PM5:00――タイムリミット。 今日の『聖戦』は終わった。 白いエネルギーの奔流を飛行機雲のように残して、十数機のZEXLと次元戦艦は遥か天空の高みへと消えて行く。それを見上げる2人の超高位存在――漆黒の悪魔王クリシュファルスと青き聖龍樹羅夢姫は、その全身からどこか奇妙な寂寥感を漂わせていた。 天界軍第14独立艦隊――『鉄神兵団』の襲来から1週間が過ぎようとしていた。 戦況は膠着状態にある……ように見える。 魔界大帝クリシュファルスと木龍大聖樹羅夢姫は、次元艦隊とZEXLの波状攻撃に毎回絶体絶命寸前まで追い込まれるものの、なぜか天界軍側が午前9時から午後5時まで戦闘の時間を限定している為、間一髪の所で倒されずにいるというパターンを繰り返していた。 彼等の切り札とも言える神将元帥アコンカグヤとZEXL“ホワイトスネイク・ヴァージニティー”は、様々な奇策と奇襲を駆使して時には天界軍の肝を冷やす活躍を見せている――が、それを毎回阻止するのが、2千万年前に大往生を遂げた筈の天界最強のZEXL乗り“戦将元帥”デュークス・レナモンド大佐とZEXL“ロードブリティッシュ・バイパー”であった。 アコンカグヤの“ヴァージニティー”とレナモンド大佐の“バイパー”の戦いは、現状では青い毒蛇“バイパー”が圧倒している。ヴァージニティーは激闘の度に少なからぬ損傷を受けているが、バイパーには今の所一度たりともアコンカグヤの攻撃が触れた事すら無かった。 だが、局地戦で勝利しても戦況に影響が無ければ戦闘自体に意味が無い。結果、全体としては天界軍側が圧倒的に押してはいるが決定的な決め手に欠け、ずるずると戦局は泥沼化、長期化している……と、第3者的な観測者がいるなら評するだろう。 だが―― 「クリシュファルス君……!!」 「ジャム姫!?」 夕刻、いつものように変身を解き――いや、本来の身体から人間の姿に変身したクリシュファルスと樹羅夢姫は、迎えにきた藤一郎とアコンカグヤの元に歩み寄ろうとして――糸が切れたように崩れ落ちたのだ。 ――戦局は、ここにきて大きく変貌しようとしていた。 「失望させてくれますわね」 大気圏上空10万km地点・グレートシング級重戦闘空母『アウターリミッツ』ブリッジ――第14独立艦隊の指揮中枢である司令室は、絶対零度の空気に支配されていた。 テレポート・ドアの入り口脇の壁に背中を預け、腕組みしながらブリッジの人員全体に冷たい視線を送る氷の魔女――フロラレス総参謀長官の声には笑いの響きがあるものの、そこに親愛の因子は全く存在しない。 最上級の“嘲笑”だ。 ブリッジ内の全ての者――オペレーターや索敵手、通信士なども、あの無慈悲過ぎる上官の冷徹さに絶句している様に見える。 慈愛に満ちた老女風の副官・レミエラ少将もトレードマークのティーカップを無言で弄び、艦長席にふんぞりかえる醜い老人・ゴリアテ少将など遠慮無しの憎悪に満ちた視線を送っていた。 ただ1人、一部の隙も無く堂々と提督席に鎮座する沈毅にして豪壮なる歴戦の老将“天将元帥”シュタイナ上級大将のみが、微動だにせずメインモニターに浮かぶ青い惑星――地球を静かに見据えている。 「今回の『童話の消えた森』作戦はスピードが命なのですわよ。まさかそれが理解できないほど無能だとは言いませんよね?」 フロラレスの悪言に、しかし誰も反論しなかったのは、それが真実だからだ。 自然保護区域である惑星『地球』に四大種族の一柱たる神族が無断侵入するだけでも重犯罪なのに、あまつさえ天界軍を送りこみ、現地種族を脅迫して悪魔族最高のVIPと龍族の頂点たる魔界大帝と大聖を捕獲しようとする……これが発覚すれば神族は他の四大種族から吊るし上げを食らい、下手をすれば全面的に滅ぼされても誰も文句は言えない。それ程の超重大犯罪なのである。 したがって、このイリーガルな作戦は、自然保護区域の保護と侵入者の監視を任務とし、その為ならあらゆる法規超越を許される自然保護区域監視官――そのメンバーは、四大種族の中でも最強クラスの実力者による志願者で構成されている――の目を掻い潜って執行されねばならず、時間をかける事は絶対に避けなければならないのだ。無論、神族上層部による根回しはされているが、地球圏に到着してから既に1週間が経過――監視官の目を誤魔化すのも限界に近い。 「――にも関わらず、作戦執行時間を制限してのらりくらりと戦う始末……かつて無敵の称号を欲しいままにした『鉄神兵団』の銘も、どうやら過去の栄光となったようですわね。“天将元帥”さん?」 喧嘩を売るようなフロラレスの挑発にも、シュタイナ上級大将は沈黙を保ったままだ。むしろ憤慨したのは彼の部下だった。 「魔界大帝や大聖相手に速効で仕留めろだぁ?寝惚けた事ほざいてんじゃねぇ!!」 醜く歪んだ顔をますます歪ませて吐き捨てるのは、例によってゴリアテ少将である。 「手前ぇみてぇに後ろで踏ん反り返ってる奴はいつもそうだ。現場の状況もわからず無茶な要求ばかりしやがる。できる事とできない事の区別もつかないバカの所為で、とばっちりを食らうのはいつも俺達だぜ!!」 「いいかげんにしろ」 静かに、しかし鋭くシュタイナ上級大将が沸騰する部下を諌めるが、効果がないのはいつもの事だ。 上官への口の開き方など全く無視するゴリアテ少将に対する上の非難は当然多いが、それを押さえ込むのは艦隊運用技術の達人として名艦長の座を欲しいままにする彼の実績と、 「まぁまぁ……それに、こうしてのらりくらりと戦うのも決して無意味ではありませぬ」 ティーカップに紅茶を入れ直しながら、優しく微笑む同僚――レミエラ少将のフォローのお陰だった。 「あの子達は肉体的には究極無敵ですが、精神的には歳相応の子供に相応しい無垢なものです。じっくりと時間をかけて心を削り取るという戦法は、この場合極めて有功……というより、超高位存在を僅か1個艦隊で倒すにはそれしか方法がありませんでしょう」 レミエラ少将の言葉は戦術論としては極めて正しい。だが、 「ですから、今回の作戦は時間をかける事はできないと言っているのです。その作戦を選択する事自体が、あなた方の無能ぶりを証明しているのですわ」 実際問題としては、リスクが大き過ぎる作戦に頼らなければならないのも事実なのである。 そう、天界軍側は一方的な優位を確立しているように見えて、実際は追い詰められている側とも言えるのだ。 その結果、こうして上役と現場の対立という、地上でもありふれた――だからこそ深刻な事態に、常勝不敗の無敵艦隊は陥ろうとしていた。 部下と上司の憎悪剥き出しにした論争に、本来衝緩材役である筈のシュタイナ上級大将は何も語らない。一見、無責任に思える態度だが、そうは感じさせない不思議な風格をこの老提督は醸し出していた。 やがて―― (……そろそろか) 誰にも聞こえない言葉を髭の奥で呟き、その金瞳に凄烈な光が宿った――その時、 「いやいやいやいやいやいやいやいや……いけませんなァ。そんな平行線を辿りっぱなしの論争など美しくありませんぞ。第一スマートでないでしょうが……ひっく」 妙に甲高く調子の外れたどら声が、フロラレス参謀長官の隣からブリッジ全体に鳴り響いた。 こんな男に『スマート』などという単語は決して使って欲しくないと誰もが思うだろう。ピントのずれた貴族主義者が着るような悪趣味なドレスユニフォームの中に、無理矢理ビア樽を押し込んだような体格の中年男性だった。これでは背中の青い翼で飛ぶ事も難しそうだ。後頭部まで剥げあがった頭はツルツルに輝き、真っ赤な団子鼻の下から伸びるどじょう髭はたるんだ頬にだらしなく貼り付いている。手にするワインの酒瓶を見るまでもなく、泥酔しているのは明らか……というより、この男は平時でも四六時中酔っ払っているようにしか見えないだろう。 酒に溺れて身を持ち崩した田舎貴族――誰もがそう称するだろう風体に、しかし、不思議な事にブリッジ内の誰もが奇妙な視線を送っていた。 敬意と当惑――そして戦慄を。 「ブリッジ内は禁酒ですわよ……レナモンド大佐」 レミエラ少将がやんわりと嗜めつつ横目でゴリアテ少将を見たのは、彼もたまに堂々と酒を持ち込むからだ。 「いやはやいやはやいやはやいやはや……これは失敬。しかし小官はこいつが無いと何事もやる気がおきぬものでしてなァ」 慢性アルコール中毒の田舎軍人貴族――レナモンド大佐は愛想笑いを浮かべつつ酒瓶を煽った。ライターを近づければ火を吹いてもおかしくないほど酒気に満ちた息の酒臭さに、隣のフロラレス参謀長官は僅かに顔をしかめた。 この駄目軍人の見本のような男に、ZEXL戦闘で幾度も後れを取ったと知ったなら、アコンカグヤは何と思うだろうか。 “戦将元帥”デュークス・レナモンド大佐――彼こそが2千万年前、『ZEXL-11 ロードブリティッシュ』カスタム機“バイパー”を駆り悪魔族の戦士を幾万体も葬った、歴史上最強のZEXLパイロットなのである。 フロラレスの『切り札』として、2千万年ぶりに現世に復活させられた彼は、現世に何を望むのだろうか。 「ほっほっほっほっほ……こうして酒と戦いを再び満喫できるとは、小官も果報者ですワ。皆様方もあまり深刻に考えずに、もう少し戦いを楽しんでみてはどうですかな?その方がスマートでしょ」 再び酒瓶を煽るレナモンド大佐の能天気な発言に、場の空気は一気に白けた。だが、同時に一触即発な空気も雲散霧消している。彼が狙ったのは“それ”だったのかもしれない。 フロラレスの口元が綻んだ。この魔女はよく笑う。だが、それで癒される者は皆無だろう。 「……まぁ、いいでしょう。とにかく、これからは私の指示に従ってもらいますわ。反論は許しません。宜しいですわね、シュタイナ上級大将殿」 「了解」 前線戦闘指揮権まであの氷の魔女に奪われると断言されても、シュタイナ上級大将は眉1つ動かさない。むしろゴリアテ少将とレミエラ少将が反論しようとしたが、シュタイナ上級大将の眼光に何も言えなくなった。事に作戦指揮に関するシュタイナの決定権は絶対といえた。 「……では、具体的な作戦内容を教えて頂きたいのですが」 レミエラ少将の温和な両眼に電子の輝きが宿る。“鉄神兵団”No2として最高の情報処理能力を持つ彼女が、生きた軍事コンピューターとして活動を始めた。周囲のオペレーターや情報処理班達にも緊張が走る。 そう、ついに『最終決戦(ラスト・リゾート)』が始まろうとしているのだ。 「今回の作戦は、第一の切り札――レナモンド大佐の他に、第ニ、第三の切り札を使います」 「第ニ、第三の切り札……?」 フロラレス参謀長官は己の豊かな乳房の間に手を刺し込んだ。ただでさえはちきれそうな巨乳なのに、それを強調するように軍服の胸元を改造してある。もしアコンカグヤがこの姿を目撃すれば、自分の軍服姿と見比べて、床にしゃがんでのの字を書いていただろう。もっとも、老人ばかりのこのブリッジでは、鼻の下を伸ばすのはレナモンド大佐ぐらいしかいなかったが。 「これが第二の切り札ですわ」 胸元から取り出した『それ』を見て、シュタイナ上級大将を除くブリッジの全員が訝しげな表情を浮かべた。 直径3センチほどの金属製のボール――これが切り札というのだろうか。 「それは一体……?」 「かつてZEXLが開発される以前、対悪魔族用の最終兵器として開発されつつも、欠陥品として封印された秘密兵器……『オーバーロード・キャンセラー』ですわ」 「……オーバーロード・キャンセラー……?」 困惑したような声がブリッジのあちこちから上がった。軍人として古今東西のあらゆる兵器の知識をマスターするのは武争神族の基礎教育だが、ベテラン揃いの彼等ですら、その名前を知らない者が大半だった。 もっとも、それを知る者からも困惑の気配が上がっているが…… 「レミエラ少将、説明を頼む」 「了解しました……こほん、『GTIMM-85C型封印システム』、通称『オーバーロード・キャンセラー』とは、今から五億年前に天界軍兵器開発チームに開発された特殊兵器です。その効果は、半径500mの超高位存在の全能力を封印するというものですわ」 「……おい、もう少しわかりやすく言えよ」 「つまり、簡単に言えば周囲にいる者達を弱くしてしまうのです。仮に魔界大帝がこの兵器の周囲にいれば、悪魔族としての魔力も瘴気も完全消滅しますし、身体能力もちょうど地球人類レベルまで低下します。無論、魔法も特殊能力も使えません。銃弾一発で即死するくらい弱くなるのです。それは種族だけでなく、それが開発した兵器や道具にも有功です」 ゴリアテ少将が皺だらけの手を打ち合わせた。 「とんでもねぇ兵器じゃねぇか。なぜそんな物が欠陥兵器として封印されていたんだ?」 ほんの僅かに苦笑して、レミエラ少将は軽く肩をすくめる。彼女にしては珍しい仕草だ。 「その弱体化効果が無差別なのですよ。目標の悪魔族や鬼族に龍族ばかりか、我々神族も弱体化の対象になるのです。たとえその効果範囲外から神族兵器を打ち込んでも、効果範囲内に接触した瞬間にスクラップになってしまいます。つまり、使用してもパワーバランスは何も変わらないのですよ。むしろ、身体能力的に四大種族中最弱である私達神族が不利になってしまうでしょう」 「……なるほど、欠陥兵器だ」 溜息を吐くゴリアテ少将の苦い表情は、場の全員の心情を代表したものだった。 「で、それのどこが切り札になるってんだ?」 「これを使えば、魔界大帝や大聖もただの脆弱な下級存在に成り下がりますわ。それならあの無敵の肉体も容易く屈服させられます」 「だから、俺達まで弱くなったら意味がねぇじゃ――」 「現地種族を使うのか」 シュタイナ上級大将の声は独り言のように小さく、そしてブリッジ全体に響いた。 場の空気が、再び絶対零度に低下した。今回の作戦は数々の条約違反を犯しているが、『それ』だけは決して行ってはならない事だった。 敵の軍勢を駐屯地の非戦闘員ごと艦砲射撃で吹き飛ばした事もあった。悪魔族の高級軍人が収容された病院船を撃墜した事も、示威行動として無辜の市民が暮らす都市を焼き払った事もあった。 それを後悔はしていない。人道上許されない事かもしれないが、それが戦争というものだ。そして彼等は戦争そのものを存在意義とする武争神族なのだから。 だが、四大種族間の戦いに無関係な異種族を意図的に戦争に巻き込む――それだけはやってはいけない。条約云々以前に、軍人のプライドが決して許さない。 それは軍人では無い――ただの“殺戮者”だ。 「さあ……どうでしょうか」 ならば、この嘲笑う女こそ、真の邪悪といえた。 冷気どころか殺気まで帯び始めたブリッジの中で、地獄の女は笑っていた。まるで、その空気が馴染みでもあるかのように。 と――そこで、フロラレス総参謀長官の笑みの種類が変わった。 「冗談ですよ」 彼女の笑いは、子供っぽいとさえ言える軽いものだった。そのあまりの変貌ぶりに、場の殺気すらもどこかに飛んで行ってしまったようだ。 ただ1人――シュタイナ上級大将を除いて。 そして、彼女の発言が本当に冗談であったのかどうか――すぐに彼等は思い知る事になる。 「要は、オーバーロード・キャンセラーで高位存在としての全能力を封印されても、魔界大帝達を倒せる実力を持つ者を派遣すれば良いのですわ」 「そんな化け物がいるわけねぇだろ!!」 「それが“第三の切り札”ですわ」 フロラレス総参謀長官はすぐ隣に目を配せた。 我関せずと酒瓶を傾けるレナモンド大佐の――反対側を。 そこに――その“化け物”がいた。 「!?」 「――え?」 「なんじゃと……!?」 ブリッジ内が騒然とした戦慄に包まれた。そう、つい直前まで、いや今でもブリッジの中にいる全員の視線がフロラレス総参謀長官の元へと注がれている……にも関わらず、すぐその隣に佇む人物に、フロラレスに紹介されるまで場の誰もが気付かなかったのだ。 灰色のフード――というよりボロ布を頭から被った小柄な人影だった。顔も体格もまるでわからない。身長は隣のフロラレスの胸にも届かない小さなものだが―― 「…………」 その全身から醸し出す不気味な空気に、百戦錬磨の老兵士達が、ゴリアテ少将が、レミエラ少将が、そしてシュタイナ上級大将までもが、腹の底から湧き出る冷たい衝動に襲われていた。 暗く冷たい、しかし決して無視できない闇の衝動――“恐怖”に。 「この者がオーバーロード・キャンセラーを目標の元に運び、それを仕留めます……紹介しましょう」 今までで最大級の嘲笑を浮かべ、フロラレスは慇懃無礼に頭を下げて、恭しく両腕で差し示した。 「“魔将元帥”ヌル・ゾマ中尉――100億年前、当時の魔界大帝と陽龍大聖を殺した史上最強の暗殺者ですわ」 「ごめんなさい。私の考えが甘かった」 顔色1つ変えずに全くの無表情で淡々と語るアコンカグヤの機械的な声に、しかし無限の痛恨を読み取ったクリシュファルスは、 「よい……われらがぜいじゃくなのがいけぬのだ」 弱々しく笑みを浮かべながら、力なくアコンカグヤの頬を撫でた。 「寝ていなさい」 「うむ……」 閉じるというより瞼自体の重みに耐えられないように、その瞼はゆっくりと落ちた。 上気した顔に珠のような汗、荒い息遣い――ベッドに横になるクリシュファルスは、弱々しく床に伏せていてもなお、退廃美ともいえる美しさを醸し出している。その側で椅子に座り彼の汗を拭くアコンカグヤも、それを汚さないよう清めているように見えた。 「あう……頭が痛いのぢゃ……喉が痛いのぢゃ……膝が痛いのぢゃ……」 隣のベッドにその小さく可憐な身体を伏せる樹羅夢姫も、えぐえぐ泣きながら熱にうめいている。悪戦苦闘しながらリンゴを剥く藤一郎の服の袖を、小さな手で握ったまま放そうとしない姿は、いじましいとさえ言えた。 「はい、リンゴが剥けたよ」 藤一郎が手渡すウサギさんカットリンゴが妙に小さいのは、樹羅夢姫の大きさに合わせたからだった。妙に時間がかかったのもそのためだろう。 しかし、龍族の姫君は弱々しく首を振った。 「……いらないのぢゃ」 「え!?……じゃあ、何が食べたいのかな?」 「……何もいらないのぢゃ」 「うそっ!!ジャム姫が何も食べたく無いの!?」 「……どういう意味なのぢゃ……」 樹羅夢姫の怒声には普段の迫力が全く欠けていて、それが藤一郎の心を痛めさせる。寝室の空気は重く暗く澱んでいた―― ……本日の戦闘が終了した直後、クリシュファルスと樹羅夢姫は前後不覚状態になって昏倒した。 原因はアコンカグヤの診察ですぐに判明した。たとえ無菌室で生活しても防止不可能と言われる疾患症――疲労性の風邪である。 本来ならば、不死身にして完璧な肉体を持つ魔界大帝や大聖は、風邪に限らずあらゆる病にかからない。だが、原因が精神的なものなら話は別だ。致命的な症状であるわけではないが、精神的疲労が原因なので特効薬も存在しない。こうしてベッドで大人しくしている他無いのである。 十数分後、2人が寝静まったのを確認したアコンカグヤと藤一郎は、物音1つ立てずに寝室を出て台所に移動した。洗面器の水を取り替える2人の表情は、やはり重い。 「この結果はある程度覚悟していたけど……予想より早く、深刻だ」 「困ったね」 レミエラ少将の読みは当たっていた。 連日の神経をすり減らす戦いの末、クリシュファルスと樹羅夢姫はついに倒れた。2人は肉体的には不死身であっても、精神的には生死を賭けた戦いの連続には耐えられる筈もない、歳相応の子供のものなのである。 アコンカグヤ達も戦いが長期化すればこうなる事を予想していたが、天界軍側の精神を追い詰めるような戦法は想像をはるかに超える激烈なものだった。クリシュファルスと樹羅夢姫が手遅れになる寸前まで決して弱みを見せようとしない意地っ張りなのも原因の1つだろう。 「こうなると、セリナを避難させたのは間違いだったかもしれないわね」 アコンカグヤは自嘲気味に唇を歪めた。珍しい事だった。 「結局、私はセリナの代わりにはなれなかった」 熱冷まし用の氷を砕く藤一郎の手が止まった。こちらも苦笑いを浮かべながら肩をすくめる。 「そう自分を責める事はないよ。セリナさんを戦いの最中に置くわけにもいかないし……それに、僕も何もできなかったんだから」 そう、もしここにセリナがいれば、その優しさと労りとボケとお色気が比類ない癒しの効果となって、精神的に皆を守ってくれたかもしれない。 しかし、今セリナはいない。自分達の力だけでこの難局を乗り越えなければならないのだ。 「でも、弱音を吐いていても仕方ないよ。こういう時こそ大人が頑張らなくっちゃね」 「そうね」 片目をつむりながらガッツポーズを決める藤一郎に、幼い頃、自分にとっては太陽に等しい存在だったある人を思い出し、アコンカグヤは微笑もうとして――直前の形で、その動きは停止した。 「……アンコさん?」 訝しがる藤一郎の前で、アコンカグヤの着るメイド服が純白の輝きに包まれる。思わず目を伏せた次の瞬間、少女趣味なメイド服は無骨なZEXLパイロットスーツへと変貌を遂げていた。 「まさか……敵襲!?」 「今レーダーに反応があった。ZEXLの軍勢が急速接近しつつある。規模から推測して、どうやら天界軍も最後の総攻撃に来たらしいわ」 アコンカグヤの義眼が真紅の明滅を繰り返す。どうやら最悪の想像が現実のものとなりつつある事を知って、藤一郎は天を仰いだ。 「約束では今日の戦いは終わった筈なのに。サービス残業なのかな」 「あっちも不況らしいわね……今から迎撃に出る」 死地へ向うのに何の躊躇いも無く、いつものように無表情のまま台所の出口へと消えようとする女戦士の後姿に、藤一郎は何も言えなかった。 勝算はあるのかとか頑張れとか、無責任な言葉は何もかけられない。かけられる筈がない。 藤一郎は本能的に理解していた。今回の戦いに勝算は限りなく少ないという事を。 アコンカグヤの姿が視界から消える瞬間―― 「藤一郎さん……2人をお願いするわ」 いつものように機械的な、そして万感を込めた声が耳に届いて、藤一郎は息を飲んだ。 そう―― 「責任重大だねこれは……」 ――死地に置かれているのは、あのクリシュファルスや樹羅夢姫、そして自分自身も例外ではないのだ。 |
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F:アコンカグヤ Side | G:藤一郎 Side |
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