鈴にゃんの冒険

 『東京結界封鎖事件』――“魔女”とヒュドラ率いる魔人達の戦いから14年の歳月が経過している。が、あの事件の衝撃は今もなお深い傷跡となって、東京都心を蝕んでいた。
 破壊された市街は復興が進み、表向きはかつての帝都の威光を取り戻してはいる。しかし、ちょっと路地裏の奥に迷い込むだけで、オーナー不在となったビルの廃墟がぽつぽつと見受けられ、それを見る度に、当時の犠牲者達は得体の知れない不安に身を震わせるのだ。
 那由の蘇生魔法とシー・リャンナンの記憶操作により、あの当時の犠牲者は事件について何も憶えていない筈だが……彼等の“魂”とでも言うべきものが、あの恐るべき時間を記憶しているのだろう。
 そして、この廃墟もそんな惨劇の墓標の1つだった。
 午前0時――不夜城東京にとって昼夜の区別は意味が無いが、街灯も通っていないその町外れの廃ビルは、深遠なる夜の帳に奥底まで包まれていた。
 内部のフロア自体は比較的しっかりしているものの、ガラスは全て砕け散り、壁という壁はひび割れが縦横無尽に走っている。かつては情報処理関連の仕事を扱う会社があったのだろうか、壊れたパソコンやぶつ切れたケーブル類の廃物が辺りに散乱していた。そのあまりに陰鬱な雰囲気は、亡霊でも立ち入るのを躊躇いそうだ。
 ならば、この中にたった1人で『作業』に勤しむこの男は、亡霊以上の“何か”といえた。
 身長は2m近い。100kgを超えるだろう体重の全てが、筋肉で構成されているように屈強な体格だ。頭に巻いたターバンとサングラスの為に顔つきはよくわからないが、浅黒い肌がどこかエキゾチックな空気を醸し出していた。目尻の皺から判断して30代後半を過ぎていそうだが……日本人の基準では、その格好は少し珍妙だ。ターバンの他にも、軍用のジャケットを身にまとい、その上に灰色のマントを羽織っているのである。イスラム圏の人間なのかもしれない。
 そして、その男がこんな陰気な所にたった1人で何をしているのかといえば――崩れかけた柱の前にどかっと腰を下ろし、掌に収まりそうなミニ・コンピューターのキーボードを悪戦苦闘しながら打ち込んでいるのである。コンピューターの端末は、柱の亀裂から覗く通信用ケーブルに接続されていた。
 つまり、この男はさっきから――

「――我が社にハッキングするとは、いい度胸ですね」

 その解答は、部屋の出入り口に佇む男から発せられた。
 一陣の風が、床に積もった埃を巻き上げる。
 何時、どうやってこの場に出現したのか――赤く染めた短髪が目立つ、中肉中背の男がいた。年齢はまだ若い。二十歳は超えないだろう。どこか温厚な雰囲気の青年だ。
 しかし――その眼光の冷たさが、彼の常人とは違う恐るべき何かを滲ませていた。
 そして、その緑を基調とした制服の胸元に付けられた認識章に記載されている文字は――
 『西野怪物駆除株式会社』
 つまり、この男も退魔師か――それも凄腕の。

「今すぐ中止してください。その後、じっくり話を聞かせてもらいましょうか」

 氷の如き眼光を背中に受けながらも、しかし、あのターバン男は作業を止めようとしない。そのあまりに無防備な姿に、赤髪の青年はあきれたような視線を向けた。

「……入国してから15分、ハッキング開始から5分で嗅ぎつけたか。さすがに早ぇな」

 その声を聞くまでは。
 何と不気味な響きか――煮えたぎる溶岩が無理やり人間の声を発音したような。
 青年を身構えさせたのは、それだったのだろう。

「僕は西野怪物駆除株式会社所属、戦闘退魔師“風輝 零(ふうき れい)”……貴方の所属と名前を聞かせてもらいましょうか――」

 赤髪の青年――零が身に付けているブレスレットに、青白い魔力の輝きが宿る――次の瞬間、

「――命が惜しければね」

 なんと、十数丁もの重火器が空中に出現し、その銃口を男に向けたではないか。
 どの銃も人間など一発でミンチにできそうな凶悪極まりない代物である。如何なる原理でこれらの重火器を操っているのかは不明だが、これ以上単純で効果的な脅迫はないだろう。
 しかし――

「魔力強化したナノマシンによる、武器創造制御術か。1度にそれだけ制御できるとは、大したもんだ」

 しかし――男はいまだに背を向けたままだ。まるで、周囲の恐るべき武器が目に入らぬかのように。
 ――いや、この状況がまるで脅威にならないかのように。

「貴様……何者ですか!?」

 一瞬にして自分の能力を見抜かれた零は、動揺を押し隠しながら更に強い視線で男を睨んだ。
 空中に浮かぶ銃の引鉄は、限界まで絞られている。

「……そういえば、名前と所属を尋ねられていたな」

 キーボードを走る指が止まった。
 零の顔に緊張が走る。
 ゆらり、と男が立ち上がる。
 零の額に冷たい汗が浮かんだ。
 サングラスを外しながら、ゆっくりと振り返ったその顔――切傷、刺傷、裂傷、擦傷、銃創、火傷――あらゆる傷で被われた顔――しかし、零の心臓を鷲掴みにしたのは、それではなかった。
 何という眼か――ひと睨みで地獄の鬼も石と化しそうな凄まじい眼光よ。男がサングラスをしていたのも当然だ。こんな凄まじい眼光を放つ男がいたら、まともな日常生活などとても不可能だろう。それほど恐ろしい眼だった。

「イスラム退魔解放戦線(アズラエル・アイ)所属、“ケネス大尉”だ」

 その名前は零にとって聞き覚えがあった。それを思い出すより先に――

「しかし、俺と似たような能力を持っているとはな」

 次の瞬間――東京都心の全ての住民が、天に轟く凄まじい爆音と、ある裏通りの廃ビルから昇る巨大な火柱を目撃した……

「くぉおおお……」

 パラパラと落ちる瓦礫は、全て黒焦げになっているか溶解していた。
 全身に大火傷を負った満身創痍の零は、黒焦げのビルの残骸の中で、呻き声を上げる事しかできずにいた。
 何が起こったのか。

「手加減はした。命に別状はねぇよ」

 世間話でもするような口調で、恐るべき男――ケネス大尉は足元の零を見下ろした。

「ちょっと派手に『撃って』みたからな、もうじき誰か来るだろう。それまで大人しくしてな……悪ぃな、この国で“淫魔王”の情報を調べるなら、おたくの会社の資料を拝見するのが手っ取り早いんでな。文句は“人形使い”の大将に通してくれ」

 野次馬らしいざわめきと、消防車のサイレンが徐々に近づいて来る。ここは早々に立ち去るのが賢明だろう。
 乱雑にハッキング用の機材をバックにしまい、何事も無かったように踵を返して立ち去るケネス大尉の背中を、

「……お…思い出した……その…名前……」

 血を吐くような零の呻き声が憎悪をこめて撫でた。

「……アズラエル…アイ…最強の……戦闘能力者…にして……世界最強…の…火炎魔術師……“ウォーキングフォートレス”…ケネス・クガヤマ大尉……かっ!!」

 声をかけた相手は、既にこの場にいない。
 赤々と夜空に踊る炎の残骸が、ただ無機的に廃墟と敗残者を照らしていた……

 三大宗教最後の刺客――イスラム退魔解放戦線(アズラエル・アイ)“ウォーキングフォートレス”ケネス・クガヤマ大尉――

 ここに出陣す。

 残るピースは――


『……これで“風”と“土”と”火”が揃いましたか。後は“水”もしくは“木”と“金”ですが……どうやら、私が動くしか無いようですね』

「何をしているのですか?終美(つみ)様……」

『いえ、何でもありません』


 ――あと1人。







































『鈴にゃんの冒険』






































Part4

『皐月(サツキ)と小坊主(リトルボーズ)――両者、会いまみえる』







































 旅行当日の朝は、幸いにも晴天だった。
 まだ午前中だけど、初夏の日差しは鋭くまぶしい。渚に打ち寄せる波飛沫がきらきらと輝く度に、塩辛い海風が3人娘の頬をそっと撫でていく。白い入道雲。水平線を滑る漁船。このまま1枚の絵になりそうな美しい浜辺だった。
 で、朝っぱらからそんな浜辺に集合している3人娘は――

「それでは!!第65536回“生きのイイお魚さんを拉致して漁師さんに売り払ってウハウハにゃ〜♪”大会を開催するにゃ!!」

 テトラポットの上で薄い胸を張り、拳を突き上げ絶叫する鈴にゃんを、

「……は?」
「はぁ」

 ひよりんとりんちゃんが呆然と見上げていた。
 ――昨日、『お化け屋敷』の帰り道で『賞金五万円だけでは、みんなで高知まで旅行するのはキツイ』という問題について相談したところ、鈴にゃんは『お金を稼ぐならイイ方法があるにゃ!!』と解決策を申し出たのである。
 後はただ、旅行出発の予定時間である昼12時の数時間前に、港に隣接する砂浜に水着を持って集合するようにと言うだけだった。詳細は現地で説明するという。鈴にゃんの突拍子も無い思い付きに振り回されるのはいつもの事なので、2人はやれやれまたかと素直に言うとおりにしたのだった。
 しかし、今回の鈴にゃんの計画は、その2人にとってもぽかんと口を開けるしか無い意味不明なものだったのである。

「……その名が内容を表しまくっている大会は……つまり、鈴にゃんの言う予算確保の方法というのは……」

 ひよりんのちょっと吊り気味の瞳が、ジト目のそれに変わる。

「もちろん!!これからお魚さんをゲットして漁師さんに売却してお小遣いを貰うのにゃ!!う〜ん、我ながらナイスでクールでグッジョブな作戦にゃね」

 自信満々の鈴にゃんスマイルに、残る2人は盛大な溜息を吐いた。

「……何の道具も無いのにぃ、どうやってお魚を獲るのですかぁ?」
「もちろん、素潜りアーンド素手でつかみ取りにゃ」
「できるわけないでしょう!!」
「えええ〜?あたしはしょっちゅうやってるにゃよ?」

 気がつくと、もう鈴にゃんは水着に着替えていた。服の下に着込んでいたのだろう、スパッツとシャツがテトラポットの端に引っ掛けてある。ピンク色のスポーツタイプのビキニは、スマートな鈴にゃんの体型にとても良く似合っていた。色気は皆無に近いが……

「はぁ……どうせこんな事だろうと思っていました」
「これならぁ、マザーと御一緒に募金箱を持って駅前に立つ方がマシですぅ」

 諦めたようにひよりんも学校の制服を脱ぐ――彼女の普段着は、学校の制服か薙刀用の袴姿だけである――砂浜では着替える場所が無いことを見越して、ひよりんも制服の下に水着を着込んでいた――が、

「あららぁ?ひよりんさん、先日お給料で念願のセパの水着を購入されたのではぁ?」

 頭上にハテナマークのりんちゃんの前には、『2―1 仙洞寺』のマークが胸元に貼られた学校指定の紺色ワンピース水着――いわゆるスクール水着を恥ずかしそうに着ているひよりんの姿があった。

「しくしく……訳は聞かないで下さい」

 プライベートでもスクール水着を着るなんて小学生みたいだが、元からひよりんは小学生にしか見えないので、違和感どころかちょっとヤバイぐらいに似合っていた。物凄くマニアックな意味で。
 そして、

「ではぁ、私もぉ……」

 夏場なのに長袖ロングスカートのシスター服を、あっという間に脱ぎ捨てたりんちゃんの姿は――

「じゃじゃ〜ん♪」
「ちょちょちょちょっと!!りんちゃん!!!」

 それを見たひよりんは、顔を真っ赤にしてわたわたとりんちゃんの姿を隠すようにシスター服をかぶせた。

「どうかされたのですかぁ?」
「どうかしたではないでしょう!!何ですかその水着は!?」

 怪訝な顔でシスター服を剥いで、再びじゃじゃ〜んとセクシーポーズを取るりんちゃんの姿は――なんと、股のデルタ部分を辛うじて隠せる面積の白いハイレグから、二股に伸びるヒモ同然の布がぷるぷるの爆乳の先端をちょっと引っかけて、首の後で完全に1本のヒモになってお尻の割れ目に消えていく……という、いわゆる『Vの字ヒモ水着』だったのである。しかも色は水に透けまくりの純白だ。

「この水着ですかぁ?マザーにプレゼントして頂きましたぁ」
「……本当に聖職者ですか?貴方も司祭様も……」

 頭を抱えるひよりんも無理はなかった。一歩間違えれば変態露出狂にしか見えない格好である。これなら全裸の方がまだマシだろう。しかも中学生とは思えない超ナイスバディのりんちゃんの場合、かなり似合っているのが逆に始末が悪い。この姿を写真集にすれば、大ベストセラー間違いなしだ……海水浴場から少し離れた早朝の砂浜だったので、自分達以外に人気が無いのが幸いだったと、安堵の溜息を深く深く吐くひよりんであった。

「ほらほらぁ、先に行くにゃよ〜。各自ノルマはクロマグロ一匹ね〜」

 ……で、そんな事はいざ知らず、テトラポットから海に飛び込んだ鈴にゃんは、華麗なネコ掻きで水平線の彼方へ消えていった……
 初夏なのに、どこか冷たい風が吹く。
 鈴にゃんの意味不明な行動はいつもの事だけど、さすがに今回は付き合う気にはなれなかった。日本海にクロマグロはいないし。

「…………」
「…………」
「……さて、どうしましょうか?」
「鈴にゃんさんの事は無視してぇ、せっかくだから泳ぎましょお」

 以外にキツイ事もサラリと言ったりするりんちゃん……で、

「そうですね、集合時間までまだ時間もありますし」

 ひよりんもあっさりと追随したりする。美しい友情だ。

「えいっえいっ!!」
「きゃぁ!!やりましたね……お返しです!!」
「きゃあん、水着が透けてしまいますぅ」
「……なぜわざわざ透けるタイプを……一昔前から水に透けない白水着はあるのに……」
「う〜ん、胸が邪魔で水をかけ難いですぅ」
「…………(ばしゃばしゃばしゃばしゃあ!!!)」
「やぁん!!な、何だか個人的な恨みを込めて水をかけられているような気がしますがぁ」
「気のせいです!!」

 きゃいきゃいと波打ち際で水をかけあって遊ぶ2人――
 ――その時、

 ……じゃりっ

 白い砂浜に、黒い革靴が音を立ててめり込んだ。
 一歩毎に、地響きが起こりそうな重量感。
 成人男性の平均身長にまるで満たない身長なのに、その膨れ上がった筋肉のボリュームは、大人数人分はありそうだ。
 黒い背広姿が恐ろしいほど似合っていない、スキンヘッドの強面――
 ――草刈 茂伸が、そこに現れた。



※※※※※※※※※※※※※



 ぴこーん ぴこーん ぴこーん ぴこーん……

「にゃ!?」

 丁度その頃――陸地が水平線の果てにかろうじて見える沖合いで、クロマグロ漁(素潜り)に精を出していた鈴にゃんは、突然、頭の上に忍者みたいに括り付けていたリュックから響いてきた、怪しいアラーム音にビックリ仰天して飛び跳ねた。ここは海なのに。

「い、いったい何事かにゃ?」

 とりあえず、通りすがりのマンボウさんの上に腰を下ろして、リュックの中身を漁ってみると――

「……な、なんでふりかけが?」

 そう、霧子さんからプレゼントされた正義の変身アイテム――というふれこみの――『正義の味方変身ふりかけ』の容器が、アラーム音を発しながら赤く点滅しているのだ。

「これってどういう事なのかにゃ?やっぱり、変身しろって事?……そういえば、変身の方法を全然聞いて無いよ〜!!」

 頭上にハテナマークを浮かべながら、とりあえずふりかけの蓋を開けて、覗きこんだり匂いを嗅いだりしてみる。特に変わった所は無いけど……

「どうやって変身するのかにゃ?」

 それはやっぱり、ふりかけだから……

「とりあえず、ふりかけてみますにゃ」

 何の躊躇いもなく、ふりかけを頭の上にパラパラと文字通りふりかける鈴にゃん……って、そんな怪しいブツを無造作に試したら――!!

 ピカ〜〜〜!!!

「にゃにゃにゃ〜〜〜!?!?」

 まばゆく青白い輝きが、鈴にゃんの全身を包み込んだ――!!!



※※※※※※※※※※※※※




「……アー、仙洞寺 日和さんに道野 リンさんですね」

 丁寧な言葉使いとは裏腹の、低いオヤジ声が背後から聞こえて、ひよりんとりんちゃんは慌てて振り向いた。
 つるつるスキンヘッドの中年男性の強面が、ぎこちなく愛想笑いを浮かべているのを見て、2人はきょとんと顔を見合わせる。

「エー、私は政府直下の退魔関連部署に勤める公務員です」

 慣れない丁寧語に四苦八苦しながら、茂伸も少々怪訝な気分だった。資料によれば、彼女等は全員14歳のはずだが……どう見ても、スクール水着の小学生と超過激水着の女子大生にしか見えないのである。特にリンという清楚な顔立ちのくせに色気過剰な女の方は、気を引き締めないと鼻の下を伸ばして見惚れてしまいそうだった。日和の方は論外だが。
 気を取り直すようにハンカチでスキンヘッドを拭く仕草も、どこかぎこちなくなる。
 一方、突然の怪しい風貌のオジさんに、何事かとハテナマークを浮かべる2人だったが――

「先日、御二人が遭遇した『淫魔』について、お話を聞かせて頂きたいのですが……」

 その一言で、日和とリンは素早く身構えた。

「なぜ、その事を御存知ですか!?」

 日和の声は、すでに戦闘モードに移行している。

「IMSO――じゃねぇ、政府の情報収集能力を甘く見てはいけませんよ」

 茂伸の口元が、男臭く歪む。愛想笑いのつもりらしかった。

「ベルクリアスさんの事ですかぁ?」
「ちょちょちょちょっとりんちゃん!!その事は話しては――」

 身構えたはいいけど、やっぱり状況がわかっていないリンに、日和が慌てて嗜める――が、

「やはり御存知でしたか、それなら話は早ぇな――早いですね」

 今度の茂伸の笑みは、愛想笑いではなかった。
 冷たい海風が、3人の間を無言で駆けた。

「御二人とも退魔企業のアルバイターと宗教関係者なら、あの淫魔がどれだけ危険な存在かわかるだろう?悪い事はいわねぇ、御上に任せてとっとと忘れちまうのが身の為だ――ですよ。というわけで、詳しい話を聞かせてもらおうか」

 三白眼で睨みつけて、威圧するように、ゆっくりと一歩踏みこむ。夜の繁華街でやればヤクザでも後退る、茂伸自慢の脅し方だ。ましてや中学生の女の子なら――しかし、

「ベルさんをどうする気ですか!?」
「どうする気ですかぁ!?」

 しかし、2人の可憐な美少女は、一歩も引かなかったのだ。
 茂伸の目の色が、危険なそれに変わっていく。

「言わなくてもわかるだろう……人類の為だ。滅ぼさなきゃならねぇ」
「それなら――絶対に話せません!!」

 リン!!

 日和の左手に付けられた鈴のブレスレッドが、強く澄んだ音を立てた――瞬間!!

「うっ……!?」

 突然、立ち眩みにも似た喪失感が茂伸を襲った。ほんの一瞬――1秒にも満たない一瞬だけ、茂伸の意識が消失する。次の瞬間には完全に覚醒したが――

「オマエ等……何時の間に!?」

 茂伸の眼前には、純白の武道衣と紫の袴を身に纏い、長大な薙刀を構える日和と、漆黒のシスター法衣を見事に着こなした、ロザリオを掲げるリンの姿があった。

「どーやって着替えたんだお前等……!?」
「制服から私服への早着替えは、女学生の必須技能です」
「48の殺人技の1つですよぉ」
「なんだそりゃ……しかし、何だ、その格好は……俺とやりあう気かよ?」

 茂伸の呆れ顔は本物だった。
 内閣特務戦闘部隊――国内屈指の退魔師&戦闘能力者で構成された最強の特殊部隊の中でも、その実力は随一と呼ばれた茂伸だ。中学生の小娘など、指1本でノックアウトできるだろう。

「こういうパターンではぁ、力尽くで私達を屈服させてぇ、言う事を聞かせるのがお約束ですからねぇ」
「そうはいきません。ベルさんを退魔しようなどと考える不貞の輩は、この場で退治させてもらいます!!」

 しかし、2人は本気だった。内閣特務戦闘部隊員を相手に、彼女達は本気で道連れの女淫魔を守ろうとしているのである。
 むしろ茂伸の方が慌てた。

「ちょ、ちょっと待てよ、俺は別にお前等と本気でやりあうつもりは――」
「手加減無用、私達も本気でいきます……かかってきなさい!!」
「事が終わるまでぇ、しばらく入院してもらいますぅ」
「俺は女子供にゃ手を出さねぇ主義なんだよ!!……仕方ねぇ、ちょいと遊んでやるか」

 ――現実ってヤツを知らないお嬢さん方に、世間の厳しさを教えてやろう――
 茂伸の笑いが消えた。
 熱い初夏の空気が、凍結していく。
 鉄球のような拳を、がつんと撃ち合わせる。
 薙刀を肩口から下段に構える。
 両腕の関節が、不定形に歪み始める。
 冷たい海風が、一瞬、何よりも熱く燃えた――

 ごんっ

 突然、何の前触れも無く一匹のクロマグロが茂伸の側頭部を直撃したのは次の瞬間だった。ごきっとイイ音がして、首が曲がってはいけない方向に折れ曲がる。

「だっ、誰でぇ!?」

 側頭部を痛そうに押さえながら、クロマグロが飛んできた方向を見てみると――!!

「にゃはははははははは!!!」

 茂伸は見た。
 日和は見た。
 リンは見た。
 そして、皆も活目して見よ!!波を切り裂いて水平線の彼方からやってくるマンボウさんと、その上に腕胡座を組んで堂々と立つ、鈴にゃんの勇姿を!!

「とおっ!!」

 そろそろ波打ち際でマンボウさんが泳ぐのに辛くなってきた頃、鈴にゃんは勢いよく跳躍した。そのままキャット空中三回転を披露して、すたっとテトラポットの上に華麗に着地――

 ずるっ

「うにゃ!?」

 どてん

 ――華麗に着地はできずに、思いっきり尻餅を付いた鈴にゃんは、コホンと咳払いを1つして……何事も無かったようにびしっとポーズを取った。

「どこの誰だか知らないけれど(びしっ)、誰もがみんな知っている!!(びしっ)キュートな勇姿を知っている!!(びしっ)」
「…………」
「…………」
「…………」

 一々台詞の音節毎にポーズを変える鈴にゃんを見上げながら、あんぐりと口を開けるしか無い3人であった。
 どこの誰だか知らないと言いながらも、今の鈴にゃんはどこをどう見ても鈴にゃんでしかない。服装もそのまんまだし……いや、よく見ると以前とは少しだけ違う個所があった。
 ネコ耳とネコ尻尾――そう、今までもネコっぽかったのであまり目立たないけど、本物のネコ耳とネコ尻尾が生えているではないか!!
 『正義の味方変身ふりかけ』――まさか、あの信憑性ゼロどころかマイナス領域の謎アイテムは……本物の変身アイテム!?

「ひよりんとりんちゃんを苛めようとするオジさんは、エライ人でも許さない!!今千年紀最大最強最高の正義のスーパーヒロイン!!その名も――!!」

 最後に、月に代わっておしおきしそうなポーズを決めた鈴にゃんの背後で、テトラポットに押し寄せた巨波が、○映のタイトル映像みたいに巨大な波飛沫を上げた――!!!

「“みらくる☆べるにゃ”!!ここに登場にゃ!!!」

 ざっぱ〜〜〜ん!!!

 ――で、その波に飲まれた。

「う゛にゃ〜〜〜!?!?」

 一瞬にしてテトラポット上から消えた鈴にゃん――いや、正義のスーパーヒロイン“みらくる☆べるにゃ”は、日本海名物の荒波の中で、がばごぼげべともがいていたが――やがて、ぷかーとうつ伏せのまま動かなくなり、数秒後には茂伸の足元に力無く打ち上げられた……

 ひゅこぉぉぉぉぉ……

 あまり初夏に相応しくない冷風が、唖然と一部始終を見ていた3人の間を駆け抜ける。

「…………」
「…………」
「…………」
「……コレ、知り合いか?」
「いいえ」
「知りませんですぅ」

 一瞬の躊躇いも見せずに断言するひよりん&りんちゃん。美しい友情だ。
 とりあえず、気絶している“自称”正義のスーパーヒロインを堤防の上に置いて――そして、再び3人の戦士は対峙した。
 細波の音だけが、ただ静かに流れる。
 永劫に等しい一瞬――巨大な波涛が、堤防に打ち寄せた!!

 ドン!!

 茂伸の足元が爆発した――そうとしか形容できないほど強烈な震脚だった。
 吹き飛ぶ砂塵より早く、肉の弾丸と化した茂伸が日和に接近する。人間に反応できるスピードではなかった。
 ならば、その突進に薙刀のカウンターを合わせた日和の神技こそ、仙洞寺流薙刀術の真骨頂!!

 がっ!!

「――ッ!?」

 首筋に叩きこまれた薙刀の衝撃に、茂伸の身体が大きく揺れた。刃を潰してあるとはいえ、まともに食らえば巨熊でも昏倒する威力だ。
 しかし――

「……やるねぇ、嬢ちゃん。だけどよ、そんなナマクラ刃じゃあ、俺は崩せねぇぜ」

 茂伸は口元だけで笑った――それだけだ。ダメージなどどこにもない。
 恐るべきタフネス――だが、薙刀が命中する一瞬、首筋が灰色に変色したのを日和は見逃さなかった。

「硬気功ですか」
「……あっさり見抜きやがったか。俺は外皮を鋼鉄以上の固さに強化できる。これぞ“懺岩流気功術”の真髄よ」

 茂伸のスキンヘッドがキラリと輝いた。
 上司とのいざこざで、内戦の最前線に飛ばされた時は、ミサイルの直撃を食らった事もあった。しかし、この気功術のお陰で、彼は如何なる物理攻撃を受けても無傷で生き延びてきたのである。ましてや、刃を潰した薙刀など、何億発命中しても傷1つ受けな――

 リンッ!!

 手首の鈴が踊った。
 凛とした響きが浜辺を流れた――その瞬間、

「くっ……!?」

 再び、茂伸は謎の心神喪失状態に一瞬陥ったのである。瞬きにも満たない一瞬だが、その隙を見逃す日和ではなかった。

 がががががががっ!!!

 日和の腕の中で、風車の如く薙刀が旋回した。刃と石突が乱舞して、茂伸の全身を打ち据える。

「ぐはっ!?」

 本物の苦鳴を洩らして、茂伸は大きくよろめいた。
 あの鈴が鳴った瞬間、茂伸の意識と常時発動している筈の気功術が、その一瞬だけ喪失したのである。
 素早いバックステップで間合いを離した茂伸の口元からは、赤い筋が垂れていた。

「……そういや、仙洞寺家から100年ぶりの『特殊能力者』が出現したって噂を聞いたっけな……」

 口元を拭う茂伸の表情からは、もう余裕は消え去っていた。

「“鈴の音を媒体に、相手の意識と能力を一瞬だけ消失させる”……それが嬢ちゃんの能力かよ?」
「そ、そうです」
「…………」
「な、なんですかその沈黙は!?」

 顔を真っ赤にして、日和は薙刀を砂浜に突き立てた。
 退魔の名門として、代々『魔人』級の特殊能力者を産み出してきた仙洞寺家――しかし、久方ぶりに登場した待望の特殊能力者の使う技にしては……

「どうせ私の能力は地味ですよ!!言われなくても分かっています!!」
「誰もそんな事言って無いと思いますがぁ」
「りんちゃんは黙っていてください!!」
「はぁい……なんで私、怒られているのでしょうかぁ?」

 何だか妙に恥ずかしがっている日和――確かに、見た目の派手さは無いし、その効果も思いっきり地味だ。
 しかし――

(……なんて恐ろしい能力を持ってやがるんだ……これが仙洞寺の血か!!)

 しかし、茂伸は、その地味さに隠れた、能力の真の恐ろしさに気付いていた。

(“それ”に気付かないうちに、早めに潰しておくか……)

 気を引き締め直した茂伸が、再び間合いを詰めようとして――

 ぐぐっ

「んっ!?」

 足が……動かない!?
 慌てて足元を見る茂伸の瞳が、驚愕に見開かれた。
 触手。
 足元の砂から2本の触手が生えて、茂伸の両足を拘束しているのである。

「私の事をぉ、忘れちゃダメダメさんですよぉ」

 糸目の僅かな隙間から、妖しい輝きの瞳を覗かせるリン――よく見れば、ロングスカートの裾から覗く足が2本の触手に変貌して、砂浜の中に潜り込んでいるではないか。

「ひよりんさん、伏せてくださぁい」
「え……ってうひゃあ!?」

 リンの方に振り向いた日和の視界一杯に、十数本のうねくる触手の束が押し寄せてくる!!
 あわやひよりん触手プレイ!?――となる寸前に、慌ててしゃがんだ日和の頭をかすめて、触手の群れが茂伸に襲いかかった。

「な、なんだとぉ!?」

 意思を持つようにうねくる十数本の触手は、一瞬にして茂伸の全身を拘束した。渾身の力をこめて引き千切ろうとする茂伸だが、触手は絹の柔軟さと鋼の強度を持つ。茂伸は身じろぎ1つ許されなかった。

「……りんちゃん」
「は、はぁい?」

 日和の声は氷点下だ。

「今、私が伏せる前から攻撃したでしょう!!」
「ええとぉ……ひよりんさんなら大丈夫!!かなぁ……ってぇ」

 伏せた際に全身に付いた砂を払い落としながら、日和はリンをギロリと睨んだ。
 冷や汗をかくリンの両腕は――なんと、十数本の触手の束と化して長く伸び、茂伸をがんじがらめに拘束しているのである。

「ぐおおおお……」

 全身を真っ赤にしながら渾身の力をこめて触手を振り解こうとする茂伸。単純な腕力だけなら、彼は人間の限界を極めていると言っていいだろう。しかし、茂伸の強力をもってしても、触手1本の拘束力の方が上回っていた。
 それは、この触手の持ち主が人外の『何か』を宿している事を意味していた。

「てめぇ……魔物かっ!?」

 茂伸の叫びは当然の一言だったのかもしれない。
 だが、戦いの最中にもかかわらず、彼はその一言を心の奥底から後悔した。
 それほど重苦しい空気が、場を支配したのだ。
 海鳥の鳴き声が聞こえる。
 細波の音は静かだった。

「違います!!りんちゃんは人間です!!!」

 血を吐くような日和の叫び。今にも泣き出しそうな絶叫だった。
 何が彼女をそうさせるのか。

「……確かに父さまは魔物だったみたいです。でも、母さまは人間だそうです」

 リンは――静かに笑っていた。
 誰もが2度と見たくないと思うだろう――そんな笑みだった。

(……魔物と人間のハーフ……“合いの子”ってヤツか)

 茂伸は唇を噛んだ。
 “合いの子”として生まれた――それだけで、あののんびりとした風情の少女が、どれだけ過酷で残酷な人生を歩んでいたのかがわかる。日和の叫びも、それを知っての事だろう。

(因果な仕事を選んじまったもんだぜ……)

 静かな溜息が、口元から盛れた。

「……魔物は滅ぼさなきゃならねぇ。それは絶対のルールだ」

 リンの身体が微かに揺れた。
 日和がはっと薙刀を構え直す。

「……だけどよ、人の血肉は母親から受け継ぐもんだ。おふくろさんが人間だっていうなら、あんたは立派な人間だぜ」

 茂伸の声は、別人と錯覚するほど優しかった。

「人間は滅ぼす訳にはいかねぇなぁ……前言は撤回するぜ」

 照れくさそうな茂伸の声に、日和の敵愾心に満ちた眼差しが、ほんの少しだけ緩む。あの無骨な男の本性が、ほんの少し見えたような気がした。
 しかし――

 ぐぐぐ……

 茂伸の全身が再び真っ赤に膨れ上がった。その瞳に再び危険な光が宿る。
 日和の薙刀が、初夏の日差しに煌いた。

 そう、今は戦いの刻なのだ。

「はぁあああああ……」

 静かに“気”を練りながら、薙刀が大上段に掲げられる。日和が使える仙洞寺流薙刀術の中でも、最大級の破壊力を持つ技の構えだ。その威力は、硬気功で強化された茂伸の身体も打ち砕くだろう。
 対する茂伸は、リンの触手で完全に拘束されたままだ。
 観念したかのように、茂伸の頭が垂れる。

「……私達には構わずに、しばらく入院していなさい!!!」

 白刃の斬撃が、茂伸の肩に叩きこまれた――!!

 ぴしっ

 ……初夏の日差しが凍結した。

「……え!?」

 日和の顔に動揺が走った。今までにない感触が、薙刀から伝わってきたのだ。
 必殺の斬撃は、確実に茂伸の左肩に命中している。
 命中しているだけだ。
 薙刀が茂伸に触れた瞬間――慣性が消えたように、薙刀はその場に停止してしまったのである。

「……仙洞寺の嬢ちゃん、あんたは『特殊能力型』――つまり、魔法や武術ではなく、個人に備わった独自の超常力を駆使するタイプの戦闘能力者だったな」

 ゆっくりと頭を上げる茂伸の口元には――勝利の笑みが浮かんでいた。

「俺も、そのタイプの能力者なんだぜ」
「なっ……」

 必死に薙刀を引き戻そうとする日和だが、まるでビデオの一時停止画像のように、薙刀は茂伸の肩に触れた位置で静止している。

「あうぅ……ひよりんさぁ〜〜〜ん」

 情けない声が日和の背後から上がった。

「なんですか!?今はそれどころじゃ――」
「身体がぁ……動かないんですぅ」

 そう、触手を伸ばした体勢のまま――リンの身体は完全に固まっていた。それも、単に身体が麻痺したような硬直ではない。あたかも写真のように、完全に身体が『停止』してしまっているのだ。

「麻痺――ではありませんね……まさか、時空間を!?」
「違うね……と言いたい所だが、正解だ」

 ごきごきと耳障りな音を立てて、茂伸のごつい身体がするりと触手の間から抜け出した。関節を外したのだろう。
 リンの触手は、茂伸を拘束した位置のまま、ピクリとも動かずにいる。

「どうせ記憶を消す予定だから教えてもいいだろう。俺は接触した物体の時間と空間を『固定化』する事ができる。これが俺の能力“金剛”だ」

 ばしっ

「あっ……」

 驚愕の日和の手元から、薙刀がひったくられた。『固定化』された物体は、如何なる手段を持っても動かす事が不可能となり、時間も止まっているため劣化する事も破壊される事も無くなる。しかし、茂伸自身はその効果を無視できるのだろう。
 薙刀を奪われた日和――もう、彼女はただの発育不良な少女でしかない。

 びしっ

 茂伸の人差し指が日和の心臓の上を浅く突いた。痣もできないくらい弱い突きだが、それだけで日和は抵抗する力を失った。彼女の身体は完全に麻痺してしまったのである。

「くっ……」
「これは俺の能力じゃねぇ。懺岩流に伝わる、身体を麻痺させるツボを突いただけさ」

 ……ちなみに、このツボは突く位置の関係で、一般的には女性には使われない。その理由は――日和や鈴奈には有効だけど、リンには効かないと言えばわかるだろう。かわいそうなので本人の前で理由は言わなかったが。
 力無く、日和は砂の上に崩れ落ちた。リンは元々動けない。
 勝敗は決した。
 日本最強の戦闘能力者集団たる『内閣特務戦闘部隊』――その中でも最強と呼ばれた男――それが“草刈 茂伸”だ。

「けっこう危なかったぜ。嬢ちゃん達にしてはよく頑張ったな」

 見かけによらず、丁寧に日和を仰向けに寝かせた茂伸は――懐から1本の注射器を取り出した。

「な、なにをするのですか……!?」
「自白剤だ……そんな顔すんな。後遺症は一切無いぜ。プライベートな事を聞く気もねぇよ」
「ややややややめてください!!!!!」
「……ひょっとして、注射苦手か?」
「そそそそそそんな事はありませんんんんんんん!!!」
「動けない袴少女を押し倒して怪しい注射を打とうとするオジさん……何だかとっても危険な絵ですねぇ」
「う、うるせぇ!!っていうか、なんで時空を止めているのに喋れるんだオマエ!?」
「そんな事言われてもぉ」

 かけがえの無い親友が危機的状況の中、肝心の鈴にゃんは――

「むにゃむにゃ……もう食べられないにゃ……ああ、お約束な寝言にゃね……くぴ〜〜〜」

 堤防の上で、初夏の陽気にドリームワールドへ誘われているだけだ……
 ああ、なんだかよくわからなくなってきたけど、色々な意味で大ピンチ!!

 ――と、その時!!!

 しゅかっ!!
 ぱりん!!

 白銀の閃光が、注射器を粉砕した。

「っ!?」

 砂浜に突き刺さった銀光――それは、1本の柳刃包丁だ。

「誰だ!?」

 愕然と立ち上がった茂伸に――黒い風が吹いた。
 テトラポットの上に立つ、漆黒のシルエット――風は、そこから吹きつけていた。
 頭のホワイトプリム、エプロン、ロングスカートからパンプスに至るまで、黒1色で統一されたメイド服。
 長く艶やかな黒髪は、1本の三つ編みに纏められている。
 思わず拝みたくなるような、見事なプロポーション――特にそのボリューム満点な魔乳の見事さよ。
 あらゆる感情を感じさせない、芸術品の如き冷徹な美貌。
 『お化け屋敷』の黒きメイドさん――サツキがそこにいた。

「サツキさん!!」
「サツキさぁん」
「むにゃむにゃ……くか〜〜〜」

 驚きと歓喜に思わず声を洩らす3人(いや、2人)に、サツキはガラス細工のような瞳を向けた。

「あのう、一応はわっちもいんすが。ぬし」

 おずおずと、こちらは対照的に純白のメイド服を着た青白い絶世の美女――ベルクリアスが、サツキの後ろから顔を覗かせる。
 それに日和達は慌てた。すぐ側に、彼女をターゲットとする強大な戦闘能力者がいるのだ。

「ベルクリアスさん!!早くその場から逃げてください!!」
「…………」
「え?もう大丈夫?……サツキさん、そのような事を言っている場合では――」

 二筋の銀閃が、日和の言葉を止めた。

「うぉおお!?」

 日和の頭上をかすめて飛来した銀閃は、2本の柳刃包丁と化して、咄嗟に腕を交差した茂伸の両腕に突き刺さっていた――いや、次の瞬間には足元にぽとりと落ちた。破れた背広の隙間からは、灰色の肌が覗いている。

「問答無用って訳かよ……何モンだ!?」

 背広とシャツを脱ぎ捨てながら、茂伸はサツキを睨みつけた。鋼のような筋肉の塊が露わとなる。彼がこの格好で戦うのは、死力を尽くせねばならない強敵に対峙した時だけだ。
 それくらいあの包丁は、鋭く、正確な、必殺の一撃だったのだ。

「名乗らせてもらうぜ……内閣特務戦闘部隊所属、“草刈 茂伸”だ」
「…………」
「……なに赤くなっているんだ?」
「…………」
「“サツキ”だと?何者だか知らねぇが、邪魔をするんなら相手になるぜ」

 がつん、と両の拳を打ち合わせる茂伸――だが、次の瞬間!!

 どがががががががががががが……!!!

「うおおおお!?」

 数十本もの包丁が、雨のように茂伸に降り注いだ。その凄まじい攻撃は何とか硬気功で防御したものの、その隙に眼前には――

「…………」

 パコーン!!

 何時の間にか接近していたサツキのフライパンが、茂伸の顔面を直撃した。一瞬、視界を奪われた茂伸の正中線を、お玉、フライ返し、すりこぎ、菜箸が正確に打ち据える。その強烈な連続攻撃に、さすがの茂伸もよろめいた。

「この野郎!!……じゃなくてアマぁ!!」

 フライパンを引き剥がして、目の前のサツキに神速の抜き手が走り――

 すかっ

 いない!?
 愕然と周囲を見まわす茂伸――その足元の影が、むくりと盛り上がった。静かに背後に直立した影は、やがて黒いメイドさんの姿を取り――

「…………」

 ガコーン!!

 中華鍋の一撃が、茂伸の後頭部を直撃した。

「か、“影潜み”……だとぉ!?」

 激痛の後頭部を押さえながらも、大木をも打ち倒す後ろ回し蹴りが背後のサツキに迫る!!

 ドガッ!!

 狙い違わず、旋回する蹴りがサツキの胴に食い込んだ――が、

「な、なにぃ!?」

 しかし、それはサツキではなく、黒いメイド服を着た丸太だった。

「“変わり身の術”!?」

 驚愕の茂伸の頭の上に、

 トン

 何事も無かったかのように、静かにサツキが立っていた。気配どころか、重さすら感じない。
 茂伸のスキンヘッドに、まぎれも無い冷汗が浮かんだ。

「その身のこなし、技の数々……“忍術”を使うのか!!」
「…………」
「鞍院流忍法256代当主だと?……あー、ところで、どうでもいいんだがよ」
「…………」
「女なら、その格好で頭の上に立つのはやめた方がいいぜ……下着は白いんだな」
「…………」

 完璧な無表情のサツキの顔が、ボッと真っ赤になった。慌てて音も無く跳躍しようとする――しかし、

「不用意に俺に触れたのが、運の尽きだぜ」

 ぴしっ

 その瞬間を逃す茂伸ではない。触れた物体の時空間を固定化させる能力“金剛”が炸裂した。
 がくん、とサツキが空中でよろめく。身体が直接固定化する事は免れたが、黒い靴の時間と空間が固定化されてしまったのだ。

「危なかったぜ……だが、俺の勝ちだ」

 宙ぶらりんとなったサツキの前で、茂伸がゆっくりと拳を構えた。
 足が固定化された以上、どんな忍術を使ってもこの場から逃げる手段は無い。おまけにスカートを押さえているので、手を使って抵抗する事もできないでいる。

「サツキさん!!」
「サツキさぁん!!」
「サツキさまぁ!!」
「むにゃむにゃ……すぴ〜〜〜」

 サツキ絶体絶命!!
 ――しかし、

「…………」

 しかし、サツキは相変わらずの無表情だった。
 冷徹な、機械人形の如く――
 ――そう、己を殺してこそ“忍”――
 そこに、茂伸の岩をも砕く拳が走った――!!

 ぼわん!!

「――なっ!?」

 その時、胸元から零れ落ちた黒い玉が砂浜にめり込み、白い煙を噴出しながら爆発した。一瞬にして、周囲が白い煙に覆い隠される。
 茂伸の拳が宙を切った。

「ど、どこに消えた!?」

 白い煙幕をかき分ける茂伸――そして、次の瞬間、茂伸はとんでもない物を見た。

「…………」

 体高3mはありそうな、超巨大なガマガエル――そして、その上に立つのは、巻物を口にくわえて印を結ぶ漆黒のメイドさん――サツキの姿が!!

「なななななにぃ!!!」

 あまりの光景に驚愕する茂伸の身体に、あんぐりと口を開けたガマガエルの長い舌が絡みついた。叫び声を上げる間も与えず、そのままぱっくんと飲み込んでしまう。

『……!!……!!……!!』

 しばらく、ガマガエルのお腹の中で暴れる気配があったが……

『…………!………………!……………………』

 やがて、それも弱々しくなって……ついには、完全に無くなった。

 ぼわん

 数分後、再び白い煙幕が辺りを覆い――それが晴れると、

「……は、はは」
「……はぁ」
「サツキさま、えらい強いのでありんすね」
「……むにゃむにゃむにゃ……」

 完全に気絶した茂伸を軽々と抱えた、相変わらず無表情なサツキの姿があった。
 鞍院流忍法256代当主――サツキ――恐るべき漆黒の忍者メイドよ。

 ――勝負あり!!!



※※※※※※※※※※※※※



 ……5分後。

「――そういう事情だったのかい」

 スキンヘッドにぐるぐると包帯を巻かれながら、茂伸は何とも微妙な苦笑いを見せた。その身体は傷だらけだが、どれも軽傷の類だ。この男の生命力なら、明日には全快しているだろう。
 機械的なほど正確に包帯を巻いているのは、漆黒の忍者メイドさんことサツキである。
 2人が絶体絶命のピンチの際、絶好のタイミングでサツキが登場したのは、偶然近くを通りかかっただけだ――そう、サツキは説明した。
 あまりにも無理がある話だ――しかし、

「信じろという方が無理かもしれませんが……」
「でもぉ、ホントのホントに事実なんですよぉ」

 そのお陰で、日和とリンの被害は、服と髪が砂まみれになった程度で済んだのである。文句を言う筋合いは無いだろう。
 戦いの決着が付いた後――日和とリンはサツキにお願いして、茂伸を介抱してもらった。負けたにもかかわらず、自分達が無傷で済んだのは、このオジさんが始めからこちらを傷つける気が無かったのだと気付いたのだ。
 ――見た目は怖そうだけど、悪い人じゃない――
 そう信じた2人は、意識を取り戻した茂伸に、自分達がベルクリアスという女淫魔と接触した事の顛末を、包み隠さず話してみた。
 その結果がどうなるかは――ある種の賭けだ。
 しばらく無言の時が流れる。
 天頂に位置する初夏の陽光が海風と交じり合い、実に心地良い按配のさわやかな風が吹いた。

「……そのお色気姉ちゃんが実は子供で、学校の実験の失敗でうっかりこの世界に飛ばされたから、魔界大帝の所に行って帰りたいか……ンなムチャクチャな話が事実だって言うのか?」
「そうです」
「天にまします我等が神に誓って、真実ですぅ」

『そんな与太話、嘘に決まってんだろ!!』

 そう、茂伸は怒鳴りつけようとした――が、茂伸は見てしまった。
 2人の目を見てしまった。
 あまりにも純粋に澄んだ瞳――かつては自分も、そんな光を宿していたのかもしれない。
 そんなセンチな事を考えるなんて、柄じゃねぇだろ――そう自分に呆れながらも、茂伸は目を逸らせなかった。

「あまりにもウソ臭過ぎるぜ……だが、本当に嘘ならもっと尤らしい事を言うだろうな」
「それでは、信じて頂けるのですか!?」
「そうですかぁ!?」
「慌てんな。そうは言ってねぇぜ……ただ、断言するには色々な部分でデータ不足なんだよ」

 結果――そう言ってしまったのである。
 これでは、2人の言葉を半ば信じたのと同じ事だ。

「……あ、あのう」

 それまで、無言で茂伸に包帯を巻いていたサツキの背中に隠れていた、純白のメイドさん――この件の最大の当事者であるベルクリアスが、おずおずと片手を上げた。

「ああん!?」
「!!……おゆるしなんし。おゆるしなんし。わっちが悪かったでありんすぇ……」
「い、いや、別に怒ってねぇよ……」

 サツキの背に張りついて、ぺこぺこ頭を下げるベルクリアスに、茂伸はむしろ慌てた。気弱なベルクリアスにとって、茂伸の外見は怖過ぎるのだろう。本人にとっては理不尽だろうが。

「……で、何だ?」
「わっちの事が信用できんせんのなら、わっち達と一緒に来んせんかぇ?もし、わっちが茂伸さまの仰るような凶悪な存在ならば、その時は改めてわっちを退魔してくんなまし」

 一同、無言――
 あの気弱そうな女淫魔が、そこまでの覚悟でいたなんて……日和達ですら、言葉が出なかった。

「…………」
「わっちを信じて欲しいのでありんすぇ……」
「……そうだな」
「えええええ!?」

 顎が外れそうな表情で、日和が驚愕の声を洩らした。

「こんな人と一緒に高知へ行くというのですか!?」
「こんな人で悪かったな!!」
「まぁ、それはステキなアイデアですねぇ」
「…………」
「え?私もそう思うって?さすがサツキさぁん、わだかまりを超えた親愛こそぉ、神の指し示す道程ですよねぇ」
「何を言っているのですか!?今まで戦っていた相手ですよ!!それに今更もう1人メンバーが増えるなんて、今度こそ旅費が絶対に足りな――」

 喚き散らす日和を、ぐいっとリンは引き寄せた。そのまま耳元に口を寄せる。

(ヒソヒソ……茂伸さんはぁ、大人ですぅ……)
(ヒソヒソ……だから何だと言うのですか!?……)
(ヒソヒソ……大人ですからぁ、御自分のお金は御自分で払うものですぅ……それに、大人は子供の分のお金を払うものですよぉ……)

 がばっ!!だっだっだっだ……がしっ!!

「な、なんだなんだぁ!?」

 いきなり、くわっと振り返って、自分の手を無理矢理シェイクハンドしてきた日和の変貌に、茂伸は怪訝な汗を浮かべた。

「是非来て下さい!!一緒に高知まで行きましょう!!っていうか来い!!!」
「お、おぅ」

 勢いに飲まれて、つい承諾してしまう茂伸であった。
 そして、

「…………」
「えぇ?サツキさんも同行してくれるのですか!?」
「…………」
「霧子さんの指示で?……そうですかぁ、よくわかりませんが大歓迎ですぅ」

 ロザリオを掲げて、神に感謝の祈りを捧げるリンを、静かな無表情でサツキが見守っていた。

「皆さん、わっちの為にまことにありがとうございんす。不束者でありんすが、ぬし……どうかよろしくお願いしんす」
「かしこまる必要はありません。私達に任せてください」
「ベルさんはぁ、お友達ですからぁ、遠慮は御無用ですよぉ」
「……何だかよく分からんが、そうなっちまったらしい……ま、淫魔王を監視するのも任務としては問題無ぇけどな……」
「…………」
「皆さん、まことにまことにありがとうございんす」

 青白い肌を歓喜に震わせて、ベルクリアスは最高の気持ちで頭を深々と下げた。
 ……故郷から遠く離れた異界の地で、こんな優しい方達に出会えるなんて……
 頭を下げた姿勢のまま、ベルクリアスの目から青い雫が1滴落ちて、初夏の光に煌いた――


 ……で、一方、忘れられた存在は――

「……むにゃむにゃ……ん〜〜〜、よく寝たにゃ」

 うつ伏せの姿勢で背筋を伸ばし、大きなアクビを洩らすのは――もはや説明不要だろう。

「あああっ!!あの怖そうなオジさんがいるにゃ!!それにいつのまにかサツキさんにベルちゃんまで!?」

 ひゅこぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!

 本日、最大級の空っ風は絶対零度だった……

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「あ、あのぉ……なんで皆さんあたしをジト目で見ているのですかにゃ〜?」

 気まずい空気に冷や汗をダラダラ流す鈴にゃんを、5人は思いっきりジト目で睨んでいたが――やがて、くるりと一斉に踵を返して、

「それでは、出発しましょうか」
「そうですねぇ」
「何だか妙な事になっちまったな……」
「…………」
「皆さん、お世話になりんす」

 すたすたすたすた……

「あああ〜〜〜ん!!無視して置いて行かないで〜〜〜!!誰かこのアメージングな状況を説明してにゃ〜〜〜!!!」

 おマヌ過ぎるネコ娘の絶叫が、白い入道雲に長く長く轟いたのであった……



※※※※※※※※※※※※※



『ダッドリーの旦那か、俺だ』

『……長距離伝送通信をかける時には、相手の所在地の時差も考えるべきだぜ、リトルボーズ……』

『リトルボーズはやめてくれ……寝てる所を悪かったな』

『で、何の用だい?ダニー・ボーイ』

『少々トラブルもあったが、とりあえず予定通りに目標に接触できた。これから計画は第2段階へ移行する』

『それは結構だが、その報告だけでわざわざ高い長距離伝送通信をコレクトコールでかけたわけじゃないんだろ、リトルボーズ』

『リトルボーズはやめろって……今からデータを送る3人について、できるだけ詳しく調べて欲しい』

『……ほう、なかなかキュートなジャパニーズガールだな。こんなタイプが好みなのかい?』

『ふざけてる場合じゃないぜ旦那……まずはこの娘だ。こいつは“鈴の音を媒体に、相手の意識と能力を一瞬だけ消失させる能力”を持っている』

『……冗談にしては悪ふざけが過ぎるぜ。リトルボーズ』

『リトルボーズはやめてくれ。冗談でそんなデータを用意すると思うか?』

『まぁな……しかし、こいつは――』

『ああ……その気になれば、この娘は“魔女”や“天人”すら殺す事ができるだろうな』

『…………』

『絶句するにはまだ早いぜ。次はこの娘だ』

『シスター……合いの子だって?』

『驚くのはそれだけじゃない。この娘は俺の『金剛』で“時間と空間を停止された状態”で会話する事ができた……こんな芸当ができるのは、世界最強の時空使い“蒼麟公主”か、夢幻世界の支配者“翠蝶麗君”ぐらいのもんだ。だが、もちろん彼女は2人の変装なんかじゃねぇ。という事は――』

『おい……まさかこのシスター様は……』

『“空の門と時の鍵”』

『……この話は盗聴されて無いだろうな?』

『それを祈っていてくれ。これが事実なら、間違い無く世界の破滅だ。淫魔王降臨どころの話じゃねぇ……』

『…………』

『最後は――こいつだ』

『どう見ても人畜無害そうなネコ嬢ちゃんとしか思えないが?』

『こいつは海からマンボウに乗って来て、クロマグロを投げつけてきた』

『……それがどうしたんだ?』

『どちらも202X年の日本海では、絶滅している』

『……そういう事か』

『ああ、ある意味こいつが1番厄介な存在かもしれないぜ』

『…………』

『…………』

『……了解した、できるだけ詳しく調べてみよう』

『頼んだぜ……どうやら、想像以上にとんでもない件に足を踏み込んじまったみたいだな』

『自分で選んだ道だぜ?腹を括りな、リトルボーズ』

『リトルボーズはやめてくれ……』


鈴にゃんの冒険
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