鈴にゃんの冒険

「〜♪」
「どうしたの?ずいぶん機嫌が良いじゃない」
「駅前の占い師に、今週の恋愛運は最高だって言われたの。今日こそ憧れの先輩にアタックよ!!」
「占い師って、あのタロット占いの?あの人、何を占っても『最高の運勢です』としか言わないらしいよ」
「え〜?なんだ、タダのおべっかかぁ……」
「……でも、もう1つ噂があるのよね」
「え?」
「誰も、あの占いが外れたって言わないのよ――」




 “三月 祥子”(33)は、本日分の売上が収められた箱の中身を覗いて、溜息を吐いた。
 慣れた手つきでタロットカードをカードボックスに入れて、くたびれた簡易デスクと椅子を折り畳む。
 日が落ちて大分たつ。駅前の人通りもまばらになってきた。今日の仕事はもうあがりだろう。
 どうやら、今月も家賃を払えそうに無い。大家の怒顔が脳裏に浮かんで、祥子は憂鬱そうに頭を振った。
 人生に道標を求める人々にささやかな喜びを与える為の『街角占い』であり、金儲けに走る気は全く無いとは言え、今日の食事にも困るという生活状況は問題があり過ぎるだろう。雰囲気を出す為の白いローブ姿が、何となく灰色にくすんで見えるのも気のせいでは無いかもしれない。
 今後の生活費を考えると自然に頭がうつむき加減にになり、顔を隠していたベールがはらりと地に落ちる。
 その瞬間――奇跡が起きた。
 郊外の薄汚れた駅前に、美の女神が降臨した――そう錯覚した者がいても不思議では無い。
 満天の星空の如き輝く黒髪。熟れた果実のように甘く濡れた唇。聖母の慈愛と淑女の高貴さを併せ持った瞳。白磁の肌に最上の漆を塗布したような眉。鼻梁と顎の形も良い。全てのパーツが完璧な神の精度で構成されていた。
 彼女がベールで顔を隠しているのは、占い師としての演出だけではない。もしこの美貌が無造作に露わになっていたならば、周囲の者達を男女を問わず魅了してしまい、求愛やらプロポーズやらが殺到して、まともな日常生活を送る事が不可能となってしまう……というのは少々大げさな表現かもしれないが、強く異議を唱える者も皆無だろう。それほど美しい女性だった。ぶかぶかのローブ越しでもわかるグラマラスな肢体は、計らずも母性と淫猥さを匂い立たせている。このモデルばりの身体に触れる事ができるなら、誰もがその直後に死んでも悔いは残るまい。

「はぁ……どうすればもっとお客様が来てくれるのでしょうか」

 物鬱気な様子で小首を傾げる仕草ときたら……大国の皇帝から乞食の少年まで、男なら誰もが全てを投げ売って悩みを解決させようとするに違いない。もっとも、場末の占い師など見向きもしない酔っぱらいしか周囲にいないので、絶世の美貌も空回り気味ではあるが。
 その時――

「お客が来るように“占えば”良いのではないかしら?」

 悪魔が嘲笑った。
 そうとしか思えない不吉な声だった。
 静かに、しかし素早く祥子が振り返る。
 すぐ側の電柱――その陰に『彼女』がいた。何時からそこにいたのか、どうして今まで彼女の存在に気付かなかったのか。祥子にはまるでわからない。
 ――『ホープ・ダイヤモンド』と名付けられた宝石が存在する。
 別名を「フランスの青」。現在はワシントンのスミソニアン博物館に展示されているこのブルーダイヤモンドは、持ち主に不幸と破滅をもたらす呪われた宝石として名高い。
 17世紀、フランスの旅行家にして王家御用達宝石商だった男タヴェルニエは、インドのあるヒンドゥー教神殿に飾られていた112カラットの青いダイヤモンドを手に入れ、太陽王ルイ14世に10万ポンドで売った。
 それが以後300年に渡って続く恐怖の物語の発端である。。
 宝石の呪いの第一の犠牲者は、当然ながらタヴェルニエ本人だった。彼は直後に息子が作った借金の返済に全財産を失い、最後は宝石を入手した地インドで野犬に噛み殺されたという。
 この宝石が呪われていると噂されるようになったのは、それからが本番だ。ルイ14世の寵愛を得て、この宝石を飾ることを許された者たちが次々と不運に見舞われるようになったのである。ブルーダイヤモンドを飾って宮廷の大舞踏会に出席した王の愛人は、その翌朝に心臓発作で死亡しているのを発見された。大蔵大臣を務めていた男は王から同じ宝石を借りて儀式に出席した後、王の不興を買って投獄され、獄死した。断頭台の露に消えたマリー・アントワネットも、この宝石の呪われた所有者の1人だったという。
 その後、次々と変わった持ち主は、自動車事故、破産、発狂、自殺、事業の失敗による餓死、革命による処刑、家族もろとも馬車から崖への転落死……要因は様々だが、誰もが呪われたとしか思えない破滅的な人生を送った。
 最終的に、ホープ・ダイヤモンドはニューヨークの宝石商ウィンストンに買い取られた。1958年、ウィンストンはこれをワシントンのスミソニアン博物館に寄付して、恐怖の物語は幕を閉じた……ように見える。しかし、今後宝石の呪いが再び鎌首をもたげないという保証はどこにも無いのだ。
 ……もし、そのホープ・ダイヤモンドが人の形を取れば、こんな姿になるだろう。
 青で統一されたブランドファッションを着こなしたその姿には、一分の隙も見当たらなかった。あまりに華麗過ぎるその容姿は、見る者に羨望と――殺意すら込めた嫉妬の感を抱かせるだろう。つば広の帽子の影から覗く冷たい美貌も、超高級ブランドに負けずに――いや、遥かに上回る豪奢な美しさだ。
 歳は二十代後半か。スレンダーなプロポーションが逆に背徳的な色気を醸し出している。ミスコンにでも出場すれば、あらゆる大会を総舐めできるだろう、極上の美女だった。
 しかし、どんなに女性に餓えた男でも、この女に声をかける事は無いだろう。
 その瞳は、あまりにも冷た過ぎた。人間としての最低限の慈愛すら存在しなかった。
 光と闇の遭遇。
 白い薄汚れたローブを着た、慈愛に満ちたグラマーな美女と、青い超一流のブランド品で身を固めた、冷たいスレンダーな美女――どこまでも対照的な2人の美女は、しばらく無言で向かい合い、そして――抱擁し合った。

「ただいま……母さん」

 青い女は子供のように笑い、

「お帰りなさい、ケイちゃん……お仕事御苦労様」

 祥子は、慈母の微笑みを浮かべた。
 一見感動的に見えて、どこか奇妙な光景だった。2人の言う通り、青い美女――ケイが祥子の子供だというのなら、祥子はまだ7・8歳の頃にケイを産んだ事になる。小学校低学年の子供が養子を取るとも思えない。
 はたして、この2人の関係は何なのだろうか。
 それにしても、彼女の名前――“ケイ”という名前……
 まさか、彼女は――

「はい、ヒュドラの特SSS級機密データよ。それにしても、わざわざ捕らえられて潜入捜査しなければならないなんて、最近ヒュドラへの支配力が弱くなってるんじゃないの?」

 数百万円単位で取引されるだろうブランドバックから取り出したデータチップを、ケイは祥子に手渡した。
 祥子の笑みが苦笑のそれに変わる。

「仕方ないのよ。15年前の事件以来、私達もヒュドラも組織構造が混乱の極みに陥ってしまったのですから」

 いつのまにか祥子の指に挟まれたカード――『正義』の逆位置。

「どうせ、それも『計画』の一部に過ぎないのでしょう?」
「そうでもありませんよ。元々ヒュドラは我々『アカシア協会』へのレジスタンスとして誕生した組織。存在その物が我々への反逆なのです……とはいっても、誤差範囲内ではありますけどね」

 次に取り出したカード――『塔』の正位置。続けて取り出したカード――『審判』の正位置。そして――

「ちょ、ちょっと待ってよ母さん!!また『運命を決める』つもり!?」

 必死にタロットカードごと祥子の手を握り、奇妙な行動を止めるケイの顔は蒼白だった。あの慈愛に満ちた母親の行為に、何の意味があるというのだろうか。

「これはただの占いよ。そう気軽に『力』を使う気はありませんから」

 祥子の言葉に嘘はないことは、以前から知っている。ケイは心の底から安堵の息を吐いた。

「それよりも、早く家に帰りましょ。久しぶりに母さんの料理を食べたいな」

 腕を掴んでぐいぐい引っ張る娘の話題の切替え方はかなり強引だったが、母親はそ知らぬふりしてそれに乗った。

「そうねぇ……まだ冷蔵庫にキャベツとニンジンが残っていますから、野菜炒めにしましょうか?……お肉は無くてもいいわよね?」
「……母さん、まだそんな生活しているの?」

 ケイは先程とは違う意味の溜息を吐いた。

「アカシア協会の最高幹部『十傑衆』が1人、“占滅太陽”の祥子ともあろう御方が、肉も買えない生活を送っているなんてね……ジョーク以外の何物でもないわ」

 祥子はどこか疲れた瞳で夜空を見上げた。
 満天の星々が彼女を迎え――なかった。濁った大気汚染と毒々しい町の明かりが、天上の宝石を醜く隠している。
 なぜ人間という種族は、至上の美を自ら汚す真似をするのか。なぜ人は、美学と言う観念を理解できないのか。
 そんな生物に、万物の霊長などという称号を与える訳にはいかない。
 自分達が『家畜』に過ぎないという事を、この上なくわかりやすい形で教えてやろう。
 “種は蒔かれ”、実は熟し、“刈り取り”の時期が来た。
 そして、人類という種族は、その瞼に掌を当てられる事になる――

「やっと見つけたわよ!!“幸運”のケイ!!」

 やや舌足らずな少女の声が響いたのは、その時だった。
 祥子とケイの目線が、声の主に向けられる。
 銭湯の古ぼけた煙突の上に仁王立ちする少女が、悪役風の高笑いを上げていた。
 可愛らしくディフォルメした死神の鎌風ステッキ。一昔前のアイドルのようなコスチューム。とんがり魔女っ子帽子。
 びしっとカッコ良く、そして華麗にステッキを構えて、

「あたしの名前は――」
「神宅 終夜さんですね。またの名を“狂姫(マッドネス)”。ヒュドラに所属する魔人位持ちの特級戦闘能力者にして、次期ナイン・トゥースの最有力候補とか」

 やんわりとした祥子の台詞に、終夜は盛大にずっこけた。あやうく煙突から落ちそうになって、慌ててしがみつく。

「か、勝手に人の名乗りを横取りしないでよ!!それに、なぜ私だと一目で見破ったの〜!?」
「そんな頭が痛くなるような格好した戦闘能力者なんて、世界広しといえどもあなたぐらいよ。確か『まじかる♪つーや』とか名乗っていたわね。何そのネーミングセンス?」
「私が子供の頃見ていたアニメには、よくあんな格好の娘が登場していましたよ」
「ふ、ふふん……有名人は辛いわねっ」

 そっぽを向きながら強がる終夜に、どこか2人は哀れむような眼差しを送った。

「とにかくっ!!この世界最強の超絶魔法美少女ヒロインが登場したからには、あんたもオシマイなんだから、ケイ!!」

 オモチャのような死神の鎌が振られる。
 突然、祥子とケイの周囲が奇妙に『歪んだ』。蜃気楼のように微妙に歪んだ景色の陰から、得体の知れない呻き声と、人外の眼光が浮かび上がる。
 何をしたのか、そして何をする気なのか、終夜よ。

「そうですね、久しぶりにケイちゃんの力を見せてもらおうかしら。メンテナンス前のデータ収拾に丁度いいですね……始めなさい、ケイ……いいえ、“K−DOOL”」
「了解よ、母さん……いえ、マスター」

 だが、周囲の怪異にまるで恐れる様子を見せず、祥子とケイはシニカルな笑みを交錯させると、

「終夜ちゃんだったわね……あなたも可哀想に。私だけならともかく、マスターを敵に回すなんて」

 青きダイヤモンドのような女は危険な空気を纏い、どこか機械的な動作で終夜目指して進攻を開始した。
 “幸運(ウルズ)”のケイ――ヒュドラにすら化け物と恐れられ、殺す事もできずに封印されていた女……彼女は何者なのか。
 そして、ケイが“マスター”と呼ぶ謎の占い師――『占滅太陽』の称号を持つ美女“三月 祥子”とは何者か――?





































『鈴にゃんの冒険』





































Part7

『死神は2度ドアを叩く ―(1) ≪銀の門≫』





































「やって来ましたにゃ、岐阜県県庁所在地岐阜市!!」
「うわぁ……見渡す限り山山山の山ばかりでありんすね」
「岐阜といえば飛騨の山岳ですからぁ。岐阜県の平均標高は1万メートルを超えると言われてますぅ」
「でも、南の方は水没していんすね」
「逆に南部は海抜がマイナス数千メートルなのにゃ。昔から『飛山濃水の地』って言われているのにゃよ」
「あの遥か天の彼方まで伸びてる柱は何だぇ?」
「岐阜県は地理的に日本の人口重心なのです。あの柱は日本を支える支柱だとか」
「あの柱が崩れちゃうと、日本が沈没してしまうのにゃ」
「物騒でありんすね……ところで、なんで町の人々が全員包丁やナイフで武装していんすか?」
「岐阜県はナイフ、包丁、ハサミ等の、刃物の生産量が日本一なのです」
「オリハルコンの剣やアダマンチウムの爪もぉ、そこらのコンビニで気軽に買えるのですよぉ」
「はぁ……やっぱり物騒でありんすね」

 ――ひょんな事で知り合った淫魔の美女ベルクリアス・コーマを、四国は高知にいる魔界大帝の元に送り届ける為に、富山発京都行のリニアモーター列車に搭乗した鈴奈一行は、途中でジオ・ガーランドの襲撃を受けた。辛くも敵の撃退には成功したが、リニアモーターは大破。こうして岐阜市で足止めを食らう結果となったのである。
 で、仕方なく駅前の喫茶店に腰を下ろし、今後の計画を練り直す事になったのだが――

「――とにかく、電車や飛行機で高知へ向うのは難しくなりやがったな」

 忌々しそうにビールをあおる茂伸。

「敵に襲われたらぁ、他の乗客さん達に迷惑をかけてしまいますからねぇ」

 なんとなくロザリオを手の中で転がすりんちゃん。

「…………」
「それに移動中の機体を襲われたら一網打尽だ?確かにそうだな」

 相変わらず表情1つ変えないサツキ。

「じょじょだいさんぶの状況にゃね〜」

 アップルパイを突つきながら考えこむ鈴にゃん。

「むしゃむしゃぱくぱくがつがつ」

 我関せずと怒涛の勢いで大盛りミートソースパスタをかき込むひよりん。

「これ、どうやって食べるのでありんすか?」

 宇治金時を逆手に持ったナイフとフォークで掻き回すベルクリアス。
 各々が事態の深刻さに悩んでいた(一部を除いて)。
 超一流の退魔師や戦闘能力者に狙われているという状況上、一刻も早く目的地へ到着しなければならないのは自明の理だ。
 だが、飛行機や電車、客船を使用した場合、移動中を撃墜されればひとたまりもない上に、無関係な乗客に大迷惑がかかる。いわゆる『人間の盾』が通用するような甘い敵ではなく、第一そんな方法は自称正義の味方たる鈴にゃん達が許さない。

(大体、人込みの中で行動するにはな……)

 茂伸はさり気なく周囲を見回した。
 駅前という立地条件も手伝ってか、喫茶店内はけっこう混んでいるものの、他の客全員がちらちらと横目でこちらを伺っては、ひそひそと小声で何やら噂しているのが見て取れた。
 脳天気ネコ娘と薙刀袴娘と巨乳シスターと真っ黒忍者メイドと真っ青淫魔メイドと筋肉ダルマ――もう分かり切った事ではあるが、このメンバーはあまりに目立ち過ぎるのだ。これでは敵に『ここにターゲットがいますよ』と宣伝しているようなものである。

「やはり、6人乗りのワゴン車でも買って、それで高知を目指すのが1番妥当か」
「…………」
「え?できるだけ郊外を移動すれば周囲への被害も最小限に済む?……ふん、見た目に寄らずけっこう優しいんだな」

 何気ない茂伸の呟きに、サツキの無表情は照れ臭そうに見えた。いたずらっ子の顔でそんな様子を観察していた鈴にゃんだったが、ふと2人の友人が不審な行動を取っている事に気付いた……というより、鈴にゃんにはそう見えた。

「ひよりん、さっきから静かだけど、どうしたのかにゃ?」
「もぐもぐ……何ですか!?むしゃむしゃ……今忙しいのです!!ぱくぱく……」
「……俺の奢りだと思ってよく食いやがる」
「……あはは」

 きーっと噛み付かれそうな顔で睨まれて、鈴にゃんは冷や汗をかきながら、冬眠前のクマ顔負けの勢いで食べまくるひよりんから目を逸らした。
 いつもは真面目で冷静な彼女は、3人娘の頼もしいリーダー役であるのだが……どうやら、彼女にとっては貴重な栄養接取の際には、真面目な話は避けた方がよさそうである。

「りんちゃんは何も食べてないけどイイのかにゃ?せっかくの奢り食べ放題なのに〜」
「食べ放題じゃねぇ!!」
「いぃえ……実はぁ、また少し体重が増えちゃったんですよぉ」

 とても中学生とは思えぬプロポーションの美人シスター見習いは、どこか気の抜けた顔付きで水と氷のみ注がれたグラスをマドラーで掻き回した。普通の娘なら虚ろな面持ちやアンニュイな表情とでも表現するのだろうが、彼女は普段からぼけっとした雰囲気なのだ。

「太った?何キロぐらいにゃ?」
「……3キロですねぇ」
「でも、別に太った様には見えませんが」
「そうでもないですよぉ、身長とバストが2センチずつ増えてましたからぁ」
「それは太ったとは言わないにゃ(です)!!」

 鈴にゃんとひよりんの容赦の無いツッコミが、両側からりんちゃんの後頭部に炸裂した。そんな様子にベルクリアスはオロオロし、サツキは無言で緑茶の湯呑みを傾ける。茂伸は小娘の戯れに付いて行けず、呆れているようだ。

「嬢ちゃんなら姿を変えられるんだろう。好きな体型にできるじゃねぇか」

 何気ない言葉だったが、半分も言い終らない内に茂伸は後悔した。サツキの肘が軽く脇腹を小突く。鈴にゃんとひよりんの目は非難の色に変わっていた。

「……すまねぇ、無神経だった」

 スキンヘッドを素直に下げる茂伸に、

「気にしないで下さぁい。ホントの事ですからぁ」

 りんちゃんはあっけらかんと応えた。その仕草が無理をしている様子でも無く、本当に気にしていない事が見て取れて、逆に茂伸は気を重くした。
 魔物と人間のハーフ『合いの子』――統計上、その平均寿命は驚くほど少ない。
 種としての寿命が短いのではない。表向きの基本的人権は認められているとはいえ、周囲の偏見と差別に耐えられず幼児期に自殺したり、物理的な虐待で殺されるケースが非常に多いのだ。
 結果、運良く成長した合いの子も、周囲への憎悪から犯罪者となるケースが多く、大半が悲惨な死を己と周囲に撒き散らす。それが益々偏見に拍車をかける悪循環となっている。
 あの温厚でおっとりとしたシスターに、過去どれほどの暴虐が降り注がれたのか――想像しようとして茂伸はやめた。
 どんな悲劇的な推測も、彼女の実体験にはとても及ばない事を察したからだ。
 明るい店内に、最近人気の演歌歌手『ベア熊ハンセン』の最新ヒットナンバーが流れ始めた。涼しげな鐘の音と共に、新しい客が入店してカウンター席に座り、アイスコーヒーを注文する。
 世界はどこまでも平和だった。

「お詫びと言っちゃ何だが、何でも好きな物注文していいぜ。嬢ちゃんは食べ放題だ」
「やったにゃ〜♪じゃあ、ツナサンドと餡蜜を追加するにゃ」
「お前には言ってねぇ!!」
「そうですねぇ……じゃあ、サラダを注文させて下さぁい」

 りんちゃんは嬉しそうにブック型メニューへ顔を埋めた。
 彼女は肉を食べない。いわゆる菜食主義である。
 よく世間では識者ぶった連中が、『菜食主義者は動物を食べるのは可哀想だからと言って野菜を食べる。野菜を食べるのは可哀想じゃないらしい。奴等は視野の狭い偽善者だ』と述べるが、それは間違いだ。
 人間が他の生き物を食べる――殺さねばならないのは『原罪』であり、生きて行く上で仕方の無い事だろう。でも、それとは関係の無い所で人は他の生き物を傷付け、殺す事がある。(まともな)菜食主義者が肉を食べないのは、いわば『自分は必要以上に決して他の生き物を殺さない』という決意表明を意味する誓いであり、その行為自体に意味を求めている訳では無い。無論、りんちゃんもそのタイプの菜食主義者である。

「どれにしましょうかねぇ……」

 エアコンが程好く効いた明るい店内に、最近人気の演歌歌手『ベア熊ハンセン』の最新ヒットナンバーが流れている。
 世界はどこまでも平和――

「この納豆サラダも美味しそうですねぇ」

 ――ではなかった。
 もしりんちゃんがひよりん並みに注意深い性格だったら、この時、店内から談笑する人々の声が消えている事に気付いていたかもしれない。

「決まりましたぁ、このどぶろくサラダにしま――あれれぇ?」

 ブックタイプのメニューから顔を上げて――りんちゃんは驚愕した。一見、糸目でのんびりと周囲を見渡しているように見えるが、当人は十分に驚愕しているのである。
 いない。
 誰もいない。
 アップルパイを嬉しそうに食べる鈴にゃんも、全身全霊を込めてスパゲティを味わうひよりんも、かき氷の食べ方に悩むベルクリアスも、無表情にお茶を飲むサツキも、ばつが悪そうにビールを呷る茂伸も、店員も、コックも、他のお客まで1人残らず――この喫茶店の中から消滅しているのだ。

「皆さぁん……かくれんぼでもドッキリでもないですよねぇ……これってやっぱり、敵の攻撃で――」
「ほぅ……驚いた」

 ――いや、1人だけいた。
 傍目にはおっとりと、本人にとっては慌てて声の方に振り返る。
 カウンターに腰を下ろし、アイスコーヒーを傾ける男がそこにいた。
 黒髪にサングラス。やや面長だが顔付きは精悍そのものだ。初夏に似合わぬ薄茶けたジャンバーを肩に引っ掛け、首から下げたゴールドリングのアクセサリーが胸元で輝いている。オールドスタイルのハードロッカーをりんちゃんは連想した。

「わしの『エンリル要塞』を無視できる奴がいるたぁ……あの淫魔の仕業か?われの技か?」

 独特のイントネーションは広島弁だろうか。独り言のように淡々とした口調に、しかしりんちゃんはあの男がこの事態を引き起こした者だと確信した。

「貴方が皆さんを隠してしまったのですかぁ?そんな事しちゃダメですよぉ。返してくださぁい!!」

 あまり悲痛に聞こえない悲痛な叫びに、男は無言でグラスをカウンターの上に置いた。
 りんちゃんの――リンの糸目が大きく見開かれる。
 信じ難い光景が『そこ』にあった。
 透明なグラスの底で、豆粒のように小さな鈴奈達が、ぐったりと横になっているのだ!!

「そんなぁ……!?」
「淫魔王はオマケと一緒に手に入れた。これで任務完了……と言いたい所じゃが」

 アイスコーヒーを飲み干した男が席を立った。ワンテンポ遅れてリンも身構える。

「今、ここでわれを始末せにゃぁ後々禍根を残しそうじゃ。わしの能力『エンリル要塞』の目撃者を消す必要もある」

 得体の知れない力で、一瞬にしてリン以外の者達を倒した恐るべき男は――

 こん こん

 カウンターに人差し指を置き、ノックした。
 短く。
 二度。

「始末する前に、名前を聞いておこうか」
「道野 リン――リンです。貴方のお名前はぁ?」

 ――東ヨーロッパ地方には、1つの伝説があった。
 新月の深夜、突然部屋の扉をノックする音がする。
 入るよう促しても返事は無く、こちらから開けても誰もいない。
 不思議に思いながら扉を閉めると、直後にまた扉がノックされる。 
 この時、決して扉を開けてはいけない。
 2度目のノック――それは死神のノックだから。
 扉の向こうには死神がいて、開けた者の命を刈り取るのだから。

「朝日奈 秀隆(あさひな ひでたか)じゃ。“ザ・ノッカー”と呼ばれとる」

 そう、死神は2度ドアを叩く――

 戦いの開幕に言葉はいらなかった。
 リンの右手が瞬時にうねくる触手と化し、飛燕の速度で伸ばされた。
 意志を持つムチが秀隆の全身を拘束しようと迫る――が、

「――えぇ?」

 突如、両者の間に巨大な壁が聳え立った。リンの触手が虚しく壁面を打つ。
 喫茶店の店内に巨大な壁!?
 様々な料理とドリンクの値段が書かれた厚紙の小冊子――これは、ついさっきまでリンが読んでいた物だ。
 そう、巨大化した喫茶店のメニューが、鋼の城壁と化してリンの触手を防いだのだ。

 ぐらり

「あららら〜?」

 巨大なメニューが眼前に迫り来る。リンの方に倒れてきたのだ。
 慌ててリンはメニューを両手で支えた。魔物の血を引くリンの怪力は、本気を出せば数百トンもの重量を支える事ができる。
 だが、この大きいだけで薄いように見えたメニューの壁は、数千トンもの重さがあったのだ。
 声も出せずにリンは押し潰された。周囲の椅子やテーブルを粉砕して倒れた数千トンのメニューは、喫茶店の床にめり込み、局地的な地盤沈下を引き起こす。この超重量に撒き込まれれば、戦車でもノシイカにされてしまうだろう。
 しかし――崩壊した床とメニューの隙間から、深い藍色の影が見えた。
 粘性を持つ影はスライムの如く蠢き、隙間から床の上に這い上がり、直立して――傷1つ無い美貌のシスター見習いの形を取ったのである。
 目を丸くした秀隆は、短く口笛を吹いた。

「ほう、不定形生命体タイプの魔物か。どうやら物理的攻撃は完全に無効化できるらしいの」
「魔物じゃなくて、合いの子ですよぉ……今のは結構痛かったですねぇ」

 その時――魔性の光が秀隆の瞳から脳天を貫いた。
 肩をぐるぐる回すリンの糸目は人並みに開かれて、人外の輝きを放つ妖艶な瞳を覗かせている。思わず秀隆は半歩後退った。彼にとっても、これは初めての経験だ。
 あの美しさは――危険だ。
 あの瞳はあまりに妖し過ぎる。あの美貌はあまりに危険過ぎる。その美しさで男を誘い、背徳の快楽で魂を堕落させ、欠片も残さず貪り尽くす……そう、あれは人間に破滅をもたらす女魔の邪眼だ。
 半ば無意識とはいえ、リンが普段糸目なのは、『これ』を人目から隠す為だろう。
 数瞬、呆然としていた秀隆を正気に戻したのは、次のリンの言葉だった。

「貴方は、空間制御系能力者ですねぇ」
「ほう、わかるんか」

 さり気なく視線を逸らす秀隆の周囲に、危険な空気が充満し始める。

「自分の周囲の空間を制御下において、物理法則レベルから自在に操る……それが貴方の能力でしょうかぁ」
「どうやら、ただの素人じゃなさそうじゃのぉ」

 リンの推測はほぼ正解だ。
 『エンリル要塞』――秀隆の能力はこう呼ばれている。
 エンリルとは、古代東ヨーロッパの騎馬民族スキタイ族が信仰していた神々の1柱であり、『砦の神』と称されている。この神の護符が張られた砦は、如何なる敵の大群をも押し止める、難攻不落の要塞と化したという。
 秀隆は、自分の周囲の空間を完全に支配して、制御下に置く事ができる超常能力者なのだ。
 物体の大きさや重量を変える事など自由自在。対象を一瞬で塵にしたり原始配列その物を好きなように操る事もできる。敵がどんなに強大な力を持っていても関係無い。この空間では秀隆の意志が絶対の物理法則であり、彼が“許可”しない限り、全ての能力を打ち消してしまうのである。
 その有効範囲内は、秀隆の周囲半径10m。その空間内では彼は絶対無敵であり、まさに神の造りし最強の要塞と化すのだ。
 しかし――

(なんで、あの女にゃわしの能力が通じん!?)

 そう、『エンリル要塞』はこの喫茶店全体を包んでおり、リンも効果範囲内にいる。本来なら、秀隆は敵を攻撃する時に、一々周りの物体を使って攻撃しない。そんな事をするよりも、敵の肉体を構成する空間そのものを破壊したり、制御下に置く方が手っ取り早いからだ。それは、一瞬にしてリン以外のメンバーを倒し、捕らえている事からもわかるだろう。
 だが、あの一見のほほんとした美人シスターには、そうした干渉が一切効かないのである。如何なる手段で『エンリル要塞』を無効化しているのか――それは秀隆にもわからない。超一流の戦闘能力者として、幾多の激戦を潜り抜けてきた彼にとっても、これは初めての経験だった。
 ……もし、リンが茂伸の能力『金剛』――接触した物体の時間と空間を固定化する――も、一部ではあるが無効化している事を知ったなら、彼女の恐るべき正体に気付いたかもしれない……

「データじゃぁ、われが1番非戦闘的な人格だと書いてあったが……やるじゃないか」
「私みたいな『合いの子』はぁ、御無体な退魔師さん達に問答無用で襲われる事も多いのですよぉ。だから、護身の為にマザー・シルヴィアに戦い方を教わっているのですねぇ……あまり戦うのは好きではありませんがぁ」

 緊張感の感じられないリンの言葉。しかし、秀隆はその一単語に魂の底から戦慄した。
 ――マザー・シルヴィア――!?
 シルヴィア……まさか、あの“戦天使(ヴァルキュリア)”が!?
 ……いや、そんな筈は無い。
 あの“最強魔人”が、平穏な田舎町で小さな教会のシスターの座に収まっている訳が無い。おそらく同棲同名の人違いだろう……
 はっとしたように秀隆は頭を軽く振った。ずり落ちるレイバンのサングラスを指で定位置に押し上げる。
 絶対の優位は自分にある筈なのに、いつのまにかリンに『飲まれている』事に気付いたのだ。

「じゃったら……こんなのはどうだ?」

 秀隆の指が鳴った。
 その瞬間――リンの165cmを超える身長が一気に縮んだ。

「ひゃぁん!?」

 足元がいきなり緑色に泡立つ底無し沼と化し、リンは腰まで飲み込まれたのである。しかも、それだけではない。

「痛たたたたた……熱いですよぉ」

 苦悶の表情を浮かべるリンの腰から下が、白い煙を吹き上げながら溶解していく。あの緑色の沼は、凄まじい腐食性を持つ毒液だったのである。まさか、この毒沼がサツキの飲んでいた緑茶を『エンリル要塞』によって変異させた物だとは、リンにとっても想像の範疇外だろう。
 触手に変形した腕をテーブルに絡ませて、なんとか身体を引き上げたリンの下半身は――無惨にも溶け消えていた。
 ――が、

「――!?」

 消えた下半身の周囲に虹色の光芒が輝くと、次の瞬間には傷1つ無い色っぽい下半身が出現したのである。

「細胞分裂による増殖じゃないの。“無”から肉体を作る無限再生能力か……この化け物が」
「……行きますよぉ」

 すくっと立ち上がったリンの勇姿に、なぜか秀隆が口笛を吹いたが、その意味はわからずに再び触手攻撃を繰り出そうと前進して――

 がくん

「えぇ?」

 リンは急に右手を後ろに引かれてつんのめった。
 いや、腕を引かれたのではない。毒沼から這い上がる時に触手を撒きつけたテーブルが白い氷の固まりとなり、触手を凍結接着しているのだ。

「それだけじゃないぜ」

 再び指が鳴った。

「ひゃぁあああん!!冷たぁいですよぉ」

 氷の塊が白光を放ち、触手の凍結が体の方へ急速に進行していく。あっというまに、リンはシスターの修道服を着た美しい氷の彫像と化した。
 アイスコーヒーの氷を変異させた凍結結晶体の温度は、摂氏にしてマイナス数千度――『エンリル要塞』は物理法則すら自在とするのだ。

「不死身の相手は行動を止めて封印するに限る――定番の戦法じゃのぉ」

 カウンターに添えられたナイフを取り、秀隆は右手を振り抜いた。
 氷像の額にナイフが突き刺さって、凍結したリンは粉々に砕け散った。
 主を失った修道服が、砕けた氷の小山に覆い被さる。

「ミッション完了……か。ええ物見させてもろぉたよ、娘さん」

 小馬鹿にしたように片手を振りながら、秀隆は無人の喫茶店から立ち去ろうとして――

『まだ終わってませんよぉ』

 ――驚愕の面持ちで振り返った。
 リンの残骸は、まだ修道服の下に積み重なっている。不死身とはいえ、活動は完全に停止している筈だ……今の声は一体!?

『貴方の言う“化け物”の真の力を、今から見せてあげますよぉ』

 魔性の光芒が――あの恐るべき瞳の輝きが、戦慄の空間に充満する。
 突然、喫茶店の壁と床に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、内部を覆い尽くした。
 そして――

「なんだと!?」

 亀裂の隙間から虹色のゲル状物質が溢れだし、瞬く間に店内全体に広がった。床を、壁面を、天井を、椅子にテーブル等の調度品からティースプーン1本に至るまで、全ての物体を虹色の粘性物質で包み隠したのである。
 虹色の輝きに満たされた密室――そう、この光は、あの魔性の瞳の――!!

「くっ!……それがわれの真の姿か!?」
『そうですよぉ。貴方と戦っていたのは私の一部分に過ぎませぇん。本体は既に分離して、こっそりと増殖していたのですぅ』

 秀隆は唇を噛んだ。
 リンの異形の肉体には、なぜか『エンリル要塞』の干渉が無効化される。その為、空間内の様々な物体を利用して戦うしか無いのだが……こうしてリン自身の身体で覆い隠されては、操る事ができない。

「くそっ!!こいつぁ戦い慣れちゃる!!」

 憎悪と屈辱で顔を歪ませた秀隆は踵を返し、素早く右手を縦に振った。何も無い空間に次元の裂け目が生じ、秀隆はそこに身を投じようとする。

『逃がしませんよぉ!!』

 四方八方から数百本の触手が秀隆に殺到する――!!

『あっ……』

 一転に集中して伸ばされた触手の群れは互いに絡み合い、蠢いていたが……やがて、一斉に潮が引くかの如く後退し、元の状態に戻った。
 そして、その後には――

『あぁん、全員助けられませんでしたぁ……』

 たった今眠りから覚めたように目を擦りながら立ち上がろうとする、元の大きさに戻った鈴奈とベルクリアスの姿があった。

『……天にまします我等が神よ、囚われの者達を御救い下さい……』

 店内を覆い尽くす虹色の物質――リンの本体が瞬く間に収縮して、床に落ちてる一張羅――シスター印の修道服に潜り込み、元のリンに姿を変える。
 普段の美しくおっとりとした姿に戻ったリンは、憂鬱に溜息を吐いた。もう吹っ切れているとはいえ、『合いの子』としての本当の姿に戻るのは、やはり複雑な気持ちなのだ。

「ふわぁ……起きなんしございんす」
「おはよーにゃ……って、りんちゃん!?」

 状況が理解できずに寝惚けた声を洩らすベルクリアス。同じく寝惚けていた鈴奈は、しかしリンの姿格好を見て眠気が完全に吹き飛んで、慌てて“そこ”を指差した。

「どーしちゃったのにゃ、その格好!?」

 リンの視線が真下を向く。

「あらあらぁ……一張羅がぁ」

 リンの修道服はお腹から下が消失し、色気過剰な下半身が露出状態になっているのである。すらりとしたぴちぴちの美脚も、張りのあるぷるぷるなお尻も、薄く茂みに覆われた○○○○な秘所も、完全に丸見えだ。
 おそらく、あの毒沼に沈んだ際に、服の下半分が溶かされてしまったのだろう。今までこの姿で戦っていた事に気付き、秀隆の『良い物見させてもらった』という台詞を思い出して、流石に少し頬を染めるリンであった。

「恥ずかしいからぁ、あまり見ないで下さいよぉ……」

 そう言いつつも、自分からはまるで隠そうとしない所が、りんちゃんのりんちゃんたる所以といった所か……




「そんな事があったのにゃ!?」
「それは大変でありんすね」

 一通り2人を介抱した――といっても、無傷だったが――リンは、本人にとっては手早く、他人から見ればゆっくりのんびりと、状況の説明をした。ちなみに、下半身はテーブルクロスで隠している。

「うにゃあ……正義のスーパーヒロインたるこの鈴にゃんが、成す術も無く敵に捕らえられてたにゃんて……一生の不覚の1つにゃ〜!!」
「そう落ち込まないでくんなまし」

 うにゃ〜と頭を抱える鈴奈の背を優しく撫でるベルクリアスも、嘘偽り無き心配の情を滲ませている。
 リンは再び瞳を見開き、魔性の美貌に決意の影を走らせた。

「ひよりんさんとサツキさんと茂伸さんは、捕らえられたままですがぁ……私の体をほんのちょっぴりだけ敵に付着させましたからぁ、相手の居場所は何とかわかりますよぉ」
「それに、敵の狙いはわっちでありんすから、もう一度向こうから襲ってくると思いんす」
「よぉし……それなら、今すぐ追跡開始にゃ!!」

 3人は力強く頷いた。
 そう、戦いはこれからだ――




※※※※※※※※※※※※※




「くそったれ!!」

 薄暗い路地裏の影で、“ザ・ノッカー”こと朝日奈 秀隆は悪態を吐き、側のポリバケツを思いきり蹴飛ばした。
 派手な音を立てて紙屑が撒き散らされる。
 通行人に見られる心配は無い。この路地裏は既に彼の“要塞”だ。

「この俺が、あんな小娘にしてやられるたぁ」

 憎悪に歪む秀隆の狂相は、地獄の悪鬼も逃げ出しそうな怒りに満ちている。
 屈辱だった。
 この俺が撤退せざるを得なかった!?
 しかも、肝心の淫魔王を取り返されるとは――!!
 自分が弱い訳では無い。今まで彼の『エンリル要塞』は常勝無敵であり、効果範囲内なら魔人級の戦闘能力者にも勝てる自信がある。事実、あの時リン以外の者はサツキや茂伸のような実力者ですら、誰もが成す術なく捕らえられた。
 だが、あの合いの子シスターには、原因不明ながら彼の能力が容易く無効化されるのだ。これでは身体能力的には常人レベルの秀隆が『化け物』に勝てる訳が無い。戦闘力は秀隆が圧倒的に上回っているのにも関わらず、だ。
 戦いの優越を決めるのは、単純な実力以上に『相性』が重要だという。ここにその実例があった。

「じゃが、このまんまじゃぁ終わらんぞ。すぐにクソ女どもを地獄に叩き落しちゃる――」
「何度やっても同じだよ。オマエの実力じゃね」

 冷たく、ハスキーな嘲笑が路地裏に響く。
 秀隆は愕然とした。『エンリル要塞』を展開しているにもかかわらず、路地裏の入り口に立つ人影に、声をかけられるまで全く気付かなかったのである。
 銀色にくすんだ髪と金色の瞳が印象的な、中性的な美女だった。歳は20過ぎくらいか。スレンダーな身体をマントで隠し、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。
 造形的には素晴らしい美貌の所有者だが、きつ過ぎる眼差しと嘲笑の張りついた口元が台無しにしている。余程Mっ気のある者と出会わない限り、男とは縁が無いだろう。
 この女には見覚えがあった。ヒュドラのエージェントに依頼を受けた際、同じ場にいた女退魔師だ。

「朝日奈 秀隆ともあろう男が、尻尾を巻いて逃げ出すとはね……情けねぇ。“死神(ザ・ノッカー)”の二つ名は返上したら?」

 “男嫌い”という言葉を具現化したような遠慮の無い蔑みに、秀隆のサングラスの奥から危険な光が漏れてきた。

「……確か、“スタルディット・クラウディア”とか言うたの。二つ名は“タイムウォーカー”……要するに、俺に喧嘩を売っとるわけか」
「そう盛るなよ。私はオマエと組みたいだけなんだからさ」

 子馬鹿にしたように肩をすくめる女――クラウディアの親愛の情など欠片も無い態度に、むしろ怒気を抜かれた秀隆は、忌々しそうに唾を吐いた。
 “タイムウォーカー”ことスタルディット・クラウディア――フリーの退魔師としては、世界屈指の実力者として有名な人物である。人間・魔物を問わず、彼女に狙われて生き延びた者は誰もいないという。高い知名度とは裏腹に、具体的な能力が不明なのも、その為だろう。
 クラウディアの能力を見る――それは、死神の姿を見ると同義なのだ。

「わしと組むだと?」
「さっきは偉そうな事言ったけどさ、正直、あの連中相手に私1人じゃ、ちょっと手間がかかりそうなわけ。どうせオマエも手が出ずに困っていたんだろ?報酬は山分けでいいからさ」

 まるで散歩にでも誘うような軽い口調だったが、秀隆のサングラス越しの殺気はより強さを増した。

「わしは自分より弱い奴たぁ組まん主義じゃ。われにその資格があるんか?」
「少なくとも、オマエよりは強いつもりだけどね」
「何ぃ!!」
「試してみるかい?」

 クラウディアは身を屈めて足元の空き缶を拾った。

「今から、この空き缶をオマエに投げる。手段は問わないから、地に落ちるまでに空き缶を破壊できたらオマエの勝ち。できなかったら私の勝ちね」

 その時初めて秀隆は、あの女が『エンリル要塞』の領域ギリギリ外側にいる事に気付いた。
 彼の能力を、クラウディアは見切っているのだ。

「面白い、やってみろ」
「ほれ、投げるよ」

 戦闘状態に等しい空気が路地裏に張り詰める。
 クラウディアが空き缶にどんな細工をしても、『エンリル要塞』の範囲内に侵入した瞬間、概念レベルで秀隆の制御下となる。空き缶など100万回は塵も残さず消滅できるだろう。
 アンダースローで空き缶を放るフォームに、おかしな所は何も無い――が、その瞬間、再びクラウディアの口元に嘲笑が浮かんだ。
 “ゆっくりと”、空き缶が手から離れる――そして!!

「――ッ!?」

 カラスが路地裏の狭い空を横切る、一瞬の後……秀隆は驚愕の表情で固まっていた。
 空き缶は――乾いた音を立てて秀隆の背後に転がっている。

「私の勝ちね」
「…………」

 領域内の空間に存在する、あらゆる存在を自在に操る『エンリル要塞』が、空き缶1つ落とせなかった!?
 何が起こったのか。

「……それが、われの能力か」
「どうだい、私の『フィラデルフィア・クラックダウン』は?……オマエの『エンリル要塞』との相性は抜群だろ」
「確かにな……わしとわれが組めば、如何なる相手にも勝てるじゃろう。あの合いの子じゃろうが、淫魔王じゃろうと」

 秀隆は笑った。
 クラウディアは笑った。
 あまりに凄惨な、あまりに凶悪な笑いを。
 そう、戦いは――“魔戦”はこれからが本番だ。




※※※※※※※※※※※※※




 風が吹いた。

「……見つけたか」

 光の粒子1つ無き、真の闇――

「淫魔王……ではない。“空の門と時の鍵”か……」

 闇の中で――風が吹いた。

 式刀『神姫』を仕込んだ錫状、漆黒の袈裟。

 風が吹いた。

 闇を狩る闇が――今、動く。


・・・・・TO BE CONTINUED

鈴にゃんの冒険
Back
小説インデックスへ