰った状況にあるらしいと踏んで、刀一郎は天井を仰ぎながら目を覆った。
 ゾマ中尉が、呑気に寝ている2人の超高位存在をターゲットにしている事は明らかだ。このままでは、自分はもとより樹羅夢姫とクリシュファルスまで危険な目に合わせてしまう。やたら広いこの屋敷ならそう簡単に2人が寝ている寝室が見つかる事はないだろうが、プロの暗殺者が相手ではいずれ発見されるのは時間の問題だろう。やはり自分が何とかしなければならないようだ。

「とはいっても、僕1人じゃ勝てる相手じゃ無いし……ここはやっぱり応援を呼ぶしかないかな」

 よろよろと立ちあがった刀一郎は、デスクに供えてある古めかしいアンティーク電話の受話器を取った。震える指で何とかダイヤルを回し――

「あ、もしもし?藤一郎ですが。あ、どーも……あけましておめでとうございます。この前は御歳暮の水羊羹ありがとうございました。たぶん美味しかったです……たぶん?あ、いや、実は全部樹羅夢姫が食べちゃって……ははは、いいじゃないですか。お年玉ぐらいあげたって……いや、大した用事じゃないんですが。ちょっと手伝ってほしい事があるんで、今すぐここに来てくれませんか?……え?入院中?僕と貴方の仲じゃないですか。お願いしますよ……あ、全然大した事じゃ無いですよ。パパッと終わる簡単な用事ですから……いいから今すぐダッシュで来てください!!約束しましたよ!!それじゃまた!!」

 最後の方は強引に会話を押し切って、無理矢理助っ人に約束をとりつけた刀一郎は、無造作に受話器を置こうとして――

 みしり……みしり……

 その動きが止まった。緊張で顔が強張るのが刀一郎自身にもはっきりわかった。
 誰かが階段を登って来ている。あの階段は建付けが悪くて登り降りすると大きく軋むのだ。
 クリシュファルスはあんな足音を立てないし、樹羅夢姫は1人で階段を登れない。助っ人がこんなに早く来るわけもない。
 ならば、考えられる人物はただ1人だけだ。
 刀一郎は足音を立てずに素早くドアの影に貼りついた。ごくり、と唾を飲む音が妙に大きく聞こえる。
 間違いない。ゾマ中尉がこちらに向って接近して来る。足音ではなく気配でわかった。距離もはっきりとわかる。

 ……10m……5m……

 道具箱から取り出した草刈鎌を持つ手が僅かに震えていた。刀一郎が戦いでこんなに緊張するのは初めてだった。あの“魔女”との死闘ですら、彼は笑いながら戦ったのだ。

 ……3m……2m……
 ……今だ!!

 横殴りのショルダータックルでドアを吹き飛ばした刀一郎は、ドアの弁償代に思いを馳せながら草刈鎌を薙ぎ払った。
 距離もタイミングも完璧な奇襲は、狙い違わず――空を切った。

「え?」

 ゾマ中尉は、確かに目の前にいた――蝙蝠の様に天井に貼り付いて。

「……どういう物理法則してんスか、アンタは……」

 返答はブレードトンファーの斬撃だった。
 ――全身を膾のように切り刻まれた刀一郎が、吹き飛ばされるように書斎に転がり込む。
 緩慢な動きでゾマ中尉も書斎のドアを潜り抜けた。
 向いの壁際で身を起こした刀一郎は、身体の傷を再生させながら、道具箱から新たな武器を取り出そうとして――

 ぐしゃ

 右手から金槌が落ちた。
 肘をグシャグシャに粉砕しながら腕に食い込んでいる物体――それは、分厚い辞書だった。

「ぐわぁ!?」

 激痛と衝撃に呻く刀一郎の右膝が飛来した図鑑に潰されて、たまらず床に崩れ落ちる。
 見ればゾマ中尉は、物色するように本棚からハードカバーの本を取り出しては、豆でも撒くように無造作に刀一郎へ投擲していた。
 一体どんな投げ方をすれば単なる本でこれほどの破壊力を発揮できるのか。命中した刀一郎の四肢は容易く粉砕され、外れた一冊は鉄筋をへし折った。その威力はロケットランチャーに匹敵するだろう。
 無論、刀一郎がこんな攻撃で死ぬわけがない。だが、砕けた四肢を再生させた次の瞬間には、新たな本が食い込んできている。そう、この攻撃は刀一郎の動きを封じる為のものだったのだ。
 10秒もしない内に、刀一郎は本の山に埋もれてしまった。苦悶の表情で這い出ようともがくが、ふと見れば、いつのまにか目の前にブレードトンファーを掲げる灰色の影があった。
 いけない、また殺られる――!!
 次の瞬間、凄まじい大爆発が書斎そのものを蒸発させた。
 紅蓮の炎が屋敷の一部を吹き飛ばし、雪の舞う夜空を赤く染める。
 荒れ狂う爆風はゆうに数分間は暴れまわっていたが、まるでフィルムを切替えるように、それは唐突に消滅した。
 屋敷は書斎の部分だけが綺麗に消滅し、黒焦げの内部からは夜空が映画スクリーンのように見える。
 そのスクリーンに――

「……ちょっと派手だったかしら」

 ――世にも美しい魔天の聖女が、天使のように――いや、悪魔のように浮かんでいた。
 ――『黒い薔薇』――
 美しい女性は花に喩えるものだというが、彼女の場合はそれが該当するだろう。
 烏の濡れ羽色と呼ばれる艶やかな黒髪。独特の形に分けられた前髪の影に隠れた右眼が、妖艶に輝いている。よくよく見れば、左右の瞳の色が違う――俗に“オッドアイ”と呼ばれる瞳だ。ダークブルーのスーツに包まれた均整の取れたボディを彩るのは、必要最小限に押さえたメイクと、シンプルだがセンスの良いアクセサリー。
 そして、その辺の小娘には絶対に真似できない、大人の魅力に溢れた美貌……
 なんと美しい女か。
 なんと妖艶な女か。
 かつて古の聖職者は、近辺から美女を遠ざけたという。
 中国の陰陽二元論では、女は陰の部類――特に美女は最も深い領域にあると論じられた。
 それも当然だろう。あの戦慄的なまでの美貌を見れば、誰もがそう思うに違いない。
 女の美しさとは、悪魔の美しさに等しいと――
 ふわり、と羽毛が風に吹かれるように、優雅に書斎跡へと女が入る。爆発に吹き飛ばされた内部は僅かな瓦礫が転がるだけだ。
 刀一郎とゾマ中尉は、どこへ消えたのか。まさかあの爆風で消し飛んだというのか――

「……あのですねぇ……もうちょっと考えて術を使って欲しいんスけど……」

 ――と、美女の足元の瓦礫の中から這い出たのは、一昔前のギャグ漫画のように真っ黒になった刀一郎であった。

「大丈夫よ。ちゃんと結界を張っているから、この部屋以外は傷1つ付けていないわ」
「いや、そういう問題じゃなくてですね……」
「貴方がこの程度の術で滅びるわけないでしょ」

 あまりに艶然とした美貌に、刀一郎は文句も忘れて呆然と見惚れた。そして見惚れている事に気付いて慌てて頭を振る。
 絶世の美女ならば、セリナやアコンカグヤや樹羅夢姫やクリシュファルス(?)が満腹になるくらい身近にいるので、ある程度耐性がある筈なのだが、あの美女は別だ。危険な麻薬のように、見れば見るほど虜になってしまう。『アダルトなクールビューティー』という言葉をここまで極上に体現した美女を、他に刀一郎は知らない。

「急に呼び出してスミマセンね……那由さん」

 誤魔化すように咳払いしながら礼を言う刀一郎に、至高の魔女――西野 那由は絢爛な微笑で迎えた。
 西野 那由――またの名を『極東魔女(ファー・イースト・ウィッチ)』――退魔の世界で彼女を知らぬ者はいない。いや、むしろ戦闘能力者達の世界でその名が轟いていると言うべきか。
 西野怪物駆除株式会社の女社長として辣腕を振るう彼女は、実は退魔士としてはあまり大した成果は挙げていない。むしろ現役時代は、超一流の退魔士であった双子の姉に頼りっぱなしの落ちこぼれであったという。
 那由が世界を震撼させたのは、その姉の死がきっかけとなって『覚醒』してからだ。
 新たな“魔女”の称号を持つ者として。
 “魔女”――それは、地球上の全生命体を絶滅させる事ができる戦闘能力者に与えられる地上最強の称号。現在、この称号を持つ者は彼女しかいない。
 15年前、刀一郎が起こした『死天事件』の際、刀一郎を倒して事件を解決したのが、この那由なのだ。
 符術を基本としたあらゆる系統の魔法を自在に操り、拳法、剣術、様々な武道も超一流。経験に裏付けられた深い英知と的確な判断力は、最強の異名を実力で裏付けていた。
 つい数ヶ月前も、国際犯罪組織『ヒュドラ』が東京で起こした大事件を解決し、また1つ世界の危機を救っている。
 魔女としての彼女の能力は、『世界法則を自分の好きなように作り変える』という、世界制御系では究極とも言える能力だが、何より強力なのは、刀一郎の“天人”と同じく、この能力は他のあらゆる能力に優先して実行されるという点だろう。
 ――“死殺天人”御剣 刀一郎――“極東魔女”西野 那由――
 地球圏最強、究極にして無敵の戦闘能力者が、今ここに揃い踏んだのである。

「入院中なのに呼び出すなんて、相変わらず強引ね。まだ貴方に切断された左腕は本調子じゃないのよ?」

 まるで平然と左腕をひらひら動かす那由。

「僕だって、那由さんに灰にされた心臓が治ってないんですよ?」

 力強く胸を叩く刀一郎――どちらも人間の範疇を超えている。

「実は那由さんには、ある敵を倒す手伝いをしてもらいたいんですよ」
「敵?さっき貴方ごと蒸発させた相手は違うのかしら?」
「いや、あれで良いんですけど、あの程度で――」

 しゃかん

 刀一郎の言葉は、その音で中断された。
 ガクガクと痙攣する那由の股間から脳天を串刺しにしているのは、床から生えたブレードトンファーだ。

「やっぱりね」

 頭頂部と股間と半開きの口からゴボゴボと血の泡をこぼして――那由は死亡した。
 床の裂け目にブレードトンファーは消えて、那由の死体が床に崩れる。

「ありゃりゃ……いきなりこうなっちゃったか」

 助っ人を見捨てて慌ててその場から離れる刀一郎には、那由を悲しむ様子など欠片もない。
 その理由は、すぐに判明した。
 血溜まりの中でうつ伏せに倒れる死体に、奇怪な変化が訪れた。
 宝石を溶かした闇のように艶やかな黒髪が、ジワジワと白く変色していくのだ。死神の髑髏のような不吉な白だった。
 がりっ
 赤いマニキュアの塗られた爪が、血に染まった床を引っ掻く。
 ゆらり、と棺桶の蓋を開けたリビングデッドを思わせる緩慢な動作で、那由は立ちあがった。
 その瞳は、したたる血と同じ濁った赤に染められている。
 頭頂部と股間の傷は、跡形も無くなっていた。
 蘇った那由――しかし、それはかつての彼女では無い。

「早くも“魔女モード”ですか……くわばらくわばら」

 部屋の隅に身を縮めた刀一郎は、口では軽い事を言っているが、その全身ははっきりと恐怖で震えていた。
 ただ静かに俯きながら佇む那由は――美しく、おぞましく、可憐で、不気味で、優美な、グロテスクな……そう、あれがファー・イースト・ウィッチだ。世界を滅ぼす究極のの災厄――“魔女”の真の姿だ。

「目標の殲滅を実行する。目標捕捉を試行」

 これがあの那由から発せられた声だというのか。刀一郎は恐怖のあまり全身の毛を逆立てた。さっきトイレに行っていなかったら、冗談ではなく失禁していたかもしれない。
 その存在を認識する者に、例外なく至上の恐怖を覚えさせる――これも魔女の能力だ。
 微動だにしない那由の足元の床に、突然、蜘蛛の巣の如きひび割れが走り――たちまち書斎跡は床ごと階下に落下した。
 轟音が屋敷全体を震撼させる。
 中華風の洒落たアンティークで飾られた2階の第7客間は、落下した天井の瓦礫に押し潰されて無惨な有様を晒していた。
 瓦礫の上で対峙するのは、白髪の魔女と、灰衣の暗殺者――

「目標を確認。処理を実行する」

 野獣の如き俊敏な動きで那由が駆けた。白髪を振り乱すその姿は、伝説の鬼女そのものだ。
 棒立ちで佇むゾマ中尉に、『世界改変』の力を宿した必殺の抜き手が走る――!!

「……いたた、少しは僕の事も考えて欲――」

 瓦礫の中から身を起こそうとした刀一郎に、飛燕の速度で那由の身体が激突したのは次の瞬間だった。

「ぐはぁ!?」

 もつれ合ったまま吹っ飛んだ2人は壁に激突してようやく停止する。視界のあちこちで星やヒヨコがぐるぐる回っているのは幻覚ではないかもしれない。

「はらほろひれはれ〜〜〜」

 上下逆さの姿勢で目を回す那由は、髪と瞳が元の色に戻っていた。
 攻撃を食らう瞬間、カウンターの一撃で那由を跳ね返し、いかなる原理か魔女の力も消滅させた恐るべき暗殺者は、何事も無かったように平然と直立している。

「魔女モードでも駄目なんですか……こりゃ困ったな」

 逆さになった那由を支える姿勢で壁にめり込んだ刀一郎は、少し目線を下に送るだけでタイトスカートの中身が丸見えなのだが、そんな些事を気にする余裕は全く無い。
 “死殺天人”刀一郎だけでなく、“極東魔女”那由の力も“魔将元帥”ゾマ中尉には全く歯が立たないのだ。

「ふぇ〜〜〜ん!!なんでこの究極無敵ワンダフリャ美少女那由ちゃんの最強必殺攻撃が効かないのぉ!?ゲームバランスおかしいわよぉ!!あああ……ここでびゅーてほー那由ちゃんの生涯も幕を閉じる事になっちゃうのね……あーん、こんな事なら看護婦さんにナイショで食べかけのイチゴプリンを最後まで食べておけばよかったわぁ……私って世界一不幸な美少女よぉ!!!」
「……那由さん、台詞台詞」
「はっ!?……こほん……ふぅ、厄介な相手ね」

 さっきの檄昂はどこへやら、クールに髪を掻き揚げる那由の仕草は一部の隙も無いが、逆さの体勢ではいまいち決まっていない。
 それよりも、灰色の布を引き摺りながらゆっくりと――しかし流れるように瓦礫を渡り接近してくる暗殺者を何とかしなければならないだろう。

「じゃ、次は僕の番で」

 刀一郎は道具箱から細長い光沢の束を取り出した。鳥避けや樹羅夢姫を縛る時に使う金属製のワイヤー、有刺鉄線だ。
 有刺鉄線の端を掴む手首が翻ると、魔法のように鉄の糸が踊り――瞬く間に部屋全体を蜘蛛の巣の如き有刺鉄線の結界が覆い尽くした。
 ゾマ中尉の動きが止まる。自分の周囲に、猫の子どころかネズミ一匹も通る隙間が無い程の密度で、有刺鉄線が取り囲んでいるのである。
 ブレードトンファーが斬光を放つ――よりもコンマ1ミリ秒早く、刀一郎は手首を引いた。
 灰色の人影を有刺鉄線ががんじがらめに拘束する。“死殺天人”御剣 刀一郎による緊縛――巨人でも指1本動かせまい。
 勢いよく有刺鉄線を引き絞る。
 全身に絡みつく有刺鉄線がゾマ中尉をばらばらに引き裂くのを、側の那由は確かに目撃した――
 それが残像だと気づいた時には、球状に絞られた有刺鉄線に、ひっかかった灰布の切れ端だけを残し、宙を滑るように跳ぶゾマ中尉の影があった。
 長大なブレードトンファーが閃光の速度で迫る。
 刀一郎の喉元にそれが食い込もうとした直前、

「…」

 呟きのような那由の呪文詠唱が真紅の唇から漏れ、刀一郎の胸元に貼られた呪符が輝き出した。いつのまに、どうやって呪符を配置していたのか、刀一郎には全くわからなかった。
 再び、大音響が屋敷を震撼させた。
 紅蓮の爆風が3人を包む――否、飲まれる直前に灰衣の影が吹き飛ぶように離れ、音も無く瓦礫の上に降り立った。小さな破片が折り重なった個所なのに、砂粒1つこぼれ落ちない。
 この怪人には、物理法則すら通用しないのか。
 地震のような振動も数秒で収束して、爆風の残り香も消失する……その跡に、刀一郎と那由の姿はどこにもなかった。
 あの爆発魔法で跡形も無く消し飛んだのか。爆風に紛れて何処かに逃げたのか。
 しばらくゾマ中尉は、彫刻のように佇んでいたが、やがて自動人形のように機械的な動作で踵を返し、半壊した扉を乗り越えて消えていった……
 ……数秒後、

「上手くいったわね」
「こういう事は前もって伝えて欲しいんスけど……」

 2人が消滅した何も無い個所に、にゅっと中空から、手を酷使する仕事であちこちあかぎれたごつい指と、白く細くマニキュアが真紅の宝石のように美しい指が出現した――と、まるで透明になれる魔法の衣を脱ぎ捨てるような仕草で、刀一郎と那由の姿が現れたのである。
 2人の足元には、複雑な紋様の書かれた呪符が青く輝いていた。
 爆発に紛れて逃げ出したように見せかけて、那由による透明化の術でその場に身を隠していたのである。

「で、あの灰色の子は一体何者なのかしら?強引に私を撒き込んだのだから、ちゃんと説明してくれるわよね」

 煤に汚れたスカートの裾を払いながら、那由は横目で刀一郎を睨んだ。Mっ気のある男なら、それだけで射精しかねない冷酷な視線に、刀一郎は生唾を飲みこんだ。

「ええと、実は、そのぅ……話は長くなるのですが……つまり、あの人がいきなり僕を刺して、それがゾマ中佐で……あ、中尉だった?」

 しどろもどろの刀一郎の額に、溜息を吐きながら那由の人差し指が押し当てられた。指先より5ミリほど長い爪の先端が、僅かに皮膚に食いこむ。

「……例の神族が送り込んだ暗殺者、ゾマ中尉……オーバーロード・キャンセラー?」
「え?」
「貴方の説明では埒があかないから、記憶を読ませてもらったわ。プライベートな事は探ってないから安心しなさい」
 
 額から離れる指先を刀一郎が名残惜しげに見つめているのを見て、那由は軽く咳払いをした。

「つ、つまり、四大種族最強の殺し屋なんスよ。相手が神様ならあんな理不尽に強いのも当然ですよね」
「それは少し違うわ」

 顔をトマトのように赤くする年下の青年に目元だけで笑って見せて、退魔業のプロフェッショナルは話を続けた。

「貴方の記憶が確かならば、あのゾマ中尉はオーバーロード・キャンセラーで神族の能力を全て封印されていて、超高位存在の様々な魔法も超常能力も武術も全く使用できなくなっている上に、私達人間と同じ脆弱な肉体に身体能力をレベルダウンされた状態にあるんでしょう?」
「ええ、そんな話でした」
「私もさっき交戦した時に術で探ってみたけど、確かにその辺の人間と変わらない肉体だったわ。ちょっと急所をナイフで刺されれば即死するくらいにありきたりな身体よ。もちろん魔法も特殊能力も使えない、本当に『ただの人間』なのよ……ゾマ中尉は」

 背中に液体窒素をかけられたような苦痛すら覚える戦慄に、掛け値無しで刀一郎は凍りついた。那由の言葉の意味に気付いたのだ。

「ちょ、ちょっと待って下さい。自分で言うのもなんですが、僕達って一応世界最強の戦闘能力者“天人”と“魔女”でしょ?何でそんな『ただの人間』があんなに強いんですか?」
「わからない。ただ1つ確実に言える事は、それがわからない限り私達に勝ち目は無いという事ね」
「あ、僕と一緒に戦ってくれるのですね」

 嬉しそうに手を叩く刀一郎。その変わり身の早さに、那由は眉間に指を当てた。

「仕方ないでしょ、ゾマ中尉が魔界大帝達よりも先に私達を狙うのは、『目撃者は消す』って事なんだから。ほんと、とんでもない事に巻き込んでくれたわね」
「すいません……じゃあ、せめてこれからの戦いの為に――」

 いきなり、刀一郎の右手が那由の胸を鷲掴みにした。何事かと目を見張る那由のあまり豊かとは言えない乳房に、指がずぶずぶと沈んでいく。それが心臓に達した――瞬間、右手はあっさりと引き抜かれていた。那由の胸元にはスーツのほつれも残っていない。

「那由さんの力のリミッターを“殺し”ました。これで理性を保ったまま魔女モードになれますよ」

 刀一郎の言う通り、那由の髪は不吉な白に、オッドアイは血の赤に変色していた。同時に力の『質』も。
 後ろ髪を梳きながら、那由は少しだけ唇を尖らせた。

「白い髪に赤い目……この姿、あまり好きじゃないのよね。ありがちだし」
「赤目はともかく、白髪はそろそろ馴染みでしょう」
「……なーにーかーいーっーたーかーしーらぁあああああ!?」
「はがががが……はんへもはりまふぇえん!!!」

 不遜な発言をした口をびろーんと広げる那由の頭部には、謎の怒マークがはっきり浮かんでいた。

「……ところで、魔界大帝君達はどこにいるの?いいかげん、これだけ大騒ぎをしたら動き出すと思うのだけど」
「あの2人がいる部屋は、アンコさんが念の為空間の狭間に隠してるから、外の騒ぎはわからないと思いますよ。まぁ、例のオーバーロードなんちゃらが側に来たらバレる――」

 真っ赤に脹れた頬を痛そうに撫でる刀一郎の声が途中で固まった。
 那由もブランド物のハンドバック(ただし偽物)から、数枚の呪符を取り出す。

「1、2、3で行きましょう」
「3と同時?」
「同時」

 今回刀一郎が道具箱から取り出した獲物は、高枝切り鋏だ。
 那由が微かに唇を動かすと、指の間に挟んだ呪符に赤い輝きが宿る。

「準備はOK?」
「いつでもいいわよ」
「それじゃ……1、2――」

 その瞬間、背後の壁に斬光の線が走った!!

「「3!!」」

 2人が振り返ると同時に、細切れにされた壁の向こうから、ブレードトンファーを振りかざすゾマ中尉が踊りかかった。
 高枝切り鋏が連撃を繰り出した。薙ぎ、突き、払い、打つ、その攻撃速度は1秒間に五千万回――しかも、全てに“死”の力が秘められている。
 そのことごとくを、旋風の如く翻るブレードトンファーが打ち払った。

「…」

 同時に那由の呪文詠唱に反応して、ゾマ中尉の目の前に浮かんでいた呪符が万物を浄化させる光の波動を放つ――と、その瞬間、ゾマ中尉が何か呟いた。
 いつのまにか、那由の呪符のすぐ脇に1枚の呪符が浮かんでいた。いつ、どうやってそこに配置していたのか、那由も刀一郎も全く気付かなかった。
 呪符は闇の波動を放出し、那由の術を完全に相殺する。那由とゾマ中尉が激突した時、呪符の半数近くを掏り取られていた事を那由は全く気付かなかった。
 灰の衣が堕天使の翼と化した。
 翻る布が刀一郎の肩に触れた瞬間、その身体は部屋の反対側まで吹っ飛ばされる。
 摩訶不思議な投げ技の隙に、極端に重心を下げた姿勢の那由がゾマ中尉の懐に跳び込んだ。上体を半身に反らし、左肩と腰溜めに構えた拳を打ち放つ。那由の得意とする中国拳法だ。その打撃と同時に、大陸を蒸発させる程のエネルギーを込めた術を放つ。
 だが、拳法が炸裂する寸前、ゾマ中尉の姿が消えた。
 身を屈めて避けたと那由は瞬時に見抜いたが、足元には灰色の布がただ床に広がっているとしか見えない。
 それが急速に膨れ上がり、ゾマ中尉の姿をかたどった瞬間、肩口からの体当たりが鳩尾に炸裂し、身体をくの字に曲げて吹き飛んだ那由は、部屋の反対側に転がる刀一郎のすぐ脇に落下した。

「……那由さん……生きてる……?」
「……あまり……自信無い……わ」

 よろよろと立ち上がる2人の姿は、どう贔屓目に見ても立っているのがやっとだった。ここがリングの上なら100人中120人がタオルを投げているだろう。

 ゾマ中尉は灰色の衣を引き摺りながらゆっくりと、しかし滑るようになめらかな動きで無造作に歩み寄ってくる。
 迫り来る死神を前に、2人の世界最強と呼ばれた者達は、

「……勝機は?」
「……あるわけ無いでしょう」
「それじゃ、今は……」
「とりあえず……」

 くるりと踵を返し、脱兎の如く廊下に飛び出した。

「逃げましょう!!」
「戦略的撤退よ!!」

 どこにこんな体力が残っていたのやら、ダッシュで廊下を走る2人を灰衣の隙間から見据えると、灰色の風と化したゾマ中尉は猟犬の如く追跡を開始した。

「どーすればあんな反則野郎を倒せるって言うんですか……!!」
「困ったわね……」

 絶望のあまり取り乱しかけてる刀一郎とは対照的に、那由はクールビューティーな落ちついた態度を崩さない。しかし、心の中ではどう考えているかは、さっき喚き散らした様子を見れば明らかである。アコンカグヤとは別の意味で、感情を表に出さないタイプだ……現実逃避でそんな事に思いをはせる刀一郎に、那由は思わせぶりな表情を向けた。

「……でも、ゾマ中尉が私達の力を無効化できる秘密は、わかったかもしれないわよ」
「それなら早く教えてください!!」
「……聞かない方がいいかもしれないけど」
「え?……じゃあ、いいです」
「ダメ。聞きなさい」

 廊下の角を速度を落とさずに90度曲がる。このまま移動を続ければ1階の階段を下る事になるだろう。

「ゾマ中尉が私達の力を無効化して、しかも私達の技を再現できた理由――それは」
「それは?」
「見様見真似よ」
「……は?」

 並走して階段を駆け下りる刀一郎の口がぽかんと開かれた。当然だろう。

「私の“極東魔女”の能力と、貴方の“死殺天人”の能力は、如何なる手段を用いても絶対に無効化できない……それは知ってるわね」
「一応は」
「それを無効化する方法はただ1つ――全く同じ能力で相殺する事よ」
「え?……で、でも、あいつは全ての能力を封じられているんですよね?」
「だから、見様見真似よ……あの子は私達の能力を見て、その場のアドリブで再現して相殺しているのよ」

 ゴゴゴゴゴゴゴ……
 戦慄の脈動が、徐々に2人の心を支配していく。

「そんな馬鹿な……何の能力も術も使わずに、見様見真似だけで僕達の力を再現するなんて、それこそ奇跡でも起こらない限り――!!」
「忘れたの?相手は『神』なのよ」

 そう、そして、奇跡とは常に神がもたらすものなのだ。
 “魔将元帥”ヌル・ゾマ中尉――至上最強の暗殺者は、あらゆる能力を封じられようとも、その比類無き『才』だけで相手の全能力を掌握し、完璧に再現、制御下に置き、自在に操る事ができる。つまり、ゾマ中尉は相手が強ければ強いほど、自動的に自分も強くなるのだ。
 そして、これは本来ゾマ中尉が操る能力とは何の関係も無い。くどいようだが、武道の達人が技を一目見ただけでそれを自分の物にできるように、あくまで見様見真似である。
 即ち、ゾマ中尉の真の恐ろしさは――

「……つまり、こういう事ですか?……『ゾマ中尉は、戦う相手より常に強い』……」
「……そういう事ね」

 絶対の絶望が、夜の帳と化して世界を覆い隠した。
 そう、ゾマ中尉は暗殺の対象――戦う相手が如何なる強大な力を持っていようとも、それよりも確実に上回る戦闘力を持つのだ。 たとえ相手が地上最強の戦闘能力者だろうと、無敵のZEXLだろうと、最強の魔界大帝だろうと、そして“大聖”だろうと、どんな相手にも勝利する事ができる。
 かつて、世界最強の超々々々高位存在『陽龍大聖』を暗殺し、“神”にして“魔”の称号を持つただ1人の存在――“魔将元帥”ヌル・ゾマ中尉……真の『頂点』とは、彼の者に与え得るのか。

「……ストップ!!」
「え!?」

 那由の声に刀一郎は急停止して――息を飲んだ。
 いない。
 先程まで2人を追跡していた暗殺者の姿が、どこにも無いのだ。

「貴方は前を!!」
「わかりました!!」

 2人は背中合わせとなって、必死の形相で前後を見張った。刀一郎の鋸が、那由の呪符が、互いにはっきりと震えている。
 ここは廊下のちょうど真中だ。左右は壁。僅かな調度品の他に身を隠す物は何も存在しなかった。
 前後左右上下――どの方向からブレードトンファーの一撃が来るのかわからない。
 那由は術で周囲を索敵しようとして、思いとどまった。どうせ無効化されるだろう。
 刀一郎の顎先から汗がしたたり落ちる。
 2人の荒い息遣いが、雪夜の静寂を僅かに乱す。
 どこだ?
 どこにいる?

「……那由さん」
「……なに?」

 背中合わせで前を見据えながら、

「ようやく、その時が来たのかもしれませんね」
「そうかもね」

 刀一郎と那由の声には、どこか笑いの因子が含まれていた。寂しそうに笑っていた。

「今でもやっぱり死にたいですか?」
「貴方はどうなのかしら?」

 この2人には共通点があった。
 15年前、刀一郎は東京都心で実妹を初めとする無辜の市民を数百万人虐殺した。
 20年前、那由は旧IMSOを壊滅させた。
 2人の共通点――それは、双方とも如何なる死神も凌駕する、大量虐殺者なのだ。
 世界最悪の犯罪者と言える2人が糾弾されないのは、共に地上最強の戦闘能力者である為に手が出せないからに過ぎない。
 そして、他の誰よりも彼等を憎悪しているのは、彼の自分自身なのである。
 刀一郎は自分を呪い、那由は己を憎悪した。あまりに強過ぎる自己嫌悪――発狂しないのが不思議だった。いや、すでに気が狂っているから、こうしてのうのうと生きていられるのかもしれない。
 もう1つの共通点――親愛や男女の関係とは別の意味で、刀一郎は那由に、那由は刀一郎に惹かれていた。
 御互いが、自分を殺してくれる唯一の相手だと知っていたからだ。
 そう――刀一郎と那由は――死にたがっていた……
 …………
 ……
 でも……
 それでも……
 
「……1つ、策を思いついたんスが」
「策?」
「いや、策と言えるようなものじゃないんですが……」

 肩越しに耳打ちされた内容に、那由は絶句した。

「いくらなんでも、それは無茶よ」
「やっぱり?自分でもそう思――」

 刹那の瞬間――2人は同時に気付いた。
 背中の異様な感触に。
 刀一郎と那由は、背中合わせになっていなかった――初めから背中を合わせていなかった。
 2人の間に、灰色の暗殺者――ゾマ中尉が窮屈そうに挟まっているのだ!!
 ブレードトンファーが光の螺旋を描く。
 反応する間も無く、刀一郎と那由は全身を切り刻まれながら、互いに廊下の端に吹き飛ばされた。

「ううう……」
「……くっ」

 呻き声を上げる事しかできない2人の身体は、ずたずたに切り裂かれたままだった。
 ついにゾマ中尉の『見様見真似』は、自分自身への再生まで打ち消したのである。
 2人の間で佇むゾマ中尉は動かない。どちらを先に仕留めるか考えているようだ。
 ……とうとう、2人が待ち望んでいた瞬間が訪れようとしていた……
 …………
 ……
 でも……
 それでも……
 刀一郎には樹羅夢姫がいた。アコンカグヤがいた。クリシュファルスがいた。そして、セリナがいた。
 那由には夫がいた。かすみがいた。あすみがいた。
 死ねない。
 まだ死ねない。
 いつかは地獄に落ちるとしても、今はその時ではない。
 愛する人々が自分を必要としている限り、絶対に死ぬわけにはいかないのだ。
 だからこそ、どんな相手であろうと、それが世界最強の死神であっても――

「勝たなければね」
「そうですね」

 2人は力強く頷いた。
 よろよろと立ち上がる満身創痍の2人に――ある変化が生じた。

「うぉおおおおおあああああ!!!」

 咆哮を上げる刀一郎の全身を、蒼い光の波動が包む。

「…………」

 無言で気を練る那由の全身を、紅い光の波動が包む。
 開放――そして集中。
 刀一郎は“死殺天人”の全能力を、那由は“極東魔女”の全能力を、全ての力を『次の一撃』に搾り出そうとしていた。
 ゾマ中尉が――初めて――身構える。
 生と死が、善と悪が、神と魔が、相反する力が、今――

「あああああッ!!!」
「…………!!!」

 ――交錯する!!!
 蒼き天人と紅き魔女が――光の魔弾と化した。
 交錯地点で迎え撃つは、“魔将元帥”ゾマ中尉。
 激突――!!
 青と赤と灰の輝きが、世界に満ちた――
 ――そして、

「…………」
「…………」
「…………」

 落下したブレードトンファーが、音も無く床に突き刺さる。
 灰色の小さな身体は――刀一郎の鋸が脳天から一刀両断し、那由の抜き手が心臓の部位を貫いていた。
 致命傷だ。
 声もなく、2人からゾマ中尉の身体が離れ……壁によりかかりながら、どうと崩れ落ちる。
 勝負あった。
 灰色の衣の周囲に、白い灰がぱらぱらと落ちる。
 身体が灰となり、虚空へ消えて行く――100億年ぶりに復活させられた最強の暗殺者は、再び歴史の闇の中へと消えようとしていた。

 ――戦いの渦中、刀一郎にはある疑問があった。
 灰色の暗殺者が那由の言う通りの力を持っていたら、とうに自分達は殺されているのではないかと。
 その疑問点から、刀一郎はある推測をして――この“策”を思いついた。
 “策”は極めて単純である。自分達の持つ全ての力を、次の一撃で解放するというものだ。
 本来のゾマ中尉ならば、それを上回る力で簡単に迎撃できただろう。
 ――しかし、結果は違った。
 刀一郎の推測――それは、ゾマ中尉は自分達を倒した後に、クリシュファルスと樹羅夢姫、魔界大帝と大聖を相手にしなければならない。その為、自分達の戦いでは全力を出し切れ無いのではないのかと。力を温存せねばならないのかと。
 見様見真似で自分達の能力を打ち消している性質上、そこに突破口があるのではないかと……
 2人は賭けに出た。その結果――ゾマ中尉は自分より遥かに弱い相手に負けた。
 己の力全てを搾り出した死力の一撃が、力を温存せざるをえないゾマ中尉を、この一瞬だけ上回ったのである……

 ――ゾマ中尉を見下ろす2人の前で、切り裂かれた灰の布がはらりと落ちる。

「……見事」

 2人は目を見張った。
 灰色の衣の下には、幼女と言ってもいいくらいの、可憐な少女の顔があったのである。
 そして、2人を真の意味で絶句させたのは、少女の身体に刻まれた、むごたらしい肉体改造の痕跡だった。一体どうすれば、ここまで残酷な改造を少女に施す事ができるのか。この少女が受けた暴虐と比べれば、今までの自分達の苦しみなど、そよ風にもならないだろう。
 少女は、透明な眼差しを2人に向けていたが、やがて――

「ありがとう」

 優しい微笑みを残して……
 ヌル・ゾマ中尉――魔将元帥と呼ばれた少女は、一握りの灰と化した……

「…………」
「…………」

 勝利の余韻など欠片もない、虚しい沈黙が場を支配している。

「……」

 那由は無言でブレードトンファーを灰塊の側に置いた。

「ありがとう……か」

 刀一郎が独り言のように呟く。
 『死にたがり』が、ここにも1人いた……



※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「――ぢゃ〜!?大丈夫なのかや藤一郎!!一体何があったのぢゃ!?」
「このおばさんはだれなのだ?」
「……いや、まぁ、話せば長くなるんだけど……」
「……だぁれが……オバサンよぉ……」

 2人並んで壁に寄りかかりながらへたり込んでる血まみれの藤一郎と那由の姿を見て、予想通りクリシュファルスと樹羅夢姫はあれこれ騒ぎ始めた。
 あれから藤一郎達は、ゾマ中尉の灰の中から直径3センチほどの金属製のボール――オーバーロード・キャンセラーを発見して、すぐに破壊した。その直後、精魂使い果たした2人は崩れ落ちたのである。
 数分後――すぐ近くの部屋からクリシュファルスと樹羅夢姫が、あくび混じりにのこのこと登場した。
 本当に、ぎりぎりの所で助かったのだ。
 心配そうに身体の上で飛び跳ねる樹羅夢姫を、藤一郎は優しく撫でた。

「風邪は治ったの?」
「あの程度でいつまでも苦しむわらわではないぞよ」
「それならば、アンコさんが天界軍の襲撃をたった1人で食い止めているみたいなんだ。早く行ってあげてよ」
「なにぃ!?それならはやくたすけにいかなければならぬ!!」

 那由に尻尾を掴まれてじたばたしていたクリシュファルスが、顔面蒼白になる。

「それならもっと早く伝えるのだ痴れ者が!!そこで呑気に寝ている場合ではないのぢゃ!!」
「……あのねぇ」
「アコンカグヤがあぶない、すぐきゅうえんにむかうぞ!!」

 最後に樹羅夢姫が藤一郎の血を舐め取って、2人の何も知らない超高位存在はテレポートで消え去った――

「はぁ……結局こうだもんなぁ」
「大変ね」

 くすくす含み笑う那由の姿に、藤一郎は憮然としようとして……苦笑した。

「ビールとジュース、どっちがいいですか?」
「お酒ダメなの知ってるでしょ」

 庭師さん48の殺人技で取り出した冷たい缶ジュースを那由に手渡す。自分はビールのプルタグを開けて、

「生存に」
「勝利に」

 缶ジュースと缶ビールを乾杯させて、2人は冷たい液体をあおった。
 何時でも何処でも、勝利の味は格別だ。

「今回はありがとうございました。本当に助かりましたよ」
「この貸しは大きいわよ」
「げっ……」
「そうねぇ、今度のホテル代は貴方が持ちなさい」
「そんなぁ……ただでさえ樹羅夢姫の食事代で火の車なのに」
「普通、こういうものは男が払うのよ?」

 苦笑しながら頭を掻いて――ふと、藤一郎はある事に気付いた。
 新しい缶ジュース『苺牛乳』のプルタグを開けて、向かいの灰の山とブレードトンファーの間に置き、神妙な顔付きで黙祷する。那由も静かに缶ジュースを掲げた。
 あの暗殺者に捧げる祈りは、沈黙こそが相応しかった。

「それにしても、本当に彼女を倒せた事が奇跡に思えるなぁ……」
「倒してないわよ」

 ぽつりとこぼれた那由の言葉に、藤一郎は愕然とした。

「え?」
「最近、こういう学説が出ているの。貴方みたいな『天人』は、何らかの理由で四大種族の――特に神族の魂が地上に堕ちて、それが人間として生まれ変わった姿だと……」
「僕の前世は神族だったんスか?」
「可能性は高いわね……特に、今みたいに地球上で滅びた神族の魂は、ほぼ確実に人間として生まれ変わるわ」
「…………」
「今、受精卵に融合したとして……誕生まで約1年後かしら。ゾマ中尉の力を受け継ぐ子が誕生するのは……」


 ……那由の恐るべき予言は、的中した。
 1年後、誕生した赤子は成長を遂げ、今から15年後に『覚醒』する事になる。
 “魔将元帥”ヌル・ゾマ中尉の能力を受け継いだ、最強の魔人王――
 その名は、“仙洞寺……”

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