鈴にゃんの冒険 |
西暦202X年――昔の空想科学物語なら、エアカーが空を飛び、ロボットが当たり前のように極彩色のプラスチックタウンを徘徊するという、相当な超科学文明が繁栄している筈だが……世間の生活環境は、20年前とあまり変化がなかった。 劇的に進歩したのは、パソコンやゲーム機の性能ぐらいか。電気自動車が車全体のシェア5割を超えて、リニアモーター電車が全国に張り巡られた程度では、デカタンな科学信望者は納得しないだろう。そろそろ一般家庭向けのメイドロボットが発売されそうではあるが…… 環境的な変化は大きい。 地球温暖化の影響で海の水位が上昇し、海岸線は大きく日本国土を侵食していた。真夏日は軽く60日を超える。農作物への影響も中々深刻だ。 しかし、世間はそれなりに平和であった。 14年前、世界最大最強最高の大悪魔王――『魔界大帝』が降臨して以来、地上の魔物の活動が沈静化したのである。これは魔界大帝への畏怖が原因だとIMSOは発表した。その為、毎年莫大な額になっていた魔物への対策費用が大幅に削減され、世界全体が豊かになったのだ。国家間の紛争も、魔界大帝対策の為に、人類全体が団結する事で解消された。 皮肉にも、世界を滅ぼす力を持つ魔物が世界の平和を作り上げたのである。 しかし――人間が原因となる悪徳には、魔界大帝への畏怖など関係が無い。 ましてや、それが『人』にして『魔』の力を持つモノ――『魔人』がもたらすものであるならば…… 例えば、14年前の東京都心での惨劇―― そしてまた、その『魔人』達による恐怖の宴が幕を上げようとしていた…… ……いや、 『王』による恐怖が―― 『皐月(サツキ)と小坊主(リトルボーズ)――サツキ、会合す』 十数年前は内地と呼ばれたこの地域も、海面が上昇した今では、日本海が一望できる風光明媚な土地になっている。 人口は『かろうじて』町と呼ばれる程度。文明に侵食される以前の自然があちこちで垣間見れる、今の日本では希少な場所だ。 塩気が混じった海風が、初夏の熱波を和らげて、人々が入道雲を見上げる……そんな午後の一時だった。 古ぼけた商店街の、ある路地裏―― 「ほらほらぁ、もう大丈夫だから泣かないでにゃ〜」 「ひっくひっく……」 「さて、これからどうしましょう……警察か私の会社に連絡しましょうか?」 「とりあえず、服を着せませんかぁ」 「あう、そういえば今のお姉さんはセクシー全裸状態にゃ……その辺にセクシーな服は落ちていないかにゃ?」 「セクシーな服も地味目な服も落ちていませんねぇ」 「えぐえぐ……」 「私の着替えはあるのですが、サイズが合いませんね」 「お姉さん背が高くてナイスバディだからにゃ〜」 「……それは暗に私の背が低くてプロポーションが貧弱だと言いたいのですか?」 「な、薙刀を人に向けるのは危険が危ないにゃ……あ、りんちゃんの服ならムリヤリ着られるんじゃないかにゃ?」 「ダメですよぉ、この修道服を脱いだらぁ、私が全裸になってしまいますぅ」 「下着くらい付けて下さい!!」 「……ぽくぽくぽく……ちーん!!はっちゃけたにゃ〜!!」 「ぐしぐし……」 「何か現状を打開する手段が思い付いたのですか?」 「ここからなら『お化け屋敷』まですぐ近くだにゃ。サツキさんに服を借りるのにゃ!!」 「それは良いアイデアですが……そこまでどうやってこの方を連れて行くのですか?」 「あうあうにゃ……」 「仕方ありませんねぇ、やっぱり私の修道服を着せるしかぁ――」 「「脱ぐな(にゃ)!!」」 「しくしく……」 『お化け屋敷』――その洋館は近所の子供達からそう呼ばれていた。 住民にとっては不本意な命名かもしれない。郊外の崖の上という立地条件は少々寂し気だが、その赤煉瓦と白亜の壁面には汚れ1つなく、庭の草木もよく手入れされている。お化けが住むには清潔過ぎるだろう。 しかし、重々しい鉄門に絡まる蔦が、大時計の下にあるステンドグラスのくすみが、この洋館が経てきた歳月を無言で物語っていた。 果たして、斯様な館に住む住民とは―― 「たのもぉ〜!!」 大の男でも数人がかりでなければ開けられそうに無い鉄門――その前に、腰に手を当てて堂々と声を張り上げる青い髪のネコ娘――鈴にゃんこと鈴奈がいた。 「それでは道場破りですよ……」 肩口で切り揃えた黒髪の袴少女――ひよりんこと日和がこめかみを押さえる。 「勝手に入ってもイイのではぁ?」 あまりその格好には相応しく無い台詞を言うストレートロングのシスター(見習い)――りんちゃんことリンがほえほえと微笑んだ。その傍らには―― 「あの、何やら服を着ていないよりも恥ずかしい気がするのでありんすが、ぬし」 ダンボールを身体に巻いた青白い美女が、不安げに呟いた。さすがにこの格好では色気よりもマヌケさが目立つ。ここに来るまで人に出会わなかったのは僥倖だろう。 「大丈夫にゃ。サツキさんはお姉さんと背格好が同じだから。身長170cmぐらいだったかにゃ?」 にこやかに答える鈴にゃんだけど、 「……おっぱいもすっごく大きいし……ね、ひよりん!?」 次の瞬間にはひよりんに抱き着いてウルウル涙を流したりする。この感情変化の激しさも、彼女の魅力なのかもしれない……好意的に見れば。 「……なぜ私に振るのですか」 「同士じゃにゃい!!もう14歳なのに、まだブラがいらない仲間としてにゃ!!」 「それを言うなぁ!!!」 げしげしとどつき漫才を始めた2人の幼児体型コンビは、 「あのぉ、サツキさんがぁ……」 りんちゃんのノンビリした声に、はっと我に帰って門の中に顔を向けると…… 「…………」 黒い風が吹いた―― 海風が吹き抜けると同時に、大木の梢に陽光が隠れたのだ。 黒を基調としたゴシックスタイルのメイド服―― 1本の三つ編みに束ねた長く艶やかな黒髪―― 頭部のホワイトプリムに、手にした竹箒―― 女性にしては高めの長身に、誰もが目を見開くだろう爆乳―― そして、天上天下の芸術家が全精力をかけて創造したが如き、完璧なる美貌―― 頬に手を当てた独特のポーズで、漆黒のメイドさんが無表情に佇んでいた。 「あ、サツキさんこんにちわ!!相変わらず神出鬼没ですにゃね!!」 「こんにちはサツキさん。本日も御変わりなく」 「おはこんばんちはぁ」 しゅたっと片手を上げる鈴にゃん達に、 「…………」 完璧な無表情のまま、メイドさん――サツキは頭が地面に触れるくらい深々と御辞儀した。 「…………」 「え?遊びに来たのなら丁度良い?御茶の用意をしたばかりだって?やったにゃ〜♪」 「……鈴にゃん、遊びに来たのでは無いですよ」 「にゃ、そうだったにゃ……あのね、今日はサツキさんにお願いがあって来たのにゃ」 「…………」 「私にできる事ならなんなりと?うんうん、あのね実は……」 3人娘の影に隠れていた青白ダンボール美女を、よいしょっとサツキの前に置く鈴にゃん。 「このお姉さんが、かくかくしかじかなのにゃ!!」 「……鈴にゃん」 「……鈴にゃんさぁん」 ひよりんとりんちゃんが大きな溜息を吐いた。今、鈴にゃんは形容表現ではなく『かくかくしかじか』と言ったのである。これで話が通じたら苦労は無い―― 「…………」 「え?わかった?私のメイド服でよければ予備があるって……ホントに通じたにゃ!?」 これには言った本人が一番驚いた。りんちゃんがあらまあと手を叩き、ひよりんはますます大きな溜息を吐く。 「…………」 どうぞこちらへ、と踵を返し、3人娘&青白い美女を先導するサツキは、相変わらず無表情のままだった。 「こんな事なら、お土産を用意するべきでしたね」 「誰が用意するのにゃ?」 「やっぱり臨時収入があった人でしょうねぇ」 「……あのですね」 サツキに事情を話した一同は、屋敷の中に案内されて、青白い美女を着替えさせている間、ロビーでしばらくくつろぐ事になった。お茶菓子は美味しかった。 きっかり10分後、お揃いの白いメイド服に着替えた美女を連れて来たサツキは、 「…………」 ご主人様がお呼びですと、一同を連れて廊下を進んでいるのである。 珍しい事だった。 ここの主人はある事件で身体を壊し、ほとんど寝たきりの日常を過ごしているという。身体に触りがあるとかで、鈴にゃん達も数えるほどしか会った事が無い。 しかし、『彼女』の事はとても強く印象に残っていた。 それは―― 「……えらい豪華な屋敷でありんすぇ。びっくりしんしたぇ」 お登さんのようにキョロキョロと辺りを見まわす青白い美女――その美貌に驚きの表情が浮かぶのも無理の無い事だった。 『お化け屋敷』と称された屋敷の内部は、王侯貴族も住めないような超豪華絢爛な作りだったのである。内装や調度品は全て超一流の品だと素人目にも分かる。空気にも黄金の成分が含まれているようだ―― 「…………」 ほとんどイミテーションです。というサツキの解説が無ければ…… 「ほとんど、といわす事は、本物も混じってありんすのかぇ?」 「そうみたいだにゃ。あの高そうな壷とその高そうな壷は本物みたいだにゃ」 「こなたの世界の物品価値はよくわかりんせんが、ぬしは鑑定ができるのでありんすかぇ?」 「鈴にゃんに鑑定ができるわけ無いでしょう」 あの時の事を思い出して、ひよりんが今日何十度目かの溜息を吐く。 以前、この屋敷に遊びに来た際に、長廊下全力疾走競技に精を出していた鈴にゃんが、うっかりその壷を落とした事があるのだ。その時、どこからともなく出現したサツキが、見事なヘッドスライディングで間一髪受け止めたのだが……おかげで鈴にゃんは屋敷の調度品に一切手を触れないという誓約書を書く羽目になった。あの時のサツキさんの無表情は怖かった…… ……と、ここで廊下の突き当たり――蒼い中華風の龍が彫られた、豪華な扉の前に辿り着いた。 閉じた扉の前で一礼し、 「…………」 「どうぞ」 中からの鈴の鳴るような声と同時に、サツキはうやうやしく扉を開けた―― 「久しぶりね」 青い空間だった。 サファイヤブルーのランプシェードが、おぼろげなランプの光を青く染めている。部屋の中の光源はそれだけだ。窓も電灯も無い。 屋敷の主の部屋は、意外なほど殺風景だった。調度品といえば、小さな本棚と化粧台をかねたミニデスク――そして、レースの遮光カーテンに被われた天蓋つきの巨大なベッド。 「お久しぶりですにゃ!!」 遮光レースの向こうにある、ベッドから半身を起こした女性のシルエットに、鈴にゃんは元気満点の笑顔を見せた―― 鈴にゃんが初めてこの屋敷に来た――もとい、不法進入したのは、小学校低学年の頃である。 近所の『お化け屋敷』に孤児院の仲間と探検に行った鈴にゃん達だったが、敷地内に入った直後、物陰からぬっと出現したサツキの黒尽くめの姿に、みんな恐れをなして逃げ出してしまったのだ……転んだ鈴にゃんとぼけっとしていたりんちゃん以外は。 それが鈴にゃん達とサツキの初会合であった。 怒られておしりペンペンされるにゃ〜と半泣きの鈴にゃんであったが、サツキは無言で擦りむいた個所を手当てしてくれたのである。それ以降、鈴にゃんとひよりんはサツキによく懐いていた。家族のいない鈴にゃん達にとって、彼女は姉のような存在なのかもしれない。 しかし、幾度とこの屋敷に遊びにきている鈴にゃんであったが、こうして屋敷の主人に会う機会はほとんど無い。病弱で滅多に人に会えないと説明を受けた鈴にゃんは、しょっちゅう野の花や海の貝殻を摘んできては、サツキに頼んで彼女に御見舞品として届けている……気休めにもならない事はよくわかっているけど、元気な事だけがとりえの鈴にゃんにとっては、逆説的な意味で主人の事が気にかかっていたのである。同情でも優越感でも無く、純粋な『優しさ』で―― 「みんな元気そうね。外の様子はどうかしら?」 窓1つ無いこの部屋で寝たきりの状態では、外部の様子を知る手段は無い。初夏の日差しも優しい海風も無縁のものだ 「もうすっかり夏ですにゃ!!今度、お土産に生きの良いマグロを10匹くらい採ってきますにゃね」 「私も手伝いますぅ」 「安心してください。本気でやろうとしたら、私が2人をド突いておきますから」 「あ、ありがとう……ところで、そちらの娘さんは何方かしら?」 3人娘の影に隠れていた白いメイド姿の青白美女は、びくっと身を震わせた。人見知りする性格らしい。 「ええと、このセクシーなお姉さんは――」 そこまで言って鈴にゃんは固まった。そういえば、彼女の名前を全然知らない……っていうか、自己紹介の類を全然やっていないじゃん。 「わ、わたしの名前は三池 鈴奈、鈴にゃんと呼んでにゃ!!――ほら、2人も自己紹介にゃ」 「そういえば、自己紹介がまだでした……仙洞寺 日和です。その2人にはひよりんと呼ばれています。今後ともよろしくお願いします」 「私はぁ、道野 リンと言いますぅ。気軽にりんちゃんと呼んで下さぁい」 「…………」 「え?サツキさんは着替える時に自己紹介した?じゃあ、最後はキリコさんの番にゃ!!」 無意味に元気な鈴にゃんの言動に、遮光カーテン越しの蒼い影が微かに笑ったように見えた。 「占上 霧子(しめがみ きりこ)よ。サツキから尋ねて来た理由は聞きました。ようこそ我が館へ。」 小声だが、よく通る澄んだ声だった。 自然に皆の視線が青白い美女の元に向けられる。緊張のあまり、青白い顔をますます青くして、 「わ、わ、わっちの名前はベルクリアス・コーマといいんすぇ……淫魔族コーマ家の第3子女でありんすぇ……どうかよろしうお願いしんすぇ……」 青白い純白メイド美女――ベルクリアスはボソボソと蚊の鳴くような声で呟いた。 その自己紹介に、ひよりんとサツキの、そしてカーテン越しの霧子の間に鋭い何かが走る。 「淫魔族――と、言いましたね」 すっと日和が鈴奈とリンを背にして、ベルクリアスの前に立った。その目は普段以上に険しい。 『淫魔』……それは無限の快楽と絶対なる破滅をもたらす、甘美なる邪悪。 生物学的には悪魔族の一種に分類され、男性型のインキュバスと女性型のサキュバスの2種類が存在する。異性の夢の中に侵入しては淫らな夢を見せて、命の根源たる精気を略奪し、ゆっくりと魂を破滅させるという、かなり特殊な行動パターンを持つ魔物だ。 あの戦慄的なまでの美貌、麻薬のような淫猥な肢体も、男を堕落させるものなら納得がいく。何よりこの魔物が恐ろしいのは、そのあまりの快楽の為に、犠牲者が自らそれを望んでいく点だろう。特に大した戦闘力を持たないにもかかわらず、その意味ではかなり厄介な魔物である。 (しかし……斯様な淫魔がいるのでしょうか?) 日和の疑念はもっともだ。 淫魔族は夢の世界をテリトリーとする事からもわかるように、本来は実体を持たない精神生命体とでも呼ぶべき存在なのである。ベルクリアスのように、見て聞いて触れる事が可能な淫魔族など、日和の知識には無かった。 (私の知る淫魔族とは、別種の存在なのでしょうか?) 疑問に眉を寄せながらも、日和の2人をかばう姿勢に隙は無い。相手が魔物である以上、一瞬の油断が命取りとなる。 しかし――日和の手に必殺の武器たる薙刀は無かった。 おどおどとしたベルクリアスの態度には、敵意も悪意も感じられなかったからだ。 『甘い』――そう断じられても仕方ないかもしれない。相手の立場がどうであろうと、魔物は即時滅殺――それは退魔師としての基本中の基本である。現に、その事で会社の上司によく怒られていた。 でも『敵意や悪意が無い相手には、たとえ魔物でも刃を向けない』――それは日和にとって絶対なる信念だ。今後、如何なる事態が起ころうとも、その信念を変える事は無いだろう。 ――『あの時』以来―― 「なるほど、貴方は悪魔族の眷属――淫魔族なのね」 「はい、わっちの翻訳魔法は現地言語の固有名詞もカバーしんすがら、ぬしのおっしゃる淫魔族は、わっちの言う淫魔族と同じだと思いんす……ああ、わっちは何を言ってありんすのでありんしょうかぇ?」 それに、霧子の言葉にも警戒の念は感じられない――いや、警戒しているのは日和だけらしかった。 「それでは、なぜ貴方は魔界から私達の世界へ?」 「はあ、それには深い訳があるのでありんすが、ぬし」 ベルクリアスの表情が硬くなる。その真剣な雰囲気に、鈴にゃん達は思わずごくりと喉を鳴らす。 「初等部の授業で隣の御方と一緒に転移魔法の実験をやったんでありんすが、うっかり呪文を間違えて異世界へ――あ、こなたの世界の事です――次元転移してしまいんしたんでありんすぇ」 ひゅううううう…… 部屋の中なのに、冷たい風が吹いたのはなぜだろう。 「……それだけ?」 「はい、それだけでありんすぇ」 きょとんとしたベルクリアスの無垢な表情に、ひよりんはそれ以上何も言えなくなった。同時に警戒の疑念も雲散霧消してしまう。ツッコミ入れたい個所はたくさんあるけど…… 「貴方、さっき『隣の御方と』と言ったわよね。つまり、巻きこまれた御学友さんもこの世界に来ていると考えるべきかしら?」 笑いを含んだ霧子の問いかけへの返答は―― 「はいでありんすぇ。偉大なる魔界大帝様は、さほど時間と空間が離れていない場所に降臨されていらっしゃるはずでありんすぇ」 何気ない口調だった。 当人にとっては。 だが、矮小なる地球人類達にとっては―― 「……その魔界大帝様は、私達の知る魔界大帝と同じだと考えていいのかしら?」 「はい、さっきも言いんしたが、わっちの話す翻訳魔法言語は、固有名詞も自動変換されんすから」 「…………」 「あ、あのう……何かわっち変な事を言いんしたかぇ?」 一瞬にして絶対零度の沈黙に支配された部屋の空気に、ベルクリアスが不安げな声を洩らした。 カーテン越しでも霧子の戦慄の情がわかる。サツキの無表情にすら動揺が宿り、日和とリンに至っては顔面蒼白のまま声も出せない。 14年前――文字通り“降臨”せし無限の災厄―― 『ちょっとそう考えた』だけで、我々の存在する宇宙そのものを消滅できる超々高位存在―― この地球における最大最悪の絶対危機――『魔界大帝降臨』の原因が、あのおどおどした淫魔の娘だったのか!? 何の根拠も証拠も無い発言なのに、それが絶対なる真実だと『何故か』理解できる――それが、あらゆる反論を否定する、まぎれもない証拠なのだ。 202X年において、その事実を知り驚愕しない人間などいないだろう…… 「えーと、なにかムズカシイ事言ってるのでよくわからないけど、それってスゴイ事なのかにゃ?」 ……この脳天気あっぱらぱーネコ娘を除いて。 一気に場の空気から緊張感が無くなったのを実感しながら、 (いけないいけない……偏見を持たない事が、私の信念である筈でしょう) ひよりんはぴしぴしと自分の頬を叩いた。 そもそも、魔界大帝自体が十数年前に“警戒保全対象”に指定されている。“警戒保全対象”とは、簡潔に言えば『警戒は必要だが、こちらから何もしなければ特に危険な存在では無い』という事である。ならばこの淫魔も特に地球人類にとって脅威の対象にならない可能性も十分にあるだろう。断言するのは危険かもしれないが。 カーテン越しの淡い影が、僅かに上体を傾ける。思案を巡らせているのか――やがて、 「貴方の素性はわかったわ……それで、貴方はこれからどうするの?」 本気で身を案じる声だった。もう、この女主人も淫魔に対する警戒の念は薄れたらしい。 「わっちは……わっちは、魔界に帰りたいでありんすぇ」 純白のメイド姿が、か細げに揺れる。 地球人類など足元にも及ばぬ高位存在の、あまりに弱々しい面持ち――鈴にゃん達を動かしたのは、それだったのかもしれない。 「ベルクリアスさんご自身の力でぇ、魔界に帰る事はできないのですかぁ?」 「……それが可能なら、とうに自分で帰っているでしょう」 「あぁ、そうでしたねぇ」 ちろっと舌を出すりんちゃん。この辺の紙一重なボケは、わざとなのか単なるおバカなのか……長年付き合っている者達にもよくわからない。 「私の退魔会社に連絡……すれば、大変な事になりますね」 「その辺にどこでも○アでも落ちて無いかにゃ?」 「…………」 「え?3日前に玄関先に落ちていたけど、粗大ゴミに出してしまった?残念だにゃ〜」 「天に居まします我等が神にぃ、奇跡を期待するのはぁ……」 「彼女は淫魔族よ」 「……ダメですよねぇ」 あれこれと建設的な(?)意見を交わす一同に、 「次元転移魔法は、わっちまだ使えないのでありんすぇ。すみんせん。魔界大帝様にお会いできれば、何とかなると思うでありんすが、ぬし」 小声でベルクリアスが控え目に意見する。ひよりんが嫌味にならない仕草で肩を竦めた。 「魔界大帝の所在地は、退魔機関トップクラスの極一部しか知らないという噂です。感知魔法も通用しないのですよ。定期的に所在地を変えているという噂もありますし……残念ですが、その案は――」 「知っているわよ」 一同の視線が、一斉にカーテン越しの影に向けられる。 「魔界大帝は、この国の“高知県○○市○○町”にいるわ」 茶飲み話と変わらない、さり気ない口調――しかし内容は正反対だ。 世界中の退魔組織の中でも、極々一握りの者にしか知られていないトップシークレットを、なぜあの寝たきりの女主人が知っているのか? 荒唐無稽な嘘偽り――そう考えるのが自然だろう。 しかし―― 「高知県ですか……富山からはけっこう遠いですね」 「IMSOのテレポートサービスなら1秒だって、落ちてた新聞で読んだにゃ」 「……あれ、滅茶苦茶高いのですよ」 「あにゃにゃ……」 「普通にリニアモーター列車を使えばぁ、1日で行けますよぉ」 「…………」 「え?魔界の住民が1人で列車やバスを乗り継いで高知県まで行けるのかって?……どうかしら?」 「わっち、こなたの世界の事はさらさらわかりんせん」 「そうよね……」 あれこれ悩み始める鈴にゃん達――だが、 ぽくぽくぽく……ちーん!! 「はっちゃけたにゃ〜!!」 ぴこーんとネコ耳が鈴にゃんの頭上に飛び出した。初夏の妖精が宿ったような満面の笑み――彼女に親しい者は、この笑みを見てこう思う。 鈴にゃんがあんな風に笑った時は、絶対に何かとんでもない事を思い付いた時だ……と。 「これを今回の旅行にすればイイのにゃ!!」 ………… …… … 「「「えええ〜〜〜!?」」」 ――同時刻―― 沈黙が空間を支配している。 薄暗い――いや、薄明るいと言うべきか。 光源などどこにも無いのに、その部屋は朧気な光が漂っていた。光といえども、物の輪郭も露わでは無い、あまりにも儚い光だ。 しかし、この者達にはその程度の光で十分なのだろう。 闇を駆逐しながら、決して表舞台に出る事無く、闇から闇へ、闇の魔性を滅ぼす仏法の使徒――『闇高野』 日本の何処とも知れぬ深山の奥に、その総本山がある――その所在地は、現政府の一部の高官と、IMSOの幹部しか知らされていない。 深淵の原生林を漂う幽玄な白霧の中に、薄墨色の仏閣が見え隠れしている。影を帯びた涼風が梢を揺らす度に、朗々と読経が聞こえるのは幻聴だろうか。 御仏の霊験が、全てを覆い隠す聖域―― その最深部に、その庵はあった。 藁葺きの屋根は半分剥がれかけ、元は仏教芸術の壁刻が一面に彫られていたらしい木壁も、雨風に晒されて半ば朽ちかけている。浮浪者も住むのを躊躇うだろう惨状だ。 まさか、このあばら家が、闇高野の頂点にして仏罰の最高地上代行者“大僧正”の居住する庵だとは、誰も信じられないだろう。 霧が壁の穴から内部に進入する。その冷たい感触に、僧衣を纏った皺だらけの好々爺――闇高野“大僧正”は微かに身を震わせた。 床より一段高い座位に腰を下ろすその姿は、とても闇高野の最高指導者とは思えない平凡なものだ。枯れ枝をへし曲げたような華奢な身体は、そよ風にも吹き飛ばされるかもしれない。 しかし―― 「…………くっ」 大僧正の眼前に立ち、その鼻先に白刃を向ける男の額には、まぎれもない脂汗が浮かんでいた。 若い男だった。まだ20代半ばだろう。黒髪だが顔立ちは西洋人のそれだ。あまり漆黒の僧衣が似合っているとはいえなかった。身長は175cmを超える。無駄の無い引き締まった体付き。顔立ちは美形と言えるが、その無表情の冷徹さは、人を寄せ付けない何かを宿していた。 そして、何より印象的なのは、暗闇の中でも銀光を放つ見事な刀と、その肩担ぎの構えの見事さだ。 何と美しく、そして恐ろしい構えか。 それだけで、この男の凄まじい技量が素人目にもわかる。その間合いに踏み込めば――いや、たとえ間合いの外でも、煌く白刃が万物を両断するに違いない。 だが、無防備のまま床に座る大僧正に対して、その刃は微動だにしなかった。 「どうした、斬れんのかの?」 茶飲み話のような口調で、大僧正は自分に向けられた刀に微笑んだ。 「斬れん」 錆びた鋼の声――刀の主に相応しい響き。 「お主をこの闇高野に客人として迎えてから、早10年……今だ剣の真髄は掴めぬか」 大僧正は溜息を吐いた。 「俺が貴方を断つより先に、俺が斬られる。貴方が寸鉄1つ帯びなくても、俺を斬る気が無くても。それが分かる以上、貴方を斬る事はできない」 「当代最強の『風師』にそう言われるとは、ワシもまだ捨てたものでは無いのぉ……ディアス殿」 空気が漏れるような笑いを上げる大僧正に、男――“ディアス・G・バーン”は沈黙で答えた。 ぴたり、と笑い声が止む。 数瞬の沈黙――大僧正の右手が微かに揺れる。 すっ 切っ先に刺さった1枚の書状に、ディアスは怪訝な視線を向けた。 「お主を呼んだのは他でも無い。それは各地に散らせた“闇草衆”が先日届けし知らせじゃ。それを読めば今回の任務が分かるじゃろう」 「“淫魔の王”――か」 ほんの微かに、ディアスの目が細められる。 「斬るのか?捕らえるのか?」 「お主に任せよう」 ディアスの無表情に、怪訝な影が差した。 「俺の判断に任せるだと?書状の情報が正しいなら、この件は14年前の魔界大帝降臨以来の世界の危機だぞ。闇高野全てが動く事態ではないのか」 「お主の実力なら大丈夫じゃろう。それに“テンプラーズ”や“アズラエル・アイ”も、この件に関しては1人しか派遣しておらんらしいからの。ウチだけ人海戦術するのもカッコ悪いじゃろ?」 「…………」 「それにじゃ……この戦いを潜り抜けた時、お主は“剣の真髄”を掴むじゃろう。ワシにはそう思える」 「…………」 ぱちん 刀が収められた。その何気ない仕草に大僧正が感嘆の声を洩らす。かつて世界最強の剣士と称された大僧正ですら、その動きが見えなかったのだ。 無言のまま、ディアスは大僧正に背を向ける。 「そうそう……今回は、お主の“姉の魔剣”を持って行くべきじゃろう」 返事は無い。 空気分子1つ微動だにせず、闇高野最強の剣士にして、世界最強の『風師』――ディアスは大僧正の前から姿を消していた。 再び、孤独な沈黙が宿る――やがて、 「さて……これで良いのかな?」 『うん、那由ちゃんもこれで満足すると思うよ』 ――その言葉を聞いていれば、あの男の運命も変わっていたかもしれない。 “サイレントブレイド”――ディアス・G・バーン ――出陣す。 |
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